第88回~昭和46年4月26日「エブリー・ロンリー・デイ」(後)
三
「気を悪くしたか?」
芳村さんはゆっくりとした仕草でタバコを咥えた。
「気を悪くするも何も」
何かを言おうとして、僕は言いよどんでしまう。芳村さんの言葉に思わずたじろいだのだ。本当は、「許してもええのですか?」と念を押したかったのに。
「おケイの立場を思うと……」
「婚約者から言われるとは思ってなかったやろ?」
恵子の心情を慮ってみようとするこちらの思考を、芳村さんは素早く塞ぐ。表情には微笑があっても、彼は言葉を最後まで言わせてはくれない。
「波多野、今から言うことをよう考えてくれ」
彼は福村さんの墓石の前に供えた茶碗を眺めていたが、やがて零れるのを躊躇せずにまた、そこに酒を注いだ。褐色だが透き通った液体が墓石の上を静かに這っていく。
「俺達は…………それぞれの友人を堕としてしもうたんよ」
芳村さんはタバコを地へと放り捨てる。
「そして放置された友人達はやがて奇妙な師弟となり、結果、恵子は傷ついた。あないなる前に止めるチャンスなんざ山ほどあった。でも、俺らは…………なあ」
「ええ」
僕は苦い同意とともに頷く。
かつての福村さんや石堂の誤った熱情は、僕らが彼に正面から向き合えばまた違った方向に向かったかもしれない。
だが、結果として福村さんは六甲山中を愛車で転がり落ちた。傍らの男はもう、彼と話をすることも叶わない。
そして石堂も人倫にもとる行為をした。全ては僕らが何もしなかった結果だ。
「あいつらは罪人です。しかし、そう仕向けたのは僕らです。快楽や嫉妬を煮詰めたら、恵子さんだけが……」
「あぁ」
男はウイスキーの瓶の残りを、そっと墓の上にかける。彼は許そうとしているのか、それとも許されたいのだろうか。
「だから俺が福やんに赦しを乞うように、お前も石堂を許してくれ」
さっきの言葉と文言は似ていたが、肝心なところが変わっていた。
「許す……のですか? 許しても、ええんですか?」
「せや、許してやってくれ。そうすることで、生きている人間は奈落への螺旋から全員抜け出せる」
「はあ……」
「お前が恵子を慮って、即答できんのは分かるよ」
すぐ近くを走る国鉄の線路からディーゼルカーの警笛がする中、芳村さんはふと、こちらから背をそむけた。
「でも、許すことは恵子のためなのや。あいつの頼みなんや」
「おケイの?」
発作的な衝動が、丸く背中をかがめた相手に声をかけてしまう。僕の声で芳村さんは更に縮こまった。きっと、懇願するかのように頭をさらに低くしたのだろう。低い声だけが寄越されていく。
「石堂とお前の間柄がよどんだままであったなら、あの娘の中では昨日の不幸な部分だけがまだ続いている。それが続くということは、パリに行こうがモスクワ行こうがあの日の記憶が消えて行かないのや」
パリだろうがニューヨークだろうが、これからはどこにだって『調査旅行』の名目で飛んでいける人間は言った。
「許すことで、初めてイシを忘れられる。そうやって昨日を乗り越えようとしているということですか?」
「せや……」
彼は震えた声とともにこちらを振り返った。その顔には湿度があった。
「それを夫として援けんと」
「おケイの中の過去は完結しますかいな?」
「俺が閉じさせるよ」
「そうですか……」
芳村さんの「閉じさせる」という言葉に倣ったわけではないが、僕は目を閉じた。
石堂だけではない。彼を赦すことで僕もいずれは忘れられるだろう。二人は恵子の記憶の中からどのようなスピードでかは分からないがかすかな良い思い出だけを残して消えていくのだ。僕が万博の会場で『恋のほのお』を口ずさんだあの娘の姿を、多英との日々の中でそれこそレコードのように脳裏ですり減らしていくように。
「それにな、波多野」
芳村さんはこちらが思考を重ねている間にいつのまにか真横までやって来ると、そっと僕の手を握った。
「お前には、俺と違うて話をするチャンスがまだ残っとるんやさかいな」
「確かに、そうですな」
僕はほんの少しだけ表情を緩めると、肉づきの良くなった手を握り返した。この手が真摯に恵子に触れる度に、地中の福村さんが彼の罪を赦してくれはしないだろうかと思いながら。
「ええですよ。芳村さん」
そして、ほんの少しだけ呼吸を整え、その言葉を一気に宙に吐いた。
「イシを許します。それと同時に、あのアホに詫びますよ」
「ああ、ありがとう……波多野」
芳村さんは無言のうちに頷いた。会話が少しだけの間、途切れる。
涙声の相手のために僕は次の言葉を探さねばならなかった。ただ、次の言葉は何でもいいから明るく始めたかった。
だから、「あの娘は元気ですか」と芳村さんに問いかけた。
「元気やでェ。最近、今までよりもよう笑ってくれるようになったよ。しょむないことでもな」
震え声の原因たる涙はまだ収まらずとも、好ましい泣き笑いの顔が頼もしい言葉とともに眼前にあった。それをつぶさに眺めたなら、おケイが芳村さんを好きになった理由もまた、そこにあった。
だとしたら、僕が記憶から消えて行くということなど、大した話ではない。屈託なく彼の腕の中で笑ってくれるのなら全てを忘れられたってかまいやしない。
「へえ、それは例えばどんな時に……」
なにでもって今の恵子は笑うのだという他愛ない質問は、子供をいっぱいにのせた大型バスが門前の坂道を砂埃を巻き上げて登っていくことで打ち切られた。砂利が跳ね、ガソリンの匂いがかすかに漂う。
「この先の山上に近鉄の遊園地があるらしゅうてな」
その隙に芳村さんはさり気なく話題を変える。僕はその所作に食い下がらない。夫婦だけの秘密をのぞくのも無粋なのだ。
「へえ」
「ここいらは天皇さんのお墓と、その御代に殉じられた乃木大将を祀った神社も近くにはあるけど、帝と忠臣の目と鼻の先にはジェットコースターや。京都もケッタイな街やなあ」
「聖俗がお隣さん同士ですかいな」
僕は、話題を変えた芳村さんの意図にのることにした。今のおケイがどんな風に生きているかは、彼の中にだけ留めておかねばならないことを思い出した。そうしないと、僕もまた、忘れていかねばならないという使命を見失うところだった。
「ま、聖はさすがによう分からんがね。でも、俗があるほうが福村も退屈せんやろなあ。彼氏とデートにきた女の子のスカートの中、地中から覗けるしな」
「おお、怖」
僕はあからさまに肩をすくめた。道化の仕草だった。こちらが動くことで、誰かが幸せに戻るのだ。いつだったかピエロになりたいと願った時があったが、それは今日のためだったのだと感じた。
「芳村さん」
ジャケットの裾でまだ目じりをこっそりと拭っている男に声をかける。『恋のほのお』のレコードから針を上げる時がやって来た。
「おケイに”もう僕らは大丈夫や”とだけ伝えてください」
僕はありったけの表情筋で顔を取り繕った。そして、芳村さんに背中を向け、山門へと歩き始める。
「駅まで送ったるよ」
婚約者のありがたい提案が背後からする。しかし、その優しい提案を僕はやんわりと拒絶しなければならない。まだ、久しぶりに話したいことはある。が、それよりも少しでも早く一人になりたかった。
「いや、ここで別れましょう」
だからそう、穏やかな声で言った。
「でも恵子さんとの同窓会は、いずれ、お互いが会いも話もしない形でやりますよ」
涙が乾いた婚約者もニヤリと口元を緩めた。大方、概要を恵子から聞いたのだろう。
「俺は、来てはダメかいな?」
「さあ、どうでしょな」
僕はからかうように首をかしげた。もちろん、過去の友人のささやかな幸せの記憶だけをもった恵子が劇場に行く時、亭主がそこにいてはいけないという理屈などない。
「ふ、ふ……」
声にもならない微かな笑い声を口にしながら芳村さんはブルーバードに乗り込む。が、車は一気に僕を追い抜こうとはせず、こちらの傍らですぐに停まった。
「波多野!」
運転席の窓から肘を突き出した芳村さんがこちらに怒鳴る。
「来年、映画会社、絶対に通れよ!」
「通りますでぇ! 結果はスクリーン、観とくなはれや!」
負けじと叫び返した。そして、ブルーバードは昼下がりの郊外の坂道を砂埃の中ゆっくりと下っていき、直に見えなくなった。
四
ブルーバードを見送った僕が佇む丘陵に、静かな午後が再び訪れる。静寂の中で門前の石段に腰かけ、しばし目を瞑った。それからもう一度、こんこんと眠る福村さんの前にまで戻ると一礼し、手を合わせた。葉桜に囲まれた男は、相変わらずに御影石の中から言葉を発さない。
「『お互いの暗さ確かめよう』と昔、言わはりましたな」
そう言うと、墓前に供えられたままの茶碗の中身を僕は「頂戴しまっせ」とことわって喉奥に流し込んむ。
「こちらは去年から、少しずつそういう感情が薄らいでいますわ」
そう呟くと、僕は多英を想った。自らの暗さを認識していた彼女は、同じように暗い僕の手を握って一緒に明るいところに導いてくれた。
「恋人と友達ができたんです」
多英とともに僕の昔を客観的に眺めてくれた中田の顔を思い出した。飄々とした男は、今では多英と僕がお互いの部屋で話をしていていい雰囲気になった途端、図ったようにメシをたかりに来る。そして味噌汁を一気に飲んだら、こちらが使う予定だった布団に潜り込んで一人で寝るのだ。悪癖を覚えた男は、まだ仮面をかぶることに飽きてはいない。
「ええ先輩かて、いはります」
アンさんのギターの音色を思い出す。彼は流しをやめていた。代わりに、赤坂のナイト・クラブの専属バンドに合格して月十二万の固定給が声につけられた。レコードを自主制作で出すためにせっせと金を貯めこんでいる彼は、たまに中田の店で頼みもしないのに僕らに歌を歌っては三百円をふんだくる。前には『恋のほのお』を歌ってくれた。
「僕は……芳村さんは……。そしてイシはみんな、明日に向かってもええでしょうか?」
暗さを捨ててしまった要因をひとしきり回想しながら伺いをたてる。すると、返事の代わりに山上にあるという遊園地の方から歓声とも嬌声ともつかないものが風にのってやってきた。福村さんが地中からスカート覗きをしているからだと僕は思った。
「あんた……」
僕は呆れ声とともに茶碗を再び前と同じ場所に置いた。
「実は、さっきから起きてましたな?」
遊園地からの賑やかな風はたて続けに吹き、墓地の葉桜を揺らした。僅かばかり残っていたピンクの花弁たちが、新録の五月を前にして枝から離れて宙を舞い始める。
上に下に、鮮やかに踊るその光景を僕はいつまでも眺めていた。




