第80回~昭和45年2月27日「友を呼ぶ歌」(後)
四
泣きはらすと冷静さが戻ったが、それでもあたりにはなお、しばらくの静寂があった。僕が作り出したものだ。バーテンダーが夜更けの静けさを嫌うかのように、いつしかグラスを強く拭い始める。キュイ、キュイ、という音とともに彼の手の中にあるブランデーグラスが鈍い光を帯び始めていく。
そして、恵子の父親も彼につづいた。もちろん、キュイ、キュイではない。
「そうか……覚悟はしていがね。やはり、そうなのか」
腕組みをした男性の口が開いた。おそらくはその顔も言葉のように険しくも虚ろなものになっているに違いない。
「娘は、”襲われた”と言っている」
止り木に顔を横たえながらすすり泣くばかりの僕は、彼の言葉に耳へと通していくだけしかできない。バーテンダーは、今度はどこかに消えていた。音が自分以外に出始めた以上、もう彼の音は必要ないのだ。それに……優しいのだろう。
「ひぃ……ひぃ……」
「君を恨むではないが……なぜ、止めなかった? いや、止めてくれなかった?」
厳しい問いだった。だが、当然の問いでもある。最早、すすり泣くだけではどうにもならない。僕はカウンターに両手をつくと、ようやく上体を起こして父親の方へと身体を向けた。
「僕はお嬢さんが好きでした……彼もまた、同じでした。……一昨年の夏にはお互い、それをはっきりと認識していました」
「ふむ」
厚ぼったい顔を起き上がらせた僕がおずおずと顔を見つめ始めても、話相手は腕組みを崩さない。
「それで?」
「が、石堂君、いや、石堂も僕もお嬢さんの心うちだけが分からなかった。そんなうちに、あの子は彼にに惹かれているのではないか、と思い始めたのです」
「なぜだね?」
「知性、肉体、それからエネルギー。……僕は、何一つ彼に秀でたところがありませんでしたから」
そう告げると僕はタバコを咥え、火を点けた。今度はもう、すぐに消す必要はない。だって、肺に僅かばかりの煙を流し込むことで、自嘲を交えた多少の饒舌が戻るかもしれないのだ。
煙で落ち着くと、言い訳と自我が喉元を焦がした。寡黙な恵子の父親に僕は自分の言葉に「ただし」とつけたしたい欲求が沸き上がったのだ。慕情だけは彼以上だったのですよ、と言ってみたかった。だが、それは無理なのだ。先の三点とは違い、それは客観的にはあらわせられない。
弁解めいた何かを諦めた僕はまた、唇を動かし始める。
「そしたらデモの晩のアレです。僕は、被害妄想に似た何かにとりつかれていました。一晩、二人を探し求めて新宿中を走り回っていたのです。なのに、ようやく会えた二人がそういう行為にはしっているということは、こちらにそないなもん見せつけて嘲笑いたいがための行為かもしれないと思ったのです」
「そんな非常識な娘に見えたのか!」
「いや……怒らないでください。ただでさえ好きな人が親友と抱きおうとるのです。だから自分の部屋なのに、灯りもともさずに逃げたかった……。灯りをつけたら別の何かが見えたかもしれませんが」
怒声をかわしながら僕は話の先を続ける。が、「別の何か」という言葉をつぶやくように吐き出すと、奇妙な気分になっていることが分かった。恵子を性の対象として見ることができていたら、嫉妬の塊となって彼女を救うことが出来たのだろうか?
だが、それはもう無為な自問だった。他の少女と寝ることが出来ても、遂に恵子という存在をそこまで引き上げることに怯え続けていた自分の姿以外、もう何も浮かび上がらない。
だから、僕はまたかぶりをふった。
「あの時、否定の声の一つ、呻きの声でもあればそう判断できたでしょう……。でも、声は何一つ、かからなかった」
タバコは燃えカスとなり、とっくに我がジャケットを汚しながらカウンターの下へと消えていった。灰にまみれた上着を掃いつつ、言うことは言ったな、とだけ思った。後は、恵子の父親がどういう反応を見せるか、だけだ。
「波多野君、あの日のことがよく、分かったよ」
彼は、何かを決意したかのように二度三度、肯いた。そして、こちらへとその首を垂れた。
「はあ」
その姿にうろたえつつ、僕は応じる。六十に近い人間が、二十歳にもなっていない人間に頭を下げる光景には、何かしらの恐ろしさだけがあった。
「恵子には学校を辞めさせたよ」
「さいですか……」
「見合いだ。君には悪いが見合いをさせる」
その言葉を、僕は無表情のうちに受け止めた。彼の考えは悪いものではないと感じたのだ。僕の知らないところで彼女の縁談が進むということは、少なくともその男と恵子が絡まりあう影を見なくともすむ。それなら、何だっていい。
「いいじゃあ、ないですか……」
「君」
目を細めた紳士は落ちついた様子で止まり木を立ち上がり、僕以外の人間を呼んだ。呼び止められるような言葉を発していない以上、当然だった。
「はい」
髪を短く刈り込んだウエイターの小首が動く。
「この子に今晩は好きなだけ飲ませてやってくれ。代金は部屋付けでお願いする」
「かしこまりました」
ウエイターはボウッとした顔をしているであろうこちらに一瞥をくれたが、やがて静かに客の指示に対して言葉通りの抑揚で返事をした。その光景に鷹揚に肯いた紳士は、僕の横を通り過ぎていく。
「波多野君、それでは失礼する」
「ええ」
銀髪の初老の背中が小さく思えた。足音が静かに遠ざかっていくだけだ。そしてもう、僕は何も出来ない。引き留める言葉など、ない。
「ジン、貰えますか?」
新たなタバコを咥えなおした僕は、カウンターの中に残った男に問うた。今日は、いくら呑んでも酔いそうになかった。でも、酔いつぶれなければならない。
五
次の日、僕は大学前の郵便局から電報を一通打った。金の都合もあったが、電報である以上は文面は恐ろしく単純だった。
ハナシアリ アスシヨウゴ ウエガハラ ノ コウエン ニテ マツ ハタノ
そして、アルバイトを終えるや否やで新宿駅から東京駅へと向かい、十一時発の大阪行きの夜行列車に乗り込んだ。
六
「今は親父さんがキズモンになった娘のために婿さん探しとる」
「まさか……」
冬の公園で僕は叫び、石堂は呻いた。
「ええか、『探してる』のや。つまり、相手は僕でもお前でもあらへん。それがどういう意味か、オドレの賢いオツムなら分かるよなあ」
「ほざけ」
彼は苦笑した。大きな身体が屈託なく揺れる。だが、発する言葉には身振り程の余裕は感じられない。僕が怒声を上げる度に、石堂のイントネーションは弱々しくなっていく。
加虐心がゆさぶられた。コイツの口をどこまで弱めることが出来るだろうか、と感じたのだ。
「なんならそこの大学の学生課に行って、経済学部に大貫恵子という学生が在籍しとるか確認してこい! 春休みでもまだ開いてる時分じゃ!」
「……ほな、三十分後に正門前の喫茶店来てくれるか?」
「いや、ここで待つわ」
馬鹿の一つ覚えのように僕は叫んだ。それだけのことで大学の方向へとフラフラと歩みを始めた彼の足に楔が打ち込まれる。こちらの口調が限界になるまで強くなろうとするのに比して、友人の顔と語気はどんどんと生気を喪っていく。
ふと、彼が生き生きと喋ってはくれないものか、という気がした。もしもそうならば、全ては思い過ごしなのかもしれないのだ。
「石堂!」
呼びかけられた男の身体は絶滅収容所の囚人が電流の流れる鉄条網で絶命するかのように、ビクリと痙攣する。
「よお、彼氏さんよお。いつから、おケイに会っていない?」
「あ……あぁ……」
彼は呻き、大きくよろめいた。
そして次の瞬間、蒼ざめた顔ともつれた足で目の前から逃げ始める。行動こそ、大いなる自白だった。哀しいことに思い過ごしなどなかったのだ。彼は、まごうことなき罪人である。
「待たんかいワレ!」
僕は公園の門柱にウイスキーの小瓶を叩きつけ、キメ細やかなガラス細工を右手にとった。鮮やかな音が響き、酒にと血に濡れた右手には武器が生まれる。あとは、よろめく甲東園の駅に通じる坂へ足を急がせる男へとしたたかな一撃を与えるだけだ。
「うぁぁ……」
酔っ払いのような足取りの男に追いつくには全力でのランニングなど必要ない。小走りの二十歩程度でその姿に追いつくことが出来た。後はこの砕けたウイスキー瓶をふりまわしたら、彼のうなじには永く残る傷の一つや二つくらいは訳もなくこさえてやれるだろう。
だが、それは出来なかった。ためらいがあった訳ではない。己の肉体をもって人を傷つけた男を、道具で傷つけるのは無粋だ、と感じたのだ。彼は、同じように肉体のみで傷つけなければならない。
「おらぁ!」
僕は小瓶をトレンチコートにおさめると、代わりに小走りに駅への長い下った石段へと足を踏み入れようとしていた石堂の大きな背中を両手で突き落とした。
我が期待に反して、彼は叫ばなかった。ただただ、無言のうちに巨体が苔の生えた段のあちこちにぶつかりながら転がり落ちていくだけだった。そして、十段程を滑るように落ちていった身体は石段の中腹でようやく止まる。僕はゆっくりと彼の後を追って石段を降りると、擦り切れたズボンやコートやセーターと同様に血で滲んだ彼の顔を前髪を掴んで引き上げ、それからそこに拳を叩き込んだ。
「お前を殺してまいたいよ」
鼻血で汚れた手をハンカチで拭いながら僕は呟く。
「でも、悔しいことに殺せんわ。お前がアカの他人ならどれだけ良かったか……」
そう言うと、僕は踵を返して石段を元いた公園の方へと登り始める。行くあては、なかった。でももう、用事もない。
「去年のクリスマスに、『しばらく会いたくない』って電話があったよ」
疲れ切った肉体に、もう一人の疲れ果てた肉体の持ち主からの声がかけられる。だが、その声は、弱いものではなかった。
「『しばらく会いたくない』か……」
僕は振り返り、声が発せられた場所へと視線をおろす。別に石堂が気になったのではない。「しばらく」、と次があるかのような言葉で石堂を最後まで傷つけまいとした理由が分からなかったが、それだけの言葉を伝えるのに、おケイが費やした心労を思うといたたまれなくなっただけだ。彼女はやはり、指一本、触れることが出来ない人間だった。
「おケイが俺に愛想をつかそうとしていたんや」
口から血を流した石堂が叫ぶ。それは言い訳であり、こちらの憤懣に説明をするかのような言葉だった。
「愛想つかされたら、ひょっとしたらお前に走るかもしれない」
彼の息は荒く、それでいて口が閉ざされることはなかった。僕は、階段の上からその言い訳を黙って見守った。
「嫌やった。あの子が去るくらいなら、俺は道連れにしたかった」
「さよか。ダボクレ」
不思議と、その言葉を僕は冷静に聞き流した。もう、彼がどのような反応を見せたところで彼女は姿を現さない以上、激情に任せて殴るためだけに石段を駆け下りるのは嫌だった。彼を殺せは出来ない。
「イシも変わったねえ!」
そう吐き捨てると、僕は彼に背を向けて石段を登り切った。風が吹き、瓶を叩き割った濡れた手が痛みで痺れ始める。恵子の痛みを思えば蚊に刺されたようなものだろう。しかし、この痒みを一生僕は忘れるはしまい。
登りきった坂の上から、僕は先ほどまで加虐をほどこした相手の行く末を気にする。彼は友人だったのだ。だが、眼下では芋虫のように丸まった男が手すりを頼りにゆっくりと駅へと歩みを進めていっている光景しか映ってはこない。この期に及んで集会やらセクトが大事だというのだろうか。恵子より大事なものがあるというのか。
「ダボォ……」
そう呟くと、僕はポケットからガラス細工を取り出した。そして、拳を使う価値もない男めがけて階段を駆け下りる。今度は、全力の脚力をもってして。




