第76回~昭和45年8月10日「ペイン(恋の傷跡)」(前)
一
けたたましいクラクションを鳴らしながら大学の校門前に鮮やかな銀色のグロリアが停まったことで僕は思案を分断させられてしまった。夏休み前の最後の課題であるブレヒトに関するレポートを出しに学校を訪れていただけのこちらは、同じように提出を済ませて帰宅しようとしていた多英や他の学生達と高級車の同道の登場に一緒に目を見開く。別に銀色の塗装が眩しかったのではない。ウチのようなムサ苦しい学校にも、グロリアなんていう百万は下らないであろう高級車を颯爽と乗りこなす大金持ちのボンボンがいるものだなあと感心したからだ。
「すげえやつもいるもんだなあ」
傍らの柔道着の男がため息をついた。それに応じて多英が腕を組みながら「いるところにはいるものねえ」と同意の言葉を発した。「はぁ」と情けない吐息で僕も続く。
だが、ハンドルを握っていたのは良家の御子息などではなかった。
「よお、波多野ちゃんにターじゃないのよ!」
開け放たれた運転席の窓から顔を覗かせたのは中田だった。
「中田!?」
「一誠!?」
「何よぉ」
二人から同時に発せられた声にたいし、中田は甲州街道を行きかう車のけたたましいクラクションの中、いかついアゴヒゲと原始人のような長髪をさすりつつ応じた。
「お前、どないしたんや? こないな高級車!」
「そうよ! それにアンタ、ブレヒトはどうしたのよ?」
大勢で車の周りを取り巻きながら、僕と多英は全員を代表して質問する。だが中田はニヤニヤと笑うだけで極上の車の入手方法については多くを語ろうとしない。
「そりゃあ……買ったに決まってるでしょ。で、レポートは先週に出してるわよ」
「ふむう」
多英は唸った。そしてドイツの劇作家についての問いを削除し、残った方の疑問を改めて指摘する。
「でもさ一誠、ウドンに天ぷらもつける金もないクセに、車はあるってぇの?」
「ま、ま、お乗りなさいよご両人」
多英が発した質問を忍び笑いで受け流した車持ちは、助手席のドアを開けた。
「これから三人でドライブと洒落こむのよ。素敵じゃない? そして、校門に二人がいるなんてグッド・タイミングよね!」
そう言うと中田はロングヘアを風に揺らしてホホホ、と怪鳥のような笑い声をあげる。はっきり言っておぞましい。が、身軽になった瞬間にいい車でのドライブをするというプランが悪くない話であるのも事実だ。
だが、どうしたものだろうか。
僕は今朝方から、多英に打ち明けたい話をどう切り出そうか、とそればかり考えていた。そして、これからどこで話そうかとそのタイミングばかりに思い至っていたところだったのだ。
それが午後を楽しく過ごすとなると、そういった気まずい相談は出来なくなるのじゃないだろうか。
「いいわねえ!」
こちらの胸中など知った事でないであろう多英が快活に声をあげた。
「そうこなくっちゃねえ!」
中田は叫び、そしてまたホホホ、と笑った。
「ホラ、波多野クンも助手席にとっとと乗った乗った!」
早速グロリアの後部に乗り込んだ多英がせっかちな手招きをする。髭ヅラの笑顔が、彼女の手招きを補強していく。
「ふむ……」
僕はほんの少しだけ逡巡したが、結局は助手席のドアを開けた。
中田を排除するつもりなどはない。相談相手は多いほうがいいかもしれないのだ。今の問題はいつ打ち明けるか、ということだろう。
「ホホホ!」
中田がくどいくらいに奇声をあげ、そして車を校門前から景気よく発進させた。
二
「で、中田。お前、なんでまたドライブに誘ったりするんや?」
友人二人を乗せて車を発進させたはいいが、甲州街道を環状七号線へと右折してすぐ渋滞につかまった運転手に助手席の僕は尋ねた。
「そりゃ、アンタもアタシも帰省前の盆休みだし、ターだって教えている生徒さんがハワイまで家族旅行に行ったっていうしで今日は何もないでしょ?」
「そりゃそうだけどさあ」
後部座席から身を乗り出した多英がこちらの代わりに応じた。彼女もまた、車持ちとなった中田の不意打ちの襲来にまだとまどっているようだ。
「いいじゃないのよ」
サイドブレーキをかけた中田は断じた。
「以前から車が手に入ったら友達誘ってドライブしたかったのよ……それだけ!」
「へえ……」
後部座席にもたれながら多英は呟いた。そして車が環状七号線をノロノロ進んでいくなか、彼女はこの謎のオーナードライバーに猫なで声を出した。
「ねえ、一誠」
「なあに?」
「アンタいつから苗字が変わったのさ」
「んー……」
中田の声がくぐもっていくのが分かった。そして、車中の空気の変化を逃さず多英は後ろから一枚の紙片を取り出した。
「このクルマの契約書じゃあ、持ち主の名は『吉岡』ってなっているじゃない!」
「キャーッ!」
中田は悲鳴を上げながらギアを一速から二速に切り替える。幸福にも渋滞が途切れたのだ。
「ハハァ……」
加速していく高級車の中で名探偵の推理がからかうような声色で始まる。
「『吉岡』ってさ、要はこの車、アンタんとこの作家先生の車じゃなくて?」
「キャーッ! なんで後ろに先生、契約書置いてんのよ!」
中田はまたも悲鳴を上げながら今度は二速から三速へと切り替えていく。どうやら図星だったらしい。
「車欲しさに養子になったの?」
「違うわよぉ!」
追及に男は白状した。
「先生はこの前、先物で稼いだ挙句に過去の全集が出たから買ったんだけどサ。あの人、免許持っていないのよ」
「じゃ、アンタが日頃は運転手ってぇ訳?」
「そうよぉ! で、前期試験が終わった今日、アタシの普段の勤勉さを評価してボーナスとして一日だけ貸してくれたのよ」
楽しいホラがばれた中田は、また機嫌のよい声でしゃべり始める。しかし、普段の適当な店番っぷりを見る限り彼に勤勉さがあるとは思えないな、と思った。少なくともマジメな勤労学生は店の卵をくすねて親子丼をこさえたりハムエッグを物陰で食ったりはしないだろう。あと、好事家相手に雇い主のサイン色紙を偽造して一枚千円で売ったりもしないはずだ。
「気前がいいのねえ。アンタんとこの先生」
「でしょ! でも、今日貸してくれた条件だけが難しいのよ」
「なんなんや?」
ようやく、僕はドライバーと名探偵の会話に加わった。
「これ以上、このグロリアに傷と凹みをつけないことよっ!」
「ゲッ!」
中田の物騒な物言いに思わず唸ってしまう。そういえば、さっきからやたらと周りの車がクラクションを鳴らしている。あれは中田の運転ぶりに向けられたものだったのか! 校門前で車にやたらと凹みがあったことを僕は遅まきながら思い出した。
「実家の配達に使っているスズライトより大きい車って扱いがむつかしいわよねえ!」
渋滞が解消された環状七号線を、中田はまたもやホホホ、と笑いながら車のスピードをグングンと加速させていく。
「い、一誠、ご実家の薬局は薬の配達をしてるの?」
多英の声すら震えている。恐怖は伝搬するのだ。
「あ、ウチ、薬局以外に本屋と化粧品店も同じ敷地でやってんのよ。配達はソッチね」
ただ一人のんびりと構えている中田が、呑気な声を出す。
「ご、豪商なのねえ」
そうとだけ言うと、多英はもう何も喋らなくなった。代わりにシートに倒れこむ軽い音だけが後ろから聞こえる。
「どうだかね。で、行先だけどサ……。波多野、ター、この後は第一京浜ぶっ飛ばして、湘南の茅ケ崎まで行くってぇのはどうかしら?」
「ええ思うよ……」
後ろの恋人と同じようにぐったりしながら、僕は辛うじて彼に提案された行き先への許可を与えた。多英は何も言わなかった。大方、軽自動車の運転だけが得意という中田の経歴を反芻しているのだろう。
「アイアイサー!」
中田の甲高く明朗な声だけが車内に響いた。
「この車、百八十キロまで出るのよね」
ウフフ、とハンドルを握りながら彼は付け加えた。僕と多英はもう、何も言わなかった。命があればそれでいい、と感じたのだ。
だが、その後に中田が何気なく付け加えた一言に対しては、僕だけが反応せざるを得ない。
「湘南、茅ケ崎……渚ねえ……」
それは、第一京浜へと右折しながら中田が呟いた次の言葉だった。
「あ、『想い出の渚』って塩梅よねえ……ねぇ? 波多野?」
その瞬間、電流に似た何かが体を貫いていくのを感じた。
想い出だって!? 無邪気にみえる中田が発したその何気ない単語こそ、今朝方から僕を悩ませている言葉であった。
「ホホホ……」
ドライバーの相変わらずの女性的言葉遣いをガソリンに混ぜつつ、グロリアはハイウェイを一層、加速していく。しかし、僕の思考は徐々にスピードを失っていくだけとなっていた。
それは、願っていたものではあったはずだが、想い出が向こうからやって来た日は、どうしてもそうなってしまうのだ。




