よく死ぬための仕組み
前に、ウサギなどの小動物はショックやストレスで簡単に心臓が止まってしまう。これは、捕食された場合などになるべく苦しまないようにするためだ、というような話を読んだことがありました。寂しいとウサギは死んでしまうっていう話がありますが、これなのかな、とちょっと納得したりしました(ちなみに、この話自体は都市伝説というか、嘘だという話もあり)。
でも、よく考えてみると不思議。進化論では、適者生存による進化適応を想定しています。よく食べ、良く繁殖し、良く捕食者から逃げ、良く病に抗する。こういった良く生きて栄えるための能力であれば、適者生存で獲得できるかもしれません。でも、「良く死ぬための」能力って、果たしてどうしたら獲得できるんでしょう。
適者生存は、その能力によって生き残り、子を成すことができるから。この仕組みからすると、死ぬ際の「仕様」っていうのは継承しようがないのです。
走馬灯を見るっていうのは割と一般的な人間の仕様のようですが、これも命の危機に際して、その危機を脱出する方法を過去の経験を高速で参照することにより、見つけようとする努力なのだ、というような話もありました。これが本当であれば、走馬灯を見ることによって危機を脱したという例がそこそこの割合で存在しなければ、適者生存により継承されるとは考えにくいのですが。
まあ、平時の生活でも有効である機能が、実際には今わの際でも働いてそのようになっている、という説明の方が妥当そうな気もします。
良く死ぬための仕組みを遺伝子の中に組み込めないのだとしたら。人間は、その仕組みを社会の中に組み込んで継承していこうとしたと言えるでしょう。宗教って、まさにそのための仕組みではないかと。
そして、現代において宗教は衰えていると言っても過言ではないでしょう。つまり、社会に構築した良く死ぬための仕組みがだんだん機能不全に陥ってきているという事です。ならば、我々はそのための仕組みをどこに求めればいいんでしょうね。
なんて考えたり、しました。