第77回~昭和45年8月10日「ペイン(恋の傷跡)」(中)
三
第一京浜は混んでいなかったのに茅ケ崎に着いたのは昼の三時を回っていた。中田が方向音痴だったのだ。彼は、地図も標識も信用しない独自の信念で二度も「茅ケ崎はもっと遠くのはずよ!」とのたまい、そのうち一度は小田原まで行きかけたのだから無理もない話だった。なんとか着けたのは、「茅ケ崎は横須賀の南にあるのよ!」と断じたドライバーの頭を多英がはたいてくれたからにすぎない。おかげで、まだ米軍基地に突入したり海に落ちたりせずになんとかなっている。
「ホホホ!」
悪びれた感じをあまり見せない男の笑い声が、海が見えるよう四方にガラスを張り巡らしてるドライブ・インに響き渡った。さんさんと降り注いでくる昼下がりの陽の向こうにはガラスの向こうにはサーフィンをしている連中が多くいて、ジーンズ履きのウエイトレスの話ではここの駐車場に車を止めたまま波にまみれているらしい。二時間もしたら彼らは戻ってきてステーキやビールを頼むのだろうが、今は客は少なかった。
「アンタがあそこまで世間を信じないクチだとは思わなかったわ」
溶けたチーズがたっぷりと入ったハンバーガーをナプキンで押さえつつ口に運びながら、呆れた表情で多英が言う。
「石橋を叩いて渡る主義なのよね」
「なら仕方ないけど、『茅ケ崎』が読めないのかと思ったわ」
「ま、それもあるかもね」
中田は事も無げに応じ、ついでに我がフライド・ポテトを掌いっぱいにつかみ取った。
「えげつない!」
思わず、抗議の声をあげる。が、相手は意に介さない。
「運び賃、運び賃よ……アンタ達と、それから夏の想い出を運ぶのよ……」
「気持ち悪い!」
少女が叫んだ。
「ひどぉい!」
負けじと男も叫んだ。
「それでも文学部?」
「詩文専攻じゃあないから問題はないの」
僕だけが叫ばなかった。今朝起きてからというもの、冗談どころか会話にすら入り込めていない。そこにきてドライブの途中から中田がしきりと「想い出」という言葉を口にすることが気になっているのだ。彼のせいで半分以下の量となってしまったポテトの皿を見つめながら、この図ったような奇妙なタイミングでの行楽に思いを馳せるだけだ。話はしたいのだ。
恵子から昨日の夕方に手紙が届いていた。
しかしこの軽い雰囲気では、それはやはり打ち明けづらい。僕は咥えていた『わかば』をすり潰すとソファに倒れこんでみる。
そして柔らかな席の感触が下半身を包んだ頃、中田の眼が薄く光った。
「ジューク・ボックスがあるわ!」
彼は叫び、席から立ちあがって入口脇に置いてある機械の方へと歩きはじめる。
「せっかく海まで来たんだから、レジャーらしいことしなきゃ」
「レジャー? ジューク・ボックスくらいどこでもあるじゃあないの」
「違うのよ、ター。海辺のレストランでレコードをかける。ついでにゴーゴー。そういうシチュエイション、洒落てみえるじゃない?」
「そんなものなの? お洒落なシチュエイションって?」
「そんなものよ」
「そうなのかしら?」
「そうなのよ」
男は相変わらず多英に飄々と語ると、機械に片手をついて財布を取り出した。一曲流したいのだろうか。
だが、耳に届いてきた音は音楽よりもまずは彼の言葉だった。「波多野」と明朗に呼びかける声がしたのだ。
「何や?」
「アタシがなぜ、ジューク・ボックスをいじくるか分かる?」
「そりゃあ……お前がさっき話したとおりなんやろ」
「それもあるわねえ。でも、それだけじゃあないわよ」
中田は昔懐かしい『ウエスト・サイド物語』のジョージ・チャキリスでも気取りたいのか、足を高く上げてステップを踏みながら話を続ける。だが、骨と皮だけの鶏ガラのような男が足を上下させる格好は、色男ではなくコンパスにしか似やしない。
「今更だけど上等のシチュエイションに恋人同士がいるとなると、あたしゃ少しお暇なの」
僕はもう返事をせずに閉じたコンパス、いや、クサい台詞の発言者に視線だけをあわせた。
「若い二人はお話ししましょ! で、アタシは……その間、ゴーゴーを踊るのねえ」
そして、彼はこちらに背中を向けてレコードの選定を始めた。
多英の様子をうかがうと、彼女のハンバーガーからチーズが零れ落ちて小さな小指を濡らしていた。彼女もそのやかましい背中の言動にポカンとしたのだろうか。
だが、すぐに彼女は少しうつむいてクスリと笑いだす。
「じゃあ今日を仕切っているあのバカの言に従って波多野クン、何か喋ろうよ?」
ナプキンで口と指を拭った多英が微笑んだ。
「ああ……」
「話題、ある?」
「なくはないけど……」
「ふうん……」
僕は腕組みをして空のコーラ瓶に挿したストローを咥えていたが、やがてそれをフライド・ポテトを盛っていた皿に捨てた。そして、呼吸ともため息ともつかない何かを吐きだす。
かつて、恵子から手紙が届く、と断言したのは多英だった。そして、届いた場合にそれを教えてほしいと伝えてきたのも。
だが、その事実のみをもって、「君の予測したことが当たったよ」などと喋ることにはためらいを覚えるのだ。
「何か喋りたそうにしているけどなあ、波多野クン」
「う……」
「さっさと喋ってみたら?」
多英はクスクス笑いながら何らかの発言を促す。ふと、彼女は全て知っているのではないだろうか、という予感がした。
「キャー! この機械、ビートルズが入ってないじゃない!」
「バーカ!」
中田の声がこちらの躊躇をぶった切り、そしてすぐに上機嫌な声で一掃される。
「まったく……なにが『上等のシチュエイションで若い二人はお話を』よ。ねえ?」
「ほんまやなあ……しかし……」
「しかし?」
多英が僕の煮え切らない言葉に反応した。小さな顔が「分かっている」とでも言いたげに肯く。まさか、という思いが一瞬よぎった。
「あら、いいタイトルね!」
戸惑うばかりの心がまた、ジューク・ボックスと睨めっこをしている男の嬌声にかき乱される。
「題名が『ペイン』だって! 『恋の傷跡』なんて副題つきで! もう、これしかないわね!」
弾んだ声で曲名を中田が読み上げた。硬貨が機械に吸い込まれる音がし、ゆっくりとレコードが持ち上げられていく。重いタイトルだ、としか感じることはなかった。
「あら、ディスクジョッキー、案外いい選曲ねぇ」
「ムッヒッヒッヒ」
不思議なことに今度は多英は咎めなかった。
そして次の瞬間、広いドライブ・インいっぱいにけたたましいブラス・サウンドが立ち込める。
会話は中断した。機械の傍で中田が踊り始めただけでなく、多英までが音楽に聴き入り始めたのだ。仕方なしに僕も彼女に倣うことにする。ロックサウンドの轟音の中では、会話は難しいのだ。
じりじりと怒りをため込んではそしてサビでそれを一気に吐き出すように荒れ狂う波のような金管楽器の大群の中を、リズム・ギターの切れ味の鋭いカッティングが泳いでいく。穏やかな午後の凪にたたずむ建物の中にいながら、真逆の海を想起させられる演奏だった。
だが、『恋の傷跡』というタイトルと、それにふさわしいだけの英語詞が演奏の巧拙以上の何かを伝え始める。聞き取りやすい英語で綴られるものはひたすらな、相手の前にひざまずいたかのような男の哀願だった。そして、歌詞世界の哀れな男の前には多分、もう恋人の姿は影すらない。
そんな曲の歌詞を聞き取ったのか、途中から中田はうろ覚えでサビを歌いだす。
「オー! オー! オー! オー!」
彼は左右に緩慢なステップを繰り返しながら叫ぶ。それを見てタバコをいじりながら多英は屈託もなく笑顔を浮かべている。
流石に考えざるをえなかった。選曲といいはしゃぎ方といい、二人は何を言い澱んでいるかを知っているのではないか、と。
「ドーンプシュミウェー!」
僕はとっとと言ってしまったら良いのだろうか。
が、一通の手紙によって僕は初夏から続いている束の間の安寧を追い出されるという怯えが続いていた。多英は独特の感性とともに一番近くにいてくれる。中田も……友人として接し続けてくれている。言いだすのをためらう理由は当然、そこにある。事実を告白した途端に三人の中にいつぞやとは比較にならない緊張が発生するのではないだろうか、と不安になるのだ。
そしたらまた……あの夜の感覚を常に覚えて過ごさねばならない。この歌の主人公みたく誰彼構わず哀願を繰り返さねばならない。
「ネ……波多野クンはいつ帰省するの?」
今度はオルガンが轟音と化して鳴り響く中、『クール』に火をつけた多英が不安で覆われた耳元で囁いた。
「明日の急行の切符を買ったよ」
「そっか」
軽くうなずいた多英は彼女のタバコをひと吸いし、やがて机の上に投げ出していた『わかば』を一本抜き取ると僕の口に咥えさせた。
「じゃあ、大貫さんにはいつ会うの?」
彼女はにこやかに告げた。静かな笑みが肩をほんの少し上下に揺らし、黒髪がクーラー以外の要素で微かに動きはじめる。
「そ、それはやね……」
いつにも増して僕の舌は鈍くなる。そして、即座に否定できないことが全ての答えだった。
「一誠!」
多英はストレートの長い髪を振り回すと、踊る男を呼んだ。
「ワオッ!」
風に揺れているカカシのような踊りをしていた中田の動きが停まる。
「あなた、当たったわよ!」
「ペイン! ホホホホ……」
音楽がフェイド・アウトにはいった中、ヒョロっとした男は曲のタイトルを叫んで右手でVサインを繰り出した。暇そうにしていたウエイトレスが彼の挙動に気晴らしの拍手を送る。
「ありがとござんす! じゃ、お姉さん、次の曲では一緒に踊りを……」
「仕事中ですので」
「あ、そう」
お義理の拍手で調子づいた中田がソデにされる一部始終に多英は少しだけ視線をあずけていたが、ウエイトレスが奥に引っ込んだと同時に改めて僕を見つめた。
「ねえ……。波多野クンが言いづらいのは分かるよ」
自白めいたことをしてしまったとしても沈黙を保つしかなかったが、それに構わずに彼女は喋り続ける。
「前にも言った通り、当然それを私は許すわよ。こっちだって仙台まで出向いたわけだからね」
「でも、それは僕らがつきあう前の話や……」
それだけをようやく口にすると、僕は咥えっぱなしのタバコに火をともした。期せずして自白は終わってしまった。
たったそれだけの行為で、喫煙者の性が身体を支配し、言葉がスラスラと出てくるような感覚を覚えた。
「今、会うということは君をうらぎ……」
「波多野クン!」
どうやらタバコの効果は無かったようだ。君を裏切ることにならないか、という疑問を呈することは遮られ、代わりに華奢な手がその細さにふさわしくない力で我が手首を掴んだ。
「絶対に大貫さんと会うのよ!」
多英は鋭く叫び、その声は音楽の途切れた空間によく響いた。
「つきあう前の波多野クンが言っていたとおり、あなたには投げ出し……いや、逃げ出してしまった恋を終わらせる義務があるのよ」
「いいのか?」
「くどいっ!」
手首に一層の力が加えられ、ささやかな痛みに僕は思わず顔を宙へと上げる。すると、こちらへと身を乗り出した女の子の肩越しに、テーブルの様子をうかがっている中田の顔があることに気づいた。彼は今度は会話を中座させようとはせず、すぐに背中を向けてジューク・ボックスの選曲に再び取り掛かり始めるだけだ。
「話さなくたっていいよ。ただ、ちゃんと私のために東京に戻ってきてくれたらそれでいい」
「分かった」
僕はロクに吸わなかったタバコを灰皿に放り込んで肯いた。次にいう言葉は、咥えタバコでは語れないのだ。
「ねえ、ター」
「なに?」
「ありがとう」
単純な言葉ではあった。それでも、多英は目をパチパチと瞬かせる。
「いやあねえ波多野クン。改まっちゃってサ」
彼女は少し口元を和らげて、それから冷えたポテトを一つまみそこへと運んでいった。僕はその食事風景をじっと観察した。
それは、目に焼きつけておかなければならないものの一つだった。そして、今度こそ手放してはいけないものだった。
「気に入ったわ! もう一回!」
一分も息もつかずに多英を見ているうちに、遠くから中田の声がした。続いて「おねーさーん! おねーさーん! おねーさまー!」という彼の甘え声がする。さっきの物騒なレコードでのダンスにウエイトレスを懲りずに誘おうというのだろうか。
だが返事はなく、彼はさっきと同じ爆音の中で、一回目よりも洗練されたステップを繰り出し始めた。彼のこの踊りもまた、記憶にとどめなければいけない、と僕は強く感じた。
「ぎゃっ。なんじゃ? アレ?」
音楽に負けないだけのけげんな大声がした。入店してきた日焼けした短髪のサーファー達が中田のダンスにうろたえた声だった。そりゃ、泳ぎ疲れて店に戻ってきた途端、入口では原始人みたいな男が一人で踊っているのだ。誰だってうろたえる。
「あら、お兄さんたちも一緒に踊る?」
中田は自分よりも屈強な肉体を持つ彼らに笑いかけた。まったく、タフな男である。
「サーフィンする連中なんてみんなお坊ちゃんだから踊りが上手いの、アイツ分かってるのかしら?」
多英は苦笑しながらジューク・ボックスの一幕を面白がっている。「ほんまやね」と僕は応じた。
それは心地よい午後ではあった。少しの疑問を除いては。
「オトコオンナ! お前、やるなぁ!」
「オホホホホ!」
サーファーに入り混じって踊りながらけたたましい女言葉で踊り続ける中田の姿がその疑問をあぶり出していく。
なぜ、多英と彼は感づいたのだ? そして、ピエロは本当にピエロのままでいいのだろうか?
「ペイン!」
踊る集団が一斉に叫ぶ。多英とウエイトレスが拍手する様を横目で見ながら、いつぞやアンさんが口にした「ピエロであろうと努力している人間の志を無下にするな」という言葉が脳裏をよぎり始めた。少なくとも『恋の傷跡』というタイトルでマゾヒスティックな諧謔にふけっているのは僕ではない。




