第81回~昭和45年8月23日「恋のほのお」(1)
一
新大阪駅から延々と芋の子を洗うような満員電車に乗り続け、ようやく万国博中央口駅で車内から吐き出されても、人々の波に揉まれることから逃げるチャンスはなかった。ホームもまた、立錐の余地がなかったのだ。いよいよ会期も終わろうとしている万博は想像以上に大混雑の様相を呈していた。子供たちの夏休みがじきに終わろうとしているからだろうか。
「あれまあ……」
初めて大阪万博の会場を訪れたのに、最初に出た言葉はそんな思わずの冴えない言葉だった。僕がいくら目を凝らしても麦わら帽子に白いシャツの老人や、鮮やかな色のワンピースの少女達、係員に連れられた迷子札をつけた幼子といった人々の群れだけが『太陽の塔』が鎮座しているというお祭り広場へと続いていくだけだ。こりゃあ、待ち合わせ場所から恵子を見つけ出すことは大変に骨のある行為になるぞ、と感じた。
「えらい場所を指定されたもんやなあ」
低く呟き、僕は幸せそうな数多の人が列をなしている中に潜り込む。そして会場へと通じる巨大なメインゲートに足を踏み入れ、今まで乗ってきた地下鉄線とそれからハイウェイを越え、お祭り広場を遠くに眺めた。それから彼女から指定された待ち合わせ場所、『スカンジナビア館』が位置するであろう方向へと曲がり、地上数メートルのところに細く、水路のように縫って整備された動く歩道へと体を預けた。
アポロ11号が持ち帰った月の石を展示しているというアメリカ館を幾重にも人が取り巻いている様を左側に見下ろして歩道はゆっくりと動いていく。パンフレットを眺める限り目的地まではまだまだ距離はありそうだった。だが、丸めたパンフレットで右手をほんの少しはたき、恵子に会う時にどんな表情を浮かべたらいいかと迷いだすと、距離などないに等しい。その時、儀礼的に片手でもあげるべきなのだろうか。もしくは、下手糞な愛想笑いとともに駆け寄ってみようか。それも、最後にあの子の顔を見た新大阪駅以降の記憶など全て喪ったフリをして。そんな風に、どうやって現れるかを考えるにはまだまだ時間が必要だった。
そういうことを考えていると、少女に会いたいのかそうでないのかがハッキリとしなくなる。そもそも、便りを貰ったからといって彼女の前に姿を現してもいいのかどうかすら分かったものじゃない。僕は、あの子が苦しんでいた時に傍にいることを拒否し、あの子がまさに傷つけられようとしている瞬間から逃げ出した。そして、その二つの出来事の間は毒にも薬にもならない言葉でお茶を濁し続けた。ハッキリ言って、向こうから呼ばれない限りは会う資格などないのだ。それに……彼女はもう、誰かのもとに行ってしまう。
でも、多英と中田の予想通り、彼女から連絡があった。会わねばならない。
東芝や三井、それからサントリーといった企業館の前で動く歩道が途切れ、ついでにありがたいことに僕の思案も途切れた。もう、機械の上でつったっているだけではいかなくかっていたのだ。ここからは自らの意思で足を踏み出して目的地へ行かねばならない。
「会えたなら……」
やや薄曇りの空を見上げながら何かが口から零れ落ちる。途端に、それが全てだったじゃないか、と奥歯を噛みしめるような感情が沸く。もう、なんの言い訳もできないし、謝ることだって不毛だろう。でも、恵子の顔を見、何かしらの声が聴けたらそれでいいのだ。エエカッコをつけようと思っているうちにキリモミのようになり、一時は堕ちるとこまで堕ちていった人間は今更何も取り繕えないのだ。顔を見よう、声を聞こう。それだけで素晴らしい。
そう断じるや否や、僕は美しく整備された水路沿いの通りを前かがみになって小走りに進んでいった。
二
会場の混雑にもかかわらず、恵子を彼女が指定した待ち合わせ場所であるスカンジナビア館の前で見つけ出すことは簡単だった。その一角だけは比較的いなかったし、何よりも彼女の外見が以前と全くと言っていい程に変わっていなかったのだ。
「波多野君、久しぶりやね」
青い縞模様のシャツに黄色いミニ・スカートといういでたちの少女の手が、髪をかすめて緩やかに上にかざされた。ウェーブがかった髪が、文字通りさざ波のように揺れ動いた。陰りは、隠されているのだろうか。
一方の僕はその動作を数メートルの先から、息が詰まりそうになりながら見つめる。かつて憧れたその軽やかな身のこなしが、まるで魔法によって現れたような感覚を覚えたのだ。
「お、おぉ……」
「波多野君、手紙で書いたとおりスカンジナビア館のあたりって人通りが空いているでしょ?」
返事とも驚きともつかない声をあげるこちらの様子に構うことなく、恵子はこちらへの距離を狭めると、僕の顔を通り越してこちらの背後に鎮座している施設全体へと視線を向けた。つられて顔をそちらに向けると、柔らかなカーヴを描いた円柱状の塔が赤茶色の建物の中央で威容を醸し出している。スカンジナビア館だ。
「せやなあ。万博会場での待ち合わせ場所には最適かもねえ」
「だから、選んだのよ。これをアメリカ館やソ連館なんかの前にしてみ? ウチ、救護室まで迷子札つけた波多野君引き取りに行かなアカンかったわ」
断定するかのように大貫恵子は笑った。笑うだけでなく、華奢な身体がおかしさを強調した以下のように雑踏の中で軽やかに飛び跳ねる。彼女の穿いている鮮やかな色のスカートがヒラヒラと揺れる中、僕は好きだった人がこんなにも綺麗で屈託のない笑顔を見せる人間だったということをずっと、ずっと、忘れていた。いつ、忘れたのだろうか。
「それはそれで、賢い方法なんかもなあ。迷子になればおケイに会える、か」
思わず、冗談に冗談をもって反応してしまう。
「ウチ、迷子札付けた二十歳なんかはお断りや」
そう断定した恵子はまたケラケラと笑った。その光景を民族衣装を着たアラブ人の女性が、その姿に好意的な視線をかざして通り過ぎていく。どこかの国のコンパニオンが昼でも食べに行く途中なのだろうか。
「まあなあ。しかしスカンジナビアねえ。やっぱ、ソ連館やアメリカ館に比べたら人気はないんか?」
笑いのムシがおさまった女の子に僕は問いかけた。冗談をどこかで着地させなきゃいけない、と感じたのだ。
「比べたらアカンよ。そら波多野君、両方ともエラいものよ」
恵子はなおも、笑顔を浮かべる。
「万博ツウのウチが言うまでもなく、両方とも何時間も前で待たな入られへんよ」
「そうか……」
「万博のコツはね、比較的すいているところを回ることよ。だって、どこも面白いんだから」
「なるほどなあ。なら、小さな国のパビリオンをこまめに見て回るのが上策か」
「そういうこと。それがツウの結論! ウチ。先週もパパと来たわ……インドネシア館に、そこのビルマ館」
「でも、僕は初めてやからなあ。せっかくやし、大きなパビリオンを見てみた……」
「ダメよ波多野君」
恵子は人気のある場所へのこちらの色気を遮った。表情はエクボをこさえた笑顔のままだが、ゆるやかに彼女の掌が目の前で否定を示すかのようにヒラヒラと揺れる。その後すぐに彼女の眼から笑いが消え、今日初めて落ち着いた眼差しが僕を見据えた。
「もう、何時間も立ちんぼうでいられるような時間、ウチらにはないんやさかい」
それは十分に落ち着いた声であり、それから真実でもあった。僕は今日がどういう日なのかを、動く歩道以来で思い出した。
「これが最後やもん」
そう言うと、彼女は微笑みを崩さないままにうつむいた。会って数分、早くも場が持たないような錯覚が僕の中に巻き起こる。高揚感はあったが、寂しさが同じような割合で心を包み込んでいこうとする。
「せやったな……」
そう応じると、僕は羽織っていた紺のサマージャケットの胸ポケットから『わかば』を取り出した。上手くいこうがそうでなかろうが、こういう時はタバコを咥えてほんの少し思案することを僕はずっと繰り返していたのだ。
だが、そんな習慣も恵子の前では叶わないことだった。彼女はつい先ほど我が言葉を遮ったようにこちらに前触れもなく、咥えたばかりのタバコを僕の唇から優しく抜き取ったのだ。
「波多野君、今日くらい禁煙してよ。あなたにはタバコ、あんまり似合わへん」
薄く唾液のついたタバコを彼女はひけらかすように宙にかざすと、やがてそれを傍らの屑籠に捨てた。使命を全うできなかったニコチンが音もなくゴミの中へと落ちていく。
「せやろか?」
「そうよ」
彼女は即答すると、ハンカチで自らの指を拭った。
「昔、神戸に二人で行ったこと覚えている?」
「ああ……。勿論、覚えているよ」
僕は目を細め、口元を緩ませた。目的はなんであれ、弾けるような感情をもって臨んだ二年前の数時間が目の前に浮かび上がろうとしている。
「その頃は波多野君、全然吸うてなんかいなかったよ? だから今日はあの頃の感じで行こうよ……さあ!」
それ以上は言葉にするのももどかしいといった具合で、恵子の手が僕の右手をいざなった。女の子の力とはいえ、不意のことだったから身体が大きくバランスを崩して前のめりになる。
軸を揺れ動かされた先にはスカンジナビア館の入り口があった。
「パビリオンの展示を見た後は、ここのレストランで食べようよ。ブッフェ形式で美味しいんだから!」
「僕、新幹線では何も食べてないから腹ペコやなあ」
「実によろしい。でも、その前にパビリオンやね」
そう言った恵子はまた僕の右手に力を加える。そしてその行為だけで身体が再び前のめりになる。でも、こちらの身体の均衡が崩されていく様が不思議と心地良い。僕は崩されることで、今この瞬間だけ時が巻き戻されていくような感覚におぼれようとしている。明日へ進むためにここに来たはずなのに、心地よさだけがあった。




