第86回~昭和45年8月23日「恋のほのお」(6)
八
万博の会場を、幸せそうな人々と一緒に銀色の電車で大阪市内へと送り出されてからの二十分あまりの間で、僕は石堂について彼女に何も語りかけることができなかった。「結構辛かったよ?」という、恵子の言葉を正面から受け止めるだけのいい言葉はついに僕の頭からは出ずじまいだったのだ。
別に、言い繕うつもりなどなかった。が、今抱いている率直な感情を恵子に言うことが出来なかった。何かを言えば、それが石堂への謝罪になってしまうことに気づいてしまったのだ。
僕が石堂を切り捨てた結果、恵子は彼に心身ともに傷つけられた。だが、「イシを見捨てた僕が悪いんや」とか「イシに済まないことをした」などとは間違っても彼女には言えない。最大の被害者は石堂ではなく、目の前の少女である。そして加害者は……。
加害者は!
「僕はこの数年、実に冷たい男やった」
電車が千里を過ぎ、新大阪までの長い地上線を走る最中に辛うじてそんな言葉だけが出た。だが、そんな言葉などフジパンロボット館の前で口走った、「僕は、君にとってずっと悪党やった」という一言の工夫のない焼き直しでしかなかった。でも、何かが心の中でくすぶりつづけてはいる。なのに、いぶされた思いは最早、言葉にはならない。僕らを乗せた電車だけがモーター音も高らかに颯爽と走っていく。
「……」
こちらの拙劣な言葉に相対した恵子は、車窓から飛び込んでくる西日に目を細め、そして僕に少しだけ微笑んだ。言葉はなかった。
何のことはない。目に見える復讐がなかっただけで、僕は彼女に許されてなどいなかったと改めて思うしかなかった。
「芳村さんとはいつ式を?」
”お天気はいかが”などといった定型文よりも更に下手糞な言葉を僕は相手に送る。
「来年の秋かな。彼がパパの会社に入ってから」
相手が小首をかしげながら答えた。なぜ、そんなことを訊くのかとでも言いたげな表情だった。
「さよか……」
薄笑いとともに僕はやり取りを打ち切った。外から見たならきっと他愛のないやり取りだろう。だが、あからさまに世俗的な話題に終始しなければやりきれない。それだけの話でしかなかった。
「ハネムーンやったらパリがええなあ」
彼女は無邪気に言い放ち、そして夕日に目を細めてまた黙った。大阪からでも直行便があるのだろう。電車線から西を向けば、伊丹空港はほど近いところにある。
「パリかぁ……」
「うん。パリや」
彼女は力強くフランスの都市の名前を繰り返す。好きだった人が結婚するということは、その人が地球の彼方まで飛んでいかなければ認識できない。そして、ヨーロッパのハネムーンなどと言われたら、僕らの住む世界が途方もなく遠いことを再認識してしまう。きっと帰国したころには、僕との距離はパリよりも遠くなっているだろう。
「パリは遠いなあ……」
そう呟くと、僕も空港の方角をなんとなく、眺めた。
だが、地下鉄が桃山台の駅を過ぎた頃、僕の陰鬱な内面を明るい場所へと据えなおしたのは恵子だった。
「ねえ、波多野君」
「なんや?」
停車する駅ごとに大勢の人を乗せることで、いつしか満員電車へと化した車両の中にあって僕は振り返る。
「再来年、波多野君が就職試験受けるのはやっぱり映画会社なん?」
それは、こちらが相手の新婚旅行の行き先を尋ねたくらいには唐突な問いかけだった。
「せや。凄い、ロックやポップスで塗り固めたミュージカルを撮ったるねや!」
空元気でこそあれ、僕は明るく答えた。でも、それが嬉しくもあった。恵子がお互いの過去についてではない、明日の話題を繰り出してくれたのだから。そして、僕が熱心に映画を観ていたことを記憶してくれていたことも。
「凄いやん」
恵子は、冷笑めいた雰囲気など微塵もなく、我が大言を肯定した。
彼女はその経済力からして、これからの人生で幾度となくパリに行くだろう。その時、モンマルトルなんぞの街角のポスターにプロデューサーとしてこちらの名前があったのなら愉快じゃないか。もちろん、恵子の挙式には間に合わないだろうが。
「凄いやろ?」
僕は、ニヤついた。そして、気がついた。
この苦笑ではないニヤつきこそが今までの僕に足りない全てだった。今までの僕に決定的に欠けていたものは、十年後にフランスの古ぼけた学生街の壁に自分の名前が書かれているポスターが貼ってあることを夢想する、そういった過剰な自信と自己肯定だった。持たなければならないものを、石堂に全て任せていたのだ。
「封切りされたら観に行くわ」
恵子は車内の押し合いへし合いの人いきれの中で囁いた。笑顔があった。でも、これからの僕がそういったオプティミストに変わる様を見る余裕は、もう彼女には与えられていない。
電車は江坂を過ぎた。会話は弾みそうになりながら、終着駅だけが迫ってくる。
「それでね、エンドロールを眺めてる時に、”制作:波多野啓次郎”なんて出る度に口笛吹いたげる」
「おケイが口笛を吹く様は見たことないなあ」
「”口笛天国”のレコード持っているから真似したら何とかなるよ」
「”口笛天国”あったなあ」
「カーナビーツも歌っとったねえ」
出会った頃の懐かしいバンドとナンバーの名前が出た。あの時、宝塚のレコード屋で手に取ったドーナツ盤のどこかに潜んでいたのだろう。
「映画、観に来てくれるか? 芳村さんと」
「一人でも、いったげるよ?」
すっと、恵子の指が僕のシャツをつまんだ。
「それを二人の同窓会にしようよ」
揺れる電車の中で吐息がかかる。が、何かしら電気ショックのような感覚がはしり、怯えにも似た感覚が腕を少し震わせる。
僕は小さな指をそっと振り払った。三年という時間は、あまりにも長かった。
「出来るかね?」
「やってえな。波多野君、頑張ってえな」
甘酸っぱい声が最後に耳に遺った。この囁きは後何年、記憶に遺ってくれるのだろう。
「私はもう、頑張らへんさかい」
そう言うと乾いた笑いが恵子から起きた。程なくして次の駅が新大阪だというアナウンスが車内に流れ始めた。
九
新大阪の駅を地下鉄から新幹線の改札へと繋がっている名店街の中を一人歩いていく。恵子はもう、いない。僕や石堂が微塵も存在しない明日が待つ彼女とは、地下鉄のホームで別れていた。恵子が新幹線のホームまで見送らないのは、別に大貫家の門限のせいではない。
シャツの胸ポケットから指定券を取り出して駅員に見せ、新幹線の改札の中へ進んでいく。七時ちょうどに東京へと発車するひかり号に乗り込むつもりの僕の右手は、何かの季節が完全に過ぎて行った名残のような題名である『恋のほのお』のシングル盤が入った透明なビニール袋を握っていた。名店街の片隅のレコード店で買ったものだ。袋をコンコースの照明にかざせば、赤みを帯びたモノクロ写真の中からエジソン・ライトハウスの連中が微笑みかけてくる。ジャケットの左上に”全英ヒット・パレード第1位! CASH BOX誌 急上昇中!”と銘打たれた表紙では、世界的なヒットをたたき出した五人の長髪の男たちが実に幸せそうにくつろいでいる。
「お前ら、どんな気持ちやねん?」
そんな憎まれ口にもならないことを独りごちながら、左肩のショルダーバッグを少し揺らして身体にかけなおす。恵子が口ずさまなければ、買いなどしない一枚だった。まばゆい駅舎の中でほんの少しだけ、『恋のほのお』の可憐なメロディを脳裏に浮かべようとしたが、それは直ぐに九州行きの夜行急行の乗車案内の放送にかき消されていく。ひっきりなしに鳴り響くベルと停車駅の案内のけたたましいアナウンスは、この場に居合わせている万博を楽しんだ人々を、祭りが終わって現実へと引き戻す役目を果たしているような気がした。岡山、広島、松江、博多……みんな、明日には事務所でワイシャツをまくって机に向かったり工場で顔を真っ黒にして働くことで、自分の世界に戻るのだ。
僕も、自分の世界に戻らなければならない。
ビニール袋を少し宙にかかげると、停車駅を怒鳴りたてるアナウンスに見送られながら東京方面のホームへ続くエスカレーターへと足を踏み出す。恵子と出会った頃にこの曲が世にあったなら、この曲をきっかけにもっと気楽に恋を辿れたのだろうかと思いながら。
十
新幹線は京都を過ぎ、県境の長いトンネルを過ぎて琵琶湖のほとりへ躍り出ている。時速200キロで疾走する車両の中、ドーナツ盤についている解説文を読んだら『恋のほのお』は不思議なレコードだと思わずにいられなかった。
エジソン・ライトハウスはどうやら、イギリスのレコード・ディレクター達がよってたかってでっち上げたスタジオ・ミュージシャンのグループらしい。それはつまり、この一曲のために集められたミュージシャンが、作曲家と作詞家に楽譜を渡されて吹き込んだ代物なのか。既にボーカル担当はバンドを離れていると記されている。この一枚『恋のほのお』を売ることだけが至上命題であり、心地よい数分の後には何も残さない予定なのだろう。元手がかからず作成された曲は世界中で消費されたら、バンドも使命を終えすぐに本来のスタジオ仕事に戻っていくのだ。
なのに、計算されつくしたヒット曲の歌詞カードの英字がよく心に染み込んだ。恵子の歌声が耳に残っているからだろうか。いや、それだけではないはずだ。歌詞世界の無邪気な、自信過剰な尊大さに惹きつけられるのだ。惚れた女の子の魅力は自分だけしか分からない、そんな気楽な言葉が脳裏で心地いいリズムとともに繰り返される。
やはり、1967年にこの歌があったなら良かったな、と思った。そうしたならきっと応援歌がわりに毎朝、擦り切れるまで聴いたことだろう。だが、残念ながらこれは1970年に職業作家達が書き上げたものである。3年経つと、色々が変わってくる。
ふと、この微笑ましさは挫折があったから書けたのじゃないか、という考えがよぎった。多分だが、作詞家に鋭く身を斬られたような出来事があったからこそ、こんな歌詞が書き出せたに違いない。きっと、そうだ。自分が「かくありたい」と思ったところにたどり着けなかったから、こんな楽しい曲を世に送り出せたのだ。苦い記憶を徹底的にそぎ落として、理想だけを書けたのだ。
僕はいつしか作詞家の過去を想像し、自分のそれと重ね合わせようとしている。それに何の意味があるかは分からない。ただ、少なくとも1967年にはそんな思いなど考えなかっただろう。
「あ、エジソン・ライトハウスだ!」
唐突に、黄色い声が隣席からした。
「ん?」
声の主を振り向く。それは新大阪で発車ベルが鳴り響く中を車内へと駆け込んできた、まだ高校生くらいの少女だった。発車と同時に窓側の席で寝ついたかと思ったら、いつの間にやら起きていたらしい。
「いいなあ。アタシもこれ欲しかったけどこの前別のレコード買っっちゃったし、今日は今日で万博で色々買っちゃったし」
大方、親戚の元に預けられて万博見物でもしていたのだろう。
「へぇ……何を買ったんや」
「ローリング・ストーンズのLP!」
綺麗に顎のラインで切り揃えられたショート・カットの相手に僕は鷹揚に応じる。馴れ馴れしさは別に不快ではなかった。無邪気な会話に加わる方が歌詞カードの裏を邪推するよりもナンボか、いいに決まっている。
「ミック・ジャガー、ねえ……」
あちらのストーンズはビートルズが消えてもなお、日本でLPを求める少女がいるくらいには健在らしい。
「いいなあ! やっぱ今度、クラスメイトに借りようかなあ」
弾んだ声を聴いていると、ふと、ある考えが思い浮かんだ。
「あげよか?」
「えっ?」
突然の申し出に、少女に戸惑いの表情が浮かぶ。僕は、その怪訝な表情を消すために、ほんの少しだけ口元を和らげる。
「いや、いらんならええよ。でもな、このドーナツ盤の持ち主としては多分、僕より君のがナンボかふさわしい気がしてな」
「どういうことですか?」
「どういうことて……まあ、気まぐれやな」
少女は「気まぐれ」という言葉に可愛らしく首をかしげたが、やがてこちらが差し出したビニール袋に手をかけた。
彼女の反応の通り、まったくの気まぐれだった。3年前にこの曲があったならという願望を、3年前の自分と同じ年頃の人間にレコードを渡すことで解消してみたかった。
「ふうん……」
近江平野を突っ走る列車の轟音の中で、彼女はしげしげと赤いレコードジャケットとこちらの表情を見比べる。が、やがて笑顔で「ありがとうございます!」と朗らかに告げると、ドーナツ盤の入ったビニール袋を胸元に抱きかかえた。
それでよかった。エジソン・ライトハウスを聴く資質は、彼女のほうが優っているはずだ。レコードを手放しても僕は、記憶のどこかに恵子の、おケイのハミングをとどめられたなら充分だ。それが、中田の言う『上塗り』になる。
「ねえ、関西弁のお兄さん」
「ん?」
胸元に五人のイギリス人を抱きかかえた少女がこちらを見つめる。
「恋って楽しいですか?」
「楽しいよ」
タバコを咥えながら僕は即答する。好きな男の子でもいるのだろう。と、なると尚更レコードを呉れてやったことは正解だった。少女こそ、『恋のほのお』にふさわしい。
「本当に?」
「ああ」
僕はゆっくりと頷く。そして、『わかば』をそっとクシャクシャの箱の中へと戻した。なぜか、この娘の前では吸わないでおこうと思ったのだ。僕や恵子や石堂だって、最初はこれくらいに無邪気だったのだ。何もその出だしを煙でいぶすことはない。
「お兄さん、優しいですね!」
「気まぐれやて……」
満面の笑みを僕はほんの少しはにかんで見返し、それから顔の向きを正面に戻した。少ししたら少女はまた、遊びの疲れから眠るだろう。そうしたらビュッフェに行こう。あそこでは気兼ねなくタバコも吸えるし、酒も飲める。
それに……あそこには確か、電話が備えてあったはずだ。腕時計は八時を指し示している。中田の店にかけたなら、多英の声が聞こえるはずだ。こちらの到着を二人はあそこでアトムズ戦のラジオでも聴きながら待ってくれている。「後、三時間で帰るよ」とでも切り出そうか。それとも「アトムズの北陸遠征はでやった?」にしようか。
列車が関ケ原の山中に差し掛かる。この後、岐阜羽島を過ぎたらしばらくは通話に支障の出るようなトンネルもなかったはずだ。電話での第一声を考えながら僕は、短い通話時間では話しきれないことを承知のうえで多英に今日の出来事をどう話そうかと考え始める。夜遅くになれば、荻窪でいくらでも話せるが、とにかく少しでもいいから声を聞きたかった。
『ひかり』が早く山を抜けてくれないだろうか、それだけが今の感情の全てだった。




