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恋のほのお  作者: 桃山城ボブ彦
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第84回~昭和45年8月23日「恋のほのお」(4)


 スカンジナビア館のレストラン名物らしい『スモーガスボード』と銘打たれたビュッフェ形式の料理をそれぞれの大皿に少しずつ盛り付けた僕らは、どちらからともなくほんの少しだけ昔に戻ってみようとした。だから席に座るや否や、音楽の話が始まった。


「波多野君、最近は()()()()深夜放送のチェックをしているん?」


 恵子の問いに、僕は軽い返事をする。


「たまに、ね。ラジオとか、ロック喫茶でニュー・ロックがかかったりするのを面白がっとる」


「ニュー・ロック!?」


「せや」


 少し肩をすくめながら僕は頷いた。 


「それでもまあ、CCR(シーシーアール)までは分かったけど、最近のディープ・パープルやレッド・ツェッペリンとなってくると、いささかこちらの理解を超えてくるなあ」


「えらいまた波多野君、深遠なニュー・ロックなんか聴いているのねえ」


 昼下がりのレストランで彼女は苦笑し、それからニシンの酢漬けをフォークで口に運んだ。小さな口がすぼまるのを見て、僕も同じものを無造作に口に運ぶ。それから、好きな音楽の話を気兼ねなくするのはいつ以来だろう、という思いがよぎる。東京に行く前の晩、僕らはもう一人の友人とフィリピンのバンドを観、そして次の日に別れた。でも、音楽を音楽として最後に楽しめたのはそれよりさらに前のことじゃなかったか。

 そうだった。二年前の初夏にはもう、僕はそう言った楽しみを喪っていた。それからは禁忌に足を踏み入れたという自意識と人を見捨てた罪に悩みながら、過去を思い出すためだけに音楽を利用していた。


「エジソン・ライトハウスって知っている?」


 暗く、自分を責め立てるだけでしかない回想は恵子の一言で打ち切られる。彼女の瞳が、白い両手でこさえた頬杖に顎をのせた格好からこちらを伺っている。


「いや……ソイツらもニュー・ロックかい?」


「ううん、どちらか言うたらポップスかなあ。あ、エジソン・ライトハウスは分からなくても『恋のほのお』って題名は知ってはいない?」


 相手はそう言うと、こちらの返事を待たずにソーセージを取り分けながら明朗なメロディーを微かに口ずさみ始める。確かにそれは、聴いたことのあるメロディだった。この初夏から今に至るまで、ラジオから流れるヒットチャートの常に最上位を独走している一曲だった。


「聴いたこと、あるでしょ」


 恵子は人懐っこい顔で微笑んだ。


「ああ……唄ってもろうたら、ハッキリと思い出すなあ。今、ようけヒットしている曲だろ?」


「そうそう!」


 恵子は気を良くしたのか、なおもメロディーをサビまで歌い切った。近くの席で食事をとっていた中年の白人夫婦がその光景に楽し気な口笛を送る。


「ねえ、波多野君」


「なんやいな」


「曲の歌詞、知っている?」


「いや、そこまでは知らないなあ」


 すると、かつての想い人は、今度はハミングでなく英語詞を抑揚を打ち消してしゃべり始めた。僕はフォークを操ることを止め、その言葉に耳を傾けた。

 メロディーに負けないだけの、優しく、楽天的な歌詞だった。それは、僕ですら一回歌詞を耳にしたら日本語にその場で置き換えられるくらいに。無垢な尊大さがあった。無邪気な自意識だけで構成されていた。

 もっと気楽に立ち回る気概さえあれば、僕はこの歌詞のような世界に入り込めたのだろうか?


「随分とオプティミストやなあ、こん歌詞の主人公」


「ウン……」


「僕に足りなかったものは、この歌詞みたいな自信過剰さと楽天さだったのかもしれへんなあ」


「そうねえ。でも、それは私にも言えるわ」


「どうだか、おケイは……」


「ううん」


 こちらが言おうとした「精一杯に楽しくやろうと頑張ってくれたやないか」という言葉を彼女は言わせはしなかった。


「もっと、()()()()()()を素直に見たらよかった」


 恵子はふと、首を微かに傾けると寂し気な表情を浮かべる。僕は無性に酒が欲しくなった。そうでもしなければ、このままだと少女を抱きしめてしまいたくなる。

 が、酔って会話を終わらせるわけにはいかないし、抱きつくわけにもいかない。紹介された曲のタイトルから閃いた、問うてみたいことがあったのだ。


 今、この瞬間だけなら『ほのお』とは言わずとも残り火くらいあることは許されるはずだ。


「ねえ、おケイ」


 きっとそれは、エジソン・ライトハウスの熱にあてられた問いだったのかもしれない。


「なあに?」


「我ながら今更とんでもない質問や思うけどさ……。僕ら、ええ恋人になるチャンスってあったんやろか?」


「あったわよ。少なくとも私は一時(いっとき)、波多野君のことが好きやったよ?」


 彼女は即答した。はにかんだ表情があった。今の返事にはもう、一文の値打ちもなくなっているかもしれない。それでも、どこか心地の良い響きだけが残った。


「せやったかあ……」


「そうよ」


「いつ頃のことやろなあそれ……。僕の場合は……」


「ま、波多野君、昔の話よ。昔の、ね」


 嬉しさによこしまな興が乗って、ともすれば身を乗り出しかねないこちらを恵子は制した。確かにそうなのだ。良き想い出のみを辿りたいと願う回想に、具体的な日にちを肴にすることは無粋だ。


「そりゃ、そうやわな」


 僕はほんの少し自嘲気味な言葉を放った。馬鹿なことを重ねて訊いたかもな、という後悔がなかったわけではないが、決して苦い感じはしなかった。

 二人の間には何にも『ほのお』がなかったわけではなかったことが重要だった。だから、その残り火のようなものを僕らは今、夏の終わりの線香花火のようにいとおしむだけでいい。


「ウチら何にも出来んかった昔があるからこそ、お互いに今、少しずつやけど上手く()()()進め始めているんやさかい……」


「そうか……そうやなあ……」


 多英の顔が脳裏に浮かんだ。もう、中田の助演を得なくても彼女の輪郭だけがくっきりと浮かんでくる。

 こちらを、「『ほのお』がない」と断罪した時の彼女は、エジソン・ライトハウスを知っていただろうか?


「ねえ、波多野君」


 恵子が僕を呼んだ。きっと、こちらの心模様などお見通しなのだろう。


「なんだい?」


「今、付きあってる女の子、いい子なん?」


「いい子だよ」


 僕は即答し、タバコに火を点けた。 


「『()()()()()』を教えてもろたわ」


 そう続けると、煙の中で僕は精一杯に相手に微笑んだ。


「『恋のほのお』をねぇ……」


「ああ」 


()()()、大事に出来そう?」


「出来るさ」


 咥えタバコのままで僕は断定する。


「そうせんと、おケイに顔向けでけん」


「そっかあ……」


 曖昧な言葉とともに恵子はスカンジナビア館のレストラン天井へと吹き上げられていく煙を見つめた。


「そうやねえ……」


 彼女は呟いた。それが空しい同意であることは、そういう相槌を打たせた僕が一番よく知っていた。一体全体、僕らの間は何一つ始まってもいなかったのに、恋の終わりめいた雰囲気だけは日と場所を変えながら幾度となく繰り返されてしまう。

 難しいこととは分かってはいるが、話題を変えてみたかった。だが、それは今日の昼に恵子に再会してからずっと意識をしなければいけないことだったが、石堂という人間を綺麗に切り捨てるという難解な所作を要する。


「ああ……」


 僕は呻くと、彼女と同じように天井に消えていく煙の運命を見つめた。そして、そんな真似は無理だと感じる。

 別に石堂を許しているからではない。彼が二人の傍にいたという事実を上手く隠しながら語れるほどのエピソードがないのだ。そりゃ、二人だけの時だって探せばあることはある。でもそういった時の僕らはきまって、決して二人きりではなかった。あの男のために何かしら動いていた。

 おケイとの昨日は、石堂との日々でもあった。

 と、なるとこれ以上の振り返りは無理だった。僕に許されることは明日の話だけでしかない。


「おケイ」


 ほんの少しばかり声を大きくして恵子を呼ぶ。


「なに?」


「嘘やのうてホンマに婚約……したんやろ? その人とは上手くいっとるんか?」


 恵子の小さな顔からほんの一瞬だけ表情が消えた。が、すぐにそれはこちらがよく知っている柔和なものへと戻っていく。

 その変化が哀しかった。


「うん……パパの仕事上の知り合いの息子さんでね……この春に学校を出たばかり。で、日曜になる度にゴルフバッグを二セット、車に載せて迎えに来るんよ」


「ゴルフ! おケイ、ゴルフなんか出来るんか!」


「パパと相手のお父さんが逆瀬川のゴルフ・クラブの会員なんよ……だから、その人もウチも割安にプレイが出来るって訳!」


 言葉の語尾が不必要に強調されている、と感じた。彼女もどこかで哀しがってくれていたらいいが、などという愚劣な思考がそう聞かせるのだろう。


「敷居の高いスポーツやし、楽ではないかもなあ」


「そうでもないんよ」


 そう言うと恵子は、紅茶を一口飲んで話を再開する。


「そら、最初はよう分からんかったわ。でも、その人が日曜ごとに『まあ、緑ん中で体動かしながら話してるうちに俺らも仲良うなれるよ』とか何とか言いながら、緑なんてこれっぽっちもないバンカーで悪戦苦闘しとる背中を笑いながら見ているうちに……」


 彼女はまた、ティーカップに口づける。


「好きになってもたわ」


「ゴルフをかい?」


 おどけたように僕は応じた。


「アホ、その人のことをや」


「そらあ、良かった」


 僕らは笑いあった。そして僕は笑うだけでなく、出来たらありったけの本心から、今自らが発した言葉どおりに彼女を祝福したいと願わずにはいられなかった。


「今じゃ、近所に住むその人が家の前までブルーバードで迎えに来てくれるんが待ち遠しくってねえ」


 彼女は目を細めた。

 しかし、こっちはもうその美しさを優しく見つめるだけではいられなかった。美しい切れ長の目の真向かいで、僕の眼は驚き、見開いていく。


「おケイ、その婚約者ってまさか……」


 おケイやこちらの近所の住人で、ブルーバードに乗っているこの春から社会人になった人間を、僕はたった一人だけしか知らない。


「そうよ」


 事も無げに彼女は頷いた。


「でも、今日は大丈夫。日曜やけど、今日は波多野君に会うって言ったら、彼も『会ってきぃ』言うて快く送り出してくれたしね」


「そ、そうかぁ」


 驚きの中でやっとのことでそれだけの単語が口を出る。まだ僕の眼は見開いたままなんだろうか。かつてのストーンズ、その一人はもう二度と転がらない、転がらないでいてくれという事実と願望に。

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