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恋のほのお  作者: 桃山城ボブ彦
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第79回~昭和45年2月27日「友を呼ぶ歌」(前)


「腹が立つくらいのいい天気だ……」


 暦は三月を間近に控えていても冬の寒さだけがあった。僕は真新しいブーツでの足取りを休めて、後ろを振り返った。それだけのことで、眼前には大地がひらけてくる。空気が澄んでいるのか、阪急電車の甲東園駅から上ヶ原へと続く坂道からは遥かに大阪の街までが一望できた。

 それは久しぶりの景色だった。多分、去年の八月以来の。


「本当に、腹が立つ……」


 トレンチコートの襟を立てて寒風を拒みながら呟く。そして、襟の中に収まりきらない伸びた長髪だけが風にそよいでいく。

 コートは、年末年始も西宮に帰らないでアルバイトに明け暮れたための産物だった。でも、もう得意げに見せつけたい人はいない。

 そう、もう、いない。だから、僕はその代わりにこの坂の向こうにに待ち受けている人間に会いに行かねばならない。多分、会えば地獄の門番たちのような会話が交わされることだろうに。

 そこまで予想していても、ひょっとしたらこの先にあるものが地獄じゃないかもしれない、という想いがブーツの爪先を山の上へ、山の上へと導いていく。


 相手と落ち合う場所は実家や母校の高校から程近い公園だった。待ち合わせの相手とはそこでよくキャッチボールもしたし、もっと人数がいた時は三角ベースやサッカーをした。でも今日からそこは、そんなあどけない記憶を喪ってしまうのだ。


「畜生……」


 僕は坂の上を見上げ、そして空をも見上げた。本当に、呪いたくなるような晴天だった。



 通っている大学から目と鼻の先にある、瀟洒な山の上ホテルのバーにその人はいた。


「すまないね……。アルバイトも休んでもらってここまで来てもらって……」


「いえ、二月はそんなに忙しくもなし……」


 ウイスキーのグラスを傾けるのをやめて、フロントから程近いバーの重厚なカウンターで弱々しい微笑みをこちらに投げかけた人に、僕はぎこちなく答えた。今更、僕に何が出来るというのだ、と思うとそういう態度になる。彼の髪はいよいよ白くなっていて、眼は落ちくぼんでいた。既に数杯空けたから、という言葉だけでは言い表せない何かがそこにあった。


「そうかい……まあ、座りなさいよ」


「はぁ……」


 相手は葉巻をゆっくりと下に向け、来訪者が座るべき席を指し示した。促されるままにボンヤリと止まり木へと腰をおろす。酒を運びには訪れるが、未だに使ったことはないバー独特の雰囲気が思考を鈍らせようとするのだろうか。いや、違う。接点が少なかった相手の呼び名を決定することはどうにも難しいのだ。

 一体全体、恵子の父親を何と呼べばいいというのだ? 「小父さん」なのか、それとも「お父さん」なんだろうか?


「ビールでも飲みなさい……ひとつ、ドイツのあたりにでも、しようか」


「せっかくなのでいただきます」


 恵子の父親はカウンター内に佇んでいたバーテンダーに小声で、こちらが取り扱ったこともない名前のビールを告げた。すっきりとした紺の制服の青年がうやうやしくかしこまり、クーラーボックスへと視線を向ける。彼は店員のキビキビとした動きに少しだけ満足げな視線を送ったが、やがてこちらへと顔を固定した。


「さて、君に来てもらった理由は、昨晩電話で言ったような出張のついでではないのや……」


「と、いいますと」


「つまりや……。君に会うことが目的なんだよ」


 恵子の父の言葉は回りくどく感じた。回りくどい、ということは本題を口にすることにためらいがあるということだろう。僕は、()()()()()酒を口にしていない。酔ってはいないからそれくらいの推理が出来る余裕は、ある。

 だが、そんな直感は別に嬉しくもなんともないのだ。


 あの日、僕のアパートで影がゆらめいて以降、恵子とは会話どころか交換日記すら停止している。そんな彼女の親がわざわざ僕に会いに東京まで来ている。彼はあの日の出来事について自分の娘の言葉だけではなく、第三者の記憶でもって事実を確認したがっている。

 それがどういうことを意味するか、なんてことは考えたくもなかった。考えられる理由は二つあるが、どちらでもいいのだ。だが、相手はその二つのうちどちらだったかを知りうる要素が欲しいためだけにここに来ている。応じないわけにはいかないのだろう。


「娘の様子がおかしい。……去年の10.21以来のことだ」


 バーテンダーが冷えた小瓶を僕の目の前に置いたことを合図にしたかのように、相手の口が開いた。


「何があったかは察しがつく」


「……タバコを失礼します」


 話し相手から承諾もなく借りたライターでタバコに火を点けながら、じゃあ呼ぶな、と思った。


「君の気持は分かるつもりだ」


 こちらの非礼を見逃しつつ、恵子の父親の低く、それでいて抑揚のついた声が山の上ホテルのバーカウンターを包み込んだ。いくらいじけてみせようとも、彼は必死だった。


「それでも、だ。すまないが、教えてくれ」


 すっかり灰だらけになってしまった葉巻を静かに灰皿に置いた彼は、こちらへとにじりよった。となると、応えなければならないのだろう。風に晒すだけだった傷口に、指をずいと入れねばならない。


「話し終わるまではビールもタバコもよしときましょう。酔って話せる大事などないんです……」


 そう言うと、僕はカウンターに置かれていたグラスと小瓶を両手で遠ざけた。バーにいながら、今日はもう、一滴も飲めないかもしれない。

 バーテンは何かを察したのだろう。止まり木にいる二人の関西人からひっそりと離れ、静かにカウンターの片隅でブランデーグラスを布で掃除し始めた。僕は、無言のうちの店員の厚意に心の中で感謝し、そして、口を開いた。


「お嬢さんと石堂君はあの日……目の前で寝ていました。経緯は、経緯は……わからんのですが……抱きおうてはりました……」


 その言葉を吐いた瞬間、僕の中で何かが弾けた。だから、弾かれるがままにカウンターに全力で突っ伏した。分けた長い髪の合間から無防備にさらけだしていた額が、勢いそのままに激痛へと放り込まれる。

 僕は静かに肩を震わせて泣いた。痛かったからではない。恋はもう、消え失せてしまったということを改めて思い知らされたからだった。


 呼び出した相手は無言だった。ただ、恵子の父親の優しさなのだろう、静かにビールをよそう水音だけが響いた。

 誰が一番、今、辛いのだろうか。



 相手は、すでにそこにいた。その風貌は最後に会った時よりも少し痩せているように思えた。一方で彼の髪は伸び、今じゃ殆ど僕と変わらない横分けのロング・ヘアーとなっている。


「よぉ……」


 僕は相手に声をかけた。振り向いた相手の頬骨が少し、引きつった。怯えているな、と直感した。それにしても彼は、ごつごつとした頬の輪郭が目立つような痩せた人間だっただろうか。


()()()……お前から言っておきながら時間、遅れとるで。わしゃこの後、会議があるんじゃ。時間、有効に使いたいんよ」


 男は、つけている腕時計の盤面をわざとらしく指で弾いた。


「70年安保の前に、まずは『反・万博』に向けて前進せなアカンのよ、ワシの組織」


「セクトの打ち合わせ程度が、どないしたっちゅうねや!」


 僕はその大仰な演技を怒声一つでぶった切った。予想していなかったこちらの行動に、石堂一哉の眼が一瞬大きく見開いた。それは怯えだけではなく、この場からの逃走を試みたがっているものだった。


「大体、有効な時間、てなんや。お前の人生この先もう、ずっと無駄でしかないんやからな!」


 マシンガンのように僕は喚き散らす。呪詛と罵倒以外の余計な言葉を要するつもりはなかったの。そして、怒声に応じるにはそれを上回る蛮声を張り上げることだな、と僕は気づいた。遅い目覚めだった。


「ええか、耳の穴かっぽじって聞け」


「なんや大げさに」


「大げさいうならそれでええ。でも()()、聞き終わった後で、お前にどこぞへ出向く気力があれば殊勲ものじゃ……」


 相手を焦らすような煽り方をした僕は、トレンチコートからトリスの小瓶を取り出して口に含む。別に格好つけていたわけではない。素面でこれからを乗り切るにはあまりにも自信が無かっただけの話だ。大学が封鎖されるたび、それにかこつけて昼酒をするようになってしばらくがたっていた。そして、相手は恵子の父親程に誠実に向き合わねばならない存在では最早、ない。

 アルコール臭い息を吐くと同時に叫んだ。


「おケイは大学を辞めた!」


 それだけを告げ、顎をしゃくる。

 石堂の顔がゆっくりと歪んでいく。だが、それが驚きや哀しみからのものではない。思い当たる何かがあるから、歪むのだ。


「それがどういう意味か分かるよなあ? ダボクレ!」


 僕の金切り声だけが冬の終わりの晴れ間に轟いた。

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― 新着の感想 ―
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