あなたのうなじは、春の終わりの朝の香りがする
「香りは、最も記憶に残る」と聞いたので――。
桃太とわたしは、夜の散歩を終え、横断歩道の前で信号が変わるのを待っていた。
ここを渡れば、家まではあと五十メートルほど――。
家に着いたらリードを外して、それから水入れに新しい水を汲んで――。
突然、耳をつんざくような衝撃音が響き、大地が揺れた。
信号が変わった途端、交差点の真ん中で車同士が衝突したのだ。
一台の車が、弾かれるようにして吹っ飛び、わたしの目の前に迫っていた。
わたしは、リードを放して、思い切り桃太のおしりを蹴飛ばした。
「逃げて、桃太!」
錯綜する眩しい光、激しい衝撃、桃太の小さな後ろ姿――。
一瞬の出来事だった――。
そして、わたしは深い眠りについた――。
*
「マリーカ、今夜は、そこまでにしておおき。まだ、時間はたっぷりあるのだからね」
「わかりました、オレステさん。このページを写し終えたら、今日は終わりにします」
古書店の奥に置かれた文机で写本に励んでいたマリーカは、夜なべをする彼女を心配して起きてきた店主に、感謝の笑みを浮かべながらこたえた。
文机の上の小さな皿には油もろうそくもないが、写本をするのに十分な明るさの光の球が浮かんでいた。マリーカが使えるささやかな魔法――光魔法が生み出す灯りだ。
「小さな灯火だって、長いこと点けていれば魔力をたくさん使うことになるのだろう? 頑張りすぎると体にさわるよ。早くおやすみ」
マリーカが自室へ行くまで、オレステはずっと見守っているにちがいない。
それはそれで申し訳ないので、マリーカは急いで本を閉じ紙束やペンを片づけた。
「そうですね、もう二階へ上がります。おやすみなさい、オレステさん」
「おやすみ、マリーカ」
マリーカは、灯りが点った皿を手に持ち、店の脇の細い階段を上った。
その先にある物置をかねた屋根裏部屋が、彼女の部屋だ。
それなりの広さがあり、必要な家具もそろっている。小さいながら窓もある。
田舎から出てきた若い娘が一人で暮らすには、立派すぎる部屋だった。
「おやすみなさい」
ひとりぼっちの部屋で、誰に言うでもなくつぶやいて、マリーカは光魔法の灯りを消した。
仕事を早く片づけたくて、夜更かしをしていたわけではない。
寝るのが、そして夢をみるのが怖かっただけ――。
この半月ほど、過去のような未来のような、この世界のどこかのような、この世界のどこでもないような、自分のことであるような、誰かの記憶であるような、そんな不思議な夢を毎晩のようにみていた。
繰り返しみているくせに、目覚めれば夢の中身はまったく覚えていない。
はっきりしているのは、夢をみた後、涙があふれて止まらなくなるということ――。
潜り込んだ寝台の温もりは、冬がいつのまにか去ったことをマリーカに教えてくれた。
もう、寒さで真夜中に体を震わすことはない。
あとは、心だけ――。心が芯からあたたまるような、幸せな夢をみて眠りたかった。
*
「お……、おはようござい……ます」
「おはようございます!」
ほんの少し湿り気を含んだ瑞々しい風が、商店街を吹き抜けていく春の朝――。
最近よく見かけるようになった獣人の青年が、店の前で水まきをしていたマリーカに恥ずかしそうにあいさつをしてきた。
声をかけられるようになって、今日で三日目――。
その前には、軽い会釈を交わしていた時期が、十日ほどあった。
そろそろ店に立ち寄ってくれても良さそうなものだが、マリーカが店番をしているときには、まだ一度も姿を見せてはいない。
オレステの妻でおしゃべり好きのジリオラが言うには、彼は、ティベルトという名の犬系獣人で、どういうわけか、獣人族のためにつくられた貴族学院から、獣人族も人間族も通う町の公共学校へ移ってきた教師らしい。
商店街の先にある高級な集合住宅に、アナグマ系獣人の執事と二人で住んでいて、若いがそれなりの財産持ちのようだ。
獣人族が支配するこの国において、立派な身分や資格があるのに、下層民である人間族とすすんで関わろうとする彼は、周囲からいくぶん奇異な目で見られているはずだ。
だが、マリーカは、彼のような考え方をする獣人を好ましく思っていた。
(お店に来てくれないかしら? あの人は獣人だけど、なんだかとても話が合いそうな気がする――。公共学校の様子をきいてみたいし、もしかしたら、本を読むのも好きかもしれない。だからといって、こちらから店に誘うのは押しつけがましいわよね――)
一度だけちらりと振り返り、急ぎ足で去って行ったティベルトの後ろ姿を見送りながら、マリーカは小さな溜息をついて店の中へ戻った。
*
マリーカは、地方にある小さな村の生まれだ。
幼い頃、マリーカに読み書きを教えてくれたのは、ロジータという獣人の元教師だった。
彼女が家で始めた私塾には、村の役人である獣人の子も、マリーカのような大豆農場で働く人間の子も自由に通うことができた。礼金が払えなければ、家で育てた農作物や川でつかまえた魚などを届ければよかった。
どんな種族の子にも公平に接し、丁寧に粘り強く勉強をみてくれるロジータをマリーカは尊敬していた。彼女にほめられたくて、毎日休まず私塾に通い懸命に学んだ。
やがてマリーカは、自分が学ぶだけでなく、ロジータに代わり小さな子どもたちの勉強をみてやるようになった。そして、いつか町で働いてお金を貯め、教師になるための学校に通うという夢を抱くようになった。
今から三年前、マリーカが十七歳のとき、田舎の村にも公共学校ができて、私塾は閉じられることになった。
マリーカの夢を知ったロジータは、彼女の両親を説得して町に出る許しを得ると、教師時代からの知り合いだったオレステの店で働けるように頼んでくれた。
マリーカの使える光魔法は、火を嫌う古書店できっと役に立つからと言って――。
*
古書店の給金は思っていたよりも高く、その上、マリーカの文字の美しさが評判になり、代書や写本の依頼もくるようになった。師範学校へ通うための資金は、順調に貯まりつつある。
最近では、マリーカが光魔法を使えることを知った客から、光の球を分けてもらえないかという話が来ることもある。
この世界では、魔力を身につけて生まれてくるのは、善良な人間だけだ。地位や権力のある獣人や野心を持つ人間には、不思議と魔力持ちは現われない。魔力は、聖なる力であり、獣人族にとっても人間族にとっても尊ぶべきものであった。
獣人族は、もともと炎を苦手としているので、彼らの夜会や夜の催しの灯りとしてマリーカの光の球は喜ばれた。魔力が小さいので、たいした数は準備できないが、たいそう感謝され、びっくりするような額の礼金をもらえることもあった。
「ねえ、マリーカ。店の前に、代書屋と写本師と光魔法使いの看板を出して、そっちを本業にしたらどうかしら? 店の手伝いはしなくていいから、うちには下宿代と店の文机の借り賃だけ払ってくれる? そうすれば今の何倍も稼げるし、師範学校へ通うお金なんてすぐに貯まるはずよ」
先日は、本気だか冗談だかわからない口調で、ジリオラがそんな提案をしてきた。
確かに、店の仕事をしている時間を代書や写本にあてたら、店の給金よりはるかに多くの礼金を手に入れることができるだろう。
今は知り合いから頼まれたときだけ用意している魔法の光の球も、看板を出せば大口の注文が入るようになるかもしれない。レストランや居酒屋と契約して、毎晩灯りを届けることになれば稼ぎも安定する。
魅力的な提案だった。だけどマリーカは、小さく首を振りながらこの申し出を断った。
「今のままでいいです。この店の仕事が好きだし、学校へ通うためのお金はちゃんと貯まっているし、大金持ちになりたいわけでもないですから」
「フフフ……。欲のない子だね。まあ、いいさ。学校へも、ここから通うといいよ。さすがにそうなったら給金は払えないけど、休みの日に店を手伝ってくれるなら下宿代はいらないよ。自分の家だと思って、ずっとここにいておくれ」
「ありがとうございます、ジリオラさん。わたし、追い出されるまでここにいるつもりです」
にっこり微笑んだマリーカを、ジリオラが優しく抱きしめた。
ロジータに連れられ、田舎からこの町へ出てきて三年――。
オレステの古書店が、この商店街が、今ではマリーカの大切な居場所になっていた。
*
「えっ? 公共学校の校長先生のところへ配達ですか?」
「ああ。だいぶ前に頼まれていた本を、ようやく手に入れることができたんだよ。待たせてしまったから、取りに来ていただくのも申し訳なくてね。マリーカが直接届けに行って、ちょっと遅くなったお詫びをして、ついでに代金もいただいてきてくれないか?」
「かまいませんけど、校長先生ってことは……、そのう……獣人ですよね?」
この世界では、役人や政治家はもちろん、組織の上に立つのも獣人族と決まっている。
国を治めているのは、「十二高家」という名門獣人貴族たちの互選により選出された、獣人の選定王だ。
遠い遠い昔、神からこの世界を託された人間族は、好き勝手にほかの種族を支配し、欲にまみれ同族争いを繰り返すようになった。そして、しまいには恐ろしい兵器を見境なく使い、世界を破壊してしまったといわれる。
世界を立て直すに際し、神は、人間族に近い姿をとりながら、特別な身体能力と健全な精神をもつ獣人族をこの世界に出現させ、人間族に代わって世界を再構築するように命じた。獣人族のもとで世界は平和と秩序を取り戻し、生き残った人間たちは、獣人族の管理と支配を受けて暮らすことになった。
長い時間を経て、獣人族と人間族の交歓もすすみ、結婚も認められるようになった。
人間族の中にも、自ら商売を始めて一財産築いたり、医師や代言人など獣人族が独占していた職業に就いたりする者も増えてきた。人間族の地位は向上しつつあったが、獣人族が支配層であることは変わらない。権力をもつ獣人の中には、あからさまに人間を見下すような態度をとるものも少なくない。
少しおびえた顔になったマリーカを励ますように、オレステが明るく言った。
「大丈夫だよ。学校長は、『十二高家』につながる家柄の出のようだが、偉そうなところはないし温厚で礼儀正しい獣人様だ。マリーカのことも知っていてね、よく働く娘だと感心していたよ。
今日は、書庫の整理をする家から買い取りを頼まれていてね。わたしは、どうしてもそちらに行かなくちゃならない。
マリーカは、いずれ教師になろうと思っているのだから、公共学校を見学できるいい機会かもしれないよ。ジリオラはあの調子だから、余計なおしゃべりをしかねない。マリーカに行ってもらう方が安心なんだ。頼むよ、マリーカ」
そうまで言われては、断るわけにもいかなかった。
マリーカは、配達役を引き受けることにし、急いで身支度を整えた。
帽子を持ってこようと階段を上がりかけたところで、ジリオラから声がかかった。
「ねえ、マリーカ! そんな仕事着じゃなくて、このドレスを着ておいきよ!」
ジリオラは、マリーカの晴れ着用にと、自分のドレスを今風に仕立て直したものを手にしていた。ドレスに合わせた帽子や靴まで出してきている。
「ええっ?! 校長先生に本を届けに行くだけですよ! そんな、お祭りやお祝いのときに着る服で行かなくても――」
「お偉い人に会いに行くんだからさ、きちんとしていかないと! あんたも、もっと自分は年頃の娘なんだってことを意識した方がいいよ。どこにどんないいご縁が転がっているかわからないし――」
「おいおいジリオラ、おまえは、また余計なことを! ……だけどね、マリーカ。わたしも、今日はそのドレスで出かけることをすすめるよ。学校を案内してもらうことになったら、お客様に見えるような上等な格好をしている方が、きっと誰からも丁寧に扱ってもらえるからね。ぜひ、ドレスを着ていきなさい」
ジリオラだけでなく、オレステからも強く言われ、マリーカはドレスを着て行かざる得なくなった。少しためらったのち、ドレスを受け取り間近で見ると、たちまちうきうきとした気分になった。
二年前、十八になったお祝いに、オレステとジリオラから贈られたこのドレスが、マリーカはたいそう気に入っていた。初めて袖を通した日の喜びは、今も忘れない。
自分の部屋へ戻ると、大急ぎで着替え古い鏡の前に立ってみた。
半年ぶりに着たドレスは、以前よりも体にぴったりと合い、とてもよく似合って見えた。
布で包んだ本を抱えたマリーカは、二人に見送られ元気な足取りで店を出た。
商店街の人々が、あいさつを返すのも忘れて彼女に見とれていることにも気づかず、「何だか、きょうはみんな少し無愛想ね」と思いながら、公共学校へと続く道を急いだ。
*
公共学校の門番に、用件を伝えて注文票と本を見せると、すぐに校舎へ案内してくれた。雑務係と思われるメイド風の人間の女性がマリーカを出迎え、校長は中庭にいるので一緒に来るようにと言った。
日当たりの良い中庭には、様々な草木が植えられ、たくさんの花が咲き乱れていた。
庭の一画にある小さな花壇で、二人の人物が何か言い合いながら作業をしていた。
「ティベルト様! 今日はそのぐらいにして、校長室へお戻りください!」
「もう少しだから、最後までやらせてくれ! 今日は天気がいいからね。刈り取ったローズマリーもよく乾くだろう。ローズマリーを少しだけ枕に混ぜると、気持ちがすっきりしてよく眠れるんだ。書類のサインが必要だというなら、ダリオ、おまえが書いておいてくれ」
「ティベルト様!」
(え? ティベルト様……、いま、そう言ったわよね?)
マリーカが、どきどきしながら花壇の方へ目をやると、雑務係の女性が大きな声で二人に呼びかけた。
「校長先生、お客様ですよ! ご注文の本を届けに来たそうです! お部屋の方でお待ちいただきますか?」
「おう! とうとう届いたか! 植物の本だから、ここで受け取るよ。今すぐに見たいんだ」
花壇から出て、服や靴の土を払っている学校長は、間違いなく毎朝マリーカにあいさつをしてくれる、あのティベルトという獣人だった。若くして公共学校の学校長を務めているということは、彼がそうとう高い身分の獣人であることを意味していた。
刈り取ったローズマリーの枝を籠に詰めているダリオという人物は、彼と一緒に暮らしているというアナグマ系獣人の執事と思われた。
二人とも尾も生えていなければ、耳が毛で覆われてもいなかったが、独特の瞳の色や輝きが、彼らが人間族ではなく獣人族であることを示していた。
ようやく土を払い終え顔を上げたティベルトは、マリーカと目が合うとひどく驚いた顔になり、「ウウ~ッ」と小さな呻き声をもらした。
そして、足をもつれさせながら、あわててマリーカに近づいてきたが、あと少しというところで敷石の溝に靴を引っかけ、マリーカに向かって倒れかかってきた。
マリーカは、本を放り出し彼を支えようと腕を伸ばしたが、小さな体で支えきれるはずもなく、彼の首にしがみつく格好になって一緒に地べたに座り込んでしまった。
そのときだった――。
首元で一つに結んだティベルトの髪から、とても懐かしい香りが漂ってきた。
その香りをもっと深く吸い込みたくて、マリーカはさらに体を寄せ、ティベルトのうなじに自分の鼻を押しつけた。
「桃太……、生きていたのね?」
それだけつぶやくと、マリーカは、ティベルトに抱きついたまま気を失ってしまった。
*
「桃太―っ! 朝ご飯だよーっ! 早く出ておいでー!」
庭の植え込みの中をうろうろしていた桃太は、真璃香の声を聞くや、七十センチメートルほどに枝を広げた、二本のローズマリーの木の下をかいくぐり走ってきた。
真璃香が頭や首の後ろを撫でてやると、ローズマリーのつんとした香りが辺りに漂った。
その香りが大好きな真璃香は、いやがる桃太を捕まえ、そのうなじに顔を埋めた。
「ああ、幸せ! この香りを嗅ぐと、『今日も一日頑張ろう!』って気になるんだよね!」
母に笑われながら桃太に餌をやり、真璃香は元気に家を出る。
勤め先は、四十分ほど電車に乗ったところにあるJ町の小さな出版社だ。
真璃香は、桃太のうなじの香りの次に、J町全体に香る少し古びた本の香りが好きだった。この香りに包まれたくて、J町の会社に勤めることにしたぐらいだ。
真璃香は、何もかもに満足していた――。自分は恵まれていると感じていた――。
あのときまでは――。
*
目を開けると、薄いクリーム色の天井が見えた。
マリーカは、一瞬、自分がどこにいるのかわからなくなりあわてたが、彼女に付き添っていた雑務係の女性が、目覚めに気づき声をかけてくれた。
「ああ、目を覚まされたのですね! 良かった……。急に気を失ってしまわれたので、心配しましたよ。ここは、学校の医務室です。急に起き上がるとふらふらしますから、まだ、横になっていてください。今、先生方を呼んできますからね」
医務室を出て行く女性の足音を聞きながら、マリーカは学校へ着いてからのことを、一つ一つ思い出そうとした。
門番と一緒に校舎へ向かい、雑務係に中庭へ案内され、学校長がティベルトであることがわかり、そして――。
そこまで思い出すと、胸が熱くなり涙が溢れてきた。
だが、今流れている涙は、いつものような心を冷やす悲しみの涙ではなかった。
(遠い昔、こことは別の世界で、わたしは『真璃香』と呼ばれ、『桃太』という犬を飼っていたことがあった……。恐ろしいことが起きて、わたしは命を失うことになったのだけど、一緒にいた桃太がどうなったのかはわからなかった……。あのティベルトという獣人は、桃太に間違いないわ。桃太もわたしも同じように、別の世界で新しい命をもらったということなのかしら?)
どうしてこんなことになったのか――。マリーカには見当もつかないが、獣人ティベルトとなった桃太には、理由がわかっているのだろうか?
横になったままもやもやした気分で待っていると、扉をノックする音が聞こえ、誰かが部屋の中へ入ってきた。
「マリーカさん、大丈夫ですか? どこか痛むところはありませんか?」
マリーカの顔を覗き込むようにして、穏やかに語りかけてきたのは、医師や看護師ではなくティベルトだった。
ときどき金色の煌めきが浮かぶ黒い瞳は、獣人特有の鋭い光を放っていたが、間近で見ても怖くはなかった。むしろ、もっとよく見たくなって伸ばしかけた手を、マリーカは、あわてて胸の上に下ろし組み直した。
その手を自分の手で包みこむと、ティベルトが優しく微笑んだ。
「温かくて柔らかな手……。いつも、わたしを撫でて抱きしめてくれた手です……。真璃香……、あなたも思い出してくれたのですよね?」
少し不安そうに尋ねてきたティベルトに、マリーカは黙ってうなずいた。
言いたいことはたくさんあったが、いろいろな思いがこみ上げてきて、上手く言葉にできなかった。
答える代わりにマリーカは、右手を持ち上げ、そっと彼のうなじを撫でた。すると、そこはたちまちふわふわとした毛で覆われ、懐かしい香りを放ち始めた。
ティベルトは、幸せそうな顔になり、重ねた手に頬をすり寄せながら言った。
「あの晩、あなたに救われて、わたしは生き延びました。みんなに大切にされ、天寿を全うしましたが、あなたに会えない悲しみが心から消えることはありませんでした。だから、生まれ変わることがあったら、もう一度あなたに会いたい、あなたのそばへ行きたいと願ったのです。
あなたは気づいていないかもしれませんが、わたしたちは何度も生まれ変わっています。でも今までは、遠すぎたり違いすぎたりして、わたしが願ったような出会いを果たすことができませんでした」
ティベルトの話を聞きながら、マリーカはおぼろげな記憶をたどっていた。
いつのことか、自分がなにものだったときのことか、それはよくわからない。
ただ、これまでに桃太の気配を感じたことが、何度もあったような気がした。
空を横切るツバメの声を聞いたとき――。
スミレの葉からテントウムシが飛び立つのを見たとき――。
降り注ぐ桜の花びらに包まれたとき――。
「ようやく、あなたの近くへ行き、言葉を交わしふれあえる存在に生まれ変わることができたとわかったとき、わたしは必死であなたの気配を探しました。獣人の力を駆使して、あなたの声やあなたの香りを風の中に求めました。
いくつかの幸運が重なって、あなたが、この世界でマリーカという女性に生まれ変わって、教師を目指しながら、町の古書店で働いていることを知りました」
マリーカは、ロジータのことを思い浮かべていた。
ティベルトとタイプは違うが、彼女も犬系の獣人だった。同系の獣人どうしの繋がりで、ティベルトはロジータへたどり着き、マリーカを見つけ出せたのかもしれない。
「わたしは獣人族が通う貴族学院の教師だったのですが、あなたの近くにいたくてこの学校で働くことを願い出ました。立場上、校長職を与えられてしまいましたけれどね――。あなたは、わたしを見ても何もひらめかないようなので、わたしの勘違いだったのだろうかとも思ったこともありました。でも、ようやく思い出してくれたのですね」
「ごめんなさい。わたし、真璃香だったときのことを何も覚えていなかったの。でも、毎朝あなたとあいさつを交わすようになって、自分でも不思議なくらいあなたのことが気になってはいたのよ」
マリーカの言葉を聞くと、ティベルトは嬉しそうに、頬を載せていたマリーカの手をぺろりとなめた。その感触が、マリーカの胸に安らぎと愛しさを運んできた。
こうして、柔らかな毛に覆われたティベルトのうなじを撫でていたら、きっと身も心も暖まって眠れるだろうと思った。桃太を抱えて眠っていた、あの頃のように――。
ティベルトもまた、マリーカのそばで幸せに包まれて眠ることを夢見ていた。
彼のような高い地位にある獣人は、一族の承認を得なければ人間と結婚することはできない。だが、犬と人間だったときに比べたら、それはたいした問題ではなかった。
それに、光魔法が使える人間は、獣人にとっても魅力的な存在だ。マリーカの美しい光魔法の球を見れば、ティベルトとの結婚を反対する者はいないだろう。
「コホン!」
突然、小さな咳払いが聞こえ、二人は急いで離れた。
ちょっと不満げな顔になったティベルトが見つめた先には、ダリオがすまして立っていた。
「えーっと……、ティベルト様、お取り込み中のところまことに申し訳ないのでございますが、レストランの席が取れましたのでお伝えに――。それから、お二人ともお召し替えをされてはどうかと思いまして、ティベルト様の分は校長室に、マリーカさんの分は応接室にご用意しました」
「ありがとう、ダリオ。マリーカの顔色もすっかりよくなった。着替えがすんだら、すぐに出かけられるよう馬車の準備も頼む」
「承知いたしました」
ティベルトの手を借りベッドから立ち上がったマリーカは、ダリオに応接室へ案内され、そこにいた衣装店の針子と雑務係の女性の手で、立派なレディに仕立て上げられた。
少しだけ先の見えない不安はあったが、同じように身支度を整えたティベルトにドレス姿をほめられると、たちまち胸が高鳴った。
ティベルトに手を取られ、美しい内装の馬車に乗り込んだマリーカは、自分が新しい世界へ踏み出したことを実感した。
険しい道かもしれない。だけど、今度はこの手を放さずに、行けるところまで一緒に行ってみたい――。もっと寄り添って、もっとわかり合って――。いくつもの夢を叶えて――。
ティベルトの顔を見上げながら、マリーカは頬を染めて微笑んだ。
「桃太……、いえ、ティベルト様、この世界でわたしを見つけ出してくれてありがとう!」
*
ジリオラが、魔法を使って呼び出した山の湧き水でポットを満たし、オレステは、魔法の熱でそれをほどよく温めてお茶をいれた。そして、二つのカップに均等に注ぎ分けた。
二人は、それぞれ自分のカップを手に取り、乾杯でもするように軽く掲げてから、同時に店のカウンターの長椅子に腰を下ろした。そして、薬草茶から立ち上る爽やかな香りをゆっくりと味わいながら、カップに口をつけた。
黄昏どきの古書店――。
今日は、マリーカの光魔法の球もないので、いつもよりも店内は暗い。
つい先ほど、学校長の執事だという獣人が、学校長がマリーカを夕食に招待するので、食事がすんだら彼女を馬車で古書店まで送ると知らせに来た。ついでに、本の代金も支払っていった。
二人は驚きもせず執事の言葉を聞き、「それでは、どうぞよろしくお願いいたします」と彼にあたまを下げた。
三年前、ロジータに連れられマリーカが初めてこの店にやって来たときから、いつかこんな日が来るのではないかと思っていた。
マリーカの運命の相手は、いつ現われるのか――。二人は気をもみながら、じっと見守っていたのだ。
「わたしたちは、水魔法と火魔法の使い手なのだもの。古書店なんかじゃなくて、カフェでも開くべきだったのよね」
「ああ、確かにな。でも、古書店をやっていれば、古びた本の香りが好きだった真璃香が、においに引き寄せられてやってくるかもしれないと思ったんだよ。実際はロジータさんとの縁がきっかけだったんだが、真璃香は、ちゃんとこの店にやって来た。ここが古書店だったから、働く気になったのだと思うよ」
「そうね。そして、桃太もとうとう姿を現した。マリーカが留守のとき、本を注文しに店に入ってきたティベルトさんを見て、わたしは飛び上がりそうになったわ。懐かしい桃太のにおいがしたのだもの!」
「そうさ。神様は、今度こそ我々の願いを聞き入れてくださったのさ。この不思議な世界でね」
オレステとジリオラもまた、転生者であった。真璃香と桃太をよく知る二人は、彼らが再び出会い、幸福な時間を取り戻すことを願っていた。とはいえ、真璃香と桃太の方は、二人のことなどまったく覚えていないようだ。まあ、あまりにもあの頃と姿が変わってしまったので仕方がないのだが――。
この半月あまり、あいさつを交わすばかりで、なかなかマリーカに近づかずにいるティベルトに、二人はずっとやきもきしていた。だから、わざとマリーカに本を届けに行かせ、ティベルトが話をする機会を作ってやったのだ。
どうやらそれが功を奏したようで、二人の心は通じたらしい。
「はじめは、『人間に生まれ変わるってたいへん!』と思ったものだけど、またあなたと一緒になれたし、真璃香と桃太がもう一度出会うのを見届けることができたから、今、わたしはとても幸せよ」
「そうだな。こうしていると、あの庭の平和な朝を思い出すよ。おまえと二本並んで、朝日を浴びながら真璃香と桃太を見守っていた、穏やかな春の終わりの朝を――」
オレステは左手を伸ばし、ジリオラの右手を握った。
遠い昔、真璃香の家の庭で、伸びた枝を絡ませ支え合い立っていた、二本のローズマリーだった頃を思い出すように――。
* * * お・し・ま・い * * *
最後までお読みくださり、ありがとうございました。