午後王
その国には、地図に引かれた国境のほかに、時計の文字盤にも定められた国境が記されていた。
ひるひなかの正午、時を刻む針が頂点にそろって以降——午後の時間は、絶対支配に君臨する午後王の版図であった。
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地平より最遠の位置に昇った太陽に日ざされて、また重く鳴る午の鐘に召し喚ばれるように午後王は地の上に顕現する。
そして太陽がふたたび落ち、深夜零時に地の底ふかくを打って暦が歩むまでを暴君として跳梁蹂躙する。
午後王は人間の姿で錫杖を振るい、人間の声で勅令を下すが、人間ではない。
いえどもはるか神代より零落して世に残る神霊悪鬼の余裔にもあらず、ただ口碑、伝説のみて流布する怪談奇譚にあそぶ、いやしき妖魅の眷属であった。
かように低位なあやかしに人間が従僕するいわれはないはずが、つき従う誰一人として思うところをただ述べることもかなわず、また野にあっても反旗を起こすまで民心を鼓舞できる者もあらわれなかった。
ついには一つの国が余さずその配下に屈するに至ってさえ、むしろ王都の民衆はこぞって支配者にこそふさわしい午後王の権威を賛美し、なお畏敬した。
だが、それが午後王の物の怪としての力では、ない。
午後王が、じかに人の精神に手を差し入れて幻惑することはない。午後王のもつあやかしき術とは、その意思が許すものしかその身に触れられぬという、怨霊やまぼろしとさして変わりのないつまらぬものでしかない。
すべてはただ、午後王が表象としてそなえる稀有な容貌、姿形のためであった。
——その物の怪は、一糸まとわぬ素はだかの少女の姿をしていた。
荘奔と湧きたった蜂蜜色の巻き髪だけが、そのうるわしい裸身にまといつき蠱惑的にうず巻き流れていた。
絹織りのように無垢でたおやかで、硝子の花挿しのごとく手折れそうに儚げな白身をさらす少女を衝きたおし、どれほどの勇者ならば雄々しく剛剣をふりかざし討つことができるだろう。
聖油にぬれた大理石のようになまめかしくも清い肌が秘所で淫靡にひだつくり、わずか覗かす肉の朱すら誇らんと胸を反らし立つ少女と真向かい、どれほどの高僧ならば目を覆わず調伏の呪詛をうたい上げることができるだろう。
その美はまさしく天より授けられた王権であり、ひとしく臣民にとって午後王は受肉した神意であった。
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その王のしろしめす下にあって、民は午前の猶予に育んだものを午後に失う。
夜明けを待たず起き出して刈りあつめた穂麦も、村人が新婚の二人のために寄り合い建てつくり屋根を葺いたはなむけの家屋も、いたるは、朝日を浴びながら産湯をつかった名を与えられる前の赤子でさえも。
城よりの使者が——午後王の気紛れを記した勅書を竿の先に掲げた一隊が訪れたが最後、井に組まれた薪のあかあかと燃え盛るただ中へ掲げてくべられ、あるいは隊列を組んだ騎兵の突進の標的とされ、あるいは汚穢を食らわせる家畜の囲いへ投げ落とされ忘れられた。
なかでも元の権力者、支配層にあった者たちは、美神に仕える使徒を気取って率先して奪い、殺した。
王城からは日夜つづく饗宴の喧騒が途切れず響き、午後王のいる刻、いない刻、貴族たちは地の底に棲む悪魔におのれをなぞらえ、地獄篇の記述に見立てた遊戯に糧食と酒を、財産を、そして人間をその血と生命ごと注ぎこむ流行に興じた。
その魔政のさなかにあり、王国は麻のように乱れ、それでも人々は暴君を崇拝し、人の心をもたぬ午後王は手心もなくすべてを貪る。
支配の魔力などもたぬ魔物に、なされるがままにすべてを貪られてゆく。
***
日々やまぬ国資の飽食に備蓄の倉庫までをも掃きさらい、国も民も哀れに痩せ細ったころ、午後王の掌が国を跨ぎ行こうとしていた隊商の一団を指した。
狩猟するように捕らえられ、城庭に縛り転がされた商人たち、またその奴隷たちは、人外の地に知らず踏み込んだおのが愚行と不運を呪い、嘆いた。
静かに嗚咽がうねる中、ひとりの奴隷の身なりをした青年が、遮止する騎士の槍を首に押しあてられながらも、膝をすりつつわずか前に進み出た。
命ばかりはと懇願をするか、玉座へ真っ直ぐにおもてを向けて瞬きもせぬ黒髪の青年の、やはり黒く澄んだ瞳に射られて午後王はふと息を詰めた。
午後王の星ふる瞳が、雨の予感をおぼえたように震えまたたき、湧きたつ何かを抑えるように両の手がその胸に寄せられた。
そのかすかな動揺は、午後王の託宣を待って耳目を傾けていた場に並び会するすべての者に波紋を打つようにさざめき伝わった。午後王の視線が青年の眼窩を渡り、鼻梁を撫で、唇に迷うさまを、幾百の目が草陰に群れて息をひそめる地鼠のように注視した。
場の静寂に気づき、午後王は青年のまなざしに釘づけられていた意識をふと取り戻した。背を衝かれたようにたたらを踏んで立ちあがり、腕を振りまわしつまづく声で処刑の撤回を告げたが、そこで初めて自分を環視する、驚きと好奇を内に張ったまま王に顔向ける不敬な者どもの目を知った。
午後王の白亜の裸身が、焼け棒杭に熾き火のにじむように色づいて火照り、汗ばみ——側につき控えていた従者の鼻は、かすかに蒸れた性器のにおいを嗅いだ。
場に会する誰もが、午後王の乱れ拍つ鼓動を手の内にあるように覚えとり、またそれは早朝の眠りを覚ます早鐘の音のように皆の心に響いた。
野蛮で猛悪なはずの王が、ただの若い男の見目に惑い上気している。
超俗の者よとあがめ奉った崇敬が潮の引くように幻滅し、かわりに砂利のようにありふれた童女を天よ主よと戴いていた事実への堪えられぬ羞恥が湧いた。
午後王は色濃く熟れたような肌を、背をまるめ両の腕で抱き隠してふたたび撤回を告げたが、騎士はいまや自身と同じ糞垂れる実存である正体を看破された午後王を呼気で嘲り、剣を抜き放つと大きく振るって奴隷の頚椎を一撃で断ち切った。
嘆く間も与えられず地面に頭を落とした青年は、もはや物言うこともなく噴き出す血に土とみずからの体を濡らすばかりで、それは没しかけた夕日に照り映やされてなお赤く赤くかがやいた。
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玉座の前に膝をついて午後王が泣き崩れている。
そのいたいけな姿にさえ、いつしか怒号が飛び、盃がいくつも投げられ、ついには矢さえ射かけられる。
しかしいずれも午後王の肌を透かすように抜けて傷をつけることはなく、玉座のまわりに祭りのあとのように矢が、什器が、射殺された従者の死体が散乱する。
それぞれ抜き身の刃を晒して玉座の高みへと先を競い上ってきた騎士たちも、午後王の腕を掴み吊り上げようとして空を切るおのが手に苛立ち、いきり立った気持ちのやり場もなく玉座と午後王を中心に蟻のように高座をうろつき回る。
乱れ飛ぶ罵声の矛先は、ほどなく役立たずの騎士たちに向かい、かつて王であった物の怪を囲む人の輪に剣呑な空気がいや増す。
そして、心をぐらぐらと煮え立たせた人間たちが彼ら同士で殺し合いを始め、おのれの足元に火を放つまでにさして時間はかからなかった。
まず、王都の住民は天を衝くように燃えさかる城を見た。
火が上がる前にも人が人を殺すただならぬ様子が遠雷のように聞こえていたはずだが、めざとさを以って任ずる洒落者が次の邪悪な流行のさきがけなるかと耳を傾けたくらいで、その暴力と炎と死がないまぜになった狂騒が城の門を割って街にあふれ出すまで、誰ひとりとしてこの都市の最期がはじまったことに気づいた者はいなかった。
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そして夜更け、狂乱し疲弊した王国に介入する機会を伺っていた隣国が、王都の炎上を受けて友国としての救難と称し国境を越えて軍列を進めていた。
先立つその斥候が、あかあかと燃える王都を夕日のように背負い、また頬をしとどに濡らして啜り泣きながら荒野を歩く、長い長い髪をなびかせ綺羅めかせた全裸の美しい子供の姿を——その腕に、黒い髪を血に凝らせた人の首をいだき抱える壮絶な姿を見た。
一種神話的な光景に、斥候が心を奪われ言葉もなく見入るその目の前で、美貌の子供は染み入る夜の闇に裂かれて食われるように輪郭を乱すと、ふと吹きつけた風に千々に散り、あとには何も残さずに消えうせた。
その逸話を最後に、午後王がふたたび地の上に姿を結んだと聞かれることはなかった。