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恋のほのお  作者: 桃山城ボブ彦
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第87回~昭和46年4月26日「エブリー・ロンリー・デイ」(前)


 新幹線を京都で降り、国鉄のディーゼルカーに十分程揺られたところが目的地に程近い駅だった。あたりには京都市中にありがちな、伝統ある建物が雑然とした街並みに紛れ込んでいる不思議な騒がしさはあまりなく、うっそうとした森だけが駅の裏手に静かに広がっている。駅の観光案内板を見ると近くに天皇の陵墓が二カ所あるらしい。森は多分、そのせいなのだろう。

 僕は一服つけると踏切を渡り、『明治天皇陵』と記された案内板の矢印の先に続く緩やかな坂道へと歩き出す。東京に遷都された君主が生まれ故郷に休んでいるなど、今回ここを訪れるまで知らなかった。

 だが、今日は別に陵墓の参拝に来たのではない。目的は似てはいるが相手は別に天皇陛下ではない。


 参道を途中で左に曲がり、更に急峻となった坂道を登ると、程なくして小さな寺が見えてくる。清潔に掃き清められた門前、そこから本堂までの狭い敷地に雑な停められかたをした旧式の白いブルーバードが、ここが目的地で間違いないことを指し示している。


「久しぶりですね……芳村さん」


 運転席から覗く横顔に声をかける。ドライバーがゆっくりとこちらを振り向いた。


「波多野か……」


 ()()()()()()()()()()()()()()。一年の広告マン勤務を経た芳村さんの顔は接待が多かったのだろう、七三の髪は一昨年と同じままだが、ほんの少しだけ肥えていた。この春から繊維商社に二世の社長候補として迎え入れられたはずの彼の目方は、より増えていくだろう。だが、そのうち宴席で床柱を背負わねばならないのだとしたら、案外その方が上に立つ貫禄がついていいかもしれない。


「まあ、隣に乗れや」


 そう言うと彼は助手席を指さし、車の鍵が開く音がする。怪訝に思った僕は思わず、「ようやっと着いたと思うたらどこかに行くいうんですか?」と乗り込みながら彼に尋ねた。


「ちゃう、ちゃう」


 芳村さんは苦笑しながらかぶりをふった。そして、魔法瓶に入ったコーヒーをこちらへと差し出す。


「まだ一周忌の法要の途中や」


「ああ……」


 ぼんやりとした温かさのコーヒーに口づけながら僕は頷いた。


「俺ら、別に正式の行事には呼ばれてへんからなあ」


「勝手に来ただけですからな」


「せや」


 芳村さんは頷くとハイライト・デラックスを一本、おのれの口に持っていく。


「しかし波多野、お前もよう来てくれたよ」


 タバコの煙とは関係なく、ドライバーが目を細めた。


「さあ……芳村さんにも長いこと会うてなかったし、それに……」


「それに、なんや?」


()()()()()()、永いことね」


「ああ……」


 咥えタバコの芳村さんは鈍い声で応じると、男の法要が行われている本堂を見つめ、シートにもたれこんだ。そして、黙った。ゴールデン・ウイークを間近に控えた静かな京都郊外の丘に、読経の声だけがささやかに漏れていく。



 僕がブルーバードに乗り込んでから三十分ほどした頃、本堂から数人の黒い背広に黒ネクタイの中年男性と三十前くらいの男が慌ただしく出てくると、僧侶に頭を下げるのもそこそこに迎えのデボネアへと乗り込んだ。

 大型車のけたまましい排気音が狭い路地に鳴り響いたが、やがてその音は消え静けさがあたりに戻った。福村さんの一周忌法要はどうやら終わったらしい。


「法事はもっと長うかかる思うてました」


「会食なんか、ないさかいな。アイツには父親以外に身寄りがおらんかったから偲んで酒呑んでくれる人もおらん」


 コーヒーをすすりながら芳村さんは事も無げに言う。その言葉は矛盾していた。が、福村さんの生い立ちには父親は存在しているとも、存在していないともどちらともとれる以上、間違いではなかった。


「多分、さっきのオッサンがアイツの親父から法要への開催と代理出席を命ぜられた管理職、若いのがその部下ってなとこやろ」


 その言葉に僕は、デボネアに乗り込むときに晴天を睨みながら二、三度ゴルフスイングの真似をしていた太った中年男の姿を思い出す。


「ダボクレめ」


 芳村さんは小さな声で吐き捨てるように言った。


「気を取り直しましょや芳村さん」


 ともすれば気分を害したままの彼を制するように僕は明るい声を出した。


「僕らが偲べばいいことです」


 それだけ言うと僕は黒いネクタイを締めなおし、それからウイスキーの瓶と缶ビールを携えて車外へと出る。花をもった芳村さんはスーツの灰をはらうと無言でそれに続いた。



 まだ真新しさをとどめた御影石に刻まれた戒名を見つめながら僕らは一言も発さずに手際よく供物を備え、手を合わせる。


「なんで、僕を誘ったんです?」


 沈黙を嫌った僕は、手はそのままに隣の男に尋ねる。


「俺が来たかったし……それにお前も来たかったやろ?」


 返事は答えになっているのだろうか。だが、僕は彼の横に座りながら「ええ」とのみ告げた。芳村さんは、その言葉に少し笑みを浮かべたが、やがて「今日はドライバーやからなあ」と呟いて鞄から出した茶碗にジョニーウォーカーをなみなみと注いで、それを墓前に置いた。それからもう一杯の茶碗を出すとジョニ黒を同じようにフチまで満たして僕の前に突き出した。


「謝りたかったんやな」


「福村さんに?」


 遠慮をせずに高級ウイスキーに口づけた僕は聞き返す。


「せや」


「言いたかないですが、あれだけの恥をかかせられたのに?」


「アイツはなあ、死んだ日に直前まで女と六甲山をドライブしとった」


 こちらの本意ではない、ともすれば単に相手を挑発するだけのような言葉に芳村さんは応じなかった。代わりに、福村さんの最後の日の動静だけを語り始める。


「誘われた当人から最近聞いた話やから間違いないやろ」


「へえ……」


「まあご機嫌やったらしいわ。それが帰り道に路肩に車を停めていきなり癇癪起こしたようにその子を殴りつけて『去ね、ボケェ!』だなんだと怒鳴り散らすと、放り出すように甲陽園の駅前で降ろしたんだとよ」


 どう答えたらいいのか分からなくなった。僕は福村さんという男を彼が死んでなお、どす黒い暗さと嫉妬で満ちた暴力的な人間であったということ以外、知らないのだ。そりゃ、その日の彼の行動が非難されるべき内容であることくらいは分かる。だが、芳村さんの口ぶりは、こちらにそんなものを求めてはいないような気がした。


「あのアホが六甲のドライブウェイでガードレール突き破ったのはそれから一時間後のことらしい」


 風が吹いた。線香のけむりがたなびき、御影石の上の茶碗酒の表面が少し、震えた。


「まるで、自殺やないですか」


「自殺、やろ」


 芳村さんはハイライトデラックスを咥えると「福やん、火ぃ借りるわ」とことわり、目を細めながらロウソクの火をタバコに移した。 


「死にたくなったんやろなあ」


 恵子の婚約者の顔から表情が消えていた。


「理由が、あったんでしょうか」


 僕は福村という男への恨みつらみを置いて、単純な疑問だけを投げかけた。今は、彼を恨んでも仕方がないのだ。それに、「石堂を静かに狂わせた男」という評価だけを下しているのなら、わざわざ今日ここまで来たりはしない。


「哀しいが、理由がなきゃ死んだらいかんいう道理もない。何か、張り詰めたものが切れた。それだけやろ」


「芳村さん」


「なんや」


「気ぃ悪うせんでください。昔、ね。あなたが福村さんに半殺しにされた後、僕、『お互いの暗さを確かめようや』と言われたことがあります」


「そうか……『暗さを確かめようか』か……」


 芳村さんは吸っていたハイライトデラックスを左手に移すと、ポツリと言った。 


「でも俺が、何か張り詰めた原因を聞いて、ほどいてやるだけの存在やったら福村もそんな自虐を語らんですんだんよ。だが、こちとらアイツにたかるだけの男やったからな……」


 静かな後悔の言葉だった。その頃の芳村さんは、あの会場にいたような数多くの福村さんの「取り巻き」の中で一番近いところにはいたものの、結局は「取り巻き」でしかなかった。都合のいい時にいい酒といい女をくすねたり口説くためだけにいた人間だった。縁を切られ、福村さんが消え去るその瞬間まで、決して彼の孤独に触れようとはしなかった。

 あの日からもう二年近くが経ち、人ひとり燃える車の中で絶命してからも一年が経った。その間に芳村さんの身体は往時のスマートさを喪ってはいたが、肉づきに比例して彼の心も柔らかくなっていた。


「なあ波多野。お前呼んだ理由、何となく分かったやろ」


「ええ、ハッキリと分かりましたよ」


 芳村さんがこちらへと向きなおろうと革靴を動かす。玉砂利の音がざわめいた。僕は、背中に何か冷たいものを感じながら、ウイスキーの残りを呷った。


「それなら助かるの」


 彼はぎこちなく笑みを浮かべた。僕も、同じような顔をつくる。次にくる言葉に備えるためだ。


「お前、石堂を許したれや」


 また、風が吹いた。墓前の茶碗から酒が零れ、白い側面に茶色い筋を描き始めた。

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