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ソロモンの財宝の秘密

  





                   岸田邸


 坂本が玄関を出ようとした時、柱を背にして、向井が携帯電話をかけている姿を見る。電話をかけ終わると、寺島広三と、何か二言三言話をする。玄関先に立つ坂本の方に走り寄る。

「私共は明日帰ります。道中お気を付けて・・・」

 2人は深々と頭を下げる。

 坂本は白のクラウンに乗り込むと、みちのく教団の冠門をくぐる。緩やかな坂道を北に下る。伊勢の外宮の側を通り過ぎながら、伊勢市街を走る。

 昨今、伊勢の外宮は市街地にあるために、自動車の駐車に難渋する。そのせいで外宮への参拝客は減少気味という。代わって内宮は、郊外に位置するため車で楽に行ける。参拝客は年々増加していると聞く。

 坂本は伊勢の町並みを通過しながらそんな事を考えている。松阪へ走る旧街道、国道15号線に入る。多気郡明和町に入る。

 アラタマ教団は斎宮跡前の道を西に走る。岸田の家はアラタマ教団から1キロ程北に行った所にある。磯部珠江から現地への道筋も、大体聞いている。地図をみながらゆっくりとく車を走らせる。

・・・アラタマ教団の方から行ってみようか・・・

 道にはぐれたら人に尋ねればよい。何も急ぐ用もない。岸田の武骨な顔を拝見して、時間があれば、これからの仕事の話でもすればよい。

 坂本はそう腹に決めると、国道を左折する。道幅が4メートル程しかない。田舎の畦道を拡張したような道路だ。人家もまばらで、周囲は青々とした稲穂が茂っている。前方に伊勢カントリークラブの大きな看板が見える。あの看板を右折するとアラタマ教団への道となる。

 坂本は以前、向井と共にアラタマ教団へ行った事を思い出す。

 何気なくバックミラーを見る。先程からグレーのブルーバードが追ってくる。つかず離れずといった距離を保っている。

 みちのく教団を出て、伊勢の外宮を通過した頃からくっついている。この車の後を付けているのかな、馬鹿な・・・・、とは思うものの、ずっと後を付けられているようで気味が悪い。

・・・やり過ごそう・・・坂本は車を道の脇に寄せて、地図を調べる振りをする。ブルーバードは坂本の車の後ろ10メートル程に一旦停車、数秒後ノロノロとした足取りで坂本の車をすり抜けるように走り去って行く。坂本はブルーバードが百メートル程前方へ行ってから車を走らせる。

 伊勢カントリークラブの看板の所で道路は二股に分かれている。あのブルーバードが行く反対の道を行こうと考えた。

 ブルーバードはノロノロと走っていたが意を決するようにアラタマ教団の方角に右折していった。坂本は車を直進させる。少々遠回りになるが、時間的には大した事はない。

 10分後、地図を頼りに岸田の家の前に辿り着く。近鉄線多気駅のすぐ近くだ。もう1つ向こうの駅が松坂駅になる。

 岸田邸は長年乾家に仕えていただけあって、入母屋の古い建物だ。5百坪の敷地に母屋がある。離れが2つ、これは最近建てたようだ。

 今日訪問する事は、磯部珠江から連絡が入っている筈だ。時間も昼過ぎと約束してある。

 敷地は垣根で囲われている。南側の道路に面して門がある。車が1台駐車してあるほか、人気がない。門扉もなく木の門柱が左右に建っているだけだ。庭は開け放しのままだ。

 坂本は門の中に車を乗り入れる。玄関まで約10メートル、初夏の真昼時というのに、窓は閉められて、カーテンが引かれている。建物は古いが、インターホンは新しい。インターホンを押すが反応はない。玄関の引き戸に手をやる。錠がかかってない。

 何と不用心な、そう思いながら引き戸を開けて中に入る。

「ごめん下さい」大声で案内を乞う。2回3回奥へ呼びかける。誰もいないのかと思って引き返そうと思った時、「はーい」奥の方から女の声がする。

 坂本は振り向いて玄関の中に入り直す。

薄暗い玄関ホールの照明灯がつく。6帖1間はある玄関はきれいに改装されている。

 顔を出したのは50歳位の小柄な女性である。髪を後ろに束ねた割烹着姿である。

「どちら様で」女は頭を下げながら声をかける。

「私、常滑の坂本住宅の坂本と言いますが」坂本は頭を下げる。

「ああ、坂本住宅の社長さん、洋さんからお聞きしとります」

 女は上がり框にべったりと腰を降ろすと、両手をついて挨拶する。

「今日、お伺いする事、お知らせしてあると思うんですけど・・・」

 坂本は手短にここに来た理由を話す。

「すみませんなあ、私聞いておりませんし、主人も坂本さんがお見えになると一言も言っておりませんが」

 女は岸田洋の兄嫁である。丸顔で眼が小さい。朴訥とした話しぶりから嘘を言っているとは思えない。

「私の手違いでしょう。洋さんこちらにお帰りになっていると聞いてまして・・・」

 坂本は話題を切り替える。岸田に会えればそれでよいのだ。出かけているのなら、しばらくどこかでお茶でも飲んで出直そうと考えていた。

「えっ!洋さんですか、ここ3ヵ月ばかり帰ってきていませんが・・・」

 岸田の兄嫁は戸惑いの表情を見せる。驚いたのは坂本の方である。

 岸田と会ったのは5月の初め頃、それ以来、一度も会っていない。磯部珠江の話だと、彼は明和町の実家に帰っているという。

・・・一体、どうなっているんだ・・・坂本は途方に暮れる。

「あの、主人は3時頃に帰ってきますので、よろしければ、それまで上がってお待ちになっては・・・」

 坂本は岸田の兄嫁の親切を丁寧に辞して表に出る。

・・・真っ直ぐ、常滑に帰ろう・・・

 坂本はたとえどんなに遠くに出かけても、用事をすますと、寄り道をせずに帰る性格である。独身だから適当に羽根をのばすという気持ちをもった事がない。

 それに、岸田洋がここ3ヵ月1度も実家に帰っていないという事実に、ショックを受けている。

・・・珠江さんは俺に嘘をついているのだろうか・・・

 坂本に嘘をついたところで何の得にもならない。

 これは一体どういう事なのか。

 坂本が岸田邸の駐車場から車を出して、松坂方面に向かおうとして、何気なくバックミラーを見る。後ろの方に例のグレーのブルーバードが停車しているのが目に入る。

 坂本は胸騒ぎを覚える。しばらくはバックミラーからブルーバードを見ている。坂本の目線に気づいたのか、ブルーバードは少しバックして、脇道の方に消えていく。

・・・何者かに尾行されている・・・ひょっとしたら、磯部作次郎殺しや磯部作太郎の長男幸一殺しと関係があるのでは・・・、不気味な想像が脳裏をよぎった。


 ブルーバードは坂本のクラウンが松阪市街地を抜けるまで、つかず離れずに尾行していた。松阪を過ぎ久居市に入る所で消える。

・・・俺を捕まえるのが目的ではないらしい・・・

 捕らえようと思うならいくらでも機会はあった。とはいえ坂本の車を何故尾行するのか、が判らない。

 久居市を過ぎて四日市市に入っても、坂本の胸の高まりは収まらない。それに磯部珠江の事が脳裏に引っかかっている。

 四日市市を過ぎる。腕時計を見る。まだ2時過ぎだ。日曜日だが、交通量が少ない時間帯だ。車はスムーズに走っている。

 名四国道沿いの喫茶店に入る。コーヒーを飲みながら、坂本は外の、まばらに走る車の流れをぼんやりと見ていた。

 みちのく教団へはこれからは何度か足を運ぶことになるだろう。これからも得体の知れない車に尾行されるかも知れない。そう思うだけで、うんざりしてくる。

 しかし・・・、坂本は気を取り直す。

 いまやっている呼吸法の欠点が判った。佐久田教祖の指摘通り、小周天も加えよう。それに、紫水晶を利用してのアジナチャクラの開発法も、ぜひ伝授してもらおうと考えている。

4時半頃常滑の自宅につく。磯根珠江に電話を入れようと思ったが、思い直す。

・・・岸田邸にどうして連絡してくれなかったのか・・・

 珠江をなじったところで何になろう。お互い気まずい思いになるだけだ。連絡しなかった珠江に何か理由があるのだろう。

・・・ほっておこう・・・しばらくは磯部邸への訪問も差し控えよう。

 途中コンビニで買ってきた弁当と缶ビールを冷蔵庫に放り込む。40分ばかり放心状態でソファーに横になる。気を取り直すと、磯部作次郎の資料に取り掛かる。


                  石一族


 イワレヒコ(神武天皇)を養子として迎え入れた大和は、ナガスネヒコを失って動揺の極みにあった。それを抑えたのがウマシマチである。

 ニギハヤ亡き後、実際に政治を動かしていたのも彼である。ニギハヒ在世中、出雲一族は中部、関東、東北にまで手を伸ばしている。スサノオ、ニギハヤを主祭する神社が多いのも、その事実を物語っている。

 イスケヨリ姫の養子となった神武天皇は有能な人材を日向から連れてきている。日向一族の勢力が日増しに強くなってくるが、かと言って、出雲一族の勢力を無視はしない。

 三輪山に祀られたニギハヤヒ。この山を中心に大和の勢力は心を1つにしている。日本の国をはじめて統一し支配したニギハヤヒ、この巨人の下に結束した大和の民は、彼亡き後も出雲一族を中心に結束してたからだ。

 日増しに力を蓄えてきているとは言え、神武天皇も養子に身の上、思うがままに振舞う事は許されなかった。

 初代天皇と言われる神武天皇が橿原神宮に創建されたのも明治になってからである。全国に神武天皇を祀る社はわずかしかない。

 神武天皇が有名になったのは明治からで、それ以前は影の薄い天皇だった。


 坂本はこれからようやく本題である伊勢神宮について整理する事になる。

 その前に――坂本は大陸から渡ってきたソロモンの財宝は出雲のどこに秘匿されたのか、磯部作次郎の資料を当たって見る事にする。

 島根県飯石郡吉田村、王子神社、この境内地に布都魂ふつのみたまを祀る神社がある。

 布都とはスサノオの父親、王子神社の王子とはスサノオがフツの王子である事を告げている。

 布都ゆかりの神社には奈良の石上神宮を始め、石に関りがある。

吉田村近辺、平田市周辺には、スサノオを祀る神社が大半である。小さな村に祀られた神様は荒神が多い。荒神はもともと土地を開いた時に最初に祀る地域神で、氏神信仰、鎮守信仰の素朴な姿を残している。

 島根県内の多くの神社の境内地に荒神社が存在するがその正体はスサノオである。

 布都を祀る神社が平田町にある。

 石上神社(釜滴町)、石上神社(塩津町)宇美うみ神社(平田町)

 これらはいずれも平田市北部の日本海に面した海部の町である。宇美神社は斐伊川が宍道湖に注ぐ河口の町である。

 塩津町の石上神社も昔は宇美神社と言った。出雲風土記にも記載され、延喜の制国幣小社に列せらた事から、往古は由緒ある神社だった。

 塩津町から平田町にかけて、ここはフツ一族が朝鮮半島から上陸して、最初に勢力を張った土地である。


 問題なのは飯石郡吉田村は、ここは平田町から50キロも東の山の中に入った所にある。山また山で、現在は竜頭滝県立自然公園になっている。

 磯部作次郎はソロモンの財宝がここに運ばれたとみている。

その理由として、宍道湖に注ぐ斐伊川は、上流に遡ると三ヵ屋川と名を変えて、栃山の約3キロ南に流れている。数人程が乗船する舟なら上流まで行く事は可能である。

 フツ一族も、出雲が絶対に安住の地だとは考えていなかったに違いない。

 磯部作次郎の資料によると、ソロモンの財宝は、1人が10キログラム持ったとしても1万人を要したという。莫大な財宝を秘匿するのは、まず人の眼に触れぬ事。いざという時、ずぐにも運び出せる事が条件である。

 栃山ならば、船で運びやすく、山奥の洞窟だから、秘匿するのに持ってこいである。いざという時も運びやすい。栃山の洞窟に秘匿された財宝は厳重に封印される。スサノオを主祭神として、洞窟の前に祠を設けて祀る。財宝を守る一族=石部氏が住みつく。

 ある学者はフツに関係のある石は磯が訛って石になったと主張する。磯部家の言い伝えはこの逆で、往古、磯部は石部だったという。訛って磯になった。

 ちなみに伊勢の地名はもともと石である。その証拠もある。この事については後々詳しく述べる。

 ソロモンの財宝は栃山の洞窟の奥深くに秘匿された。

フツの子フツシがスサノオとして出雲を支配する。やがて、九州、日向一族も支配下に置く。その子フル=ニギハヤヒの代には大和を中心に日本で最初の大王として君臨するまでになる。その勢力は関東地方まで及ぶ。

 しかしニギハヤヒが死に、大国主は日向で死ぬに及び、、抑圧されていた日向一族はアマテラスを中心に、勢力の挽回に乗り出す。まずはスサノオ一族に末子相続である事を理由に出雲の支配権を譲渡させる。

 石族=磯部族は、アマテラスは出雲の支配権にことよせて、ソロモンの財宝を我が物にしようとする野望を抱いている事を見抜いていた。

 石族はいち早く財宝を出雲の地から運び出す。彼らの目指した次の秘匿地は四国の剣山であった。

 徳島県東祖谷山村にある剣山は国定公園となっている。


 磯部作次郎はソロモンの財宝を剣山に隠した理由を次のように述べている。

 フツ一族が出雲の地に上陸したと前後して、別に一隊が四国を目指していた。彼らは剣山周辺に居を構えるようになる。石=磯部族は彼らを頼ってソロモンの財宝を剣山に運び込んだ。いわばお互い同胞だったからである。

 四国は、山という山の中腹や驚くような高い所に集落が築かれている。昔は四国では身分の高い者ほど山の高い所に住んでいた。その場所を人々は”空”と呼んでいた。道路は尾根伝いに山頂を通り山から山へ、麓から山頂へと続いている。徳島県には高地村落が非常に多い。

――四国山脈は高原地帯が多く、ほとんど平地は無く、小山の起伏重畳とした所に部落がある。今では過疎地帯であるが、古代の遺跡や出土品が多く、古代は相当開けていたものと思われる――(山神遺跡学出調査委員会会報報告書)

 つまり山上王国が四国を支配していたのである。

――3世紀の頃の文化の流れは徳島県から畿内へは行ってはいるが、畿内から徳島県へは来ていない。徳島県は瀬戸内海文化圏の影響を受けている――(徳島県埋蔵文化センタ―菅原康夫)

 古代四国では、村々は山上ハイウエーで結ばれ、ほぼ四国全体にわたる王国が築かれていた。温暖なこの地は日本列島の中でも、まず裕福な条件に恵まれていた。

 朝鮮半島を経由して、出雲に入った一行と別れた別の一隊が四国に入った。剣山を中心にして山上の生活を送るようになった。

 スサノオが九州を征圧し、ニギハヤヒが大和で日本で最初の大王になった時、当然四国の同朋との間にも交流があった。ニギハヤヒや大国主が亡くなり、スサノオ一族の勢力が九州の日向一族に凌駕されると、出雲にいた主だった者がソロモンの財宝と共に四国に渡った。


 剣山は徳島県の山だが、ほぼ高知県との県境に近い所に位置する。標高1955メートルで四国で一番高い山とされていた。昭和の初めに測量したところ石槌山(1982メートル)の方が高いと判った。

 それまでは四国で一番高いと信じられていた。剣山は四国を代表する山だった。

 現代、剣山は霊山として崇められている。

――剣山への素朴な信仰は修験道の霊山と崇められるずっと以前からのものだったと考えられる。つまり、修験道の行場としての剣山の適格性すなわち厳しい自然を持つ登頂困難な山という意味だが、それだけの理由で修験道がこの山を求めたとは考えにくい。剣山の側で、すでにある種の信仰を集め得たからこそ、修験道を招く事ができたと考える方が良いと思われる――(東祖谷山村誌)

 大剣神社の宮司も同じことを伝えている。

 大剣神社は剣山の八合目ぐらいのところにあるが、昔はそれより上に登ってはいけないと言い伝えられている。剣山は謎に満ちた山である。

 昭和11年、東京の高根正教氏が剣山に登っている。

――私は自己の研究の学術的価値のため、昭和11年7月4日、剣山に登山し、果たして人工なりや否やを実証すべくその調査に着手し…調査の為に地下の発掘のべ185尺(約180メートル)の長さに及ぶ。この山が人工なる一点の確証は完全に把握したのである――(四国剣山千古の謎)

 剣山には洞窟がない。高根正教氏の指摘するように、剣山は人工の山だったという伝承が残っている。

 剣山の頂上は削り取られた様に平坦である。これは”平家の馬場”と呼ばれる程広いもので、何らかの必要があって、平坦に築いたとしか考えられない。

 大剣神社地からは、昔から名高い”御神水”が地中から流れ出している。剣山は地下水脈が豊富な山なのだ。大剣神社の裏側にある”行場”からも地下水が流れ出している。それも数ヵ所に及ぶ。

 不思議な事に、これらの地下水は、全部がほぼ同じ高さから流れ出している事だ。

 この事実は、剣山の腹の中に地下水を貯め込む空洞があるという事だ。

山頂は宝蔵石がある。これは宝蔵石神社のご神体で珍しい鏡石である。この巨石全体はもともと平らに削られてピカピカに磨かれていたものである。この元は磨かれていた鏡石の南面全体は10平方メートルぐらいの大きさである。

 行者の不動のいわやの真上にも5トンはある鏡石がある。3平方メートル程の大きさの面が磨かれて、その面は南東を向いている。

 剣山の山頂に測候所がある。その南側に長さ30メートル、高さ12メートル程の石崖が作られている。その中に鏡石が混じっている。石崖は剣山山頂に散らばっていた石を寄せ集めて造った物と言われている。

 高根正教氏は剣山を掘って、150メートル程掘り進んだところで、大きな鏡石を発見している。その一部、割られて3個の石となったものが現在大剣神社に保存されている。

 宝蔵石、70トンはあるこの石は下から運び上げてきたものという。何の為に、それは謎であるが、剣山はソロモンの財宝が隠されているという根強い伝説が伝わっている。


                  剣山


 剣山の名の由来は、太古頂上に天を摩してそそり立つ剣型の巨岩があったという。それが大地震で崩されたと伝えられている。

 旧約聖書にソロモン大王死後その財宝は、14万千人が各自百金ずつ持って東に向かったとある。磯部作次郎の資料とは相違するが、とにかく莫大な莫大な財宝である事には間違いない。

 高根正教氏に限らず、戦後何人かの者が剣山の発掘を手掛けている。

 高根氏が掘り進んだところをもっと深く掘り進んだ者がいる。そこから地下に隠れた迷路宮殿の一部が発見されている。まるで岩窟アパートのように入り組んだ天井と壁が続く。地下回廊は平らで滑らかな水ガラスで覆われ、ところどころ、青と赤の美しい色彩を放つ。水晶を融かしたといわれる非常に珍しいものである。

 水ガラスの壁をつるはしの先で砕いたところ、その向こうに、古色蒼然とした茶褐色のミイラが、約100体、横たわっていたという。

 これは財宝探しの途中で発見されたため、学術的な調査や記録は行われていない。

 発見者の資金が枯渇した事と、終戦当時でありながら政府系の巨大な圧力が加わり、発掘は禁止され、地下洞は埋め尽くされて現在に至っている。

 発見者はソロモンの財宝は無かったと証言している。

 磯部作次郎は磯部家代々から語り伝えられている、ソロモンの財宝は伊勢に有りという事を信じている。

 磯部作次郎の資料の中に、東祖谷村に昔から秘かに語り伝えられた歌があると伝えている。

――九里きて、九里行って、九里戻る

  朝日輝き、夕日が照らす

  ない椿の根に照らす

  祖谷の谷から何がきた

  恵比須、大黒、積みや降ろした

  伊勢の御宝、積みや降ろした


  三つの宝は庭にある。

  祖谷の空から、御龍車が三つ降りる

  先なる車に、何積んだ

  恵比須、大黒、積みや降ろした、積や降ろした

  祖谷の空から、御竜車が三つ降る


  中なる車に、何積んだ

  伊勢の宝も、積みや降した、積みや降した

  祖谷の空から、御龍車が三つ降る


  後なる車に、何積んだ

  諸国の宝を積みや降した、積みや降ろした

  三つの宝をおし合わせ

  こなたの庭へ積みや降した、積みや降した


 この歌は四国の剣山の西方に拡がる祖谷地方に伝わるとされている。

 祖谷にある最古の御殿ー栗枝渡くりしど八幡宮の社伝によると、この歌は伊勢の地からこの地方へ宝を降ろしたとあるが、磯部作次郎は事実はその反対と言い切る。

 その理由として、九州の日向一族は眼を皿にして、ソロモンの財宝を探し求めている。それを防ぐために、伊勢からこの地に財宝が送られてきたと歌わせたというのだ。つまり敵を欺く戦法なのだ。

 剣山中にソロモンの財宝を秘匿し終えた後、石一族は次の秘匿地を捜し求めた。


                  伊勢


 久留米市大石町、伊勢天照御祖神社 祭神天火明命

 この神社の記録によると、古来伊勢は石と呼ばれていたと伝えられている。伊勢は石が転訛したものだという。この神社の境内には大きな石がある。

 石一族は伊勢に入植する。四国剣山と伊勢とは海路で結べば左程遠くはない。伊勢には昔からアイヌ民族が生活している。高度な生産技術を持った石一族はこの地で稲作を教えたりして、アイヌ民族と融合していく。

 石一族は自らを磯部族と姓を改める。石という地名も意図的に”いせ”に変えたものと思われる。こうして石一族は歴史の表舞台から姿を消すことになる。

 ソロモンの財宝が剣山から伊勢の地に移されたのは、いつ頃の事か。磯部作次郎は10代崇神天皇の頃としている。

 崇神天皇の時代、記録によると、冷害が5年以上も続き、近畿地方でも米がほとんど実らず飢饉が続き、人口が激減したといわれる。

 天皇は、これは先祖の祭りをおろそかにした祟りと考えた。

 まず神武天皇が養子になった時、ニギハヤヒの相続人、イスケヨリ姫(神武天皇の后)の代行統治をしていた兄の宇摩志麻治ウマシマチから受け取った、統治者継承の印、十種の神宝(この頃は三種の神器ではなかった)を宮中から持ち出す。それを天理市の布留ふるの里に、時の宰相伊香色雄いかしこお尊をして祀らせる。鎮魂の儀を行わせ、冷害と伝染病の終息を祈っている。

 ここに祀ったのが養家の4代、布津(ふつ、スサノオの父)、布都斯(ふつし、スサノオ)布留(ふる、ニギハヤヒ)、その相続人である末娘の代行政治を20年近く行った宇摩志麻治(この後を継いだのが神武天皇)

 この4代を祀ったのが現在の石上いそのかみ神宮で、当時は神域周囲十里(40キロ)と記録されている。

 祭神の中心はニギハヤヒの布留大王だったので、布留の社と呼ばれた。今でもその地を布留山といい、そこを流れる川を布留川という。

 次に天皇は、ニギハヤヒの後裔、太田田根子を捜し出して、御陵の三室山(三輪山)を御神体として、大神神社を造り、天照国照大神饒速日の御魂を鎮魂した。今でもこの大神おおみわ(当時大神という名は布留の饒速日の代名詞だった)神社には、摂社、末社へ故人の交際した人を祀る社が39社もあり、日本一の超大スケールの神社である。

 最後に崇神天皇は日本大国魂大神(饒速日)とその父八千矛大神スサノオ御年大神(饒速日の相続人の末子、神武天皇の皇后イスケヨリ姫)の3代を、皇女淳名城入ぬなきいり姫を斎王として、天理市新泉町(当時は市磯邑といった)に祀らせた。今の大和おおやまと神社である。

 ここは当時、神域は八丁四方、神領は大和、尾張、常陸、出雲、安芸の6ヵ国あったと記録されている。

「日本」という文字が見えるが、今でもオオヤマト神社という呼び名であるから、昔は大日本神社と書いていた可能性がある。

 石上、大神、大和の3社と、後に出来た和歌山県の熊野大社(本宮)、京都の賀茂別雷神社の玉大神は、いずれも饒速日のフル大王を祀ったもので、皇祖大神としてその後代々の天皇が、何度となく参詣されたという記録が残っている。


 一般的には崇神天皇は最もニギハヤヒ大王を崇敬された天皇として知られている。ニギハヤヒが亡くなって一世紀後に崇神天皇の時代となっている。彼は国土の開発と統一をはっきりと施政目標に掲げ、朝廷の総力を挙げて、取り組もうとした最初の天皇と思われる。

 運悪く、その頃疫病が流行し、天災も重なって心を痛めた天皇は、ニギハヤヒ大王の祭祀を全国各地に布告している。崇神天皇の時代の創祀と記録されたニギハヤヒの社は、数十社以上にのぼる。

 前にも述べたが、太田田根子を捜し出して三輪の大神神社を祀らせたという。

 このあたりの事を古事記では以下のように記している。

――崇神天皇の時代に疫病が流行った。民の多くが死んだりした。天皇はこれを愁いていたところ、夢に大物主大神ニギハヤヒが現れて言った。

「疫病がはやるのは我の意志である。太田田根子という者を召して、我を祀れば、疫病も無くなり、国も安泰するだろう」

 天皇は国の方々に伝令を遣わして、太田田根子を捜し出すよう命令した。河内の美努みの村にいるとの進言を受けたので、天皇は直ちに太田田根子を宮廷に召した。

「お前は誰の子か」との天皇の問いに、

「自分の先祖は大物主大神で、陶津耳すえつみみの命の娘、活玉依いくたまより姫から生まれました。櫛御方ニギハヤヒの子の飯肩単見いいかたすみ命の子の建甕槌タケミカツチ命の子として生まれました」

 天皇はこれを聞いて大変喜ばれて言った。

「これで天下泰平で民も繁栄するであろう」

 そこで天皇は太田田根子を三諸山の大神神社の神主に任じた。


 崇神天皇の時代に疫病が蔓延して民が苦しんだので太田田根子を見つけ出して召したという記事。

 一見何でもないように見える。しかしよく考えてみるとおかしなことに気付く。

 ニギハヤヒ大王は大神として祀られた偉大な存在であった。百年後、崇神天王の夢枕に現れて、自分の直系の子孫をして祀らせなければ国が亡ぶと、言っているのだ。

 何のために?、という疑問が残る。

 ニギハヤヒ一族の御魂がないがしろにされていたという事以外何もない。

 もっと有り体に言えば、日本の支配権は日向一族に完全に移り、ニギハヤヒ系の子孫は政治の中心から追いやられていたという事なのだ。

 子孫が凋落して祀るべき大神神社も荒れ果てていた。これに対して、ニギハヤヒの御魂が怨霊と化して、疫病を流行らせた。事の重大さに、崇神天皇はあわてて、太田田根子を大神神社の神主に任命して、石上神宮を創建し、全国数十ヵ所に、ニギハヤヒ一族を祀る神社を創建したというのだ。

 このように見てくると、崇神天皇はニギハヤヒの怨霊を恐れていただけと考えられがちである。ここに奇妙な出来事がある。

 石上神宮を創建した後、各地の国津神(スサノオ、ニギハヤヒ)系を高天原系(日向一族)の支配に置くために、様々な政策を実行している。

 其の1つに、地方の神宝、呪物を徴発している。

それらは石上神宮に集められた。それがいかに膨大であったかは、延暦23年(804)年、石上神宮の神宝類を山城国に移した時、神宝の運搬に、実に15万7千余人もの夫役を要したと、日本後紀に記してある事だ。

 驚くべきことに、その時移した神宝類は、集めたものの一部にすぎない。というのも、石上神宮の神宝は、天皇の権力が確立された天武天皇時代に、もとの持ち主の豪族に返還されており、延暦寺23年の移転は、その時の返還に漏れた神宝の移転だった。

 余談だが、神宝徴発、石上神宮の神宝管理に当たったのが物部氏である。各地の神宝を集めた石上神宮の祭祀権は、和邇氏から物部氏に移っている。

 物部氏はニギハヤヒがスサノオから大和に出向く時に授けられた十種の神宝を、崇神天皇に献上している。神道で最も重んじられた行法、秘宝が物部氏を通じて、崇神天皇に持ち込まれている。

 つまりニギハヤヒの神話や、神宝徴発、石上神宮の祭祀権など、天皇家より古い家柄の和邇氏から奪い、物部氏を通じて天皇家の神話をつなぎ合わせる役目を果たしているのだ。

 崇神天皇はニギハヤヒの怨霊の鎮魂を行いながら、政治権力の確立の為に、ニギハヤヒを利用している。それ程、ニギハヤヒは偉大な覇王として、人々の心の中に浸み込んでいたのである。


 話を四国、剣山の祖谷にある栗枝渡八幡宮に移す。磯部作次郎はこの八幡宮を訪れている。殺される一年前の事だ。

 磯部の手記によると、この八幡宮の神に菊の紋章が掲げられている。

 八幡宮とは言うものの、剣山の麓、祖谷の山奥である。どこにでもある様な小さな神社である。八幡鳥居をくぐると、拝殿はなく、天を突きさすような千木が社殿の破風の上に載っている。社殿の所に賽銭箱がある。その上の軒の垂れ幕に菊の紋章が描かれている。

 菊の紋章を配した神社は珍しくはないが、こんな山奥の名もない神社で、これ見よがしに、菊の紋章を配するのは、違和感を感じたと、磯部は記している。

 宮司さんや禰宜さんはいない。神社を管理してる人が、近くで農業を営んでいる。磯部はその人から聞いた話として次のように記している。

 ――大昔、としか判らないと断りながら、この一帯には数千人の人が住んでいた。剣山を囲むようにして,生計を営んでいた。

 ある時、都から偉い人がやってきた。剣山はスサノオ大王に縁がある山である。よってこの地に社を創建する。それが栗枝渡八幡宮の由来である。都からの勅使の命令で創建されたもので、朝廷との深い関りのある神社として崇拝されてきた――

 神社の建設が始まり、完成後、数か月してから、朝廷の勅使が数百名の軍隊を連れてやってきた。勅使の言うには、今後、霊山としての剣山へは入山を禁止すると言い出した。軍隊を引き連れて、剣山に登り、山のあちらこちらを探索しだした。一ヵ月ばかり滞在した後、彼らは帰っていった。

 これと同時に、数千人いた村人が忽然と姿を消してしまった。百名ほどの村人を残して、いずことなく移動してしまったという。

 この時に、祖谷には、不思議な歌がはやる。

 言い伝えによると、朝廷の勅使がやってくる前に、剣山に埋められたスサノオの財宝(ソロモンの財宝)を伊勢の地のどこかへ持ち去ったというのだ。

 2度目に勅使がやってきた時は、石一族はは剣山の探索に協力している。剣山にに何もない事を確かめて、勅使一行が帰った後、石一族は伊勢に引き移っている。

 磯部作次郎はは手記の中でそのように推測している。その上で勅使一行が剣山にやってきたのは、崇神天皇の命を受けたためと、磯部は断定している。

 ここでは崇神天皇はどんな天皇だったかは述べない。

1つ言えることは、皇女豊城入とよきいり姫を斎王として、それまで宮中にあった日向の大日霊女(後のアマテラス女王)を倭笠縫邑に移した事だ。ここは大神神社の御神体、三輪山の西北の麓に当たる。

 大日霊女の御神体は、この後、各地を転々として、伊勢の地に鎮座する事になる。

 はるか昔、石と呼ばれた伊勢、ここにこそ、ソロモンの財宝の在り処を解く秘密が隠されている。


                 津島神社


 電話が鳴る。磯部作次郎の資料を読みふけり、ノートに書き写すことに没頭していた坂本太一郎は、はっと我に還り、反射的に受話器を取る。机上の置時計を見ると、夕方の7時を過ぎている。

「もしもし、坂本さんのお宅ですか」

 聞きなれた声が響いてくる。

「ああ、向井さん、今日はどうも・・・」坂本はとっさの事で、うまく声が出ない。

「今日はご苦労様でした。あれから、真っ直ぐ帰られましたか?」向井の声は女のように優しい。

「いえ、ちょっと、寄り道を・・・」

坂本は、ふと尾行された事を話そうかと思った。

「そうですか、でも帰り道は判りました?」向井は子供でもあやす様な馬鹿丁寧な言い方をする。

「ええ、帰り道ぐらいは判りますから」坂本は尾行された事は言いそびれた。

 向井はみちのく教団についての評価を坂本に尋ねる。その事の方が余程気になるらしい。

 坂本は行って良かったと感想を漏らす。時間の余裕が許すなら、何度の行きたいと洩らす。

「教祖がね、坂本さんの事言ってましたよ。磨けば物になる人だとね。これからもどんどん出席してくださいよ」

 褒められて悪い気はしない。承諾の返事をして電話を切る。

 受話器を置いて、何故携帯電話にかけてこなかったのかなと疑問が湧きあがる。向井純はいつも坂本の携帯電話にかけてくる。朝9時までに会社は皆が出勤してくる。事務所にいると判っている筈なのに、坂本の携帯電話を鳴らす。それが向井純だ。いつもと違うな、坂本はそう感じただけで、それ以上は追求しない。

 電話を切ると、一気に疲れが出る。約2時間、磯部作次郎の資料を読んだり、ノートを取ったりで、もう机に向かう気力が失せている。書斎のソファーのに身を投げ出す。放心状態のまま、眼鏡を外す。ど近眼のため、度の強い眼鏡をかけている。そのため眼が疲れやすい。

――何故伊勢なのだろうか――ふと頭に浮かぶ。

 ソロモンの財宝を隠すなら、関東や北陸でもよかったのではないか。

1つ、推理出来る事は、西の山を越えた向こうには、奈良があり、熊野がある。勢力が衰えたとはいえ、先祖ニギハヤヒ大王を信奉する一族の勢力圏があった事、それに当時伊勢地方はアイヌ民族が住んでいたが、大して勢力を持ってはいなかった。

 それに――、坂本は地図を眺める。伊勢湾に面している。事あれば対岸の知多半島に逃げる事が出来る。


 しばらくソファーに横になる。うとうとする。お腹が空くが、食事を作るのが面倒なので、後でビールとおつまみでも摂ろうと考えている。

 電話が鳴る。

「太一郎さん?わたし珠江、今日、明和町の方へいらしゃったの?」

 坂本はソファーから起き上がる。

「珠江さん!」裏切られたような気持があるので、少し声高になる。

「私今まで、珠江さんに嘘を言った事はありませんよ」

「先ほどね、岸田のお兄さんから電話があったの。坂本さんが見えたが、留守して申し訳ないって、言っておいて欲しいって」

 坂本は珠江に不信感を抱いたが、嫌ってはいない。

「ごめんなさい。私、岸田のお兄さんに連絡しておけばよかったのに・・・」

「いいんですよ、別に気にしてませんから」

「太一郎さん、夕食は?」

坂本はまだだと答える。

「今から来れない?。話したい事もあるの、お願い来て}

 坂本は家を出る。時計を見ると、8時である。磯部珠江の家まで10分もかからない。

磯部邸の門をくぐる。磯部珠江は水色のネグリジェ姿で坂本を迎える。応接室に案内する。

「太一郎さん、ごめんなさい。私、わざと連絡しなかった訳じゃないのよ」

 珠江の大きな瞳が申し訳なさそうに坂本を見ている。白い頬が紅潮している。紅の唇が艶めかしく開いて、白い歯並びがこぼれている。

「もう済んだ事だから気にしてませんよ。それに別に用があって岸田さんの所に行ったわけではないので・・・」

 坂本は珠江を安心させる。

 珠江はにこやかな笑いを浮かべると、坂本をテーブルの席に着かせる。台所からビールと煮物の盛り付けを運んでくる。

 乾杯した後、

「岸田、お兄さんの家に行っていないみたいね」

 珠江は岸田洋を呼び捨てにしている。裏切られた顔つきになっている。

「私もそのように聞きました」坂本は岸田の兄嫁の話を報告する。ここ2週間、岸田は磯部邸にも、工事現場にも顔を見せていない。明和町の実家に帰ると、はっきり言っている。嘘をつくような性格ではない。

「岸田、大丈夫かしら」珠江の裏切られたような顔に不安が広がる。

「心配ないでしょう、彼は体力があるし・・・」

 言いながら、何をそんなに心配するのか、むしろ珠江の方が気になって仕方がない。

「そういえば・・・」尾行された事を思い出して、口に出かかる。

「何なの?」

「いや、別に、大したことない」


 珠江は急に押し黙ってしまう。うつむいたまま、顔を上げようともしない。

「珠江さん、どうしたんです。どこか気分でも悪いんですか」坂本は心配そうに尋ねる。

太一郎さん、お願い、今日は泊まっていって」珠江は顔を上げると、すがるような眼差しで坂本を見る。

――何か切羽詰まった問題でもあるみたいだ――

 坂本は頷いた。好いた女と一晩過ごせるとは、男冥利に尽きる。心の奥底では男としての功利的な考えが頭をもたげる。


 磯部作次郎が死んで、食事など珠江の世話になっている。泊っていけと何度も言われているが、坂本は遠慮していた。

 磯部が死んで間がないのに、未亡人を寝取ったと思われたくない。珠江にその気があったとしても、坂本は世間体を気にしている。

 珠江は仕事のパートナーとして、坂本を信頼している。

”いずれ結婚”したいとの欲求は坂本の胸の内にある。珠江の方にもあるだろうと察している。

問題は一刻も早く、磯部家の秘宝、ソロモンの財宝を捜し出す事だ。この問題に一応のケリをつけたい。その上で珠江に求婚しようと思っている。


 今――、珠江はすがるような眼で坂本を見ている。普段の珠江の表情ではない。何かに脅えている。それを聞き出そうとするが、珠江は頭を横に振るだけで答えない。

 坂本も無理に聞かない。

 ネグリジェ姿の容姿は艶めかしい。水色とはいえ、体の線が透けて見える。こんな姿で坂本を招き入れた事は一度もない。

「珠江さん・・・」坂本は酔いのまわった体で、思いきって珠江を抱きしめる。ボリュウムのある珠江の肉体が、坂本の胸の内に沈み込む。

 珠江の唇から熱い吐息が漏れる。肌の暖かさが伝わってくる。坂本は珠江の唇を吸う。珠江は眼を瞑り、全身を投げ出して、坂本のなすがままにしている。

 珠江は坂本から離れると眼を開ける。安堵したような表情が浮かぶ。白い頬が紅潮している。坂本の手を取ると奥の寝室へと導く。寝室のダブルベッドが艶めかしい。

 坂本の上着を脱がせる。男物のパジャマを着せる。恋女房のようにかいがいしい。坂本はされるがままになっている。

 ベッドに入り、明りが消える。

「怖いの、私を離さないで・・・」珠江は人が変わってように激しく坂本を求める。坂本は酔いで感覚がマヒしている。珠江の肉体を激しく求める。やがて2人は1つになる。


 坂本が深い眠りから覚めたのは翌朝だった。腕時計を見ると7時。周囲を見回す。磯部邸の寝室。昨夜の閨事を思い出す。満ち足りた気持ちで上半身を起こす。

「太一郎さん、起きた?」割烹着姿の珠江が顔を出す。

 晴れやかな顔で、洗面室で顔を洗えとか、歯ブラシは化粧台にあるとか、女房気取りで指図する。坂本の方が照れる。

 7時半、台所で朝食。味噌汁の匂いがかぐわしい。

 朝刊が応接室のテーブルの上に載っている。坂本はそれを手に取って、台所のテーブルにつこうとする。

「新聞は食事の後で見て頂戴!」珠江が顔をしかめて坂本を睨む。

「食事はお喋りをしながら、和やかに戴くものよ」言いながら、ご飯を坂本の前に置く。

「ねえ、太一廊さん、今日の予定は?」と聞く。

 今日は8時45分までに会社に出て、営業マンの行動日程をの報告を聞いたり、現場監督と工事の進捗状況を聞く。昼からは特に用はないと答える。

「昼からドライブしない?」

 珠江の表情は昨夜とはうって変わって明るい。

 坂本は応諾する。珠江の白い顔が紅潮している。大きな眼がうるんだように坂本を見ている。長い髪を後ろに束ねて、白いうなじが艶めかしい。

「ねえ、1つ聴いていい?」坂本は朝の和やかな雰囲気に水を差す気分に、気後れして言う。

「何?」珠江の表情はあくまでも明るい。

「昨夜ね、怖いって言ったでしょう。何があったの」

「別に、ただ、1人きりで切なく寂しかっただけ」

 珠江の表情は変わらない。

「ただね」珠江の顔が真面目になる。

「岸田のお兄さんから電話をもらってね、洋さんが実家に帰っていないと聞かされた時はショックだったわ」

 岸田洋は磯部珠江の忠実な部下だった。部下というよりも僕と言った方が適切かも知れない。珠江に対して隠しごとは一切ない。何をするにも、何処へ行くにも、必ず珠江に報告している。

 その岸田が珠江に嘘を言った。それだけでも珠江にはショックなのだ。それ以上に、ここしばらく消息のない岸田の身を案じている。何か悪い事件に関わっていなければと心配している。

「岸田君なら、大丈夫と思うよ」

 坂本は珠江を安心させる。彼は大柄な体で、柔道の有段者と聞いている。彼は彼なりに何か思案があって常滑を留守にしているのだろうと、珠江を慰める。

「そうだといいんだけど・・・」一瞬、珠江は柳眉をひそめる。

「そうね、心配したって仕方がないわね」

 明るい顔になる。


 昼過ぎ、坂本のクラウンは津島市内にある津島神社に向かっている。別にはっきりとした目的がある訳ではない。津島神社はスサノオの命を祀る神社として全国に名高い。

 ここは全国に3千余あるといわれる天王社の総本山だ。普通天王社と言えば京都祇園の八坂神社が有名だが、八坂神社は、平安時代初期、姫路市の広峰神社より勧請されている。広峯神社や、京都市中京区のなぎ神社に記録が残されている。”元祇園社”として親しまれている梛神社は、広峯から八坂へ還る途中に一時祀られた。いわば八坂神社の古址である。

 一方、津島神社の創始は、丁度仏教伝来の時代である。

”尾張名所図会”等の資料によると、朝鮮半島に祀られていた素戔嗚尊の御尊が七代孝霊天皇の時に、西海の対馬に移された。その後、欽明天皇の540年、更に尾張の対馬に奉遷された。そのため当時藤波里と呼ばれていたこの地は、改めて、対馬と称した。

 540年と言うと、538年に百済王が仏典等を献じ初めて正式に日本に仏教が伝わった2年後である。

”対馬誌”(対馬教育会編)の中に、欽明天皇13年、百済聖明王の特使が釈迦仏や仏典を持って来朝した時、対馬の現在の美津島町小船越の地に第一歩をしるした。そこで当時の人々がその記念の地に堂宇を建てたという。

 この事は津島神社が仏教色を帯びて建てられた社であったという事。しかも牛頭天王という名を持って、素戔嗚尊の御魂が勧請された。いわば尾張の津島は牛頭天王スサノオの発祥の地であったと考えられる。

 無論出雲にやってきたスサノオ一族よりも時代が下る。しかしこの場合は”生きたスサノオ”であり、牛頭天王としてのスサノオの影は薄かったと考えられる。

 一方朝鮮半島で信奉されていたスサノオは牛頭天王としてのスサノオの御霊である。それが百済より仏教と共に日本にもたらされたと考えるべきである。

 岡山県鴨方町に、奈良時代の学者、吉備真備が祀った真止戸山まつばさ神社がある。――牛頭天王宝印――の大字を記して祀ったのが創始とされる。真備が唐に渡ったのが717年である。こうした記録をみると、8世紀初頭にはすでに”牛頭天王”の名は全国に拡がっていたのは明らかだ。

 牛頭天王発祥の地、津島神社に正式に天王社の号が贈られたのは、一条天皇の正暦年中(990~994)の事である。

 一条天皇が天王社の号を贈られる2百年程前の弘仁元年(810)正月、嵯峨天皇は”素尊スサノオノミコトは即ち皇国の本主なり、故に日本の総社と崇め給いしなり”と称され、”日本総社”の号を奉られた。

 810年と言えば、すでに記紀が完成し、スサノオ一族は歴史の舞台から消されようとしていた頃である。

それにもかかわらず、嵯峨天皇は、新年にスサノオを”皇国の本主”と讃え、日本の総社と崇められたのだ。

 記紀では、皇国の本主とはアマテラス女王であり、日本の総社は伊勢神宮ではないか。

 しかし事実はスサノオが、当時の天皇にとって、彼らの上に君臨する格別な存在であった事を物語っている。この時期、記紀や伊勢神宮は全く無視されていたし、まともに取り扱われてはいなかったと推量される。


 坂本が磯部珠江とのドライブの場所に津島神社を選んだのは、これから調べなければならない伊勢神宮について当時の人々はどう扱っていたのか、興味があったからだ。


 西暦770年(宝亀元年)8月4日、称徳天皇の死去により、天武系の血筋が途絶える。践祚したのが、天智系の白壁王、光仁天皇である。その子の桓武天皇は、奈良の都を捨てて、長岡京を経て平安京(京都)へと遷都する。天武系の影響力を一切排除した。桓武の後を継いだ平城天皇は、都を奈良に戻そうと画策して失敗する。平城の後を継いだのが嵯峨天皇である。

 嵯峨天皇は藤原氏一族に対抗させる為に、この時期に生まれた源氏一族を優遇する。嵯峨天皇が位を淳和天皇に譲った後にも、上皇として、政界に睨みをきかせていた。嵯峨上皇死後、藤原良房の策謀により、権力は藤原氏の手に握られてしまう事になる。

 嵯峨天皇が目指したのは、天皇親政政治であった。その嵯峨が、810年に津島神社を日本の総社と崇め、スサノオを皇国の本主と号したのだ。

 天皇親政を目指すなら、アマテラス女王を皇国の本主として、伊勢神宮を日本の総社とすべきなのだ。

 現代の感覚からみれば常識の発想が非常識となっている。磯部作次郎は、その資料の中で、当時の社会情勢として、これが常識ではなかったのかと言っている。

 伊勢神宮が日本の総社、女王アマテラスが皇国の本主となるのは江戸時代の中期頃で、国家権力によって、明確に規定されたのは明治になってからである。

 それ以前は、皇国の本主はスサノオであり、日本の総社は津島神社だったのである。

 現在でも偉い歴史学者は、古事記や日本書記を、国撰の歴史書として取り扱う傾向がある。日本書紀にこう書いてあるから正しい。他の資料の方が誤りだという考え方である。

古事記

 神代から推古天皇に至るまでの古事を記録したもの。

天武天皇は、諸家に伝わる帝紀や旧辞が正しい史実に違い虚偽を加えてあるのが多いのをなげき、今これを正さなければ真正のの所伝はいくばくもなくして滅びてしまうであろうと憂い、ここに自ら帝紀、旧辞を検討し、虚偽を削り真実を求めて後世に流伝させようと決心し、稗田阿礼に命じてこれを誦み習わせた。

 しかるに天武天皇は世を去り、持統、文武朝となったが、この時期は律令制の完成、施行に忙しく、その初志を実現できなかった。文武の後を受けて即位した元明天皇が、711年(和銅4)9月18日、太万侶(安麻呂)に詔して、稗田阿礼の誦み習うところを筆録させた。翌年正月28日に奏上した。

 以上が古事記の序文である。

 ところで古事記はは中世以後原本は散逸している。江戸時代中期に、名古屋大須の真福寺から発見された、真福寺本古事記が元となっている。本居宣長の古事記伝は、これを底本としている。

 つまり――、嵯峨天皇の時代には古事記は存在しなかった可能性が高い。

 次に日本書紀

 720年(養老4)に成立。いわゆる大国史の第一。神代より持統天皇までを記している。

 成立当初、日本紀と呼ばれたが、平安初期の頃から日本書記と呼ばれたらしい。平安初期に成立した第二の国史を”続日本紀”と称したので、日本紀を強調するするために日本書紀と呼んだ。

 成立は、天武天皇10年(661)3月丙戌(17日)条に「天皇・・・詔川嶋皇子・忍壁おさかべ皇子(10人略)、令記定帝紀、及上古諸事」とみえ、天武天皇が川嶋皇子以下に命じて歴史書編纂事業を開始したとされる。

 編集総裁は天武天皇皇子舎人親王であり、成立は天武天皇の皇孫元正女帝の時代である。

 日本書記には天武天皇の主張が強く反映され、編纂当時の実力者藤原不比等の影響も否定できない。

――帝紀、旧辞はいうに及ばず、その他諸家の家記、政府の記録、個人の日記手記、寺院の縁起類、朝鮮側史料、中国史書など多方面にわたる資料を活用し、文書を整える為にも漢書、仏典を豊富に引用している。しかも異説を強いて統一せず、一書という形で併記併記したり、注として附記し、時には後人の勘校につ旨を記す。

これは、学問的には公平で客観的な態度とされる。国家の正史としては、体制の面では遺憾ない――

 これが、日本書紀を国史として第一級の資料とする所以である。

 当然ながら、これに異を唱える説もある。

――記紀の基になった書とは、記の序文にある帝紀、旧辞である。

 帝紀は天皇の名、宮居の所在、皇妃・皇子女・主な事蹟・墓所など皇位継承の次第を記したもの、旧辞は各氏族の伝承や祭祀、芸能に関する伝承を内容としたもので、その骨子は6世紀の継体・欽明朝の頃に成立したとみられる。以降、時と共に書き足されていったが、7世紀末には何種類かの帝紀、旧辞が流布していった。

 これらを取捨選択して記紀が作られた。この編纂にあたってはかなり明確な作為が働いている。これは重大な意味を持つ。

 その意図とは、この書により、7~8世紀に力をもっていた皇室が、現在も日本を支配していることの正当性を過去に遡って説明する事。いわば天皇縁起を造る目的があった。

 天武、持統朝の天皇家の力は大きく、国史編纂もそうした絶大な権力を得た自信と反省が背景にあった。

 過去、天皇家が天武朝のように絶大であった訳ではない。かっての豪族が、脆弱であった訳でもない。だが、そうした過去はすべて消去されたて、今の天皇家の高みから過去が語られていく。

 豪族はその成り立ちから天皇に順服し、天皇家は初めから国の主とされている。こうした筋書きは、およそ現実離れしており、首肯しがたい。

 編纂主体の都合の良い事は増幅さて捏造され、一方都合の悪い資料は改竄され消去される。日本書記は他にこれだけの規模を類書を見ない中では拠るべき書であるが、編纂物としては、多くの限界を持っている。

 ここで当然ながら1つの疑問が生じる。

記紀には、女王アマテラスを日本国の宗主としているのに、平安期になって、嵯峨天皇がスサノオこそが、日本国の宗主としている事だ。これは明らかに記紀の否定か無視以外の何物でもない。

 磯部作次郎は資料の中で、その理由として、天武天皇から始まり称徳天皇で終わった天武系王朝は、光仁、桓武、平城、嵯峨と続く天智系王朝とは別系だからと説明する。

 それにもう1つ、日本国の宗主がスサノオ、ニギハヤヒであった事は、平安期の人々には常識であった事、女王アマテラスから孫のニニギノミコトへの権力譲渡は、持統朝から孫の軽皇子、後の文武天皇への権力の譲渡の反映である。それが周知の事実である事は知れ渡っていたとみる。

 持統天皇は事あるごとに伊勢への行幸を強行する。

三輪君市麻呂は持統天皇の伊勢行きを諌めた人物である。

 大和の神を祀る三輪山を率先して祈るのが天皇の役目、当時の人々はそう信じていたのだ。平安期になっても、その事は常識として知れ渡っていた。

 事実、持統天皇以後、明治に至るまで、伊勢に行幸した天皇はいない。

 天智と天武、この2人の天皇は日本書記によれば天智を兄とし、天武を弟とすると記されている。それが嘘である事が、平安期においても周知の事実ではなかったか。


 津島神社は東名阪自動車道、弥冨インターを降りて2キロ程北に行った所にある。

 車中、坂本は磯部珠江に、津島神社をドライブの目的地に選んだ理由を述べる。これも磯部家の秘宝探しに結びついている。

「太一郎さんって、仕事から離れる事が出来ない人ね」

珠江は揶揄ともとれる眼差しを坂本に向ける。大きな瞳は決して坂本を見下している訳ではない。朱に染まった唇は親しみに溢れている。

「磯部家のお宝が判明したら、珠江さんにプロポーズしたい」坂本は意を決して告白する。

 珠江の白い歯がこぼれる。坂本の手をそっと握る。

「早く見つかるといいわね」

「急がば回れと言ってね・・・」

坂本はモーゼの時代から遡って調べているのは、結局その方が確実だからと答える。

「伊勢のどこかにあるって判っていても、やみくもに伊勢地方を訪ね歩いたところで、お宝を発見できるとは思えない」

 磯部珠江は黙って聞いている。

 坂本は珠江の反応を見ながら、津島神社が平安期にどのような扱いを受けていたかを述べる。


 ――昔、関東からやってきた旅人は、熱田神宮を素通りしても津島の牛頭天王にはお詣りしたという。

 東国の人々にしてみれば、草薙の剣というのは、東国征圧のシンボルのようなもので、自分達の国をやっつけに来た敵というイメージしかない。

 それに三種の神器といっても自分達の生活に関りがある訳ではない――


 車を駐車場に入れて、昔の賑わいを偲ばせる門前町を歩く。朱塗の楼門が正面に聳える。門をくぐると、これまた朱塗の社殿がひときわ鮮やかに圧倒してみえる。

 津島神社の現在の楼門や社殿は、豊臣秀吉らが寄進したものだ。この華麗な朱塗は、津島神社を氏神と仰いだ織田信長が宮殿を造営し、万事派手好みの信長らしく、本社、末社、神門、銅瓦に至るまで朱塗にして、人々を驚かせたのが始まりと言われる。

 津島神社にも祀られていた信長だが、彼のスサノオに寄せる崇敬は武将の中でも群を抜いていた。

 大阪府茨木市に、建速素戔嗚尊を祀る茨木神社がある。この社はもともとご祭神は天児屋根命だったが、戦国時代、信長の神社や寺の焼き討ちを逃れる為に、牛頭天王と称したとされる。後に本当にスサノオを祀って本社にしたとある。信長のスサノオ崇拝が有名であったのを示すエピソードである。


 坂本と磯部珠江は参拝を済ます。境内地を散策する。

珠江はベージュのジャケットを着こなしている。歳よりも若く見えるが、しっとりとした大人の雰囲気を漂わせている。坂本は紺のスーツを着込んでいる。端か見ると、夫婦連れの参拝客のように見える。

 門前町に戻ると、駐車場の近くの喫茶店でコーヒーを飲む。

「ねえ、太一郎さん?」

 磯部珠江は豊かな頬を坂本に向ける。白い肌がベージュのジャケットに溶け合っている。

「何でしょう」坂本は生真面目な顔を向ける。髪の毛が薄いので、珠江に後頭部を見られないように、直立不動の姿勢だ。それが余計に彼を生真面目に見せている。

 そんな坂本を、珠江はおかしそうに笑う。

「古事記と日本書記ですけどね・・・」

 珠江も真顔になる。彼女の質問は以下の通り。

 平安期になって、古事記や日本書記の評価が著しく低下したというが、このどちらも、天皇の権力を高揚するために編纂されたと思う。とするなら、評価を下げる必要はないではないか。

 坂本は度の強い眼鏡を外して、お手拭きでレンズを拭きながら聞いている。眼鏡をかけ直すと、にこりと笑う。

「簡単な事なんですよ」

「簡単?」珠江はけげんそうな顔をする。

「天智系と天武系とは別王朝だったという事ですよ」

「どういう事?」

 坂本はコーヒーを一飲みにすると、息をつく。

「日本書記によれば、天武天皇は、天智天皇の弟となってますけど、実は、天武の方が天智より年上だったと言われています」

「えっ!そうなの」

 珠江の驚いた顔を見つめながら、坂本は話を進める。

 日本書記では天武は天智の同父母弟とされていた。

 ところが書紀以外の文献”皇年代略記”や、”本朝後胤紹運録(室町時代に編纂された神代以来の皇室系図)”等では天武の方が兄となっている。

 一説によると天智天皇は斉明天皇の皇子とされている。天武も当然斉明の子であるが、2人は同母異父兄弟ではなかったのではないかというのである。天智は従来の天皇家、それに対して、天武は蘇我系の人間とする。

 この説を史実と解すると、不可解な事実が浮上する。

日本書記には天武天皇の生年が記されていない事、大海皇子時代の天武の活躍の書紀に記されていない。

 これは実に奇妙な事である。

 日本書記(完成した当時は日本紀と呼ばれていた)は天武天皇の発案により、天武ファミリーによって完成された史書である。日本書紀全30巻の内、28,29巻の2巻を費やして、天武ぼ事蹟が書いてある。つまり日本書記全体の一割弱が天武天皇の為に割いている。天武を顕彰するための史書であることは明らかである。

 にもかかわらず天武の年齢が不詳、若き日の活躍が不明とは一体どういう事なのか。天智天皇と同父母兄弟と日本書記では答えているのだ。たとえ一説にあるように同母異父兄弟だったとしても、仮にも皇室の皇子ではないか、年齢が判りません。若い頃何をしていたのかもわかりませんでは、現代では笑いものである。

 ここで1つはっきり言える事は、出自も生年も記録する事が出来なかったという事だ。つまりそれを言うと、天武天皇の正体がバレるという事に他ならない。正体がバレると困るのは当の天武自身だという事になる。

 戦後、天武、天智両帝の出身に関して、新説が出ている。

 この時代、朝鮮半島は百済、新羅、高句麗に分かれていた。新羅の英雄金春秋(後の太宗武烈王)は唐と組んで百済を攻めた。西暦660年百済は滅亡する。

 百済滅亡前後、その皇子余豊璋が日本にきていた。

 天智天皇は百済復興の為に朝鮮半島に大軍を贈る。

西暦663年、白村江の戦いで日本、百済連合軍は、唐、新羅連合軍に大敗し、全滅に等しい打撃を受けた。

 朝鮮半島が唐の支配下に入ると、次の唐の目標は日本である。天智天皇は北九州を中心として各地に朝鮮式山城=水城みずきを築く。国土防衛に有利なように、都を内陸の滋賀県に移す。

 疑問に思う事は何故国運を賭けてまで百済を助けねばならなかったかという事でである。

 当時朝鮮半島に日本府任那という国があったとされるが、史実は百済の加羅きゃらの国とされる。

 百済の加羅という国は当時の天皇家の内宮家=本家があったという説なのだ。つまり百済の王が日本にやってきて天皇家になった。百済が本家、日本の天皇は分家という訳だ。その本家が唐、新羅連合軍によって滅ぼされてしまった。難を逃れてやってきた百済の皇子余豊璋こそが後の天智天皇だというのだ。

 余談だが、日本書紀にある大化改新、中大兄皇子によって蘇我入鹿が殺された事件である。

 大化改新は史実ではなかったという考えが出ている。

この説によると、当時の天皇は蘇我氏であった。それを百済からやってきた余豊璋(天智天皇)が蘇我氏を滅ぼして日本の支配者になったというものだ。

 ここではこれ以上深入りしない。それが本意ではないからだ。

 では天智と兄弟と言われた天武はどうか。

 日本は白村江の敗戦で大きな打撃を受ける。天智天皇(百済皇子余豊璋)は唐の侵攻に脅え、各地に大規模な防備体制を敷いた。新しく築いた城だけでも大変な数にのぼる。その上首都まで移転している。莫大な費用が掛かった筈だ。昔は労役も税の内に入る。一家は働き手が徴兵に取られ、その上税が植える。天智天皇に対する怨嗟の声が世に満ち満ちている。

 白村江の戦いの後、今度は高句麗が唐・新羅の連合軍によって滅ぼされる。西暦668年の事。

 ここに至って今度は唐と新羅が対立関係になる。百済、高句麗が亡くなったため、朝鮮半島の覇権をめぐって、唐と新羅が死活の闘争に入ったという訳だ。

 唐は新羅を滅ぼすために、日本に同盟を求めてきた。つまり、昨日の敵は今日の友で、一緒になって新羅を滅ぼさないかという者だ。

 百済再興を諦めかけていた天智天皇は唐の提案に乗った。その事を知った新羅が、中大兄皇子が皇位に就く事を妨害する策に出た。

 668年、僧の道行が三種の神器の1つである草薙剣を盗んで新羅へ逃亡しようとして発覚する事件が起こった。

 この年、斉明天皇が亡くなり、中大兄皇子は天皇に即位する。

 671年11月、唐は郭務悰を将として2千人の軍団を日本に派遣してきた。この12月、天智天皇死亡。

 ここで問題なのが、唐の将の筈の郭務悰はこの年の7月に新羅に捕らえられたと新羅本紀見える事だ。つまり郭務悰は新羅の捕虜として、新羅の命令に従って、唐の使者と偽って日本にやってきた事になる。

 この郭務悰こそが天武天皇であるというのだ。事実天智天皇が親百済であるのに対して、天武天皇は新羅と同盟を結び、親新羅派である事はよく知られている。


天智と天武


  「つまり、天智と天武は赤の他人という訳?」

 磯部珠江は子供のように眼をキラキラさせて聞いている。

「面白いわ。推理小説みたい」

 コーヒーもすでに飲みつくしている。喫茶店に入って、1時間が過ぎている。

「まだ面白い話があるんだ。この後は車の中で」

 坂本太一郎は珠江を促して喫茶店を出る。

「天智を殺したのは天武さ、もっとも直接手を下した訳じゃないがね・・・」

「えっ、教科書では病気で死んだって習ったわ」

「殺されたなんて言えないのさ。そんなことをしたら、天武天皇が犯人だと言うようなもんだ」

 午後4時過ぎ、2人は白のクラウンに乗り込む。

このまま真っ直ぐに常滑に帰るには芸がなさすぎる。坂本は車を東山公園の方へ走らす。東山ガーデンホテルで夕食を摂り、名古屋市の夜景を楽しみながら、珠江と楽しく過ごそうと考えていた。

「ねえ、天智天皇は何故殺されるの?」

 珠江は興味があるらしい。しつこい程質問してくる。

「先ほどの続きだけどね」

坂本はハンドルをさばきながら話をする。


 新羅と対立関係にあった唐は、日本に同盟を求めてくる。唐の侵攻におののく天智天皇はは渡りに舟とばかりにこの話に乗る。

 新羅はいずれ唐は日本を味方に付けるであろうと読んでいた。だから唐の使者として日本に派遣しようとした郭務悰一行を捕らえ、新羅の軍隊2千人を、唐の軍隊に変装させて送り込む。

 郭務悰は唐に、日本は同盟の意志がないという使者を送り込む。その上で天智天皇の暗殺を謀る。

 堀河天皇の1094年(嘉保1)頃以降に完成したと言われる”扶桑略記”によると、”天智は山科に狩りに行って、行方不明になった”とある。

 天智天皇について、日本書記は埋葬年月日が記載されていない。その”陵”の所在が書かれていない。正史である筈の日本書記に、墓の所在が書かれていないは、天智天皇ただ1人である。天智は暗殺され、その遺体が行方不明だからである。それでは天智暗殺が書紀に何故記載されていないのか、それは犯人である天武が消したからである。

 扶桑略記は、天智が死んで4百年後に描かれている。

天智が天武によって殺されたらしいというのは、当時の人々も薄々知っていた。それだけではない。天武が天皇となり、日本の権力者となるに及んで、天智系の皇族は影日向へと追いやられる。

 天智系の天皇が復活するのは、天武系の最後の天皇称徳の死後である。

光仁天皇が位を継ぎ、桓武天皇が京都に都を遷す。嵯峨天皇の時に、天皇家の力は安定する。その前後から六国史と言われる国史が編纂される。編纂目的は天武系の歴史書、古事記や日本書記の否定である事は明白だ。

――成立当初、日本紀と呼ばれていたが、平安初期の頃から日本書記と呼ばれたらしい。平安初期に成立した第2の国史を”続日本紀”と称したので、日本紀を強調するために日本書記と呼んだ――

「この説はね、現代の歴史学者の多くが支持していると言われてね・・・」

 白のクラウンが東山ガーデンホテルに到着しようとしている。5時位に着くと予約してある。

「この説、よくみると、おかしいのよね」坂本の口調はくだけている。珠江とはもう”他人”ではない。事実上夫婦だという思いがある。

「え?どうして」珠江は訝しそうに坂本を見る。

「磯部の意見だけどね」坂本が磯部の名前を口にする。珠江は一瞬、顔をしかめる。がすぐにも大きな眼を坂本に向ける。

 続日本紀は日本書紀の続きとして編纂されたものではないというものだ。この説の言うように日本書紀の続きとして編纂されたものならば、日本紀のままの方が、続日本紀の意味がはっきりする。

「つまりね・・・」坂本は一旦言葉を切る。

 平安初期に天智系の天皇によって日本紀が作られたのではないのか。それが不幸にして失われてしまった。この時代に出来た日本紀と区別するために、天武系の日本紀を日本書紀と改名してしまった。

「つまりね、日本紀と言えば、日本の正式な歴史書だが、日本書記というと、正式な歴史書ではありませんよ、という意味がこめられているって事なんだ」

――書とは漢字の持つ造形的な要素と密接な関係がある。中国では古くから六芸(礼・楽・射・御・書・数)の1つに数えられ、宮史や知識の教養科目であった。書は文字を表記する手段としてだけではなく、筆者の芸術的創作物として鑑賞の対象とするものである。従って実用的な文書(国史など)は書とは言わないのである。

 要点を言えば、日本書紀は歴史的なものの創作であって正式な国史ではないと言っているのだ。

 京都に泉湧寺という寺がある。別名”御寺”という。

明治以前は仏教を信仰していた天皇家が、事実上菩提寺としていた寺である。

 言うまでもなく菩提寺は先祖代々の霊を祀る所だ。ところが驚くべき事に、この寺には天武以後称徳女帝までの8代7人(称徳は孝謙として2度即位している)の天皇の位牌がない。

 位牌がないという事は祀られていないという事で、この7人の天皇は無縁仏なのだ。

 泉湧寺の発行しているパンフレットの中に、ー平安京の第一代桓武天皇、その父光仁天皇、その直系の御祖天智天皇、この3天皇が霊明殿に奉祀の特に古い方で、歴代天皇が奉祀されているー

 さらに驚くべきことに、天武系の天皇は日本古来の神式の祭祀からも除外されている。

 平安期になって、歴代の天皇陵に対する奉幣の儀が天武系の天皇に対しては全く行われていない。

 延暦4年(785)と6年に、桓武天皇は河内国の交野(大阪府交野市)で郊祀を行っている。

 郊祀とは古代中国の王朝で皇帝が天を祀る祭祀で、その時皇天上帝(天帝)に配祀したのが父の光仁天皇であった。皇統が天武系から天智系に替わった事を意識していたのである。

 桓武天皇の即位の宣命は、

――かけまくも畏き現神と座す倭根子天皇が皇(光仁天皇)、この天日嗣ぎ高座之業をかけまくも畏き近江大津の宮に御宇しめしし天皇(天智天皇)の初たまひ定めたまへる法のまにまに賜わりて仕奉れ、と仰せ賜う――

 要点は天皇(光仁)が、天智天皇の定めた法に従って皇位を賜わり仕之奉れと命じたというのだ。


 クラウンを東山ガーデンホテルの駐車場に入れる。予約してあるので、すぐにもテーブルに案内される。食事の前にワインが運ばれる。薄明るい雰囲気の中で、軽音楽が流れる。珠江の艶やかな姿が一層引き立って見える。

 坂本は満足そうに珠江と乾杯する。

「ねえ、先程の話だけど、、、」珠江は眼を輝かせている。

 坂本は恋を語り合うムードに水を差すような珠江の発言に、不粋かなと思ったが、珠江のたっての願いに、話を続ける。


 天智、天武の時代は、日本は激動の時代だった。

 日本国の支配権を掌握した天武王朝は持統天皇の頃にその最盛期を迎える。

伊勢の内宮が国家神道として高揚したしたのはこの頃である。

 石族=磯部一族が、伊勢を離れて常滑に移住するのもこの頃であったと磯部作次郎は考えた。

 嵯峨天皇の津島神社への宣明にもあるように、持統帝による伊勢への行幸、九州日向の始祖卑弥呼をアマテラスとして宣言した事は、当然ながら世間の反発を招いたのである。平安朝から明治に至るまで天皇は伊勢に行幸していない。

 伊勢のアマテラス女王は、持統天皇の創った神宮として、半ば無視されていたのだ。

 持統天皇が何故伊勢にこだわったのか、奈良には三輪山もある。その近辺で女王アマテラスを祀っても良かったのではないか。その方が、税や労役を負う民の負担は軽かった筈なのだ。

 磯部作次郎はその目的をはっきりという。

――ソロモンの財宝を手に入れる為――


 坂本は熱っぽく珠江に語り掛ける。珠江は熱い視線を坂本に向ける。1日も早く磯部家の秘宝を見つけ出して・・・。珠江は囁くように言う。


                  伊勢神宮


 平成9年6月中旬、磯部珠江と津島神社に行って2日目の事、岸田洋の行方は杳として不明。三重県警に捜索願いが出してるものの、情報はない。

 岸田は磯部土建にはなくてはならない人材だが、幸いというか、4月からの消費税アップ後、受注量が落ち込んでいる。もう1人の現場監督だけで、何とかやりくりしている。

 とはいうものの、彼の安否を気遣う気持ちは日増しに強くなっていく。珠江や、岸田の家族、三重の明和町の彼の実兄の焦燥も深くなるばかり。

 坂本太一郎の会社も、不況にさらされて、暇な時間が生じている。坂本はこの不況は、消費税アップ前の駆け込み需要の反動と見ている。これが戦後最大の大不況になろうとは思ってもみなかった。楽観的な気持ちで事態の推移を見守っていた。

・・・ちょうどいい、余った時間で、磯部作次郎の資料に目を通すか・・・

 坂本太一郎は、磯部家で過ごす時間が多くなっている。

自然、磯部珠江との夫婦のような生活を送る事になる。坂本は度の強い眼鏡をかけ、薄くなった髪の毛を気にしている。この年56歳になる。

 経営者としては若手であるが、寄る年波には勝てない。体のあちらこちらの故障が出始めている。珠江と一緒に朝のジョギングをしたり、体調の回復につとめたりしている。


 岸田洋もいない。吉岡刑事もこのところご無沙汰である。磯部作次郎の資料をまとめると、聞き手は専ら珠江のみ。彼女の関心ごとは一刻も早く磯部家の秘宝を見つける事だ。2百兆円という、途方もないお宝が見つかったとしても、全てが自分の物になる訳ではない。埋蔵物は法律上土地の所有者と折半と聞いている。半分でも百兆円。天文学的な数字である事に変わりない。


 伊勢には2つの神宮がある。外宮と内宮。

 江戸時代まで外宮が優位を誇っていた。明治になると、国家権力の力で、内宮優位が決定付けられる。その傾向は大戦後、国家の庇護を失っても代わってはいない。戦前は、古事記、日本書紀を正史として、その内容に疑問をさしはさむ事は許されなかった。

 内宮の主祭神、アマテラス女神は、日本最大の大神として君臨している。戦後60年を過ぎた今でも、内宮のアマテラスは女神として信じられている。もっとも、アマテラス=男神という考えは古代からあった。日本書紀によるアマテラス女神説はつくられたものだという説は根強く時代の底流に脈打っている。


 天照大神の称号を持つ神社は現在でも十数社ある。昔はもっと多かったと思われる。

 天照御親神社(釜石市唐丹町)祭神=天照大御神

 天照御親神社(岩手県大船渡市盛町) 祭神=天照大神

 鏡作坐天照御親神社(奈良県磯城郡田原本町) 祭神=天照国照彦火明命

 天照神社(福岡県鞍手郡宮田町) 祭神=天照国照彦火明櫛玉饒速日尊

 伊勢天照御親神社(久留米市) 祭神=天火明命

 新星座御魂神社(茨木市宿久庄・同福井) 祭神=天照御魂神)


 釜石市、大船渡市の天照御祖神社の祭神は、現在アマテラスを指している可能性が強いが、釜石市の社は、もともと坂上田村麻呂が戦勝祈願に建てたと言われており、勇ましいイメージが強い。当初は久留米市の伊勢天照御親神社のように、天火明命と考えられる。

 アマテラス、この尊号は本来は、天照国照彦(天)火明櫛玉饒速日尊という長い名前をもつ人物だった。

 この人物を祀る社は”天照”を社名にした神社以外にも沢山ある。フルネームで祀ってある所は、むしろ少ない。一番多いのが”天火明命””饒速日命”である。

 伊勢内宮の女王アマテラス以前に、天照大神の栄光を担った人物こそ、スサノオの子、ニギハヤヒだったのである。

 ニギハヤヒはまたの名をオオトシ(大歳、大年)といい、父スサノオと共に、日本国誕生に偉大な功績を残している。

 文字通り、ニギハヤヒは皇祖であり、大和朝廷の開祖だった。その偉大さを示す様に、彼には”倭大物主櫛甕魂神””日本大国魂大神”別雷神”などいくつかの神名を持っている。

 三輪山はニギハヤヒの御陵である。だからこそ、祖霊が眠る山として、長い間、人々は崇敬と祈りを捧げてきた。初代神武天皇は、ニギハヤヒの末娘ミトシ(御歳、御年)の所へ日向から養子に来た。いわばニギハヤヒの義子である。


 古事記、日本書紀はこの事実を抹殺している。

 天照大神=女王アマテラスの構図を描こうと腐心しているが、成功しているとは言えない。

 その理由として、日本書記は、天照大神を、当初、オオヒルメノムチノミコトという名で登場させている。

ムチは”巫女”を表す文字である。オオヒルメノムチとは本来太陽神を祀る巫女である事が判明している。

 大日、貴尊(天照大神)は大日巫女尊となり、日巫女ひめみこ=卑弥呼となる。

よって、卑弥呼を天照大神に神格化しようとする意図は明らかである。

次に――、

 日本書記は、神代内段に、以下のような記述がある。それは、高天原でスサノオが暴れまわっている時の事で、

――天照大神のみざかり神衣かむみえを織りつつ、斎服殿いみはたどのに居ますをみて――

と天照大神が神衣を織っていた、とある。この神衣を織る行為こそ、太陽神や男性神を祭る典型的な巫女の行為だったのだ。

 機織の巫女には、水辺で貴い人(神)を待つという共通点があって、日本書紀、その他の神話には、この様な話が出てくる。

 出雲国譲りののち、天照大神の孫二二ギは、九州日向に降臨する。その後薩摩半島に行幸した時の事、海辺の大きな神殿に上で機を織る少女を見つける。

 これが大山祇オオヤマツミ神の娘たちだったが、機織の巫女は、水辺で尊い人を待ち、現れると、禊を勧める、という行動をとる。

 古事記の出雲国譲りの直前の記事にも、出雲神下照姫の、以下のような歌がある。

 天なるや、弟棚機おとたなばたの、項がせる、玉の御統みすまる、御統に、穴玉はや、み谷、二渡らす 阿治志貴高 日子根の神ぞ

 大意――天のうら若き機織女がかけている首飾りの玉穴玉よ、ああ、谷を2つに渡って照かれる雷神、アジシキタヒコネぞ――

 折口信夫は、このたなばたのたなが水中に張り出している”たな”で、つまり下照姫はまさに水辺で機織りをして尊い人を待つ巫女であると説いている。

 日本書記、第16代仁徳天皇の40年春12日の条に、仁徳天皇の妹の雌鳥めんどり皇女の許で機を織る乙女らの詠った詩


 ひさかたの 天金機 雌鳥が 織る機 隼別の 御襲料みおすひがね

(大意、空を飛ぶ雌鳥が織る金織は、隼別の負うの御襲料です)

 この歌の中で雌鳥王女が鳥になぞらえているのは、鳥が魂を運ぶという古代の鳥霊信仰の表れで、巫女は鳥と深いつながりを持つ。天の羽衣を着た天女が空を飛べるのも、機織(羽衣伝承)と巫女と鳥の密接な関係があるからだ。

 それでは何故機を織るのは巫女なのか、何故巫女と機織りが強くつながっているのか。

 その理由として、

”大嘗祭”によれば、中国の周の時代、官営の桑畑が都の北部に営まれ、后妃や女官は養蚕をし、その糸で斎服をつくって、天子はこの服をもって宗廟を祭った。

 中国の易、陰陽思想によれば、公営の桑園は北部に営まれ、蚕室は川の畔に置かれている。北も川も5行の水気に配置され、火の陽(男性)に対して、水は陰で女を象徴している。

 結論として、機を織る巫女が陰で象徴される祀を行っている事、これは”陽”の男性神、太陽神を祭るための行動であって、皇祖神、天照大神は太陽神ではないという事なのだ。


 平成9年6月は、世の中の景気が落ち込んでいる割には、真夏のような暑さが続いている。

 磯部邸の広縁はクーラーが効いていて、さっぱりとしている。幅2間ある広縁の外は、飛び石伝いに、石灯籠や庭石などが配置されている。庭園の手入れも行き届いている。

 広縁のテーブルに、磯部作次郎が残した資料を置きながら、坂本太一郎は、天照大神の本来の姿は、スサノオの子、日本最初の統治者であるニギハヤヒだと力説している。

 磯部珠江は、眼を細めながら、坂本の真面目な顔を眺めている。

 朝の10時過ぎ、珠江はお茶を入れ替えたり、茶菓子をテーブルに運んだりしている。

 坂本の話はいよいよ伊勢神宮へと入る。伊勢が終われば、常滑の地へと入る。最後に伊勢の地に眠ると言われる磯部家の秘宝=ソロモンの財宝に到着する筈である。

 坂本はコツコツと、地道な努力で築き上げていくタイプだ。珠江は辛抱強く、坂本に付き合うしかないと考えている。

 それはそれとして、天照大神が男だと聞かされても驚きはしない。昔から神宮内で天照大神は男だと、秘かに語り継がれている。それを口にする事は禁句とされている。何故なのか、誰も詮索しない。言われた事を言われた通りに、守り伝える事、それが神宮関係者の責務なのだ。

 磯部珠江は伊勢で生まれ、伊勢で育っている。名門乾家の血筋を引く者として、内宮、外宮にも顔が効く。神宮内の事については知悉していると自負している。

 伊勢神宮最大のイベントは20年に1度、内、外宮の御正殿を始めとする諸殿の立て替えを行う、式年遷宮である。問題なのは、その時に天照大神に奉納される御装束が男物という事だ。

 何故男物か、神宮関係者は誰も異を唱えない。


 磯部珠江は亡夫作次郎の資料の中に、天照大神=ニギハヤヒとあるのは知っていた。ただそれが何故かは資料の中には無かった。その理由を坂本太一郎は調べ上げている。この男は風采は上がらないが、一歩一歩確実にものにしていく。

――急がば回れ、急いては事を仕損じる。このことわざは坂本のためある様なものだ。

 因みに、伊勢神宮は、内宮と外宮とに分かれる。同じ神宮でありながら、昔からお互い仲が悪い。外宮は内宮よりも格が上であると主張する。

 曰く、外宮の祭神豊受大神は、以下の諸神と異名同神である。天の御中主神、国常立尊、御僎都神、大元神はいずれも豊受大神の別名で、大元神以外は古典の神と説く。

 天の御中主神と国常立尊は記紀の初めに出る神である。

 この神を大元神と同一視している。

 大元とはおおもと、始原の意。

 外宮の神はまず初めに生まれた神なのだ。よって内宮より格式が上というのである。

 ヤクザのケンカではないが、内宮と外宮は事あるごとに争っている。小腸年(1429)、内宮に放火があり、宮城内を血でもって穢す事件さえ起こっている。

 明治になって、国家権力の威光により、内宮優位が確立され、現在に至る。

 坂本太一郎の説を聞くまでもなく、内宮と外宮は別系統の神宮である事ぐらいは珠江も承知している。

 神殿の型を見れば、その神社は何系統か判ると言われている。神社は神殿は神社形態の結果であって、その本質ではない事を知っている。

 神社は本来は2つの形態しかない。形態という形容が不自然ならば本質よ言い換えても良い。

 日向系――女王アマテラス系と、出雲系――スサノオ系である。その違いは桁を組む位置と梁の関係にある。前者は千木の切り方が水平、樫魚木が10本。後者の千木は垂直、樫魚木は9本。

 その他には、内宮を陰とし、外宮を陽とする陰陽思想で構成されている事だろうか。

 陰陽思想はともかくとして、千木と樫魚木を見れば、日向系か出雲系かが一目瞭然である。全国に無数にある神社形態はこの2つに分けられる。主祭神とこの形態は一体になっている。例外はない。

 明治以降、内宮優位が確立されたが、神宮関係者内では、外宮優位を疑う者はいない。

 外宮は伊勢の町の中に鎮座し、外宮はその外に置かれている。神社の発展形態を見れば判るように、神社はまず、村や国の住民から離れずつかずの場所に設置されている。

 無論例外もある。高野山や比叡山延暦寺、熊野大社などだ。これらの神社仏閣に共通するのは、修行の場であるという事だ。


磯部珠江は、小さい頃、父や祖父から聞いた伊勢神宮の事を思いめぐらしながら、坂本太一郎の度の強い眼鏡を見る。磯部家の秘宝の捜索をこの男に託すしかない。

 亡夫の無二の親友だ。自分に好意を抱いている。経営的手腕もある。磯部家の再興、というよりも、珠江は伊勢の名門、乾家の再興を胸に秘めている。

――坂本と一緒になり、何とかして子をもうけたい――

 珠江は坂本に熱い視線を向ける。

 1つ気がかりなのは、岸田洋の行方が不明である事だ。

磯部作次郎の兄、作太郎の息子が無惨な死を遂げている。磯部家のお宝を狙っている者がいる。それもテロリストのように、目的の為には手段を選ばぬ残酷な行動をとる。

 数日前、坂本太一郎が、自分の生まれ故郷の近くにある、みちのく教団へ行った帰り、不審な車に尾行されたという。気味が悪いが、今は一刻の早く磯部家の秘宝を捜し出すしかない。


 「珠江さん!」坂本の声で、はっとして我に還る。

「どうかしましたか?ぼんやりして・・・」、坂本が心配そうに珠江の顔を覗き込む。

「岸田さんの事、心配でしょうね」坂本の同情の眼が珠江の顔色をうかがっている。

「話してもいいですか」坂本の問いに、珠江は頷く。


 「伊勢神宮は内宮と外宮は別系統です。今は内宮についてのみ話します」

 坂本は一呼吸置く。

「何故伊勢なのかという問題があります」

「えっ?」珠江は解しかねて、思わず聞き返す。

 坂本は怪訝そうな珠江を見て、微笑する。

 伊勢の内宮は天皇家の総宗廟と言われる。それならば何故、奈良の都から遠く離れた伊勢の地に鎮座したのか。残念ながら、その答えは得られていない。

 一説によると、崇神天皇は、大殿の内に祀っていた天照大神と倭大国神の2柱の神を、宮廷の外に出して祀る事にする。

”神の勢いを畏れて、共に住みたまふに安からず”というのが理由だった。

 天照大神は豊鋤入姫命にけて、倭の笠縫邑に祀る。

 次の垂仁天皇は、天照大神を豊鋤入姫命から離して、倭比売命に託ける。倭比売命は天照大神の鎮座の地を求めて、菟田の篠幡、近江国、美濃国をめぐり、伊勢国に来た時――是の神国の伊勢国は、常世の浪の重浪帰しきなみよする国なり。傍国の可怜し国なり。是の国に居らむとおもふ――と神託する。

 意異説には、内宮の鎮座地は、三方を神路山、島路山の緑なす峰々にかこまれ、一方は常に澄み切った清らかな五十鈴川が流れている。清浄、正直を重視する伊勢神道の原理からみて、この地が最適として鎮座した。

 内宮の鎮座理由として、大体以上の2つに分類される。

しかし、残念ながら、これらの説には説得力がない。

 各地を転々として、伊勢の国に来たというが強いてい言えば、関西国際空港がある泉佐野市か和歌山市あたりの方が、都にも近く、交通の便も良かった筈である。

 伊勢が清浄な地だからというが、それだけの理由なら、高野山か、比叡山延暦寺あたりでもよかった筈だ。両山とも都に近く、清浄な地である事は万人が認める所である。

 内宮は何故伊勢なのかは、内宮の性格にある。性格というのは当を得ていないかも知れない。具体的に言えば内宮が天皇家にどれ程重要視されていたかと言い換えても良い。

 7世紀後半、律令制が国家体制になる。令制では、中国の祀令に学んで独自の神祇令を設け、伊勢神宮の年間最大の祭りである神宮祭への勅使の奉幣(例幣)が規定される。古代の神祇制度の下で、伊勢の内宮は国家神として最高の地位に置かれる。

 伊勢神宮に対しては、私幣が禁じられ、天皇の公的な奉幣と、天皇の許可を得た三后・皇太子の奉幣以外は許されなかった。天皇と直結したこの国家神は、祭祀を司る祭司王・天皇の宗教的権威の根源となっていく。


 672年に生じた壬申の乱の祭、大海人皇子(天武天皇)は吉野を脱出。伊勢・鈴鹿を経て、今の四日市に出て、不破の関に入る。

 その途中の事、書紀によると”あしたに、朝明郡の迹太川の辺にして、天照大神を望拝たよせにおがみみたもう”と伊勢神宮を遥拝して、戦勝を祈願する。その結果、大海人皇子方は勝利を得た。

やがて天武天皇の宿願が果たされる。夫、天武天皇の遺志を受け継いで、持統天皇2年(688)に、20年に一度の式年遷宮の制度が定められる。持統4年に内宮の第1回の遷宮、同6年には外宮の第1回の遷宮が行われて今日見るような殿舎が完備される。

 持統天皇は度々伊勢に行幸している。

 書紀によると、持統6年(692)2月11日、持統天皇は諸宮に3月3日に伊勢へ行幸する事を告げ、これに備えて諸々の衣服を準備するよう命じている。

 同年2月19日、罪の軽い罪人を赦免する。

 同日、三輪朝臣高木麻呂が、天皇の伊勢行幸が、農事の妨げになることを直言し、諌める。

 罪人の赦免と、新しい衣服を整えさせる事実から、持統天皇は伊勢神宮で国家的慶事を行おうとしていた事が窺われる。

 天皇の伊勢行きを諌めた、三輪君高木麻呂は、壬申の乱の時、天皇側につき、箸陵はしはか付近で近江軍を破っている。天武13年(684)に朝臣姓になる。朱鳥元年(686)9月、天武天皇のもがり宮にて、理官の事を奏している。当然天武朝にとって重要な人物だった。

 彼は伊勢行幸を何度も諫言した事により辞職している。

大宝2年(702)長門守に起用されるまで無官であった。


 三輪君高木麻呂は三輪山の神を祀る物部一族である。

三輪山は大物主を祀り、水霊にかかわる雷神をも祀る山である。雷神は”稲妻、稲光”と共に雨をもたらし、稲の生育や農業に欠かせない神である。

 三輪山を祀る一族の三輪君高木麻呂が官位を投げ打ってまでの直言が”農繁期であるから”としているのが理解できるのである。

 日本霊異記に農繁期であるから、今行幸する事は農民が迷惑を被るとして、、持統天皇を諌めたこの事件の記述が見える。その後に続けて、

――或遭旱災之時、便塞止己田之水、施百姓田、施水既窮、諸天感応、竜神降雨、潟唯卿田、下落余地――

 以上のような三輪朝臣高木麻呂の逸話を補足している。

 つまり、持統天皇が伊勢に行こうとしていた時期、大和は日照りによる水枯れとなり、農民が困窮していたのである。

 日照りで苦しむ大和の民を置いて、この時期、伊勢に祝い事を行いに行こうとするのは、大和の国とその民を治める天皇として絶対に許されない行動だった。

 当時、大和の神を祀る三輪山を率先して祈るのが、天皇の役目だった。持統天皇のこの行動は、大和の神を完全に無視した事になる。

 結論を言えば、持統天皇は、王朝成立以来、大和の正統な神として存在した、三輪山の大物主(ニギハヤヒを否定して、これに代わる新しい神(女王アマテラス)を誕生させるための儀式を行おうとしていたのである。

 持統天皇は伊勢に行くために通過する国の国造らに官位を授けたり、調役を免じたり、全国に大祓いを施したり、志摩国の農民に稲を与えたりしてまで、伊勢神宮で国家的慶事を強行している。

 農繁期の時期、日照りで苦しむ農民を見捨てていくのは、三輪山の神を見捨てる事を意味していた。

 天武、持統と続く王朝の時期、伊勢の内宮は国家的神宮として、その権威が高揚したと思われている。

 しかし、現実はこれと反する事態が起こっていた。

その1つとして、持統天皇以後、明治に至るまで、歴代の天皇は誰1人として、伊勢に行幸していない事。

 2つ目、律令制が弛緩し解体に向かう平安中期には、国家神としての伊勢神宮の地位も揺らぎ始めている。

 仏法の守護八幡大菩薩を祀る石清水八幡宮が、伊勢神宮と並ぶ二所宗廟として朝廷の尊崇を受ける様になる。伊勢神宮の地位は低下していく。

 この事実は、伊勢神宮が国家神から民衆の神へと、神宮の変質を促すことになる。

 3つ目、書紀の記述によると、天武8年5月5日、天武天皇は吉野宮に行幸。翌6日に皇后および草壁皇子、大津皇子、高市皇子、忍壁皇子たちに対して、次のように述べている。

「それぞれ異母としているが、皆同様に思われ愛しい。1000年の後まで継承の争いを起こす事のないように盟約しよう」

 これに対して、諸皇子達は助け合って争わない事を誓い、天武天皇は盟の言葉を述べ、皇后も同じように盟を誓ったとしている。

 これが”吉野の会盟”と呼ばれるもので、この席に、後の持統天皇も同席している。持統天皇まで呼んで詔する理由は、彼女が息子の草壁を擁立するのに躍起になっていたからである。

 その持統の執念に不安を抱いていた天武が、それを制するために吉野の会盟を持ったと思われる。

 余談だが、朱鳥元年(686)9月9日、天武の死を待っていたかのように、吉野の会盟は破られる。

 この1ヵ月足らずの10月2日に、大津皇子は謀反の容疑で捕らえられる。驚くべきことに、翌日の10月3日に殺される。これを仕掛けたのは持統であり、よって持統が真っ先に吉野の会盟を破った事になる。

 問題なのは、何故吉野なのかという事である。

 天武天皇は、天皇家が末永く安泰であるようにとの祈りを込めて盟を誓わせている。それなら何故伊勢神宮にしなかったのかという疑問が残る。

 伊勢は大和から遠く離れているからという声が聴こえてきそうであるが、当時の天武天皇の実力をもってすれば不可能ではない。昔から盟約を誓う時は神殿の前で、というのが常識なのだ。この場合の神とは、当然三輪山の大物主として信じられていたニギハヤヒ=天照大神である。

 本来、大和朝廷は天皇家と物部の結びつきから生まれている。実際、持統の即位式の時、物部麻呂朝臣(石上朝臣麻呂)なる人物が、即位式の重要な行事に奉仕している。これは天皇即位に物部氏が深く関わりあっている証左だある。

 ところが持統天皇は、即位式の時、不可解な行動をする。

 書紀に、即位式の場面の中で”羅列つらないて、おまねく拝みたてまつりて、”手拍つ”とある。

 本来、神社で手を打つのは、そこに祀られる神に対してである。それから考えれば、この時手を打ち拝まねばならないのは、天照大神=ニギハヤヒに対してであった筈。

 それが持統に対して”拝みたてまつり、手拍つ”ことをさせている。持統は自らを天照大神になぞらえているといっても過言ではない。

 吉野の会盟は天武の意が強く働いているとは言え、そこに同席した持統の気持ちも反映されていたと考えるのが普通である。

 持統天皇の胸中には、物部氏=ニギハヤヒ否定の気持ちがあった事は想像に難くない。とするなら、会盟の場をどうして伊勢でやらなかったのか、疑問が生じてくる。

 吉野とはどういう土地なのか。

 古代、吉野は神仙境だった。吉野の地を象徴するのは”産む”という事であり、その吉野の地に力をもたらしているのが丹生の神=丹生都比売である。

 吉野の大地から水銀が産出され、この水銀から不老長寿の秘薬が創り出されると信じていた。吉野山が金属の神を祀り、金の御岳とも呼ばれている。

 吉野の水は禊の水として信仰されている。これも神聖な水で体を洗い清める事で罪や穢れを祓い、生まれ変わると信じられていた。

 つまり、吉野は、不老長寿・再生の力を与える聖地だった。

 天武天皇が会盟の場に吉野を選んだのも、以上の理由による。彼の心には、物部氏=ニギハヤヒの否定の芽生えが見られる。本来ならば三輪山で会盟の誓いをすべきところを、意識的に吉野を選んだと思われる。

 ニギハヤヒ=天照大神を明確に否定した持統天皇も、何度となく吉野に行幸している。

 物部氏の衰退と持統の新たな神話=天照大神(女王アマテラス)創造が一致している。

 女王アマテラスが天皇家の皇祖神となる。その直系の子供が地上を支配する。吉野の持つ再生の力で、持統天皇は、自らを神として生まれ変わろうとしたのである。

 これら持統天皇の行為には、建前としては伊勢の内宮を天皇家の総宗廟として重要視するが、本音としては吉野の神を崇拝するという形をとる事になる。

 4つ目。

 天平神2年(766)、道鏡をを法王とした称徳天皇は、ついに道鏡に皇位を譲る事を決意する。

 神護景雲3年(769)、宇佐八幡宮より、道鏡を皇位に就ければ天下泰平となることの神託が伝えられる。この為、称徳天皇は確認のために和気清麻呂を派遣。清麻呂は”皇嗣(天皇の後継者)には必ず皇族を立てよ”との神託を持ち帰る。この故に、称徳天皇より罪を得て流罪となる。

 ここで言いたいのは、称徳天皇が道鏡に皇位を譲ろうとした事ではない。その神託を求めたのが、宇佐八幡宮だという事だ。神託を得るのに、何故九州豊前の宇佐八幡宮なのか。伊勢神宮に、天照大神が祀られているのではないか。神託を求めるなら、どうして伊勢神宮にしないのか。

 称徳天皇は聖武天皇の子供である。天武系最後の天皇で、持統天皇の血を引いている。当然ながら伊勢神宮への尊崇も深い筈だ。

 天皇の位を、事もあろうに、臣下に譲ろうと言うのだ。この重大事の神託を、何故伊勢神宮の」天照大神に求めなかったのか。

 理由は簡単だ。宇佐八幡宮は、もともと宇佐神宮と呼ばれている。天皇家の本来の氏神なのである。この社には女王アマテラスの本当の姿の大日孌貴(大ヒルメ)が鎮座しているからだ。大日孌貴こそ、天皇家の先祖神なのだ。だから称徳天皇は皇位継承問題について、先祖神の神託を求めたのである。

 伊勢の内宮に鎮座する女王アマテラスは、宇佐八幡宮からの分け御魂なのだ。俗な言い方をすると、宇佐が本店なら伊勢は支店という関係になる。それが当時の常識だった。


                    聖なる線


 喋ることに熱中していた坂本は、珠江の声にはっとして我に還る。

「ねえ、太一郎さん、もうお昼よ」珠江は微笑を浮かべて坂本を見ている。

「あっ、もう昼?」坂本は眼鏡をたくし上げる。

「太一郎さんの話、面白いので、このまま拝聴しようかと思ってたの、でも昼だから、声をかけてごめんなさいね」珠江は言い訳をする。

「いや、いいよ。ただ結論をいうとね、伊勢の内宮は、世間が信じている程、重要視されていなかったと言いたい」

伊勢神宮が国家神となるのは明治になってからである。

 これだけ言うと、坂本は会社に電話を入れる。

事務の女の子が電話口に出る。今日1日の用事を指示する。売り上げが激減して、3月までに契約した工事をこなしている。秋口頃にはそれらも完成してお客に引き渡しとなる。その後の事を考慮して、増改築の受注に、営業マンを走らせている。銀行からの借り入れの利息の返済日も迫っている。資金くぐりに頭を悩ませている。事務員に細かい指示を与えて、電話を切る。会社から用事がある時は坂本の携帯電話が鳴る。

 次に、磯部土建の事務所に電話を入れる。磯部土建は常滑市白山町にある御嶽神社の奥にある。宏大な敷地に土砂が山済みにされている。その一角にプレハブの事務所がある。事務は岸田の奥さんが勤めている。

 坂本は岸田の安否を気遣った後、工事現場の進捗状況を尋ねる。坂本は工事には一切携わってはいないが、資金のやりくりは、磯部珠江の代理として関係している。

 電話を切ると「昼食は外でしましょうか」珠江に提案する。

 珠江と外で会食する機会が多くなっている。

「半田でね、うまいものを食わせる店があるんです」

 坂本は笑いながら、誘いをかける。

「うれしいわ」珠江は料理を作ることが好きだが、たまには手抜きも良いかと考える。

 坂本は磯部作次郎の資料を手にして、立ち上がる。


 半田市住吉町に、こじんまりとした料亭がある。

”あじさい”と言う名の料亭だ。裁判所や税務署、法務局、県出張所といった官庁の建物が立ち並ぶ繁華街の目抜き通りにある。一歩奥に入っているので、目立たない店だが、食通の間では評判の店である。

 予約制のため、磯部邸を出る特に、電話で予約を入れておく。常滑から車で約20分。

 ”あじさい”は店の周囲が珊瑚樹で囲まれている。小さいながら、苔むした庭がある。建物は明治時代の民家をそのまま利用している。客は上がり框で履物を脱ぐ。磨き抜かれた板の間に座布団を敷いて、腰を降ろして舌づつみを打つ事になる。

 料理が運ばれてくるまで、10分ばかり間がある。

外は夏のような暑さだが、室内は適度にクーラーが効いている。坂本は半袖シャツ、珠江はライムグリーンのワンピースにスカート、その上にジャケットを着ている。髪は短く、首筋でカールしている。36歳という歳の割には若々しい肌をしている。白い項がジャケットの色とマッチして、際立っている。

 坂本は珠江を見ている。

「あら、私の顔に何かついている?」珠江はいたずらっぽい顔で問いかける。

「いえ、あなたが色っぽいもんで・・・」

坂本のはにかむ表情に「あら、嬉しいわ」珠江は喜びを隠そうとはしない。

 しばらくして

「ねえ、太一郎さん、1つ聴いてもいい?」珠江は伺うような表情で坂本を見る。

 「伊勢の内宮ね、私が教えられたのとは随分違うのね」

 感想を述べた後、何故そんなに詳しく調べる必要があるのかと尋ねる。彼女の胸の内には、内宮が古代において、それほど重要視されていなかったのなら、そんなに調べる必要はないではないか。そんな暇があるなら、1日も早く、磯部家のお宝について調べた方が良いのではないか。そんな思いがくすぶっている。

「珠江さんの気持ちはよく判りますけど・・・」

 坂本はテーブルの上のお茶をごくりと飲み込む。

「内宮が磯部家の秘宝の隠し場所に関連があるのじゃないかと考えているんですよ」

「えっ!それって、磯部の説?」死んだ夫を作次郎と呼ばず、磯部と呼び捨てにする。

「いえ、これは私の考え、何となく、そう思えてきて」

 だからこそ、内宮について出来るだけ詳しく調べたいのだと答える。


 料理がテーブルに運ばれてくる。別に急ぐ食事ではない。ジュースをコップに注ぎながら、まず乾杯といく。一品ごとに料理を味わいながら、内宮は、建前としては天皇家の神社として崇拝されていた。だが実質はそれ程重要視されていなかった。何故だろうと、前々から気になっていた。

「その最大の理由はね、伊勢の地に建立しなければならないという必然性がないんですよね」

「えっ?どういう事」

 珠江は驚いて聞き返す。コップ一杯のジュースをぐっとあおる。彼女の白い頬がほんのりと色づいている。

 坂本の面白い所は、予期しない発想をする事だ。既成概念にとらわれない見方をする。彼は自分は素人だからと謙遜するが、珠江は坂本の発想の方法に、彼なら磯部家の秘宝を捜し出してくれるかもと、秘かに期待している。

 彼女は白い頬を紅潮させる。大きな眼を見開いて、固唾をのんで坂本の口元を見詰める。

「外宮と、奈良をね、直線で結ぶと、延長線上に出雲大社がくるんですよ」坂本は微笑して言う。」 

 途端に、珠江の大きな眼が、緊張が解けたように細くなる。ほっと息をついて、テーブルに目を落としている。その表情には、明らかに落胆の色が見える。

「馬鹿馬鹿しいですか?」坂本は珠江の表情を読み取る。彼女は鼻白んだ笑い顔を見せる。

「そんな風には思わないけど、そんなの偶然じゃない?」

 坂本は珠江の答えを予期していた。驚いた様子を見せない。ジュースをぐっとあおると、資料を取り出して説明する。

「神島を御存じですね」

 珠江は頷く。坂本の口調は静かだが、有無を言わさない力強だがある。

 昭和55年、水谷慶一氏によって”知られざる古代”という本が出版される。

 その中で神島を起源として、北緯34度32分の線上を辿ると、そこには古代の遺跡が並ぶことを発見している。

 主要なものを拾ってみると、

 神島――斎宮跡――丹生寺――室生寺――長谷寺――三輪山――箸墓――大鳥神社――淡路島に入り伊勢久留麻神社、石上神社を通過する。それらの遺跡は太陽信仰を特徴としているため、水谷氏は太陽の道と名付けられた。いわば聖なる線だ。

 坂本の説明を聞いている内に、珠江の眼が輝きだす。膝を乗り出している。

「面白いわ」

 坂本は得てしたりという顔になる。

「大和三山を御存じ?」坂本は眼を細めて言う。

「知ってるわよ。天の香具山、耳成山、畝傍山ね」

「この三つの山を線で結ぶと、2等辺3角形になるって事も知ってますね」

 珠江は頷く。

「山や神社、古墳などを線で結ぶと、実に沢山の3角形が出来上がるんです」

「本当?」

 今度ばかりは、さすがの彼女も鼻白んだ表情にはならない。真剣な面持ちで坂本の説明を聞いている。

 三輪山を頂点として、神武天皇陵、鏡作神社を結ぶと見事な正三角形になる。次に三輪山を頂点として、耳成山と天の香具山の中間点を通ると、畝傍山に突き当たる。それをなおもこえると忌部山に至る。耳成山、天の香具山を底辺として、忌部山を頂点とすると、きれいな2等辺三角形になる。それは三輪山を頂点として、耳成山、天の香具山を底辺とした2等辺三角形と同じ大きさになる。

 また、畝傍山と忌部山を底辺として、益田岩船を頂点とすると、これまた2等辺三角形が出来る。この益田岩船を頂点として、川原寺跡と斉明天皇陵を底辺にすると2等辺三になる。

 益田岩船と石宝殿を底辺とすると、益田岩船を直角とする頂点に、大鳥神社、太郎坊宮がピタリと収まる。

 また、伊賀の敢国神社(一の宮)を直角として、太郎坊宮との間を底辺とすると、石宝殿が頂点となる。同じ様な事が、牧野車塚古墳、仁徳陵、孝徳陵でも起こる。

 このような現象は大和地方だけに限らない。青森県、津軽半島にも存在する。東経140度20分にある竜飛岬を起点として、モヤ山、洗磯崎神社、三吉山、亀ヶ岡遺跡、石神遺跡、ストーンサークル、大石神社、岩木山神社、モリ山、大石神社等が、ズラリと並ぶ。

 それだけではない。大湯ストーンサークルを中心として、東西南北に線を引くと、その上に古代の遺跡や、神社が載っている事も判っている。

 飛騨地方にもある。日輪神社を中心として、16等分すると、古代遺跡がその線上に浮かび上がってくる。

 広島県、ここには数多くの霊山がある。

 鬼叫山(ここには拝殿跡がある)、葦嶽山、鷹志風呂山、翁山と、一直線上に並ぶ。その他、四天蓋山、槲屋呂山、大山を結ぶと、形の良い2等辺三角形に夏。それだけではない。同じく槲屋呂山、大山、須小山を結ぶと、先程の三山と等対称の三角形になる。

 近い所では愛知県にもある。

 名古屋市守山区の北東最先端、瀬戸市との境界に、東谷山がある。この山頂には、尾張一ノ宮とされる尾張戸神社がある。祭神が天火明命ニギハヤヒ

この山を中心にして、東西に三国山、稲荷神社、曽野稲荷神社(大国神社)、金神社、神明社、雨宮神社などがきれいに並ぶ。それだけではない。夏至線の方向に、八剣社、神明山、中社、八幡神社、白山神社、間黒などが鎮座している。

 もう一度、大和地方に戻る。

 昔から知られているのが、ひじりの道というのがある。

その道線上に、仁徳天皇陵、仲哀天皇陵、墓山古墳、応神天皇陵などが軒を連ねている。

「これらを調べるのが、目的ではないので、これくらいにしときますが・・・」

 坂本は、大きな眼をキラキラ輝かせている珠江を見つめる。その表情には驚きを通り越して、もう声がでないといった様子がうかがえる。そんな珠江を坂本は美しいと思った。

「厳密に調べればもっとあると思います」

 青森にあるくらいだから、当然出雲地方や九州にもある筈なのだ。

 どういう理由で、1つ線上に神社や霊山、神山と言われる山を配置したのか、それは今だに謎のままである。

「さっき、太陽の道といいましたね。神島の次に斎宮跡が乗っかかると・・・」

 坂本の言葉に、珠江は我に還ったように、「えっ?そうね」思わず意味もなく答える。

「珠江さんなら、知っていると思うんですけどね・・・」

 坂本は以下のように続ける。

 三輪山の麓にあった内宮は、各地を転々として、最後に伊勢の地に辿りつく。その最初の場所が斎宮跡地だと言われている。

 珠江は坂本の話に何度も頷きながら聞き入っている。

伊勢神宮の関係者なら、この事実を知っている。遠い昔、内宮は、今よりも規模が小さく、斎宮跡地に鎮座していた。それがいつの頃かは不明だが、現在の内宮の地に移っている。

「伊勢の内宮は、鎮座した当初、太陽の道を知っていたと考えるのが妥当じゃないでしょうか」

「つまり・・・」珠江は口ごもりながら、質問する。

「最初は、あるべきところに、神を祀ったと・・・」

 坂本は頷く。

「ここに,良い山があるから、神様を祀ろうや、なんて考えるのは現代人の感覚です」

 古代の神社や霊山は、明確な設計図に従って配置されている。

 ところが斎宮跡地にあった内宮は、忽然と現在の地に移っている。その理由は謎である。

 坂本は三重県明和町に行った時、斎宮の地が、内宮から随分離れているのに不審に思ったものだ。

 ここにあった内宮が現在の地に移される。聖地だったその地に斎宮を建立する。斎宮は天皇の女で、内宮の天照大神に奉仕するために派遣される巫女なのである。

「珠江さん、内宮が現在地に移された理由を、何か聞いていませんか」

 坂本は磯部珠江が伊勢神宮について知悉していると信じている。しかし珠江は知らないとかぶりをふる。

「磯部作次郎の名前ばかり出して申し訳ないけれど」

 坂本は弁解しながら、

「内宮を現在の地に移した時の権力者は、磯部家の秘宝について、知っていたのではないかと考えられるんです」

 そう推測してこそ内宮の謎が見えてくるのだ。


 目の前に並べられた料理は、あらかた片付いている。

 昼食時だが、客は坂本達を入れて3組しかいない。ここは古風な室内で、落ち着いて食事が出来る。

 デザートとお茶が運ばれる。

「内宮がどのような経緯を経て、現在地に鎮座したのか、それを調べる事も、磯部家の秘宝を解く材料になると思っています」

「要は急がば回れって事ね」珠江は坂本の性格を承知している。

「ところで、珠江さん、内宮と外宮を結んだ直線状に、京都があるってこと、知ってますか」

 坂本は、いたずらっぽく、ニヤリと笑う。

「えっ?それって本当?」

「本当ですよ。もっとも、それを意識して、遷都したのかどうかは知りませんが・・・」


                 伊勢神宮


 昼の1時半に”あじさい”を出る。昼間なので2人とも酒は飲んでいない。専らジュースで喉を潤している。車の運転は珠江に代わる。

 知多半島を一周しようという事になる。武豊を通り、大井港、師崎を廻り、内海で休憩を取る。有料道路の知多中央道路を駆って、東海市で降りる。太田川駅付近で舌づつみを楽しみながら、帰路につくという予定である。

 坂本太一郎は助手席で、資料を整理している。彼は磯部珠江に惚れているが、2人だけの時間が出来ても、愛の甘い囁きを伝えようとする性格ではない。

 精一杯、磯部家の秘宝の在り処を捜すために努力する。それが、珠江への愛の証と信じている。真面目で武骨者なのだ。珠江も坂本の性格を知り抜いている。一歩一歩、着実に目的に近づく。それが坂本太一郎の取り柄なのだ。

 車はまだ半田の中心部を走っている。ここ近年、半田と武豊は幹線道路で結ばれている。道路沿いに大型店舗が陸続と軒を連ねている。それに反して、常滑はいつまでたっても田舎町である。半田、武豊は近代的な市街地に変貌しようととしている。

 常滑は、今飛行場問題が浮上している。市はそれに便乗しようとしている。町の活性化という自助努力を怠っている。だから、常滑市内は活気のない街になっている。それは大型店舗の売り上げからでも推理できる。

 ユニー常滑店は、知多半島の中のユニー店の中で最低の売り上げであり、店舗を閉じるという噂さえある。近年に出来たカーマホームセンターも慢性的な赤字続きで、ユニーと同じく店舗を撤廃するという声がきかれる。

 常滑の人間はどちらかと言えば悪い意味での保守的な気風を持っている。良い意味では地味ではあるが、悪く言えば、しみったれで、冒険を好まない。


 磯部珠江は常滑に移り住んで、亡夫の磯部作次郎のような人間は、常滑人としては例外的な存在であると感じている。むしろ、坂本太一郎のような者こそ、根っからの常滑人ではないかと考えている。

「伊勢の内宮について、話しますが、珠江さん、よろしいですか」

 坂本の度の強い眼鏡が珠江の方を向いている。坂本の話に気を取られて、運転がおろそかになりはしないかとの配慮なのだ。

珠江はにこりと笑う。

「大丈夫よ。話して」


 神社名鑑によると、

 皇大神宮(内宮)は、日本の祖神として、歴代の天皇の側近くに祀られていたが、10代崇神天皇の時代に、はじめて皇居から出、皇女豊鋤入姫命の御杖代みつえしろとして、大和の笠縫邑かさぬいのむらに祀られ、さらに大宮地を求めて、丹波、大和、紀伊、吉備などの各地を巡った。ついで垂仁天皇の時代、皇女倭姫命が代わって大御神に仕え、各地を巡行したのち、垂仁天皇26年9月、伊勢の五十鈴川上の現在の地に鎮座したと伝えられる。

 古来、各天皇の代ごとに、未婚の皇女を御杖代として派遣した。これを斎宮と称し、その制度は後醍醐天皇の時代まで続いた。神宮の造営は国家によって営まれ、20年ごとに建て替える式年遷宮の制度は天武天皇の時に定められ、次の持統天皇4年(内宮)、6年(外宮)の式年遷宮造替が初めてとされる。中世一時途絶えたが、その後復旧、昭和48年の式年遷宮の造替で60回を数える。なお神宮への天皇の行幸が始まったのは明治以来の事である。


 ここで注意すべき点として、内宮の創紀時期は、雄略朝から奈良時代までの幅があるにしても、正史の記す11代垂仁天皇の時代よりは、ずっと後世という事実。

 それにもう1つ、伊勢遷幸伝は、伊勢と大和を結び付ける為に後から作られた伝説である事。

 つまり一般的には、内宮が伊勢にあるのは、伊勢が大和からほぼ真東にあたる太陽信仰の聖地である事.東

国経営の起点となる海上交通の要地、以上の理由からである。

 先の神社名鑑を、日本書紀崇神天皇6年条に求める。

――是より先に、天照大神、倭大国魂の2神を、天皇の大殿の内に並べ祭る。然して其の神の勢を畏れて、共に住みたまうに安からず。そこで、天照大神をもって豊鋤入姫に託けまつりて、倭の笠縫邑に祭る。よりて磯堅城の神籬を立つ。また、日本大国魂神を以ては、淳名城入姫、髪落ち体痩みて祭ること能わず――

 さらに垂仁天皇25年条に

 ――3月に、天照大神を豊鋤入姫命より離ちまつりて、倭姫命に託けたまう。ここに倭姫命、大神を鎮め坐さむ処を求めて、兎田の篠播はきはたに詣る。更に還りて近江国に入り、東の美濃国を廻りて、伊勢国に至る。時に天照大神、倭姫に誨えて曰く、

「この神風の伊勢国は、常世の浪の重浪の帰する国なり。傍国のうまし国なり。この国におらむとおもう」とのたまう。そこで、大神の教えのままに、その祠を伊勢の国にたてたまう。よりて斎宮を五十鈴川の川上に興つ。これを磯宮という。即ち天照大神の始めて天より降りますところなり――

 この日本書紀の中で述べられている日本大国魂とは、言うまでもなくスサノオの子、ニギハヤヒである。

 この記事に出てくる天照大神も、ニギハヤヒの尊号である。日本書紀のこの記述から、ニギハヤヒを2神に分けて祀った事を証明している。

 日本大国魂のニギハヤヒは、崇神天皇7年の条にも記され、大任を託されたヌナキイリ姫が、髪が抜け落ち痩せ衰えて祀ることが出来なくなった。そこで市磯の邑に創建した事が記されている。それが天理市新泉町の大和神社の起源である。

 余談だが大和神社には、摂社に猿田彦を祀る”増御子神社”がある。

 崇神天皇7年には、ニギハヤヒを祀る社がもう1社建っている。天理市布留町の石上いそのかみ神宮である。古くから”神宮”号を称していて、格別の由緒がうかがわれる石上神宮であるが、この時期、皇位継承の神器として宮中にあった大和朝廷最高の宝”十種神宝”もまた石上神宮に移されている。

 十種神宝は、石上神宮の社記に、

――創祀、神武天皇即位元年、宮中に奉祀せらる――とある。

 崇神天皇7年には、ニギハヤヒを祀る社が、大神神社、大和神社、石上神宮と3社も建てられている。それもその3社は三輪山を中心としたごく近い範囲でひしめいている。

 一方の天照大神の方は、崇神天皇6年の条に、

――そこで、天照大神をもっては、豊鋤入姫に託けまつりて、倭の笠縫邑に祭る。よりて磯堅城の神籬立つ――とあった後の消息は記されず、垂仁天皇の時代25年条に、トヨスキイリ姫から倭姫へ役目が代わって、倭姫が諸国巡幸の末に伊勢の五十鈴川上の地に祀った事が記されるのみ。

 トヨスキイリ姫がヒモロギを立てた笠縫邑は、現在、大神神社の摂社となっている檜原神社地である。

 トヨスキイリ姫の足跡を追ってみる。

 籠神社(京都府宮津市大垣天の橋立)

 皇大神社(和歌山県毛見)

 伊勢部柿本神社(和歌山県海南市)

 穴門山神社(岡山県川上郡川上町)

 伊勢神社(岡山市番町)

 その他に伊勢の外宮の神官が鎌倉時代に記した”神道五部書”によると、トヨスキイリ姫は、倭笠縫邑から、丹波の吉佐宮へ、再び倭国伊豆加志本宮に遷り、その後、倭姫に代わっている。

 宮津市の籠神社と大江町の皇大神社は、どちらもトヨスキイリ姫が丹波の吉佐宮に遷幸したさいの吉佐宮址との言い伝えがある。同時に両社ともトヨウケ(豊受大神)のゆかりの地と伝えられている。

 籠神社の方は、アマテラスが大和から移る前にすでに今の奥宮の地真名井原に豊受大神が鎮座していたと伝えられてる。

 この豊受大神は、雄略天皇の時代に至るまで当地に鎮座され、同天皇の22年に伊勢国度会郡の山田原に遷座されたと社記が伝える。

 皇大神社の方も、同じ大江町に豊受大神社があり、、創建は崇神天皇の時代、アマテラスが当地へ遷幸の折に創祀したと言い、伊勢の外宮は当社に起源を有すると伝えられている。

 これらの伝承から見て、トヨスキイリ姫は、トヨウケの勢力、つまりニギハヤヒの末裔、海部氏が祭主とする地方を頼って、遷幸している。

 吉備地方の穴門山神社、伊勢神社も同様である。

 穴門山神社だが、延喜式内の古社で倉稲魂うかのみたまの神を祀る。崇神天皇54年、皇女豊鋤入姫命、神勅の随に紀伊国奈久佐浜宮より当吉備国名方浜宮に遷幸、

 天照大神を第1座に、倉稲魂神と共に奉祀し、足仲彦命、穴門武姫命の2神を相殿に奉祀した(神社名鑑)とある。

 倉稲魂神とはトヨウケの神命とされている。従って穴門山神社に祀られていたのはトヨウケで、その後アマテラスが祀られている。

 アマテラスは尾張にも来ている。尾張地方は古代より海部一族の勢力範囲にある土地柄である。

 こうしてみると、アマテラスが遷幸した土地には海部一族が祀るトヨウケ大神の鎮座地である事が判る。

 ここで断っておかねばならない事は、アマテラスは、天照日照・・・と尊称されたニギハヤヒ大王の事である。日向のヒミコ女王としての天照大神が唱えられたのは持統天皇の時代であるが、当時、それ以後も、常識として、天照大神=ニギハヤヒ大王として誰もが認めていたのである。

 天照大神=女王ヒミコとして位置図けられたのは、明治になってからである。


 磯部珠江の運転する白のクラウンは、武豊の町に入り富貴の町に入ろうとしていた。

「えっ!本当?」

 珠江が唐突な声を出す。びっくりしたのは太一郎の方だ。思わず珠江を見る。

 彼女のふくよかな横顔はうっすらと赤みがかっている。豊かな頬と筋の通った鼻梁が美しい。大きな眼が太一郎と合う。

「えっ!何?」思わず太一郎が聞き返す。

「だって、天照大神は昔から女神だと聞かされてきたわ」

 坂本の顔に失望の色が浮かび。

 天照大神=男神であることは今まで、磯部作次郎の資料で立証してきた。珠江も当然判っている筈だと思っていた。

 太一郎は薄くなった頭髪を手で撫ぜる。度の強い眼鏡を外して、眼をこする。資料に見入ったままなので眼が充血している。

 太一郎は過去に話した内容を簡単に説明する。古事記、日本書紀が歴史的事実として取り上げられたのは江戸時代の中期からだ。江戸末期、尊王攘夷が盛んになり、王政復古の中、明治維新となる。

 古事記、日本書紀は教育の場にも取り上げられる。国民生活の隅々まで、その思想が浸透していく。戦前の教育を受けた人は判っている筈だ。

 珠江は判ったとばかりに頷く。

 太一郎は一息つく。これから説明する事は、磯部作次郎の推論だと断る。作次郎を抜きにして、磯部家の秘宝を語ることは出来ない。珠江も充分に承知している。

 問題なのは、アマテラスを祀るのに宮中から出すのは判るが、何故こうも、あちらこちらと転々としなければならなかったのか。この疑問に答える歴史書は、残念ながら、一冊も世に出ていない。出版されている書物をみると、推論の域を出ていない。

 資料を注意深く漁ってみると2つの共通点が見られる。アマテラスが転々とした場所は、海部氏の勢力範囲の土地である。

 2つ目はそこに祭られているのは、海部氏の主祭神トヨウケ大神の地である事。

 この2つから推論される事は、崇神天皇の時代、ニギハヤヒの2つの御魂を宮中から出して、三輪山周辺の地に改めて祀る事にしたという事実。

 一方の日本大国魂としてのニギハヤヒは、すんなりと祀られた。もう1つのアマテラスとしてのニギハヤヒは鎮座する場所が転々とする事になった。

 ここで崇神天皇とは何者かという疑問が生ずる。

津田左右吉博士の意見を参考にしてみる。彼は古事記、日本書紀の仲哀天皇以前の部分は伝説にすぎないと考えている。応神天皇以降の箇所は、史実を踏まえて作られてはいるが、それでも創作された話が多いとしている。

 彼の説を受け継いだ林屋友次郎は、応神王朝をもってはじめて日本に王朝が成立してと考えた。

この際、彼は歴代の天皇の漢風の諡号のなかに”神”の字を帯びる人物が3人いる事に注目している。

 神武、崇神、応神である。

 応神は皇祖神の応身の意味を持つ名をおくられた実在の人物である。ところが他の2人は仏教の仏身観によって創作された人物とみなした。

 大和朝廷が日本書紀等の歴史を創る段になって、応神天皇の事業を、神武、崇神と振り分けたと考えたのだ。

 大和のあちらこちらの豪族を従えた最初の天皇を神武とし、大物主神を祀り、各地に将軍を送って朝廷の領地を拡げた天皇を崇神としたのだ。

 もっとも古い形の神武天皇の呼び名は”イワレヒコ”崇神天皇は”ミマキイリヒコ”応神天皇は”ホムタワケ”。

 しかし、3人の天皇に共通するのは神という名のみだ、この説は思い付き程度だけのように考えられていた。戦後の皇国史観に対する批判が高まる中で、この様な考え方が続々と発表される事になる。

 10代崇神天皇は率川宮から”磯城の瑞籬みずかき宮に遷都する。彼は大物主大神=日本大国魂、アマテラス大神を盛大に祀る事で、大和地方のニギハヤヒ系の豪族の協力を得る。勢力拡大に朝廷の威を高らしめている。

 崇神天皇は何故、アマテラスを三輪山の近辺に祀らなかったのか。

 この疑問に対して、磯部作次郎の推論は、磯部家の秘宝、ソロモンの財宝を狙っていたからだとする。

 神武、崇神、応神は1人の天皇の投影であって、実在しなかってとしても、アマテラスの鎮座地を求めて転々とした事実は否定出来ない。彼は領土の拡張を目指したが、絶対的な専制君主ではなかった。大和地方の豪族の協力を得てその頂点に君臨していただけであった。これらの豪族を凌ぐ程の財力を渇望していたのだった。

 ソロモンの財宝が四国の剣山から、何処かへ移された事は、崇神天皇も情報として得ていた。その運搬役が海部氏である事も。

 彼はトヨスキイリ姫をアマテラスの御杖代として、まず倭の笠縫邑に赴かせる。

 御杖代というと、現代人は数人の伴を連れた、巫女としての皇女が、アマテラスのの御魂を胸に抱いて、歩く姿を想像するかもしれない。

 古代、天皇が君臨する大和地方は、現代のような都市であったわけではない。部落に毛が生えた様な邑が点在していたと思われる。邑から邑に移行するのに、現代のよな道路が完備されていた訳でもない。点在する部落以外は野や山である。豪族や朝廷の支配に属さぬ山の民や後世に名を残すような山賊の類が跋扈する状態だった。

 当然ながらトヨスキイリ姫に従うのは、数百人から千人程の屈強な軍人であったと思われる。トヨスキイリ姫の身の回りを世話する女性もいたであろう。アマテラスの御魂を運ぶ輿も運ばれていたであろ。彼らは一団となって、笠縫邑に乗り込んだ。

 仮宮を建ててアマテラスを祀る。崇神天皇の命を受けた軍人らが居を定めると、ソロモンの財宝についての情報収集に駆け回る。笠縫邑にないと見極めてから、次の候補地に向かう。

 財宝探しは崇神天皇の代では終わらなかった。天皇が亡くなった時、御杖代としての巫女は次の天皇の皇女が選ばれる。これは代々の習わしで、別に新しい習慣ではない。

 次の垂仁天皇の時代、トヨスキイリ姫から倭姫に代わっている。表向きは、アマテラス大御神鎮座地を求める事であったので、各地を転々としても誰も異を唱える事など出来ない。

 トヨスキイリ姫が丹波、紀伊、吉備を巡ったのに対して倭姫は大和から東の伊賀、美濃、伊勢地方を巡る事になる。巡った地は20以上になる。実に大変な巡幸である。ここでいちいち述べる事はしないが、岐阜県羽島市から愛知県一宮市まで倭姫の足跡を辿ることが出来る。注目すべきは、三重県多気郡明和町斎宮にある竹神社が最終地になっている事だ。

――延喜式内の小社、垂仁天皇の時、多気連の祖、宇加乃日子およびその子吉志比古が皇大神の遷幸に供奉して、この地にとどまり、孝徳天皇の時、その子孫が多気郡の郡領に任じられた。これによって末裔は多気連とも称され、その祖神を竹神社として奉祀した。(神社名鑑)――

 倭姫ほ内宮と外宮を結ぶ5キロ程の御幸通りの中程にある倉田山の倭姫宮に眠っているとされている。ところが、倭姫を祀る神社は,大正12年に創建されるまで無かった。


 伊勢の地は古来より磯部一族の本拠地である。

 度会郡大宮町に皇大神社の別宮として知られる清原宮がある。

 大宮町史や神社名鑑によると、

――崇神天皇60年国狭槌命の神霊が滝原の地の西南にあたる十曲ゲ獄に降臨。天照大神の神霊を奉じた倭姫は、秋志野の宮で霊夢に感じたので、宇多大采禰奈命を遣わして祝祭せしめた。その時村人も神託を奉じ、降臨の事を知り大采禰奈命の来ることを見て喜び、ともに祭祀に列した。垂仁天皇25年天照大神の神霊をこの地に鎮座の際、国狭槌命を奉迎祭祀した――

 この資料の中で、倭姫が霊夢に感じたという”秋志野の宮”とは、巡幸の一番目にあたる奈良の大宇陀町の阿紀神社のことで、倭姫が派遣した、”大采禰奈命”の名も阿紀神社の地名を指している。

 次に十曲ゲ嶽に降臨した”国狭槌命”とはニギハヤヒの別称である。国狭槌命は多くの場合、”国常立命、国狭槌命、豊雲野命”と3神セットで祀られている。

 国常立命は”妙見”とも”アメノミナカヌシ”とも言われ、太一神=ニギハヤヒの事である。3神は異名同神なのである。

 明治4年に岩滝神社と称した清原宮の記録は、その地の西南の十曲ヶ嶽に住民たちがニギハヤヒを祀るというのを聞いて、秋志野の宮にいた倭姫がは宇多の大采禰奈を派遣したというのだ。

 注意したいのは、この記録の後半部分、”垂仁天皇25年天照大神の神霊をこの地に鎮座の際、国狭槌命を奉迎祭祀した”という箇所だ。

 この地とは滝原宮の地の事だ。ここはすでに国狭槌命が降臨しているのだから、今更奉迎祭祀とは妙な話だ。この箇所は清原宮にアマテラスが鎮座した時に、十曲ヶ嶽にすでに降臨していた国狭槌命を迎え、共に祭祀したと解すべきだ。

「倭姫命世記」などによると、倭姫が北勢から南勢に移り、宮川を遡って宮所を求め三瀬谷まで来た時、土地の神である真奈胡が、これを迎えて滝原宮所を教えた。そこで倭姫は供の宇多禰奈に荒草を刈り掃はせ、宮殿を造立させた。これが本宮と並宮であるとされている。

 本宮はアマテラス、並宮は国狭槌命、共にニギハヤヒである。大台ヶ原の東北の裾に位置する滝原宮は、平安時代には伊勢と志摩の国境とされ、熊野街道に沿った宿場町であった。

 滝原宮に鎮座したアマテラスは、ここから七保の山々を超え、一ノ瀬村和北野の地に出る。次に宮川を下る。いったんは斎宮跡地に宮を構えるが、再び五十鈴川の河口を遡って、ついに現在の宮地に鎮座したと伝えられている。その際奉祭に一役かったのが、磯部氏と言われている。


 志摩郡磯部町にある伊雑宮。

 倭姫命世記によると、垂仁天皇の時代、皇大神宮鎮座の後、倭姫が供御の耕地をこの地に求めた時、白い真名鶴が稲穂をくわえているという不思議な事があり、行ってみると稲田があった。そこで鶴の教えた稲の生地を千田と名付けて、伊佐波登美に命じて神宮を造らせた。それが伊雑宮であり、真名鶴は大歳神と称して同じところに奉祀したという。

 伊雑宮の本来の祭祀はオオトシ=ニギハヤヒである可能性が高い。伊雑宮から勧請したというオオトシを祀る神社が遠く福岡や島根まで見られる。

 倭姫命世記に、真名鶴に象徴されるオオトシは、伊佐波登美達伊雑の浦の海人たちの祖先なのである。

 後世アマテラスの力が強大になるにつれて、伊雑宮の祭神はアマテラスの御魂とされていく。こうして本来の祭神、オオトシは付属社の佐美長神社に追い出され、その為に、佐美長神社は大歳社と呼ばれるようになる。その結果、佐美長神社の伊佐波登美が宙に浮いた形になってしまう。

 江戸時代初期、伊雑宮では寛文事件が起こっている。内宮、外宮と並んで”伊雑皇大神宮”を称して伊勢三宮といい、その中でも伊雑宮が本宮であると強調したのである。偽文書まで作って造替遷宮の事を上訴したために多くの関係者が罪科を問われている。

 伊佐波、後の磯部一族は、伊勢神宮=主に内宮が鎮座する以前からオオトシ=ニギハヤヒを先祖神として祀っていた。その思いが、寛文事件として芽をふいている。


 倭姫がアマテラスの鎮座地を求めて、各地を転々とする。その度にその土地の有力な豪族は強力を惜しまなかった。

 延暦23年”皇大神宮儀式帳”によると、

 アマテラス鎮座の地を求めて倭姫が五十鈴川の下流の家田の田上の宮に進んだ時、宇味土公の遠祖オオタが出迎えている。アマテラス鎮座地を提供したのは、このオオタであるという。

”猿田彦神社誌”によると、サルタヒコとオオタ子孫は宇治土公という。つまりオオタ氏はサルタヒコの子孫だという。

 皇大神宮儀式帳の撰上者に、無位宇治土公磯部小綱という記事があり、ここで宇治土公は磯辺なりと明言している。

 最終的に現在の内宮の地を提供したのは、伊勢、志摩一円に勢力を持つ磯部氏族のうち、五十鈴川上地方を本拠地としていたサルタヒコの後裔の磯部氏なのである。

 にもかかわらず、日本書紀にはオオタも遠祖のサルタヒコも一切登場していない。

 日本書紀には

――かれ、大神の教の随に、其の祠を伊勢の国に立てたまう。因りて斎宮を五十鈴川の川上に興つ。これを磯宮と謂う。即ち天照大神の初めて天より降ります処なり――ただひたすらにアマテラスの言葉に従ったまでだと言っている。


 白鬚(白鬚)神社(滋賀県高島町)

 全国150社ほどある白鬚神社の総本山。主祭神、サルタヒコ。

 神社の由緒書には

――古代の鎮祭創建にはじまると言われているが、垂仁天皇25年、皇女倭姫により社殿を再建され、天武天皇白鳳3年勅旨を以って比良明神の号を賜う――とある。

 日本書紀が記す――垂仁天皇の26年伊勢の五十鈴川上に鎮座――と同時期である。これはサルタヒコの子孫による大宮地の献上と関係があると考えてもおかしくはない。

 椿大神社(三重県鈴鹿市山本町)

 この神社はサルタヒコの終焉の地と言われている。社伝によると、古来より猿田彦大神を祭祀していたが垂仁天皇27年秋8月に、倭姫の神託により、大神御陵の前方”御船磐座いわくら”付近に社殿を造営し、奉斎したと伝える。

 二見浦にある二見輿玉神社。

 この社の創祀も倭姫と伝える。

――倭姫が二見浦に舟をとめ、神縁の深い猿田彦大神の出現の神跡である夫婦岩中央海上の輿玉神石を敬拝した。そこで夫婦岩に注連縄を張り、神石の拝所を設けたが、その後天平年間、僧行基は輿玉社を創建した――

 ちなみに二見郷の郷長は磯部氏と伝えている。(神社名鑑)

 輿玉神は内宮にも祀られている。輿玉神社の主祭神はサルタヒコと伝えている。内宮の祭りの時、まずこの神に参拝し神事の無事を祈ることになっている。

 アマテラス鎮座に際して、サルタヒコの子孫がいかに労を惜しまず協力したかが判る。

磯部作次郎は昔、乾の姓だった珠江にプロポーズするとき、岸田洋の祖父に「自分はスサノオの直系の子孫だ」と名乗っている。

 磯部家の遠祖はサルタヒコだと判明した。サルタヒコとは一体どんな人物だったのか。彼と磯部家の紫水晶の秘宝とはどんな関係があるのか。

 坂本はここで言葉を切る。運転中の珠江を見る。

「どうしたの?」珠江は訝しそうに坂本太一郎を見る。

 車は河和をすぎ、大井の海岸を走っている。

「珠江さんが疲れはしないかと思って・・・」

「嬉しいわ。気遣ってくれて」珠江はにこやかに笑う。

「途中、喫茶店でもあったら、休憩しましょうか」珠江は了解の合図に頷く。

「話、続けて、すごく面白い」珠江の眼がキラキラ光っている。坂本は話を続ける。

 

 サルタヒコは、結論から言えばニギハヤヒの長男である。ニギハヤヒがオオトシと言った出雲時代の若い頃の子供である。

 祖神と崇められた天王スサノオ。大和の国の魂と讃えられた皇祖ニギハヤヒ。サルタヒコは栄光に満ちた家の長子だった。

 島根県口伝説集

 昔、出雲の国に伎佐見比売という女神がいた。彼女は大歳の妻となる。夫と共に国土経営にいそしんでいたが、懐妊したので夫と別れて出雲国の加賀の郷へ行き、そそり立つ巌の蔭深く男の子を出産した。大歳は別れる時黄金の弓を妻に渡す。

「御祖の神と斎まつり、産屋の守護とせよ」と言った。

比売は大切に守っていたが、御子が生まれた時から弓は見えなくなった。比売は大いに驚き、「御祖の神と斎き祭って生まれた男の子、もし雄々しき神であるならば、失せた弓を尋ね出しなさい」と祈った。

 すると鹿の角で作った弓が打ち寄せる潮のまにまに流れ着いた。それを見た御子は「角で作った弓は真の弓ではない忌み弓だ」と言って捨てた。

 ところが沖の波間より光眩い黄金の弓が再び流れてきた。御子は直ちに拾い上げて「わが求める弓はこれである」と喜び勇んで、幾度も打ち振り「それにしても闇い岩屋だ。日の影も見えない」と黄金の弓を取って闇の辺りをハッシと射ると、岩屋は砕けて東に飛び、余った力で沖ノ島まで突き抜けた。(今この地を神崎といい、この岩屋を潜戸岩という)。

 母の比売は我が子の優れて雄々しいのを深く喜び、掌中の玉と慈しみ、常に御祖素戔嗚スサノオ尊の雄図、父の大歳神の勧農の事蹟を教えるうちに年月が巡って御子は壮齢となり、身の丈は7尺を超え、あっぱれな偉丈夫となった。

 ある時山に登り、国見して「私が住む島根は山連なり谷流れて狭田を成している。良い国だ」と言い、それからもっぱら墾田に力を注ぎ、耕地を開き、年々人口も増加し杵築と共に国の都となった。よって、この神を狭田彦命といい、この地を狭田というようになった。

 彼はまず狭田の国に宮造りし(今の佐大神社)父の大歳神のわざを受け継いで国を開き、民を導いた。たまたま天津神がこの国に天降ることに定まったちき、彼は、「天津神をこの国に導き奉るのは我をおいて外にない」と喜び八尋の錦を携え、天の八衢やちまたへいそぎ立出でた。・・・」

 サルタヒコが加賀の潜戸で生まれたという話。黄金の弓は出雲風土記にもあり、出雲では広く知られてたエピソードのようだ。島根県には加賀神社があり、往古は伎佐見比売がサルタヒコを産んだ加賀神崎の神窟に奉斎されていたが、後に現在地に還座したと言われる。(神国島根より)

 ここで重要な事は、黄金の弓、サルタヒコの国開きの事業の2つである。

「福岡県行橋市、草場神社の古記録に、――猿田彦は天照大神の分神なり。因って豊日別大神を本宮とし、猿田彦を以って別宮と為す――

 日本大国魂大神の神名でニギハヤヒを祀る奈良の大和神社の摂社、増御子神社にはニギハヤヒの御子としてサルタヒコが祀られている。

 佐太神社(島根県鹿島市)はサルタヒコの出雲における本宮だが、出雲国風土記には、佐太御子社。と記されている。サルタヒコはもともとサタのミコ(佐太、もしくは狭田の御子)と呼ばれていたのである。サタのミコ、つまりサタミコがサタヒコ、もしくはサルタミコになり、さらにサルタヒコになったと解せる。

 猿田王子ミコ神社(鹿児島県吉田町)の呼び名はサルタミコからサルタヒコへ移行を示す神社である。

 スサノオやニギハヤヒは多くの神名を持っている。サルタヒコも多くの神名を冠せられて祀られている。

 白ヒゲ(髭、鬚)神、久延毘古命、塩土翁、オオヤマクイ神、住吉大神、日吉大神、松尾の神・・・、調べればまだまだ出てくる可能性がある。

 サルタヒコの出生伝承は出雲にあるが、御陵の伝承は伊勢の鈴鹿市に伝わっている。

 鈴鹿山脈の入道ヶ嶽の東の裾、椿ヶ嶽の麓に椿大社(鈴鹿市山本町)がある。この社の境内に前方後円墳があり、古くから”たかやまさん”と呼ばれて、サルタヒコのお墓と伝えている。

 倭姫が垂仁天皇の時代に神陵の前方”御舟磐座”付近に社殿を造営し、奉斎したのが、椿大神社の起源と言われる。

 椿は、もとは”道別ちわき”で椿の字は仁徳天皇の霊夢によって社名とされ、天平11年(739)には聖武天皇が参拝、吉備真備が大神の神面と獅子頭を奉納している。なお神主の山本家は、サルタヒコの直系子孫として奉仕している。

 鈴鹿、亀山、伊勢方面はサルタヒコを祀る神社は多い。サルタヒコは晩年、この地にやってきたと見るのが妥当なのだ。

 サルタヒコは、祖父のスサノオや父のニギハヤヒのように武力を以ってその地を征服する神ではない。いったん征服した血の民を慰撫し、耕作を教え、国土を開発するのを得意としたようだ。

 サルタヒコは、日本書紀には塩土老翁として3度現れ皇祖神や神武天皇を道案内する役割を担われている。

 サルタヒコは星の運行を知り、航海に長けていたとも考えられる。これから推察すると、磯部作次郎が強調するように、四国の剣山から伊勢の地にソロモンの財宝を運び入れたのはサルタヒコか、彼の子孫であったと考えられる。

 アマテラス大神の鎮座地を提供したのは磯部一族であった。アマテラスは後世にされるような日向の女王アマテラスではない。自分達の先祖の父であり、日本国最初の統治者、偉大な覇王ニギハヤヒの御霊だからこそ、喜んで受けいれたのである。

 三輪山の大神神社で守り続けられている三輪流神道の中で、伊勢と三輪”一体分身”つまり伊勢の内宮に祀られている太陽神、天照大神と三輪の大物主神が同体であるという神学が、現在に至るまで語り伝えられているのである。

倭姫が天照大神の鎮座地を求めて、各地を転々としてきた。その真実の理由はよく判っていた。伊勢の地を最終の鎮座地として選んだ理由も・・・。

――この神風の伊勢国は、常世の浪の重浪帰する国なり。傍国のうまし国なり。この国におらむとおもう――

 アマテラスは倭姫に向かって宣言し、伊勢国が気に入ったと伝えられている。これは表向きの理由にしか過ぎない。

 真実の理由。ソロモンの財宝を求めての旅であった。

垂仁天皇とその側近たちは、何らかの情報を得て、スサノオの秘宝(ソロモンの財宝)は伊勢の地に秘匿されている事を確信したと思われる。

 真実の理由をあえて承知の上で、磯部一族は倭姫を迎え入れた。彼らには秘匿場所は絶対に漏れないという自信があった。

 実際、現在に至るまで、秘宝が世に出る事はなかった。


 伊勢の磯部一族に危機が訪れたのは、天武天皇の時代である。彼は皇大神宮を増営したり、神域内を拡張したり、伊勢の地に、あらかさまに干渉するようになる。

 この頃、磯部一族の中でも、ソロモンの財宝の秘匿場所を知る者と言えば、磯部作次郎の先祖のみとなっている。彼らは天武天皇の干渉をのがれるために、対岸の常滑に難を逃れている。


                   伊勢神宮外宮


 この日の伊勢湾は晴れ渡っていた。

 知多半島の師崎と内海海水浴場のほぼ中間に位置する中州に、レストランタカミネがある。総レンガ作りの、古めかしい建物だ。30年以上も前に開業している。

 当時は師崎と内海の間には、タカミネを含めて4軒ほどしかレストランは無かった。その中でも、ここはモダンな店内として人気があった。

 夜12時まで営業していたので、若い頃、坂本は亡き磯部作次郎達とここまで足を運んで事がある。

 今、坂本太一郎は磯部の未亡人珠江と、テーブルを囲んでコーヒーを飲んでいる。

 店内の南側に伊勢湾が拡がっている。グレーの一間四方ももあるガラス窓から眺める海は、波穏やかで、対岸の伊勢の山々がかすんで見える。

 坂本の伊勢の内宮についての話は一段落している。

 外宮については、日を改めて話をすればよいと、坂本は口を閉ざして、珠江の顔色を伺っている。

 車を運転しながら、キラキラした眼で坂本の話を聞いていた表情はそこにはない。片膝をついて、コーヒーを飲みながら海を眺めてる。憂いを含んだ眼は、海の彼方を見守ったまま動こうとはしない。

「あれが伊勢ね・・・」珠江はポツリと呟く。

「洋さん、大丈夫かしら」坂本の方に顔を向ける。

 坂本も岸田の事は気にかけている。明和町の実家に帰ると伝言したまま行方不明になっている。岸田の妻の幾世からの要請もあり、地元の警察に捜索願は出してある。

「珠江さん、一度、伊勢に行きましょうか」坂本はふと口に出す。

 珠江は大きな涼し気な眼を坂本に向けたまま、

「一緒に行ってくれる?」坂本の言葉を誘い水とばかりに問いかけてくる。

 4月に消費税がアップしてい以来、仕事がバッタリと途絶えている。当分の間は駆け込み需要で得た仕事で得た仕事で、坂本住宅も、磯部土建も忙しい。忙しいと言っても現場のみで、営業の方は、注文取りに四苦八苦している。

・・・今年一杯は焦っても仕方がない・・・

 経営者としての坂本は景気は来年か、さ来年以降でないとよくはならないと見ている。

 常滑は2005年を目指して沖合に飛行場建設が進む。一時的な現象かも知れないが、景気が良くなることは間違いないとみている。

 この暇な時期に、珠江と連れ立って伊勢に行くのも良いと考えたのだ。表向きは岸田洋の行方を捜す事だが、近い将来、一緒になる珠江と伊勢に遊行と洒落こむのも悪くない。

「明日どう」善は急げだ。坂本は急き込んだように言う。

 珠江はにこりと笑うと、軽く頷く。

 坂本は携帯電話で会社に連絡する。4~5日伊勢に行くから、現場管理と集金の方を頼むと伝える。事務の女の子は、坂本の言葉を、現場監督に伝言する旨、了解する。

 同じように磯部土建の現場監督にも連絡する。

 夕方、磯部邸で珠江の手料理に舌つづみを打った後、坂本は自宅に戻る。4~5日は常滑を留守にする事になる。荷物の用意をしたり、留守番を近所のおばさんにお願したりする。

 8時、テレビを観ていたが、ニュースしか見ない坂本はテレビのスイッチを切って、磯部作次郎の資料に目を通す。珠江のためにも、磯部家の秘宝の在り処を見つけねばならないのだ。


 外宮――祭神はトヨウケ。

内宮は皇大神宮と称し、外宮は豊受大神宮と称する。伊勢市豊洲町に鎮座する。

 両宮はほぼ同格で並び立ち”二所大神宮”と称し、別個の存在ではなく、一対となって崇拝されている。

 日本書紀には外宮の鎮座や、祭神のトヨウケについてはほとんど記録がない。

 古事記の”天孫降臨”の条に

――登由宇気神、これ外宮の度相に坐す神なり――と一行記されているのみ。一方のアマテラスの鎮座伝承には詳細を記している。

 全国の神社では豊受皇大神の名で祀られている所が多く”延喜祝詞式”ではアマテラスと同じように皇大神として出てくる。

 皇大神という称号は、静岡県七間町の別雷神社の記録に見られる。”大歳御祖皇大神”水戸市元山町の別雷皇大神の2か所しかない。

 大歳も別雷も本来の天照大神ニギハヤヒの別称である事は論を待たない。

 外宮は伊勢市の中心に鎮座している。内宮は神路山の麓、宇治の五十鈴川の川上にある。外宮は高倉山の麓、古くは山田原といった平野部にある。本来外宮は、内宮も含めたその昔の渡会国の中心に鎮座している。そのため、古くは渡会宮とも呼ばれてきた。

 内宮は外宮の奥に割り込むような形で鎮座している。外宮は古くから開けた土地に鎮座し、地の利を占めている。

度会宮で撰上した”止由気大神宮儀式”延暦23年(804)の伝承によると、

――雄略22年、天皇の夢にアマテラスのお告げがあった。それは、自分が鎮座しているのは大変心苦しい。その上大御餞おおみけも安らかに食べる事が出来ない。よって丹波の国の比治の真名井にいる自分の御食津神、トヨウケ大神を自分のもとに祭ってほしいとの神託がある。そこで天皇は驚き、さっそく丹波国からこの渡会の山田原に迎えて宮を建てて祭らせた――とある。

 この鎮座記録を調べてみると、京都府宮津市のこの神社に伝承がある。アマテラスの巡幸地として、本来の天照大神ニギハヤヒを祀る神社である。

 籠神社の奥宮の地は真名井原といい、ここに豊受大神を祀る真名井神社がある。雄略天皇22年に伊勢国度会郡の山田原に還ったとの伝承がある。

 籠神社の本宮の例祭日は4月の2の午の日に行われていた。奥の宮はトヨウケが伊勢国に鎮座した前日の9月15日(中秋の名月の日)である。渡会神道でも例祭日を9月15日としている。

 鈴鹿市一ノ宮易町、都波岐・奈加等神社、祭神・猿田彦命、社記に、雄略天皇23年に伊勢国造高雄束命が創祀したと伝える。

 つまり雄略天皇の時に新たに外宮が鎮座したため、神田が必要になり、それまで内宮に神餞米を供えていた磯部氏の一団が外宮に回ったり、同地に猿田彦を祀る必要が生じたと言っている。

 内宮の鎮座は垂仁天皇の時代、その後の雄略天皇の時代に外宮が鎮座した事になる。

 昔からのしきたりに、まず外宮を参詣し、その後内宮に詣でる事になっている。

 平安時代、正月元旦に神宮の禰宜たちが度会郡の役人と一諸に宮川のほとりの大神宮司の役所に集まって、新年の拝賀式を行った。その拝賀式に先立って神宮を遥拝する順序も外宮ー内宮ー諸宮と決められていた。

 神宮の最大の祭の10月の神嘗祭、6月と12月の月次祭、2月の祈年祭など、神宮の祭典はまず外宮で行われえるのが古来からの慣例である。

 後に鎮座した外宮が先に鎮座した内宮を差し置いて、先に祭りを行うのはどうしてか?

 二所大神宮とは言うものの、公式的には内宮の方が格が上とされているが、外宮はそれが不満であった。

 鎌倉時代以降、両宮の間には争いが絶えなかった。外宮側は鎌倉時代から南北朝時代にかけて渡会神道を成立させて、外宮優位を主張した。


 伏見稲荷大社(京都府伏見区深草藪の内町)

 祭神

 宇迦之御魂大神 下社(中央座)

 佐田彦大神   中社(北座)

 大宮能売大神  上社(南座)

 田中大神    田中社(最北座)

 四大神     四大神社(最南座)

 中央座に祭られているウカノミタマ大神こそ、トヨウケ大神なのである。

 山城国の稲荷神社からの勧請という稲荷神社(岩手県宮古市、祭神、豊受姫命)。竹駒神社(岩手県陸前高田町、祭神、倉稲魂神、豊受姫命)。稲生神社(千葉県山武郡大網白里町、祭神、豊受姫命)。全国には伏見稲荷大社から勧請された神社はその他にも沢山ある。

 変わった所では平野山神社(島根県益田市長浜町)がある。祭神は宇迦之御魂神、倉稲魂命、配祀は須佐之男命だが、これは伏見稲荷大社からの勧請ではない。

 神国島根には、古老の口碑に伝う。往古伊勢国外宮の分霊を勧請し、三宮荒神と称し、今の平野山に神殿を建てるとある。

 ただし、ここに問題がある。長い間、トヨウケが稲荷大神として信じられてきたのは間違いのないところであろう。和銅4年(711)2月初午の日に元明天皇の勅令によって、現在の伏見稲荷大社が建った時、ウカノミタマ大神の名で祀られたのもトヨウケだった。

 ウカノミタマは宇加之御魂、倉稲魂の字があてられているところをみると、宇加=倉稲と考えられる。

 それではウカの魂、倉稲の魂とは何か。

 一説によると、南島祖語マレー語で蛇をウラという。

ウカはその転訛とされた蛇の意である。外宮の祭神はウカノミタマとされるが、これは倉稲魂という字があてられる。鼠を捕食する蛇が稲にとって最高の守護神だから、穀倉には必ず蛇が飼育、あるいは祀られたことに起因している。

倉稲の魂は蛇の魂という事になる。

 蛇と言えば、三輪山の大物主、本来の天照大神ニギハヤヒである。稲の神としてオオトシ(大歳、大年)とも呼ばれていたニギハヤヒである。

 オオトシの出身地、島根県の神社に、稲荷神社の祭神としてトヨウケが多いが、ウカノミタマ=オオトシを示す神社も多い。

 若宮神社(美濃郡匹見町)境内稲荷神社(大物主神)

 天満宮(那智郡三隈町)境内大歳神社(稲倉魂命

 忍原神社(太田市宇津井町)大年神・宇加之御魂神

 大歳神社(浜田市元浜町)大年神、稲倉魂神


 ウカノミタマ=オオトシとするならば、トヨウケはどうなるのか、いつオオトシのお株を奪ってしまったのか。

 トヨウケがオオトシに取って代わったとしても、2神の間に何かのゆかりがなければ、ウカノミタマ=トヨウケは浸透しなかったと考えられる。

 広瀬神社(奈良県北葛城郡河合町)祭神・若宇加能売命。10代崇神天皇の時代に、天皇の大御膳神として創祀されている。

 その他埼玉県狭山市には大和武尊が東夷征討した時に、この地相が大和国可合の地に酷似しているというので、若宇迦能売命を祀り、創祀した広瀬神社もある。

 その他崇神天皇の時に創祀と伝えられる豊川稲荷神社(姫路市四郷町)の若宇賀能売命、

 酒井神社(三重県鈴鹿市郡山町)の豊宇迦能売命

 伊奈神社(三重県鈴鹿市稲生町)の豊宇迦能売命

 岩木山神社(青森県中津郡岩木町)の宇賀売神

 品川神社(東京都品川区品川)の宇賀之売命

 琴路神社(佐賀県鹿島市)宇田大明神(倉稲魂女命)

 以上のように、若ウカノメ、豊ウカノメのように若や豊を冠している場合が多い。

 ウカノメとは、倉稲魂女から明らかなように、元来はウカノヒメ(宇迦能姫、倉稲能姫)だったのが訛ってウカノメになったとするのが妥当である。つまりウカノメはトヨウケに転訛したと見るべきである。

 トヨウケはもともとトヨウカノヒメ(豊宇迦能姫)だった。トヨウカノヒメートヨウケヒメートヨウカノメである。ここで、はっきりとウカノミタマとは一線を画すトヨウケの姿が鮮やかに浮かび上がってくる。

 和銅4年伏見稲荷大社が創建される以前、ウカノミタマとして祀られていたのはオオトシだった。ところが稲荷神社の総本社が創建された時、ウカノミタマ大神としてトヨウケの名が公表された。

 トヨウケヒメは、豊ウカノメ、若ウカノメとしてウカノミタマに混ざって呼ばれていたと思われる。だからこそ稲荷大神ウカノミタマ=トヨウケはすんなりと受け入れられたのだ。

 奈良時代には、もともとニギハヤヒの神名であったオオモノヌシ(大物主)、ヤマトオオクニタマ(日本大国魂)などがオオナㇺチ(大己貴)へすり替えられる事になる。ウカノミタマもトヨウケに仮託されたと見るべきである。


 オオトシに代わってウカノミタマの座に浮上したトヨウケはウカノヒメからウカノミタマに昇格したと考えられる。この事は、後世、アメノミナカヌシ(天御中主)神、ㇰ二トコタチ(国常立)神をトヨウケに比定する渡会神道を生み出すきっかけとなる。

 外宮の間からはトヨウケ=アメノミナカヌシ・ㇰ二トコタチ説が浮上する。

 そもそもウカノミタマは大和の本来の大王ニギハヤヒの別称である。従ってウカノミタマには栄光の大王の調べが色濃く漂う様になる。その調べが、ウカノヒメから昇格した奈良時代以降のウカノミタマ=トヨウケの上に投影される事になる。


 電話が鳴る。磯部作次郎の資料を読み漁っていた坂本は、びっくりして顔を上げる。時計を見ると、7時を過ぎている。

 電話の主は磯部珠江である。彼女は坂本の身近な存在になっている。

 明朝、伊勢に行く事になっている。珠江の用件は、岸田の妻幾世から電話が入った。伊勢行きの話をしたら、是非自分も一緒したいという。すまないが、ここに来る前に岸田の家に立ち寄って欲しいとのこと。

 坂本は了解する。今日は1日中、心行くまで語り合ったせいか、何も話す事はない。すぐにも電話を切る。

 冷蔵庫から缶ビールを出して飲みながら、再び磯部の資料に目を通す。

――内宮の天照大神が本来のニギハヤヒ、外宮のトヨウケもまた、ニギハヤヒという訳か――しかし坂本はこの説に納得できないのだった。

 外宮の主祭神ニギハヤヒがトヨウケに代わった時、トヨウケがニギハヤヒのミケツ(御僎津)神、つまり食事を主宰する神に変貌する。

 先程の奈良県北葛城郡川合町の広瀬神社の縁起によれば”崇神天皇の時世、広瀬の川合の里長に大神が神託した事が天皇に達し、天皇の大御膳神としてこの地に社殿を建て祀った”とある。

 この時代の天皇とはニギハヤヒのことでおそらく皇居に祀られていた天皇家の祖霊ニギハヤヒの大御膳神としてトヨウケが選ばれたと解する。

 トヨウケがニギハヤヒのミケツ神だったとの伝承は他にもある。

 意多伎おたき神社(島根県安来市飯生町)、祭神(主神)大国魂神(配祀)大田神、(相殿)日神荒魂神(合祀)、(境内〉食師神社(稲倉魂命)、大田神社(保食神)

 ”神国島根”によると、元来太古の鎮座で、延喜式内社である。大国魂神を奉斎するのは、大国主大神が当地方にで人々に産業を教えた際、この意多伎山に在ったためで、飯梨郷というのも飯生いいなりという尊名も大神の功績からつけられたものである。

 社号の意多伎も於多倍おたべで、食べ物を多布留という意味があり、これも穀物に関連している。相殿に鎮座する御譯おさ神社は猿田彦の別名である大田神を奉斎する社で、意多伎神社と共に重く奉斎された社である。明治末、元飯生字一位森に鎮座の一位神社を廃し、祭神日神荒魂神を本社に合祀した。以上のような記録がある。

 この神社には特殊な神事がある。

 旧2月の初午の日、早朝境内の一隅を清め、奉竹を立て、注連縄を張り、3個の釜を据え、御供炊き奉仕者は白装束にに立ち烏帽子を着けて禊を受けて奉仕する。

 それより先に、3つの竹くだを釜にいれ、神飯を炊く、終わって本殿に献供、次に食師の杖、つづいて末社に献ずる。

 この神事は、食師社の稲荷魂神が本殿の大國魂大神に御食事を調達にならうものであり、意多伎神社最大の祭儀であって、創立当時から今日まで伝承される五穀古伝祭である。

大国魂大神は、由緒では大国主とされるが、当時のことながら、ニギハヤヒの別称である。一位の森に鎮座していた一位神社の祭神が日神荒魂神である事からしても明白である。日神は、津島列島の阿麻氏留神社の祭神名が”津島紀事”に”天日神命又名天照魂命”とあるように、これは本来の天照大神ニギハヤヒの事であった。おそらくは日神=大国魂大神の荒魂として、奥宮のような形で一位神社に祀られていたと思われる。

 この社に祀られている稲荷魂は、旧2月初午の日の例祭が伏見稲荷大社と同じである事などから、奈良朝以後一般化したトヨウケである。

 大国魂神がニギハヤヒ、稲倉魂がトヨウケとなると、この祭事はニギハヤヒに食師社のトヨウケが食事を調達する古事に由来する事になる。つまりトヨウケはニギハヤヒのミケツ神とされている。

”止由気大神宮儀式帳”によると、21代雄略天皇22年、天照大御神の神託が天皇の夢にあって、外宮の豊受大神はは丹波国比治の真名井原からミケツ神として迎えられたとしている。

 それを示す様に外宮の東北隅に御僎殿が設けられており、、毎日朝夕2度、アマテラスとトヨウケに御僎が供えられている。

 次にワカトシトとトヨウケの関係について、磯部作次郎の資料は以下のように述べている。

 ワカトシ=トヨウケとまず結論づけををしている。

”年”はもともと稲の実りを表す語である。トヨウケはウカノミタマとなり、稲荷の神様になっている。

 歳神社(大分県本耶馬渓町)大歳神、御歳神、豊受姫命、

 亀山神社(福岡県鞍手郡小竹町)大歳神、御歳神、倉稲魂神

 大歳霊神社(愛知県稲沢市国府宮)大年神、御歳神、倉稲魂神

 八幡宮(島根県益田市白石町)境内荒神社、大年神、御年神、豊受毘売神

 香良洲神社(三重県一志郡香良洲町)御歳神、、稚日女神

 歳神神社(大分県耶馬渓町)大年大神、御年大神、若年大神、宇賀魂神

 ワカトシの代わりにトヨウケや、トヨウケの別称ウカノミタマが名を連ねている。最後の耶馬渓町の歳神神社などは、若年大神の正体を証す形でウガ魂神が付け加えられている。ワカトシ=トヨウケと考えるのが自然である。 

 トヨウケをワカトシと呼ぶのか、ミトシの子ではないのに多くの場合、彼女の下に名を連ねているのは何故か。

 考えられる理由としては、トヨウケはミトシより若かったという事だ。ミトシの子ではないのにミトシより若いオオトシゆかりの者と言えば、スサノオ――オオトシ――サルタヒコである。

 ミトシは大和のオオトシ(ニギハヤヒ)の子だった。従ってサルタヒコとミトシは異母兄妹という事になる。勿論サルタヒコの方が年長である。よってミトシより年若のオオトシゆかりの者と言えば、サルタヒコの子しかいない。サルタヒコの子、トヨウケである。

 比比多神社(神奈川県伊勢原市)、阿波神社(三重県阿山郡大山田村)、生田神社(神戸市)、安座祥神社     

 (島根県安来市)などの祭神を稚日女という。一般にワカヒルメと読ませている。日原神社(島根県大東町)のように”若昼女神と記されている所もある。

 女王アマテラスは大日孌と言った。オオヒルメと呼ぶ。オオヒルメとワカヒルメ、対の呼び名から、ワカヒルメはトヨウケと見当がつく。

 トヨウケは様々な顔を持っている。ここでは詳しく述べないが、ウカノメ(ウカノミタマ)オオゲツヒメ、ワカヒルメ、ニブツヒメ(丹生津比売)、ハニヤスヒメ(埴安)、伊吹戸主、稲と食物と、織物、丹、埴、はらえの神として、トヨウケはは衣食住全てにわたって広く崇敬されている。


 磯部作次郎の資料をまとめてみる。

 伊勢の地を開いたのはサルタヒコであった。その子孫が磯部氏である。サルタヒコの子のトヨウケ(ワカヒルメ)が後継者となり、磯部氏の直接の先祖神となる。

 外宮は本来磯部氏の氏神として、伊勢の地に鎮座していた。その後垂仁天皇の時に、サルタヒコの父であり、大和の大王であるニギハヤヒが、天照大神、国家神として祀られる事になる。

 当初は斎宮址にあったが、いつの頃からか、現在の内宮の地に変わる。当然ながら、神位としては内宮の方が上だという事になる。ところが天武朝の時、ニギハヤヒ=天照大神を、九州の日向の女王オオヒルメが天照大神となる。

 反対、無視など、様々な反応が出た事が予想される。内宮の祭神=女王アマテラスとの主張は、平安時代に入っても大して影響力を持った訳ではないが、時代を下るに従って、内宮側が、朝廷によって認められた国家神として、執拗に前面に押し出してくるようになる。

 外宮側はこれに反発する。外宮の渡会神道は、外宮優位の立場を取るようになる。それにつれて外宮と内宮の仲は険悪になり、時には抗争にまで発展するようになる。

 前に述べたように、磯部作次郎の先祖が常滑にやて来たのは天武朝の頃という。


 坂本はここまで読んで、外宮のトヨウケの事は何とか判ったつもりだが、何故外宮がその位置にあるのか、ただたんに、太陽の道にあるだけでは、しっくりとしないものを感じるばかりだった。

 時計を見ると9時半を回っている。ちびりちびりやってうても、ビールでも酔いが回る。

――明日の伊勢行きの車の中で、外宮について、磯部珠江に話すことにしよう。それから、いよいよ常滑に入る。果して伊勢の地に眠るという磯部家の秘宝が明らかになるのだろうか――

 10時、電話が鳴る。夜遅くに誰だろうと受話器を取る。

「坂本さん、向井です。昼過ぎ、会社の方へ電話したら、坂本社長は夜なら自宅にいると聞いたもんで・・・」

 向井の口調はくだけて軽い。

「何か・・・」と坂本。

「どうでしょう。7月になったら、また伊勢に・・・」

「そうですな」坂本は口ごもる。この前、行ったばかりだ。それに明日は珠江たちと伊勢に行く事になっている。

「みちのく教団のほうなら・・・」

 坂本の脳裏にはアラタマ教団の禊の後の1時間余の正座の苦しさが焼き付いている。水をかぶるのは、あっという間にすむので我慢できるが、少々太り気味の坂本には5分も正座しておれないのだ。

 「実は・・・」と向井は以下のように述べる。

 アラタマ教団で、7月7日に七夕祭が催行される。会費は5千円。商売繁盛などの祈願も行われる。この日は20名ばかりの信者も集まる。午前9時に禊、10時より祭りとなる。12時まで2時間行われるが、神殿の前に腰掛けての式典となるのでどうか、彼は坂本の心を読んでいる。

 昼食後、1時にみちのく教団で例祭が催される。例祭後、みちのく教団の教祖、佐久田龍一の指導で、出席者全員に、ヨガの呼吸法が伝授される。希望とあれば7つのチャクラに対応する宝石の使用方法も教えてもらえる。

 坂本太一郎は、宝石の使用方法と聞いて、心が動く。紫水晶が眉間に存在するアジナチャクラに対応する事は、神秘思想を学ぶ者にとっては常識となっている。問題なのは、その使用方法に諸説があり、一定していない。

 みちのく教団の教祖がどのような指導をするのか、行って体得するしかないと判断する。

 向井に、7月7日の朝、8時に、名古屋の向井宅に行く旨を伝えて電話を切る。当日は約1週間前から控えている用事を全て後日に振り返る。手帳にその旨記入する。


                           ――その4に続く――


 お願い――この小説はフィクションです。ここに登場する個人、団体、組織等は現実の個人、団体、組織と  

      は一切関係ありません。

      なおここに登場する地名は現実の地名ですが、その情景は作者の創作であり、現実の地名の情景

      ではありません。



























 


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