四都物語異聞:夢見桜は恋の文
花は知る。香りの先に映る影、それは真か幻か
四都物語異聞:夢見桜は恋の文
花は知る。香りの先に映る影、それは真か幻|か。
1
帝都・青龍京の左京の外れ、柊川のせせらぎが微かに聞こえる屋敷で陵家の姫、綾乃は暮らしていた。
彼女はまだ十歳を越えたばかり。屋敷の奥で、母や女房たちに囲まれ、日中は琴を爪弾き、歌を詠み、手習いに励むという雅やかな日々を送っていた。
庭には、春ともなれば薄紅色の桜が咲き誇り、風が吹けば、まるで雪のように花びらが舞い散る。綾乃は、その花びらを目で追いながら、時折、遠いの大内裏の方角を眺めるのが常だった。そこには彼女が密かに思いを寄せる人がいた。
それは、昨年たまたま道の途中で遠くから垣間見た、図書頭の若き貴公子・紀文雅だった。書物を司る宮中の要職にあり、その邸は書庫が幾重にも並び、夜遅くまで灯りが漏れると聞く。
わずかな一瞬の邂逅。文雅の顔は高貴な身分の証である装いに隠され、はっきりと見ることはできなかった。
その立ち姿の優雅さ。風になびく衣擦れの音。そして何よりも、彼から漂ってきた仄かな白梅の香。これらが幼い綾乃の胸に深く刻み込まれたのだ。
あの時、彼の傍らを風がかすめ、中から溢れるように清らかな墨の香と、白梅の香が混じり合ったのを感じた。その奥ゆかしい香りが幼い綾乃の心に、これまで知らなかった淡い恋心を灯したのである。
それ以来、綾乃の心は彼への淡い恋慕に囚われていた。絵筆を執っても、琴を奏でても、心にはいつも文雅の姿が浮かぶ。彼がどんな顔をしているのか。どんな声で話すのか。何も知らない。ただ、あの白梅の香と高貴な身分ゆえの遠さが、彼女の恋心を一層募らせていた。
夜、寝所に臥しても、天井には彼の幻影がちらついた。夢の中では、手が届きそうで届かない、幻の袖の香が漂うのだった。
「姫様、また物思いに耽っておられますか?」
女房の一人、橘が優しく声をかけた。橘は、綾乃の乳母の子で、幼い頃から常に彼女の傍らに仕えてきた、姉のような存在だった。
幼い姫が一人で抱え込むにはあまりに大きすぎる想いを抱いていることを、橘はひそかに察していた。だからこそ、綾乃の傍に寄り添い、その小さな胸の裡を案じるのだった。
「ええ。ただ、春の夜の夢のように、はかなくも美しいものが、心に浮かんで来るの……」
綾乃は曖昧に答え、仔細をぼやかした。彼女の秘めた想いを打ち明けることは、とてもできなかった。身分の隔たりはあまりにも大きく、ましてや、顔も知らぬ相手への恋など、笑いものにされるのが関の山だと思ったからだ。
ある夜、綾乃は、密かに和歌を詠んだ。それは、文雅への誰にも明かせぬ恋心を綴った歌だった。
宵闇に ひそかに薫る 白梅の香 夢に結ばん 遠き袖の香
(夕暮れ時の薄暗い闇の中で、人知れずひっそりと漂ってくる白梅の香。その香りを頼りに、夢の中でさえも、遠く離れたあの方の袖の香りを手繰り寄せたいと願うばかりです。)
この歌を誰にも見せることなく、綾乃は小さな文箱にそっと仕舞い込んだ。しかし、この秘めたる想いが、やがて予期せぬ形で小さな波紋を広げていくことを、綾乃はまだ知らなかった。
2
春が過ぎ、夏が訪れても、綾乃の恋心は変わらなかった。むしろ、季節の移ろいとともにその想いは深まるばかりだった。
文雅の姿を見かける機会は、ほとんどない。たまに、遠くで彼の姿を見かけるたびに、彼の影を追うように庭の奥へと駆け寄る。だが、見えるのはいつも、わずかな衣の裾がたなびく後ろ姿だけだった。そのたびに胸の奥がきゅっと締め付けられ、届かぬ想いの痛みに思わず息を潜めるほどだった。
「姫様、このままではお体が弱ってしまいます。どうか、もう少しお顔を上げて、お食事を召し上がってくださいませ。」
乳母の心配そうな声が綾乃の耳に届いた。彼女は食欲もわかず、ただ虚ろな目で庭の緑を眺めていた。こんなにも恋焦がれる相手がいるのに、ただ屋敷の奥で思い続けるばかり。このままでは、心は枯れてしまうだろう。焦燥感が、綾乃の幼い心を静かに蝕んでいった。
ある日、綾乃は思い切って、橘に尋ねた。
「橘……もし、……もしもよ。仮に私が遠い手の届かぬ人に、心を寄せてしまったとしたら……どうすれば良いと思う?」
橘は綾乃の問いに一瞬目を丸くした。だが、主の秘めたる想いを察し、優しく微笑んだ。
「姫様……それは、お心を寄せる方がいらっしゃる、ということでしょうか」
「もしもって言ったでしょ!」
顔を赤らめて、綾乃はしかつめらしい表情をした。その赤ら顔がすべてを詳らかにする。
「その御心をお伝えするのが一番ではないでしょうか」
「どうやって?」
「歌でございます。たとえ、直接お会いすることが叶わずとも、歌に託してその想いを届けることはできます。歌は人の心を繋ぐ糸でございます」
橘の言葉に、綾乃の胸に希望の光が灯った。
そうだ、歌がある。歌は心を伝える大切な手段。直接会うことが叶わぬのならば、歌に想いを込めるのだ。
綾乃はあの夜に歌を詠んだことを思い出し、文箱から取り出した。一縷の望みをかけて、震える手で歌を書き写し、それを小さな紙に包んだ。
「これを、文雅様に……」
橘は綾乃の思い人の正体に驚きながらも、彼女の真剣な眼差しに深く頷いた。
「かしこまりました。この橘が必ずやお届けいたします。しかし、姫様。お相手は図書頭の若君でございます。もし、かの君がこの文がお気に召さなかったとしても、お気になさいませんように……」
橘の言葉は綾乃の心を揺らした。もし、文雅様に無視されたら? 不快に思われたら? その不安が綾乃の胸を締めつけた。しかし、この想いを伝えなければ、彼女の心はこのまま壊れてしまうだろう。その渇きにも似た切なさが不安を押し退けた。
「いいえ、橘。この想いを伝えなければ、私はこのままではいられない。どうか、お願い」
綾乃は震える手で文を橘に渡した。橘はそれを受け取ると、大事に懐に仕舞った。
翌日、橘は文雅の屋敷へと向かった。厳重な門を前に橘はしばらく立ち尽くしたが、やがて意を決して門番に文を託した。返事が来るのか、来ないのか。綾乃の心は不安と期待の間で、風に揺れる葦のごとく揺れ動いた。
綾乃だけでなく橘も、その夜は一睡もできなかった。
3
数日後、橘が屋敷に戻ってきた。その、どこか浮かない表情を見た綾乃は胸騒ぎを覚えた。
「橘! どうしたの。こんなにも帰ってくるのが遅れたのは、何があったの? 文は届いたの? 文雅様は何かおっしゃっていたの?」
綾乃は焦る気持ちを抑えきれず、矢継ぎ早に問いかけた。橘はゆっくりと首を横に振った。
「姫様……申し訳ございません。お渡しはいたしました。しかし、お返事は……お返事はなかったのです。」
綾乃の心は一瞬にして凍りついた。
やはりそうだったのか。高貴な身分の方にとって、身分の低い綾乃の文など何の価値もないもの。返事がないのは当然である。そう自分に言い聞かせていたはずなのに、心の奥底ではかすかな期待を抱いていたのだ。その期待が音を立てて崩れ落ちる。目の前が暗くなるような虚しさが押し寄せた。
「そう……。やはり、そのようなものよね。私のような者からの文など、お相手には迷惑だったのかもしれない。無理なお願いをして、ごめんなさい、橘」
綾乃は必死に平静を装った。だが、その声は微かに震え、瞳の奥には深い悲しみが宿っていた。橘は綾乃の様子に心を痛めながらも、言葉を選んだ。
「姫様……。ですが一つだけ不思議なことがございました。図書頭様のお屋敷の門番に文を渡した際、奥から白梅の香が強く漂ってきたのです。それも、まるで文を渡した途端にその香が濃くなったように……」
橘の言葉に綾乃の心臓が再び微かに高鳴った。白梅の香。それは彼女の記憶に深く刻まれた文雅の香。なぜ返事はないのに香が濃くなったのか? それは彼が文を手に取った証なのではないか? あるいは彼の心がかすかにでも動いた証なのではないか? これは失意の底に差し込んだ一筋の光だった。
綾乃は希望の光を見出した。
もしかしたら文雅様は、お返事を書くことができなかったのかもしれない。あるいは、何か事情があって返事を出すことを控えたのかもしれない。
綾乃はあの白梅の香の記憶を頼りに、もう一度文雅に文を送ることを決意した。
今度は返事が来なくとも、文雅の心を揺り動かすような歌を詠もう。そして、彼の心を捕らえて離さないような特別な香を添えて。
綾乃は日中、庭の隅にひそかに咲く、名も知らぬ花を摘んだ。その花は夜になると月の光を浴びて咲くかのように、白い花びらが仄かに光を放つ。そして、どこか甘く、しかし力強い香りを放つ。それはそんな不思議な花だった。
その清冽な香りは、綾乃の胸に新たな情熱を宿した。「これだ」と、直感的に彼女は心の中で叫んだ。この香ならば、きっと文雅様のお心に届くはずだ。綾乃はその花びらを丁寧に押し花にし、次の文に添えることにした。そして、歌もより一層、情熱的に、切ない想いを込めて詠んだ。
露の夜に 光をまとう 花の色 香を頼りに 君を慕わん
(露が降りる夜の闇の中で、まるで自らが光を放つかのように輝く花の色。この花の香りを唯一の頼りとして、あなたを深く慕い続けます)
この歌と花を再び橘に託し、文雅の屋敷へと送った。綾乃の心は前回以上に激しく揺れ動いていた。今度こそ、文雅からの返事が来ることをただひたすらに願うばかりだった。
その夜の空は星の瞬きさえも、彼女の高鳴る鼓動のように見えた。
4
その夜も綾乃は眠ることができなかった。窓から差し込む月の光が、部屋の隅々までを白く照らしている。遠くで虫の声がひそかに響くばかりで、都は静まり返っていた。
彼女の心は文雅からの返事を待ち焦がれ、高鳴る鼓動が耳元で響くかのようだった。夜空の月は綾乃の切ない心を映すかのように、ただ静かに輝いていた。
数日後、ようやく橘が戻ってきた。しかし、彼女の顔は前回よりも一層、沈痛な色をしていた。綾乃の胸に重い鉛が落ちる。
「橘……何か、あったの……?」
綾乃の声は掠れていた。橘は深々と頭を下げ、ゆっくりと口を開いた。
「姫様……誠に、申し訳ございません。文は、確かにお届けいたしました。しかし、やはり……返事はございませんでした。それどころか……」
橘は言葉を詰まらせた。綾乃の心臓が激しく脈打つ。嫌な予感が彼女の全身を駆け巡る。
背筋に冷たいものが走った。
「それどころか……何なの、橘⁉」
綾乃は叫ぶように言った。橘は意を決して、言葉を続ける。
「文をお渡しした際、門番が奥から図書頭様のお使いの方を呼んでくださいました。そのお使いの方が文を受け取られたのですが……。その際、文に添えられた姫様の花を見て、ひどく困惑されたご様子でした。そして、その花を文雅様ではなく、奥方様にお渡しになったのです。」
綾乃は橘の言葉に、雷に打たれたかのような衝撃を受けた。奥方様? 文雅さまの? なぜ、奥方様に? 彼女の頭の中でぐるぐると思考が回った。訳がわからない。目の前が真っ白になり、綾乃は足元が崩れ落ちるような感覚に襲われた。
「一体、どういうことなの、橘……」
橘はさらに言葉を続けた。
「その奥方様はその花を見て、大変に、ご立腹なさったご様子でした。その花は……夜に咲き、強い香りを放つことから、『夜の花』と呼ばれます。その香が、どうやら……稀少な書物の虫食いを防ぐのに効くのだそうです。図書頭様のお屋敷では、最近、書物に虫がつく被害が相次ぎ、奥方様がその対策に頭を悩ませていらっしゃるとのこと。お使いの方は、姫様の花を奥方様への『虫除けの献上品』と勘違いされたようなのです。」
綾乃は橘の言葉に呆然と立ち尽くした。
彼女が秘めたる恋心を込めて贈った花が、まさか「書物の虫除け」だとは。そして、文雅ではなく、彼の奥方の手に渡り、ご立腹させてしまったとは。彼女の恋は、とんでもない方向へ思い違いをすることになったのだ。
その滑稽さに悲しみを通り越して、怒りさえこみ上げてきた。しかし、その怒りの矛先は他ならぬ綾乃自身へと向かった。
「そんな……私が、文雅様に……」
綾乃の顔はみるみるうちに青ざめていった。彼女の恋心は無残にも打ち砕かれたのだ。そして同時に、彼女は自分の無知と思い込みの深さに深く恥じ入った。高貴な身分の人々に市井の娘が贈る花など、ただの珍しい土産物としてしか認識されなかったのだ。彼女の心は深い絶望の淵に沈んでいった。
その夜、綾乃は文箱に仕舞っていた歌を全て燃やした。炎は彼女の秘めたる恋心を灰燼に帰すように、静かに燃え上がった。燃え盛る火は彼女の心に巣食っていた、はかなくも根深い執着を焼き尽くすかのようだった。
5
それから数日。
綾乃は自室に閉じこもり、誰とも顔を合わせようとしなかった。彼女の心は傷つき、深く落ち込んでいた。自分の恋がこれほどまでに滑稽で、かつ無様な形で終わるとは夢にも思わなかったのだ。言い知れぬ虚無感が彼女の心を覆い尽くしていた。
しかし、女房の橘はそんな綾乃を放っておかなかった。
橘は毎日綾乃の部屋を訪れ、他愛もない話をし、庭で摘んだ草花を飾ってくれた。そのさりげない優しさが、綾乃の凍えた心に少しずつ温かさを取り戻していく。
そして、ある日、橘は綾乃の前に小さな文箱を置いた。
「図書頭様のお屋敷の門番が、これを届けに参りました。奥方様からの文だそうです。」
綾乃は驚いて顔を上げた。あの奥方様から? しかも、門番がわざわざ?
恐る恐る文箱を開けると、中には上品な香のする紙と一輪の桜の花が添えられていた。そしてそこには、奥方様の美しい筆跡の歌があった。
夜の花の 香は強けれど 心あり 春の桜に 優しき思いを
(夜に咲く花の香は確かに強いけれど、あなたの歌に込められた真心を私は感じました。春の桜が優しく咲くように、あなたの純粋な思いを大切にしてください)
図書頭の奥方は綾乃の真意を悟っていたのだ。
奥方から歌には、「身の丈を知れ」と頭ごなしに否定するのではなく、綾乃の純粋な恋心を理解し、優しくも確かな諭しが込められていた。
「その恋はたとえ間違いから始まったとしても、あなたの心は決して汚れてはいない。けれど、真の幸せは遠い幻を追うことではない」と。
桜の花弁一枚一枚に奥方の温かい心が宿っているようだった。
綾乃の目から温かい涙が溢れ出した。それは失恋の悲しみだけではなかった。それは奥方の優しさに触れた安堵と、深く己を恥じたことへの赦しの涙だった。
そして、綾乃の胸の裡には新たな感情が芽生え始めていた。それは他者を思いやる心。そして、遠い幻を追うのではなく、自分自身の足で未来を歩む、静かな決意だった。
「橘……私、もう一度、歌を詠もうと思います。」
綾乃は顔を上げ、橘に微笑みかけた。その笑顔はこれまでの物憂げな表情ではなく、、清々しく、力強かった。澄んだ瞳には未来を見据える光が宿っていた。
綾乃は文雅への恋を完全に諦めたわけではない。だが、もはや遠くの影を追いかけるだけの恋ではない。それは自分の心と向き合い、自らの手で未来を切り開くための、新たな一歩だった。
彼女は筆を手に取り、新たな歌を詠んだ。
夜の花 空しく散れど 春の風 新しき香を 胸に抱かむ
(夜に咲く花が、空しく散ってしまうように、私の未熟な恋は終わってしまったけれど、春風が新しい香りを運ぶように、心には新たな希望を抱いて生きていきましょう)
その歌は失われた恋への未練ではなく、新たな始まりを告げる、希望に満ちた歌だった。
桜の花びらが舞う庭を眺めながら、綾乃はこの都で自分自身の道を歩んでいくことを決意した。そして、いつかあの白梅の香とは異なる、自分だけの、真に心の底から薫る「香」を見つけることを心に誓った。
青龍大橋のたもとを往く人々の中に、やがて、美しい歌を詠む姫の噂が広まるだろう。
その歌は、きっと遠くの誰かの心に、静かに響き渡るに違いない。都のどこかで、新しい恋の予感が、ひっそりと、しかし、確かに芽生え始めていた。