◆第八話『初めてのエンチャント、なのっ』
そこかしこに生えた背の高い樹木。伸びた枝葉で空を覆い尽くす樹冠。射し込む陽の光はわずかだが、それがまた絶妙に心地良い空気を作り出していた。
人が落ちつくための要素がふんだんに詰まった光景だ。ただ、いまの俺の心はまったく落ちついてくれなかった。すべては、あのラブレターと思しき手紙のせいだ。
放課後、俺は手紙で指定された場所を訪れていた。
可愛らしい文字からして間違いなく女の子だ。きっとそうに違いない。ただ、そうだとしたらいったいなんのために俺を呼んだのか。そもそもいったい誰なのか。
このままじゃ差出人と出会う前に気が滅入ってしまいそうだった。
とはいえ気を紛らわそうにも周囲には自然ばかり。変わったものと言えば、いまも森の中を楽しそうに駆け回ったり、木登りをしては途中で落っこちたりして遊んでいるナノぐらいだ。
ナノに相談して心を落ちつかせるか。いや、なまじ言葉が通じるからかなんだか気恥ずかしい。まったく関係のないことでなにかないかと考えはじめたところ、すぐにいい案を思いついた。
「そういやエンチャントってまだかけたことなかったな……ナノ、ちょっとこっちに来てくれるか」
なのっ、と元気よく駆け寄ってくるやいなや、俺の前でぴたりと止まった。向けられた目は遊んでくれるのを期待する小さな子どものそれだ。
「いいか、いまからお前にエンチャントをかける。エンチャントってのは召喚獣を強化する魔法のことだ。強化前と強化後で比較したいから、まずは素の状態がどの程度かを確認するぞ。ナノ、ここにパンチしてみろ」
俺は屈んで右掌をナノに向けた。ただ、ナノは乗り気ではないようで困っていた。もしかしたら、手とはいえ俺を殴ることに抵抗があるのかもしれない。
「大丈夫だから、遠慮せずにやってくれ」
渋々といった感じだったが、ついには踏み切ってくれたようだ。俺の掌へとナノが思い切り拳をぶつけてきた。ぺしんっと可愛い音が鳴る。予想していたとおりのか弱い衝撃だった。
ナノ自身は本気だったこともあってか、不安げに俺の手をふにふにと両手で触っていた。
「な、なの……?」
「あ~、心配してくれてありがとな。本当に大丈夫だから」
むしろナノの柔らかな感触を楽しむ余裕があったぐらいだ。もちろん、ナノにそんなことを伝えるとへこんでしまいそうなので言うつもりはないが。
「それじゃ、次はいよいよエンチャントだ。ナノ、そこでじっとしててくれ」
俺はナノに右掌を向けて「フレンジー!」と叫んだ。直後、ナノの体を包み込むように、赤い燐光がちろちろと舞いはじめた。それらがナノにすっと吸い込まれていき――ついにはかすかな閃光を放って消滅した。
自分の召喚獣にかけるのは初めてだったが、どうやら成功したようだ。
「膂力を強化する魔法だ。どうだ?」
「なの~っ!」
どうやら試す前からわかるほど変化を感じたようだ。ナノが興奮したように目を輝かせていた。
「よし、ナノ。もう1回だ」
「なのっ」
俺の掌に突きこまれたナノの拳が、ぱしんと音を響かせた。さっきよりはいい音だ。ただ、正直、威力としてはそこまで変わった気はしない。とはいえ、当のナノはたしかな感触を覚えたようで高揚していた。
……ほとんど変わらないなんて言える雰囲気じゃなさそうだ。
強化魔法は召喚獣をもとに増幅するものだ。基礎の能力が高ければそれだけ大きな恩恵を得られるし、低ければ恩恵も小さい。ナノの場合は間違いなく後者だろう。
今後はナノ自身が強くならなければならないが……現状が現状だ。努力すればどうにかなるといったレベルじゃない。
もちろん諦めたわけじゃない。ナノと一緒にグランドマスターを目指すと決めたのだ。ただ、客観的な観点から最善の道がないかと考えているだけだ。
「あ、これのことを忘れてた」
俺は胸ポケットから1枚の紙を取り出した。
ここに来る前、シリル先生に呼び止められて渡されたのだ。なんでもほかの教師に小人について記述が書かれた資料がないかと相談したところ、教師の1人が提供してくれたらしい。ありがたい話だ。
たくさんの文字に、異なる姿の小人が2つ描かれている。1つは素の小人、もう1つは耳や尻尾を生やした小人だ。見た限りではウルフを彷彿とさせる風貌だ。
「ナノ、どうだ? 今度もわかるか?」
「な、なの……」
「わからないか」
困った顔をするだけで前回の分身のように行動に移そうとしない。すべてを理解できるわけではないのか、あるいはただナノが実行できないものなのか。そもそもナノに関する情報ではなかったという線もある。
いずれにせよ、今回はすぐに結果に繋がる気配はなさそうだ。シリル先生や協力してくれた先生にはお礼を言うとして。この紙については、いまは保留にするしかないだろう。
そう思いながらポケットにしまいなおしたとき、視界の端でしょんぼりしたナノが映り込んだ。
「ナノのせいじゃない。とにかくいまは地道に頑張ろうぜ」
頭を帽子越しに撫でてあげたことで元気が出たようだ。ナノが両手を挙げて笑顔で応じてくれた。
と、後ろから木の葉を踏んだような音が聞こえてきた。気を紛らわそうと始めたつもりが、すっかり夢中になってしまって忘れていた。ここに来た目的を――。
俺は心臓が騒がしくなる中、ゆっくりと振り返った。
直後、思わず顔を引きつらせてしまう。
「も、もしかして手紙の相手って……」
「よく逃げずに来たな。アル・クレイン!」
そこにいたのは想像していた女生徒ではなかった。
初日からずっと絡んできていた高慢ちきな、同じ教室の生徒。
ザグリオ・ジョストンだった。