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恋のほのお  作者: 桃山城ボブ彦
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第9回~昭和45年5月12日「明日に架ける橋」(中)


 カクテル光線に浮かび上がったタイガースの背番号二十八番が大きく左腕を振りかぶる。そんな、後楽園球場のレフト側ジャンボ・スタンドから見える、遠い豆粒のような姿を僕は固唾をのんで見守っていた。巨人ファンが殆どを占めるこのスタジアムといっても、レフト側の観覧席まで来ると関西の訛りがチラホラと漏れ聞こえてくる。今日は今シーズンになってからはじめての東京での巨人・阪神戦なのだ。

 もっとも、僕を含めた数少ない阪神ファンの視線の先にある、三日前の広島相手の完投勝利に続いて今シーズン四勝目を狙っている「二十八番」こと江夏豊の調子は決して良くなさそうだった。彼の代名詞である三振が、今日は全く奪えていないのだ。逐一数えているわけではないが、多分既に奪った三振の倍はジャイアンツにヒットを打たれている。自慢のストレートが今一つ冴えないのだろうか。

 しかし、それでも巨人は江夏から点が取れない。チャンスに後一本が出ないのだ。


「私は野球はあまり知らないけどさ」


 三回裏の巨人の攻撃が得点なしに終わった後、僕の横にいる吾妻多英がビールの紙コップを片手につぶやく。暖かくなりつつある季節とはいえ、夜風は流石に冷えるのか彼女は白い薄手のカーディガンを羽織っていた。


「巨人ファンからしたら今日の試合は相当つまらないんじゃないの?」


「今のうちはね。でも、まだ序盤戦だよ。タイガース贔屓としてはまだまだ安心できない」


 僕は灰だけになった『わかば』を、飲み干したビールの紙コップに放り込むと答えた。


「何せ相手には王と長嶋がいる……」


 柴田や高田、堀内の名前はあげなかった。野球を大して知らないであろう人間に通用する名前かが分からなかったのだ。


「あ、その二人の給料は知ってるわ。週刊誌で見たけど二人とも年俸が五千万円なんでしょ?」


「カネの話はなあ……プレーを集中して見られなくなるからなあ」


「でも、いいプレーをしたから高い給料なんでしょ。いうなればいいプレー見せてくれるための担保のような数字じゃない?」


「そりゃ、まあそうだけど」


 どうもこの子の言う事はピントがずれているようで肝心なところはずれていない。確かに年俸一千万円以上の選手がゴロゴロいる巨人は強いし、逆に貧乏球団だった西鉄や東映からは八百長疑惑の選手達が裁かれようとしていて最早野球どころではない。ヤクザにそそのかされて八百長試合を組んだ選手の一人は、一軍で投げながら月給十万円ももらっていなかったと聞いている。

 でも、それはやはり違うのだ。金で勝敗が決するのなら、高額納税者をかき集めて試合をすればいい。


「だから金の話はなあ……多く貰ってもそうでなくても、プロだからみんな凄い選手なんだよ」


 あれは東京オリンピックの前だったか後だったか、少なくとも中学生の時だ。甲東園にある椿荘という西鉄ライオンズの宿舎まで、僕は石堂と連れ立って試合帰りの選手を待って何度となくサインをねだりに行った。

 それなのに、試合後の疲れも気にしない猪首の中西太や細い目をした稲尾から手帳にサインをしてもらった時の感動を、吾妻多英に伝える言葉は今の僕には悔しいことに見つからなかった。

 今日の昼以来我慢していた不快感が、僕の中でドロリと溢れ出る。


「吾妻さんの言うことは理がとおっているさ。でも、やっぱりホームランや盗塁や剛速球に比べたらくだらない話題だよ」


 僕は、この少女に野球ファンとして何か一言物申しておきたかった。大体がキップを奢ってやったのに白ける発言ばかりじゃあないか。


「金持ちをみたいだけで火曜の晩に四万人も人は集まらない」


「まあ、そりゃそうよね」


 吾妻多英は反論をしなかった。しかし、次の瞬間には話題を全くに変えると、昼からの挑発的な言葉を蘇らせた。


「でも、波多野クンの手元にONみたいに五千万円あれば」


 彼女はビールを煽った。


「想っていた女の子だって口説けたわね」


 僕は何も答えなかった。何故なら、それどころではなかったから。

 突然、僕の視界がうっすらと滲んでしまったのだ。

 金があればなんでも出来るというわけでは、今回の場合は多分、違うだろう。おケイは別に金で動くような人間ではなかったし、何よりも彼女自身が金持ちの娘だった。そして何よりも、五千万円なんて金額には実感が沸かない。

 もう、不快感などという言葉では形容がつかなくなっていた。あるのは怒りだけだった。もしも、吾妻多英が男だったら、僕は()()()()()()()()()()()()()だろう。


 少し呼吸を整える。吾妻多英にも、そして周りの観客にも涙が滲んで声が詰まった自らの姿など晒したくはない。第一、贔屓のタイガースが4対0で勝っている際にいきなり泣き出したら狂人扱いされかねない。

 僕はすっかり闇となった空を見上げ、それから打席に向かっているタイガースの選手へと視点を下げた。その際にアゴに手をやり、戦況を確認するフリをしながら目尻の涙を拭った。


「吾妻さん」


 とりあえず声に異常はなさそうだ。


「少し黙っとけや、このアマ」


 それだけを小声で言うと、僕は再び、球場で一番高い視点を手に入れられるジャンボ・スタンドからバッターボックスに視線を向けた。場内のアナウンスは聞き逃していた。だから、今打席に立っているのが藤井なのか遠井なのか、それともカークランドなのかも全く分からない。

 吾妻多英は少し蒼ざめ、そしてそれっきり本当に黙ってしまった。だが、僕は気にはかけない。ただただ、次にウグイス嬢が選手の名前をアナウンスをするのを待とう、とだけ思った。

 場内アナウンスを待ちながら、僕は背中を屈めて、両手の中で新しいタバコに火を点ける。煙に目を細めると、僕は四万五千の大観衆から発せられる笛や鉦や手拍子の中を離れて、今日の昼過ぎからの事を振り返ることにした。



 味気ない昼飯を更に台無しにした吾妻多英は、結局「舞台演劇論」を僕の隣で受講した。

 講義の終わりを知らせるベルが鳴ると、僕は一目散に大教室を後にし、傍らのトイレへと駆け込んだ。別に、便意があったわけではない。ただ単にさっきからまとわりついてくる吾妻多英を、トイレに籠ってやり過ごそうとしたのだ。

 なのに、臭気ぷんぷんたる個室の中で、腕時計を睨みながら五分間耐えた僕を待っていたのは、あの小柄な少女だった。


「随分と長いトイレね」


 腕を組んで仁王立ちの姿をとる彼女は、口元に涼やかな笑みを浮かべて言った。


「なんでここにいると分かったんだ?」


 僕は情けなく声を裏返しながら問うた。彼女は人ごみの中で右手をアゴに添えると、推理小説の探偵のように斜め上を見ながら呟いた。パイプでも咥えたら多分、シャーロック・ホームズ気取りになりそうだ。


「うーん。まあ、波多野クンは校舎から走って嫌な話題を苦手な女の子から雲隠れするより、トイレに潜んでやり過ごすのかなあって何となく思っただけ」


 吾妻多英は、さらに露骨な笑みを浮かべて笑った。


「読みがあたったわ」


 どうも今日はあまりいい日ではないらしい。僕はもう、すっかりこの少女に観念して、虚しく左手を振ることで降参の意志を示す他なかった。


「好きにしろよ、ホームズ先生。もう、ええわ」


「まあまあ」


 少女は左手で気取ったポーズを作ると、我が降参の意向を片手で制した。


「失恋した男の子を間近で観察できる機会もそんなにないし、ちょっと付きまとわせてよ」


「勝手にしろ」


 気持ちの悪い疲労と諦めだけが残った。

 それから僕と吾妻多英は、学部集会へと向かう商学部生の集団を中庭でやり過ごすと、お互いに言葉を発さないままで、やがて校門を通り過ぎて甲州街道の陸橋を渡り、京王線の駅へと向かう。こちらは今日はもう、授業がないからいいものの、傍らの少女がどうなのかは知るところではなかった。ただ、仮に残りの授業があってもサボるつもりなのだろうな、と思った。こちらへの「観察」がそこまでする価値があるものかは、彼女のみが知っている。


「どこに行くっての?」


 僕が定期券を駅員にかざしている時、彼女はようやくに長い沈黙を破った。


「後楽園球場」


 そうとだけ言うと、僕は構内の階段を上がって新宿行きのホームに出る。


「クサクサするからプロ野球を観に行く」


「じゃあ私も連れてってよ」


 連れて行くのが当然、とでもいうように彼女は胸を張った。


「分かったよ。案内するさ」


「でも、観察には切符代がいるわねえ」


 電車が到着するというアナウンスがホームに流れる中、吾妻多英は僕が入場料を払うのが当然、とでもいった態で首を軽く傾げてこちらを見つめた。


「分かったよ、君の分も奢るよ」


「そうよ。それからビールとホット・ドッグもよ。私、野球場のホット・ドッグが美味しいって人に聞いたんだから」


 僕は今日何回目かで顔を右手で覆い、そして乗車した。彼女ももちろん、乗り込んでくる。

 しばらくして電車が笹塚を過ぎて地下線へと向かって速度を上げていく中、彼女は昼休みに放ったトンデモない一言をまた口にした。


「波多野君、野球が好きな男の子は、試合がマ・ス・の代わりになるの?」


「吾妻さん!」


 流石に僕はたしなめた。若い世代の中で卑語が辛うじて許される大学の構内ではないのだ。現に地下線の轟音の中にもかかわらず、何人かの男性が驚いた目で彼女を見つめている。


「頼むから『そういう言葉』を使わないでくれ。それに、野球を観に行くのにそこまで理論武装はしないよ。単に地元のチームが来るから見物に行く、それだけだよ」


「そっか、波多野クンは関西生まれだから地元に野球チームがあるのね」


 吾妻多英は「卑語」への周囲の反応を物ともせずに、ケロリとした表情でこちらが切り替えた話題に乗ってきた。


「私は、喜多方なのよ。福島の」


 彼女はため息をついた。


「だから地元のチームを観に行くなんて感覚ないな」


 手すりを握りながらそう言うと、初めて彼女は僕をからかうのではなしにため息をついた。こちらをからかうだけからかっていた彼女の漏らしたため息の理由は、僕には分かりはしなかった。

 ただ、ほんの少しだけだが、吾妻多英に対する違和感が少しだけ薄らいだような気がした。



 僕と吾妻多英の間に長い沈黙が続くうちに、結構な時間が後楽園球場のジャンボ・スタンドで過ぎていた。その間、試合のスコアは4対0が巨人の高田のホームランで4対1になっただけで、阪神の優勢に変わりはなかった。

 江夏がゆっくりと九回裏のマウンドに登っていく。このイニングを抑えたら彼は三試合連続の完投勝利となるのだ。吾妻多英が「波多野クン、さっきはごめんなさい」と言葉を発したのは、江夏が勝利に向かって振りかぶった瞬間だった。


「いいよ、もう。僕だって言い過ぎた」


 僕は身体を左にねじり、何時間かぶりに彼女の顔を覗き込むとそう言った。彼女がこちらに対して多少なりとも「すまない」と感じている事は、沈黙に耐えかねてスタジアムから逃げ出さなかった事で十分に分っていた。


「タイガース、このまま勝つといいわね」


 彼女も僕を見つめ返して、そして久しぶりに少し笑みを浮かべた。


「ああ」


 僕は頷き返す。そして、江夏の二球目を注視するために再びマウンドを見つめた。

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