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短編集・散文集

嫣然

作者: Berthe

1.


 店に入るとちょうど混雑時を避けられたのか思ったよりすいていて、席を確保しておく必要も感じられないところから、そのまま誰も並んでいないレジへと向かった。


 隣り合うようにレジへ踏み出すと、彼女が先に注文する気配である。


 メニューをなぞるように下まで行ったその指を、見開きの隣上に持ってきて、その人差し指が途中まで進んだところで急に離すと「カフェオレにしようかな」


 私はもちろん否定するつもりもないので、「いいと思う。俺もカフェオレかカフェラテにしようと思ってたし」と返すと「え、それならカフェラテにして。わたしはカフェオレにする」との答え。


 どちらでもいいとして、あえて反抗すべきでもないし、彼女の言うままに頼んだものを受け取ったのち、こちらも選べるだけすいていた二階のテーブル席についた。


2.


 考えてみればふたりが向かい合うこの状況、そう訪れるものではない。気を許した相手にしても、かえってそのために、向かい合ったりはしない。隣り合うことに比べて、向かい合うことはすこし不自然なのかもしれない。


 仕入れたばかりの実例を挙げると、私は今日彼女と駅前で待ち合わせて、雑踏の商店街をぶらぶらしつつ気のむくままに横町へ入ってみたり、二店ほど地下から最上階までファッションビルを冷やかしたその足で井の頭公園に寄って、欄干にもたれながらアヒルのボートの行くさまを眺めたり、ベンチを見つけたなり腰掛けて、散歩するキツツキのごとく首を上下しながら彼女のそば近くまで寄ってきた鳩を見ていたその時にいたるまで、それらはことごとく隣り合わせて、あるいはひとりの後ろをもうひとりが付き従うかたちで行われた。


 そういうわけでこうして席につくまで、ふたりが差し向かいになる機会はついに訪れなかったといってよい。事実を思えば、貸しボートに戯れる男女の多くは向かい合っていたのだから、私たちにもそのチャンスがなかったとはいえないけれども、ただしそれは互いに意識しあう人たちだろう。


 ひょっとすると今日見た男女のなかには、単にボートを趣味として楽しむ仲間もいたのかもしれないが、いずれにしろ私たちはそこからも外れていたのだし、やはり今の今までこうして向き合う機会はなかった。


 いや、向き合うといっても、ただお茶をしているだけではあるけれど。


3.


 向かい合うふたりには特にこれといった話題もない。彼女はスマートフォンを見つめるうち横髪が垂れてきて、指ではさんで抑えてみるけれど、面倒くさくなったのか指を離して、下へ向けていた顔をあげる、と同時に、スマートフォンを持つ手もあがった。


 そろそろこちらの視線に気づいたと見えて、はじめは能面のように表情の乏しかった顔も今では瞳が小刻みに踊り、SNSでも覗いているのか眉頭から眉尻にかけて控えめながらせっせと跳ねる折々、口角は眉や瞳と連動してあるいは不満を表し、あるいは喜びを表すさまを眺めるうち、どうしてもあの子と比べてしまう。こんな無邪気な姿も、最近は見ていない気がする。最初は、それに付き合う前は違ったのに。


 もう初めのような新奇さはない。もはや惰性で付き合っているのかもしれない。いや、付き合っているというのは形だけで、関係を続けているというべきか。そういえばもう三週間も会っていない。


 彼女とは見つめる仲からまもなく男女関係に入りそれから話し合う間柄になった。たしかそう。話し合うため、相対する場面も増えた。それは楽しいときもあれば、不愉快なときもあったけれど、互いを知るための、話し合うための相対を重ねた結果は、男女関係に入ったときより、そしてそれ以前の見つめるだけの仲であったときに比べて、必ずしもよかったとはいえない。


 むしろ知りたくないこと、癪に障ること、趣味に合わないことを見つけたと言えば、それは自分が夢を見るだけで、現実を見ていないという話になるのだろうか。


 ひとつ確かなのは、目の前の彼女がスマートフォンを見つめる姿は私を満足させるということである。


4.


 物思いに耽るうち、彼女は以前のように能面のごとく画面に見入っていたが、音を立てないようそっと、テーブルへスマートフォンを置いて、置いたほうの手でカップの取っ手をつまみ、もうひとつの手で容器を支えて持ちあげる。真っ白の容器は寄り道することなく順調に口元へたどり着く。カフェオレを口にしたまま一息つく様子でこちらを見て、目尻を緩ませたかと思うと、横を向いた。さらさら流れる横髪から耳の先がわずかに覗いている、そのそば近くに、白い糸か何かがきらめいている。私は取ろうと手を差し出して、止めた。彼女は目を丸くしてこちらを見る。


「何かついてるの」と言いながら彼女は髪を払って、「まだついてる?」

「うん。まだ」白い糸の見えなくなった彼女の髪からそれを取ってみせる。

「ほら。あれ、どこいったのかな」苦笑とも微笑ともつかない顔でそういうと、

「ありがとう」


 嫣然(えんぜん)と微笑む彼女に見つめられたとたん、気づいてしまう。


 こういうのでよかった。これで満足だった。これが見たいだけだった。


 ここから先に進もうとして、いつだって、それを失ってしまう。関係が深まればこの微笑も独占できると思っていたのかもしれない。でもそれは思い違いだったのだろうか。私には今以上のものを見つけられない。


 付き合っているひとがいるのを彼女は知らないはずだし、ひょっとするとこの先を期待しているのかもしれない。だけど、そこへは進めない。私はこの微笑を守らなければいけない。

読んでいただきありがとうございました。

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