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恋のほのお  作者: 桃山城ボブ彦
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第82回~昭和45年8月23日「恋のほのお」(2)


 スカンジナビア館で食事をするという恵子の予告とは裏腹に、僕らが北欧五か国のパビリオンで食事をすることはなかった。恵子の案内が止まらなくなっていたのだ。

 スライドショー形式で環境破壊というものへの警鐘を鳴らすこの施設を皮切りとして、僕たちはセイロン館やキューバ館などといった小国のパビリオンを見物し続けた。そして古河や日立、『せんい館』といった企業の出展にも足を運んでみたりする。横尾忠則が制作に参加したという英国紳士めいた人形が光線で照射されているケッタイかつサイケデリックな内容の『せんい館』を案内したのは彼女の父親の職業からだろうか。


「波多野君、三十年後のイギリス人はあんな格好していると思う?」


 会場の外周を回るモノレールに乗るため駅に並ぶ中、今見たばかりの『せんい館』の感想を交えたような質問が恵子からくる。


「するヤツはするかもなあ。イギリスって保守的な国やろし」


「そう? でも、ビートルズはその『保守的』な国から出たのよ?」


「ビートルズかあ」


 ポール・マッカートニーが辞めてからまだ数か月しか経っていないのに、随分と懐かしい響きだな、と思った。途端に、おケイとあった頃は彼らの曲なら何が流行っていたっけ、と追想が始まる。


「五十年たったら、僕もしてるけどビートルズの長髪だって希少な存在になるかもねえ」


 相手のそんな言葉に、『ペニー・レーン』だったかなあ、とかすかに思いだした頃、静かに口元を緩めた少女が吐息まじりに語った。


「その頃には私たちとっくに時代遅れねえ」


 軽い笑いとともに、おどけたような眼がこちらをうかがう。


「もうウチ、お婆ちゃんやわ」


 僕はそれに言葉でなく微笑をもって応じながら恵子をうながしてモノレールに乗り込んだ。


 十時に落ち合った僕らの時間は、気がつけば昼の一時になっていた。でもその数時間、そんな他愛もない言葉を僕らはあちこちで浪費しあう。「万博ツウ」の恵子が展示内容を説明して僕がそれにいちいち感心する、もしくは昔を思い出させるような話題以外の会話は二人の間に存在しなかった。

 もう、タバコを咥えることはただの一度もなかった。おケイがそれを求めているのなら、今日ぐらいは従ったっていいだろう。そういう我慢は悪いものではない。それに、吸う暇が惜しかった。


「ビートルズといえばね、武道館の四人はクリームにストライプのスーツがステキやったなあ」


 満員のモノレールから万博の会場の奥に横たわっている丘陵へと向いた美しい目が細まる。見とれるだけでいたかったが、そうもいかない。愕然とした感情に襲われたのだ。


 もしも、全てが滞りなく進んでいたなら、僕らはやはりここに来たのだろうか? そしてその時なら、僕らはどんな会話をもって華やかなパビリオンを彷徨ったのだろうか。


 全世界が明るい明日を思い描こうとするこの会場に呼び出された僕は、近未来を垣間見ながらその癖、過去に溺れることから逃れられていない。近未来どころではなく、今日という日ですら怪しいのだ。これから向かう、手塚治虫が監修した『フジパン・ロボット館』に思いがいけば、ほんの少しだけ中田の原始人のような姿が思い浮かんだけれど、それだけのことだ。多英のことも中田のことも意識しなければ頭の中から飛び出てきてはくれない。そこに、戻らねばならないはずだというのに。


「さんざん前座を見て……なのにショーはたったの三十分! でも、良かったナア……」


 僕はかつて、寝ても覚めてもといった態でこの少女に惚れていた。その頃から長い時間が経ったというのに、ビートルズはもういなくなったというのに、恋焦がれていた女の子だけが昔のような会話だけを繰り返す。()()()()()にいる連中が今ここで演奏しているかのように熱を帯びている。


 ひょっとしたら実は今は三年前で、高校二年生の僕がうつつに見ている夢なのかもしれない。多英の澄ました顔が、心のどこかで歪みながら消えていく。


「七月一日の公演やったっけ?」


「せやったかなあ。よう覚えていたねえ!」


 中央口駅でモノレールを降りようとする最中、恵子ははにかんだ。「たまたまや。何となく覚えていたんやて」と、僕は屈託のない笑顔でこたえる。笑顔の裏で、「君が口にした情報は全て、質のいいテープレコーダーのようになんでも頭の奥底にしまい込んでいたんや」と口ずさみそうになるのを必死にこらえながら。


「そう……」


 けれども、この会場に来た時以来でメインゲートを通ってハイウェイを横切る中、恵子の声は少しずつくぐもっていく。別に、賑やかな人の波や行き交う車の爆音がそうしている訳ではないことを僕はよく知っていた。今は1967年ではないのだ。夢は夢、白昼夢でしかない。


「私が東京に行くこともないやろなあ」


 緩やかさを消した口が、この場所が1970年だということを強調する。にもかかわらず、途端に僕は心が多英のもとから彷徨い始めていることを否応なしに認識した。自覚をしていても、今は最早かつてではないと思い知らされても、優しく包まれた断絶の言葉を聞いた直後であってもなお、精神が高揚感にも似たような具合に浮遊している。この子の横にいるだけで、失くしてしまったものが全て善くなるような気分に陥っている。


「もう、楽しくないもの」


 その言葉に聞きいりつつ僕は会場の南へと歩き続け、恵子もそれに従う。彼女に返す言葉はなかったし見つける気もなかった。恵子の横にいさえすれば、それだけでいいという酔いにもにた感覚が全身を包んでいく快楽に身を預けてみたい。

 ただ、そのうちに唐突にタバコが吸いたくなった。

 歪んでもなお、こちらを見ている多英の顔と、それをグロリアのハンドルに顔をあずけながら見守っている中田の姿がどこかから浮かんでくるのだ。

 二人はタバコを咥えていた。


「だろうね」


 恵子の顔がこちらをうかがった。僕はその目をみて、一つ肯く。

 許されるならかつて見殺しにした人のところに舞い戻ってみたいという欲求に身体が満たされようとしていることに、せめてもの抵抗をしたい。全てを煙にまいてしまいたい。


「だろうね」


 黄色い麻のジャケットの胸ポケットへと手を向かわせつつ、恵子の言葉に再び間延びした同意をする。彼女の言葉は重いはずなのに、我が犯罪を隠すくらいに哀しい程にまで軽く扱わねばならなかった。恵子の近くにいることに重きを置くと、精神だけでなく肉体までもがおかしくなりそうになってくる。それは避けねばならなかった。

 ……石堂だけには、なりたくなかった。どこかで中田がグロリアのクラクションのように繰り返し繰り返し「ホホホ!」と叫んでいる。


「波多野君」


 だが相手はまるでこちらの胸のうちを知り尽くしているかのように、葛藤と、それへの対処法を探し求める僕に考える猶予を与えようとはしなかった。


「もし、私が婚約したという話が嘘だったら?」


 ロボット館の名物らしい入り口近くの青い巨大ロボットに子供が群がる前で、くせのある長い髪をフワリと浮かせた顔がこちらを振り向いた。


「は?」 


 タバコへと伸ばしていた手は動きを止め、一方で自らの声が震えていることだけが分かった。鉄腕アトムの親戚のようなこのロボットにはしゃいでいる子供たちは、その傍にたたずむ男の心が同じくらい蒼ざめているなどとは露にも思わないだろう。

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