本当の勝者は正直者
「お父様を説得してあげるからもう婚約破棄しましょう。そして求婚すればいいのよ」
「あの女神が俺なんかと」
「女神じゃないわよ。たかが伯爵令嬢よ。この不毛な恋愛相談飽きたわ。ねぇ、そんなうじうじしたら他の男に奪われるわ」
「そんな不誠実なことはしない。俺はナンシーを」
「幼馴染だから、そういうサービスいらないわ。ねぇ、閣下に頼んであげるよ。面倒だし」
「お前、」
「別に愛人を持つのは構わないわ。でもそれは両家に支障がなければよ。伯爵令嬢のシャルは駄目。私の――」
ナンシーは今日も婚約者の不毛な会話に付き合っている。ナンシーは侯爵家の一人娘。幼い頃に婚約したパッドは次期侯爵としてナンシーの父親から厳しい教育を受けていた。それでもナンシーは別に婚姻するのはパッドじゃなくていい。パッドがずっと好きなのはナンシーの友人の伯爵令嬢シャル。
毎朝侯爵邸にナンシーを迎えに来て馬車の中でパッドのシャルへの想いを聞きながら登校する。
そしてナンシーを教室に送って自分の教室に向かう名目上は婚約者を笑顔で見送る。よく一緒にいるので仲睦まじい婚約者同士にまわりからは見えている。
ナンシーはいつもシャルに挨拶もせずに立ち去る婚約者を心の中でヘタレと罵る。
「おはよう。いいなぁ。今日もパッド様は素敵」
「おはよう。お父様に頼まれているからよ。かわってくれる?」
「だめ。そんなことしたら心臓が」
シャルはパッドの外見が好きである。両思いなのにお互いが歩み寄らないため結ばれない。ナンシーはいつも笑みを浮かべてパッドの整った顔について語るシャルを眺める。一応、まだ婚約者なので公の場で盛大に二人の仲を応援することはできない。それでも幼馴染のために長所をシャルにアピールする。
ただナンシーはこのままだとまずいことを知っている。侯爵家に婿入りしたい男は多い為ナンシーは婚約破棄されても困らない。ただしシャルは違う。シャルは貧乏伯爵家の一人娘。婚約破棄されて醜聞を持てば次のまともな婿は難しい。貧乏伯爵家でも男爵家や子爵家の男にとっては次期伯爵は夢のような成り上がり。ただしマトモな男はすぐに売れていく。そしてシャルの父は真剣に婚約者選びをして、すでに候補を決めている。
「パッド、周囲は私が黙らせてあげるから求婚してきなさいよ。二人が」
「顔を見たら」
「聞き飽きたわ。本当に余裕はないのよ」
「お前は、」
「私の心配はいらないわ。新しい婚約者なんてすぐに」
「また手紙をもらったのか!?」
「ええ。まぁ穏便に」
「言えよ!!俺が対処するって」
「自衛の心得もあるし良識ある方ばかりよ。お父様に私の面倒を頼まれているからってそこまでしなくていいわよ。貴方ならシャルの家も立て直せるでしょう?何を躊躇ってるの?シャルの婚約が決まってからだと遅いのよ」
「ナンシーはそれでいいのかよ」
「ええ。お父様の厳しい教育を受けさせたことは謝罪するわ。醜聞は私が引き受けてうまく収めてあげるから」
「なんでそうなるんだよ!!俺がいないと駄目って」
「昔の話よ。あの頃とは違うのよ。なんで怒るのよ。後悔しないために、送ってくれてありがとう」
ナンシーは苦虫を噛み潰したような顔のパッドに手を振り父が来たので会話をやめて自室に戻って行く。本当に時間がないことをパッドはわかっていない。このままだとシャルの婚約者が決まってしまう。
ナンシーはヘタレパッドには任せておけないかと報告書を読みながらため息をつく。その晩父に了承を得て動き出した。
幼馴染にも友人にも幸せになってほしいというナンシーの願いが届かないなら自分で動くしかなかった。
シャルの婚約者候補のエリクソンは伯爵家の3男でありナンシーと面識があった。ナンシーに呼び出されたエリクソンは満面の笑みを浮かべて大分前からナンシーを待っていた。
「ナンシー様、お話とは」
「ごきげんよう。エリクソン様、以前お手紙に書いていただいていたお気持ちに変わりはありませんか?」
「え?はい!!ナンシー様のためならどんなことも愛人でも構いません。家も捨てます。貴方の手を、お傍に侍る権利をいただけるなら一生日陰の身でも構いません」
ナンシーにはブンブンと揺れる尻尾が見えそうなほど興奮しているエリクソンは仔犬のように見えた。意気揚々と答える年下の後輩の愛人にしてほしいと言う申し出をナンシーは一度断っていたが、シャルの相手がエリクソンならある意味取引相手として丁度良かった。
「愛はよくわかりません。そして欲しいのはわが侯爵家を盛り立てていく覚悟です。私は侯爵家のために誠心誠意尽くしていただけるなら、私個人が差し上げられるものはなんでも差し上げます」
「はい!!僕はナンシー様の下僕で」
「エリクソン様、落ち着いてくださいませ。私が欲しいのは下僕ではなく、未来の夫です」
「僕が女神の―」
うっとりしているエリクソンの止まらない称賛はナンシーが口を開くとすぐに止まった。ナンシーはシャルやパッドで見慣れてるので意味のわからない言葉は受け流す。
「女神?うん。もういいですわ。私のお父様の厳しい教育を」
「やります!!なんでも!!貴方のためなら」
目を輝かせ気合十分のエリクソンにナンシーは微笑む。やる気があるのは大歓迎と。
「期待しています。放課後、うちに通ってくださいますか?お試し期間なので内密に」
「お任せを!!ナンシー様が僕のことを覚えてくれていたなんて。精一杯」
「もう授業が始まりますわ。放課後にうちの侍従が迎えに行きますので」
そしてナンシーと侯爵家によりエリクソンの見極めが始まった。
「ナンシー様、今日は、」
ナンシーはエリクソンが父との授業を終えるとお茶を淹れてもてなす。頬を染めて、意気揚々と成果を語る姿は仔犬のようで可愛らしい。そして全面的に好意を口にされるのはくすぐったくても悪い気はしない。神やら天使やらの称賛には幼馴染や友人のおかげで慣れていたが、エリクソンの言葉は二人よりはわかりやすかった。
「お疲れ様でした。お茶をどうぞ」
「ナンシー様が僕のためにお茶を淹れてくれるなんて。この甘みはきっと」
「冷める前に召し上がってください」
エリクソンは冴えない外見と熱狂的なナンシーファンということを除けば優秀な男だった。そして今まで遠目で見ることしかできなかったナンシーが側で褒めて労ってくれる楽園のような環境にさらに燃え上がる男はナンシー達の期待に応えた。
候爵家も大事なお嬢様にベタ惚れなエリクソンを歓迎し、次期候爵として迎えることに反対する者はいなかった。
「どうか私と共に侯爵家を守ってくださいますか?」
「僕に捧げられるものがあるなら全て貴方のために。どうか僕に貴方の手を取る権利を与えてください」
ナンシーの言葉に椅子から立ち上がり、目の前に跪くエリクソンにナンシーはクスリと笑って膝を折る。ナンシーに膝を折らせた男は王族を除けば初めてである。
「エリク様、私は隣にいてほしいのです。後ろでも前でもなく、下でも上でもなく。これからはナンシーとお呼びくだいませ」
「ナ、ナンシー」
「はい。昔、私を守ってくださると言った方はいつも一歩先を歩いていました。そして好きな人ができましたのよ。寂しくもありましたが、貴方と一緒にいると忘れられました。こんな不誠実な女ですが」
「僕はどんなナンシー様も、違う、ナンシーも愛してます。貴方の笑顔より尊いものはないんです。だから、精一杯」
「少しだけわかった気がしますわ。一緒にいたいと思うことが好きということかしら?手を繋ぐことから始めませんか?」
ナンシーの差し出す手を真っ赤な顔のエリクソンの手が両手で包みこむ。
初々しい空気に顔を緩める家臣達。バタンと荒々しく扉が開き空気が霧散する。
「ナンシー!!どういうことだ!!俺との婚約を破棄して!!」
扉から荒々しく入ってきた興奮しているパッドの前に古参の執事が立ち塞がり口を開く。
「お嬢様の邪魔はおやめください。これは決まったことです。うちが後見につきますのでどうぞ女神の様な伯爵令嬢とのご縁を」
「は?」
いつもは笑顔で歓迎する執事の敵意を乗せた言葉にパッドの眉間に皺が寄る。ナンシーはパッドに気付いて笑みを浮かべて顔を見上げる。
「ごきげんよう。ヘタレな貴方に代わって動いたわ。シャルとの婚約を整えたから、詳しいことは」
「ナンシー、その男は?」
パッドは真っ赤な顔でナンシーの手を握る見覚えのある男に嫌な予感に襲われる。
「新しい婚約者ですよ。侯爵家のために尽くしてくださると」
「それは駄目だ!!なんで一番やばい奴を選んだ!!俺と結婚すればいいだろうが」
「は?」
大喜びのはずの幼馴染の反応にナンシーが首を傾げるとエリクソンがナンシーの手を引いて立ち上がり、赤い顔のまま微笑む。
「おめでとう。シャルと幸せに。ナンシーは僕が幸せにするよ」
「ナンシー、そいつは腹の中真っ黒で」
「どこが?」
「全部仕組んだろう!?」
「事業が傾いて収拾に君が駆り出されたこと?」
「ナンシーに近づくために」
「なんのこと?やりすぎはよくないよ。妬いて欲しくて他の女の話を毎回すれば周囲の目は冷たくなるよ。絶対に婚約破棄されない自信があったんだろう?侯爵閣下のお気に入り」
不毛な男達の話し合いは放ってナンシーは足にすり寄ってきたエリクソンから贈られた愛犬を抱き上げる。ナンシーにとってのめでたしめでたしのハッピーエンド。愛する男よりも愛してくれる男を選びなさいという亡き母の教え通りの結末である。
「ナンシー、おれが守ってあげるよ。だから泣かないで」
「お母様」
「おばさんのかわりに、おれがずっと一緒にいるよ」
母親を亡くして墓の前で泣き崩れる少女を迎えにきた少年は動かない少女を背負って歩く。そしてずっと一緒にいるために少年は必死に学んだ。少女と遊ぶ時間も惜しんで。
成長するにつれて、少年は少女との関係に不満を抱く。幼い頃から距離が変わらず、友人達のように甘い関係にはなれない。そして、町で流行りの気を引く方法を実行したら笑顔で応援され、引っ込みがつかなくなり、歯車が狂い始めた。
少女はいつも安全な侯爵邸で幼馴染の恋の相談にのっていた。少女の友人の可愛い女の子に恋をした幼馴染。少女にとって少年はヒーローだった。侯爵家で厳しい教育を受ける幼馴染は可愛い友人を救う方法を持っていた。力のない少女からの精一杯のヒーローへの恩返し。大きくなった少女は少年の背中に守られなくても歩いていける。少女は少年の背中を押したかった。だから勇気を出して思いっきり突き飛ばした。
前ばかり見ている少年は少女の寂しそうな顔には気付かない。
少女の顔ばかりずっと見ていた小柄な少年は気付いていた。一緒にいるのに寂しそうな少女の寂しさを埋めたいと。ただしバカな少年には教えるほどの善良な性格ではなかった。
愛らしい少女は人気者の美人な友人が大好きだった。友人が婚約者の話をする時は一番表情豊かで美しい。婚約者の話をすればするほど友人は少女の傍にいた。少女は友人と一緒にいるために友人の好きな話題を選んでいた。
四人の子供達の中で唯一素直に言葉にして欲望のままに動いた少年が勝者となった。
「ただいま。ナンシー。僕は女神と天使どっちを讃えればいいのかという」
「おかえり。讃えずに一緒に抱きしめればいかが?」
「天才だ。なんて」
「起きるから静かに」
ナンシーは仔犬のような夫を睨むと嬉しそうに笑う。
「白雪のような肌に」
声を抑えて称賛の止まらない夫に抱きよせられナンシーは我が子を抱きながら優しく微笑む。ナンシーには夫や幼馴染のような熱狂的な何かはない。それでも何をしても嬉しそうに笑う夫の傍は居心地が良く寂しくない。
自分のヒーローもお姫様と幸せになっているだろう。政略結婚が当然の世界で恋心を抱きその相手と結ばれるのは奇跡のようなこと。
ナンシーのヒーローは辺境地の伯爵となりいなくなった。代わりに愛犬、ではなく夫と我が子が現れたから寂しくない。
ナンシーは生涯ヒーローの本音も犬ではなく狐がそばにいることも気付かなかった。
昔、夫に贈られた犬は驚くほど大きくなり番犬となり侯爵邸を守っている。ナンシーは贈られたのは犬によく似た狼とは気づかない。美しい妻と娘を守るために手段を選ばない侯爵により侯爵家は繁栄した。