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恋のほのお  作者: 桃山城ボブ彦
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第8回~昭和45年5月12日「明日に架ける橋」(前)


 学生食堂は混んでいた。うどんでも啜ろうかと思っていたが、「定食」のコーナーも、「うどん・そば」のコーナーにも長蛇の列が出来ているのをみとめると、諦めるしかなかった。二限が終わったばかりのこの場所で、並び、席を確保するという二つの難業に取り組むのは面倒くさかった。


 仕方がないので生協でカツパンと牛乳を買う。牛乳瓶と、パンの入った紙袋を片手に携えて、僕は学校の中庭をぶらぶらと彷徨い歩く。タテ看板、地面に落ちた濡れたアジビラ、そしてどこか他の大学からの外人部隊か何かであろう青いヘルメットを被った一群。我が物顔で闊歩するヘルメットの連中が何のセクトなのかは興味もないし、知りたくもない。とにかく、昼時でごった返す大学の狭い中庭はそんな見飽きた情景だけで構成されていた。何せこれはもう、去年入学してから何一つ変わらない情景なのだ。


「波多野クン」


 名前を呼ばれたと気づいたのは、中庭のちょうど中央に位置する噴水の傍らにある空いたベンチに腰かけて昼食をとりはじめた時だった。僕は薄いハムカツを齧るのをやめて、声の方向に顔を向けた。


「波多野クンじゃないの!」


 長い髪を額の真中で分けた、化粧っ気のない、ジーンズ穿きの小柄な女の子が僕に向かって手を挙げている。どこかで見た顔ではあったが、すぐには名前が思い出せない。しかし、そんなことにはおかまいなしに、彼女は僕が首をかしげている間にどんどんとこちらへの距離をつめてくる。


「一人で食べてるの? なんだか侘しい風景だったから思わず声かけちゃったわ」


 ついに、彼女は僕の横のベンチに腰かけてきた。僕は仕方なしに食べかけのパンを袋に戻すと、牛乳瓶の中身を飲み干して彼女をむかえた。


「まあ、ね」


 そうとだけ言うと、僕はこの闖入者の顔をまじまじと見つめた。もちろん、彼女の名前を思い出すためだ。何せ、名前もわからないままなら、会話の続けようがない。


「あのサ、波多野クン」


 ジーンズの少女は、あまりに僕が顔を見つめすぎるせいか、何かを察したようだ。


「あなた、ひょっとして私の名前、忘れてるんじゃない?」


 今度は彼女が僕を覗き込んでくる。万事休すだ。僕は空を少しだけ仰ぐと正直に告白した。


「ゴメン、ひょっとしなくてもそうなんだ」


 彼女の長い髪が大きく揺れ、そして、これみよがしな大きなため息が横から漏れ聞こえてくる。僕は呆れ返った声を聞き流しながら、もう一度カツパンを袋から取り出して、口に運び始める。


「忘れたならもう一度言ってあげるわ。一年の時同じドイツ語のクラスだった吾妻多英あづまたえよ」


 決して美人ではないが、妙な馴れ馴れしさと愛嬌を持つ少女は、そう名乗った。名乗られた以上仕方がない、僕は泣く泣く口に含んだばかりのソースの効いたハムカツを喉奥に放り込み、会釈をした。

 しかし彼女が何者なのかはまだ、分からない。すると僕の様子を見た彼女は、今度はため息ではなく苦笑しながら言葉を続けた。


「酷いなあ。そんな簡単に忘れる? 大体さっきの映画論の授業だって一緒に受けてるのよ?」


 映画論だって? そう聞いてようやく僕の鈍い頭が回転しだした。そういえば、さっきの時間に教授からエイゼンシュタインのモンタージュ論とソビエト演劇の関係について質問していた子じゃないか。

 いや、それだけじゃない。この子には、前、縁があった。僕は彼女に、ようやく彼女の素性についての返事をする。


「ゴメンゴメン。今、思い出したよ。確か君、去年の渋谷での新歓コンパで酔っぱらって僕の頭をビール瓶でこづいたことなかった……?」


 いや、我ながらまったくにまともな返事ではなかった。目の前にいる相手の名前を忘れた次は、かつての女の子らしからぬ行動を持ち出してしまっている。

 ただ、彼女は別段不快そうにも悪びれもせず、「そうそう」と頷くと、また、新たな苦笑を浮かべた。


「随分と変なコト、覚えているのねぇ」


 吾妻多英の、こちらが名前を忘れたことに対する反応はそこで終わった。話は彼女が感じた僕の「侘しさ」に移っていく。もっとも、彼女が何を感じようが、いきなり彼女に昼飯に割ってはいられたおかげで、カツパンのハムカツを二口で飲み込まなきゃいけなかった僕の口は確かに侘しいが。

 彼女が口を開く。もちろん、その「侘しさ」とはカツパンについてではないだろう。


「なんか、孤独よぉ。いや、孤独なフリをして、その実ただただボーッとしている感じかもね。演劇科だからって芝居の研究でもしているの?」


「そう見えるかね」


 僕は、紙袋に牛乳瓶を突っ込むと、改めて彼女に向き直った。


「そりゃあ、ボーッとしてるわよ。昨日の『カンボジア侵攻への抗議決議』に関する文学部集会にも来なかったしさ。まあ、波多野君は無関心派なのかもしれないけど」


 その言葉には僕はすぐには反応しなかった。食後の一服がまだなのだ。なので胸ポケットから『わかば』を取り出し、マッチで火を点けて大きく吸い込んだ後で、ようやく返事をした。


「無関心派というより諦観派だよ、こちらは」


 僕は再び大きくタバコを吸いこむと、もう一度だけ、天を仰いだ。


「僕が何か声を上げようが上げまいが、結局は先月みたいに全学ロックアウトになっちまう。それに、顔を隠して角材持った連中がウロウロしている中で、何か言うなんて怖くて出来ないや」


 先月の終わりにも、全学ロックアウトがあったばかりだった。何がなんだかわからないまま、閉ざされた正門の貼り紙で、今日の授業がなくなったことを確認するのは、もうありふれた光景だった。

 東大の安田講堂が落城して一年と少したつが、学生運動は別に収まりをみせたわけではない。むしろ七十年安保を控えてより先鋭化しただけにしか見えなかった。


「ふうん」


 無関心そうな声が隣からする。どうやらこちらが学部集会に行かなかったことを咎めたい訳ではないようだ。


「あのさ、波多野クン」


 吾妻多英の声の調子が、今までと打って変わって低いものになった。どうやらここからが彼女の本題らしい。


「あなた、失恋したでしょ? 違う?」


 今、一番触れられたくない事だった。それをこの少女はまるで天気を訊くように訊ねてきた。


「うーん…………」


 僕は言葉がでない。だって、自分の中で踏ん切りのつかない話を、知らない女の子に気安く話せるわけがない。


「答えられないってことは少なからず当たっているみたいね」


 沈黙をいいことに、彼女は確認に入る。


「いや……失恋では、ないかな。大体失恋なんてのは『何か』行動があって初めて起こるものだろ」


 タバコを靴でねじり潰した僕は、そう答えるのがやっとだった。少なくとも、この少女に弱味をさらけ出したくはない、という感情だけがあった。


「ふーん、『何も』行動しなかったら失恋ではないんだ、波多野クンにとっては」


 吾妻多英はしかし、こちらの必死の抵抗をからかうようにして否定する。挙句の果てにはこんなセリフまでうそぶいた。


「ね、そんなのフラレても、ほら、男の人ってマ・ス・掻いたら立ち直るっていうじゃない」


「馬鹿にしなさんな。どうせ週刊誌か何かの入れ知恵やろ」


 流石に語気が強まった。僕の中の、さっきから彼女に対して漠然と感じていた不快感がようやく溢れでた。そうだ、彼女はさっきからこちらを単に挑発しているだけじゃあ、ないか。


「大体何なんだよ吾妻さん。人が飯食っているところをからかうだけからかって」


「気を悪くしたなら謝るわ」


 少女は肩をすくめる。しかし、その言葉からトゲが抜け落ちたわけではなさそうだ。


「でも、別にこの混雑した大学内で一人落ち窪んだ目をしていたらただの三文役者よ。悲劇の主人公気取りだわ」


「君は何が言いたいんや」


 もう、うんざりだった。思わず元の訛りがでてしまう。これ以上、こんな阿呆陀羅問答はしたくない。すると、彼女は改めてその小さな目でこちらを見据えた。


「うーん。波多野クンが新劇の公演に詰めかける勿体ぶった演劇青年とか、美術展でベレー被ってアゴに手を添えていかにも『感激』したポーズを作ってる絵描き志望の類に見えただけ。だからそれを指摘してあげようと思ったのよ」


「へっ。それはどうも御丁寧に。僕はもう行くよ」


 僕は鞄と紙袋を持つと、もう彼女の方を振り返らずにベンチから立ち上がった。不快感が怒りの沸点を刺激するということもあったが、時計が一時二十分を指している。噴水の奥にある第二校舎での授業が近づいていた。


「あら、そう」


 華奢な足音が僕の後を追ってくる。要は、彼女は僕の後をついてきたのだ。


「散々人をコケにして、まだついてくるってぇのか?」


 半ば怒鳴ったような声を、僕は思わずあげた。その声に、中庭でボンヤリと時を過ごしている何人かの学生が、虚ろな目をこちらに向ける。

 しかし、声の行く先である吾妻多英自身は少しも動じなかった。


「何言ってるの」


 少女は不満そうに小さな胸元で腕を組んだ。


「次の『舞台芸術』、私もアンタと一緒でとってるのよ!」


 言い返す言葉は、見つからなかった。僕は思わず右手で顔を覆い、そして彼女に背中を向けて第二校舎の階段を昇り始めた。

 全く、なんていう日だろう! おケイのことで、しばしの感傷に浸ることすら出来ないなんて!

 しかしそれでも、僕の頭の中の別な部分が、吾妻多英の数々の挑発を許しているような気がする。それが何でなのかはまだ、わからない。わかる時は来るかもしれないし、来ないかもしれない。


 混乱した頭のまま、僕は大教室へ向かう階段を昇り続けた。そして小さな足音も、ずっと僕の後を追いかけてきた。

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