第75回~昭和44年10月21日「レット・ザ・サンシャイン・イン」(6)
十一
「ハタ坊……」
そのくぐもった声を聞いたのは、僕を降ろしたタクシーが赤いランプを灯して表通りを走り去っていった直後だった。
「ハタ坊、ハタ坊……」
路地の暗がりから再び僕を呼ぶ声がする。何か目まいを感じるような感覚があった。だってそうじゃないか。夜通し探し求めた声の主が、まさかこんな近所にいるとにわかには信じられない。
だが、東京の夜道で僕をそんな名前で呼ぶ人間など、アルバイト先の坊や以外には彼しかいない。
「イシか……」
僕は懐かしい声の方を見据えた。長い影と小さな影がそこにあった。そして、長い影の持ち主だけが割と快活な足取りでこちらへと街灯の光に照らされながら歩みはじめた。
小さな影の方は……ゴミ箱の影にうずくまっている。
「ハタ坊……遅いやないか。何をしとんねん」
石堂はそう言うと、黄色い灯りの下で歯を剥いて笑みを浮かべた。
その笑顔を見た僕は、自らの心の中に何か熱いものがこみ上げてくるのを感じた。
「無事だったか?」
おずおずと、僕も彼への歩みを進める。身体から力が抜けていることを感じた。テレビの『ハプニング中継』を見た時に覚えた、石堂へのとてつもない程の害意が消え失せていたからこその脱力なのだろう。大抵の悪意は、小便横丁で長野の学生を半殺しにしたことで霧消していた。
おかげで、僕は友人にまっさらな形で再会できる。彼のあれこれを許せるかもしれない。
「いや……無事も何も、機動隊にはなあ……」
目の前の彼は、声をひそめながらあたりを見渡した。どうやら深夜の住宅街に声が響くことを気にしているらしい。
「最初に出会うた機動隊から逃げる時におケイが足を挫いてな……おまけに国電は乱れているし、タクシーもつかまえられんでな」
「そうか……」
「せやから、ここまで車持ちの一橋の学生に乗せてもらってナ……。いや、交換日記の住所も、役に立つのお」
「そうか……せやったか……」
僕はもう、低い声での言葉をやりとりすることが煩わしくなっていた。石堂があの、恐ろしいデモの中を掻い潜ってここまで来たということだけが嬉しかったのだ。
だから、やることはこんなことでしかなかった。
「何も言わんよ。もう、何も言わんよ……。でも、お前らが無事でホンマ良かった……」
それだけ言うと僕は、赤子が母親を求めるように石堂の肩にむしゃぶりついた。彼は何も「うん、うん」とつぶやく以外は何の反応もしなかった。ただ、汗ばみ、すえた匂いの彼の胸元の筋肉が、微かに強張った。
「さよけ……」
「もうええやないか。十分やろ……。三人で明日にでも新幹線の切符買うて、西宮へ帰ってまおうや……」
そんなことを言うのが精いっぱいだった。僕は変わり果てた世の中と、激情さえあれば人を半殺しにしてしまおうとする自分から逃げだしたかった。そんな旅路に道連れが二人もいるなら、実に結構なことじゃないか。封鎖続きでろくすっぽ講義もない大学なんざ休学したって構わない。
「ん……」
石堂はこちらの肩を力強く抱きかかえながら、それでも冷静に返事をする。
「日本シリーズ、見にいこや……」
「ん……」
「それで、僕ら少し話してみようや。この一、二年というもの、多分まともに話していいひんかったやろ?」
「ん……」
石堂は繰り返し唸った。そういやコイツは何か気の利いたセリフを言おうと思案するときはいつも、こんな唸り声をあげていたなあ、と僕は思い出した。
だが、その期待はすぐに彼の口によって否定された。時間が人を変えてしまっても、癖だけがこびりついているだけなのだろうか。
「無理やな」
「なんでや」
「おケイが疲れ果てているやろが」
石堂はアゴをしゃくると、ゴミ箱の影にうずくまったままの恵子を指し示す。それは無表情な声だった。
「おケイ……」
僕はようやく、暗がりの中にいる女の子を見る。彼女は……ぐったりとうなだれ、土と埃にまみれていた。今晩、どれだけの恐怖を味わったのかは喋らずとも分かる格好だった。
薄いベージュのズボンの彼女は無言のまま、こちらを見上げた。一瞬目と目が合ったが、小さな瞳はすぐにまた、伏せられた。さっきの学生よりマシな部分といえば、小便を漏らしていないことくらいといった具合だった。頑強な石堂と華奢な恵子では見るものがさぞ、違ったことだろう。
「話なんざ、いつでも出来るわい」
そして彼の大きな手も、僕から離れた。
「せやな……。しかしイシ、さっきからおケイが全然喋らんけど大丈夫なんやろな」
「大丈夫や……」
「ほうか……」
絶対に大丈夫ではないだろ、と感じた。
でも、今、しなければいけないことは討論ではない。僕はズボンのポケットから部屋の鍵を取り出すと、石堂の鼻先にそれを突き出す。
「鍵、渡すわ」
「どういうことやねん」
「母屋に挨拶に行く。デモの日に遅く帰ったとなるとこちらの行動を注目しとるはずやからな」
「ああ、そういうことか」
「アカがお嫌いでな」
「アカねえ……」
得心した表情とけげんな表情をあわせたような彼は鍵を受け取った。
「とにかく挨拶しとくさかい、お前らそのスキに部屋に入れ」
「わかった……」
「2階の5号室じゃ。そいで、順に湯に入っとけ」
鍵と恵子を石堂に託した僕は、母屋に向かう玉砂利へと足を踏み入れる。
「お前んとこ、風呂つきか。豪勢やな」
彼が言った。
「近くに銭湯がないのや」
僕は一度だけ振り返るとそう告げ、再び玉砂利を踏みしめる。石堂が恵子の細い肩を抱くようにして、コンクリートの階段を上がっていく様が見えた。重い足取りに見えなくもない。今日はもう、寝かすだけで、話をするなら明日の朝まで待たなければいけないだろう。そう、思った。話など、いつでも出来るのだ。
だが、その瞬間こそが僕らの最後だった。
十二
「それは、それは波多野さん、大変でしたねえ!」
大家の奥さんが何回も肯きながらこちらの格好をうかがう。
「明日の朝刊に詳しくは載るでしょうがね……地獄でしたよ」
僕はひき笑いとともに答えた。「新宿で配送中にゲバルトに巻き込まれ、道はふさがれ国電も動かないので店に戻らずここまで帰宅した」というこちらの言葉を、大家である老夫婦はそっくりそのまま受け取った。予想通りだった。埃と汗はともかく、前かけとハンドバッグが効いたのだろう。
「地獄、ではないでしょう」
老婦人は笑いながら、あがりかまちに置いた白湯を勧めた。
「は、さいですか……」
湯呑み茶わんを手に取りながら僕は応じた。
「そりゃ、そうですよ。地獄というのは山の手空襲のようなものを指すのです」
「…………」
ぬるいお湯が口内に染みわたり今日の汚れを洗い落としていく中、僕は無言のうちに肯いた。
戦争は知らない。でも、死線をかいくぐった人間から、今日の出来事など児戯にすぎないと遠回しに言われたら、抗うつもりなど何一つ出なかった。
「さてと、ごちそうさまでした。部屋に戻って寝るとしますよ」
湯呑み茶わんを置いて立ち上がる。そして、茶わんを盆に載せた老婦人が優しく微笑みながら唇を開いた。
「あと波多野さん……。今晩だけは、どなたが部屋に入ろうが許します。ただ、次回からは事前に申し出るようになさるよう」
玄関の引き戸を開けようとしながら、僕は自らの眼もまた、見開く。なので、出来ることは有象無象のうちに頭を下げることだけでしかなかった。弁解の苦し紛れの言葉など、浮かびもしない。
丁寧にこさえたつもりでも、造った嘘がばれる時もある。
だが、作り話を年長者に見抜かれた火照りなどはその後の光景からすればささやかなことだった。
部屋には鍵がかかっていた。大家に挨拶にいった時間はせいぜい十分なのだから、彼らも随分と用心をしたものだ、と思いながら合鍵を取り出して中に入る。
そしてドアの中の光景を確認した瞬間、僕は狭苦しい三和土に膝から崩れ落ちていった。
電灯も点いていない深夜の薄暗い六畳間で、先客達の影は一体となっていた。
影は激しく、そしてなめらかな動きを暗闇の中で見せつけていく。ところどころで漏れていく呻き声にも似た何かが、その行為が自分自身が夏に知った所作でもあることを教えてくれる。
「なあ、お前ら……」
僕は「影」に問いかけた。問いかけながら、電灯のスイッチが傍らにあることに気づいたが、それを点けることは出来なかった。そんなことをしたら大家が何と言おうが、眼前には地獄しか見えないことになるのだ。
「もう、ずっと、そんなんなんか?」
それでも、震えた脳だけが必死に質問を完結させようとする。
「せやなあ……」
呻き声に似たなにかが途切れ、影がまた二つに別れた。
「そうか……」
三和土に崩れ落ちたまま、僕はゆっくりと肯いた。叫び声も出なかったし、泣きじゃくることも出来なかった。そんなことをして大家にこの部屋の惨状を感づかれることの恐ろしさにまず、意識がいくのだろう。
いや、大家のことなどはどうでもいい。僕は被害者だ。この原始の行為に関与などしていない。
だが、「何のために僕は夜を費やしたのだ」と考えだしたらもうダメだった。少なくともそれは、こんな現実を見せつけられるためのものではなかったはずだ。
石堂を半殺しにしようと思った僕は叶わず、代わりに別の人間を三万円で半殺しにした。だから、全てを許して彼に会えたはずなのだ。なのに、それなのに、激情を覚えた前にもう恋も何もかもが去っていたというのだろうか。
「ま、ハタ坊。こういうこっちゃ。いい加減、諦めついたやろ?」
「ハハッ」
震えた声がまた、口からはみ出した。笑うしかないのだ。こちらが敗者であることを認識させるためにこの場で事に及んでいるというのなら、そうするしかあるまい。
「デモの後じゃ。死線くぐれば一層燃えるってもんやのお」
「ハハッ」
また、笑い声が出た。そして震えながら僕は、恵子が口を開いてくれないか、と切に願った。彼女の口から何でもいいから発せられたら、まだ、救われるのに!
「だから悪いが、去ね」
だが女は無言で男がしゃべる。影がまた、一つになった。
僕は靴を履いたまま口をポカンと空け、その過程を見ていた。今しなければいけないことは何なのだろう、と多少考えねばならない。
だが、空いた口から涎が零れ落ちていった頃、僕は自分のやらねばならないことは二人の行為を止めることではなかった。
もう負けているのだ。だから、あがきは無駄だ。惨めさを極力隠してこの場を去っていくことだ。それも懐の大きさを匂わせながら。
僕はかつて「役者」になることを決意した。あれから一年半、二人はとんでもない檜舞台を提供してくれている。名優にならねばならない。そうしなければ、僕は発狂して雄たけびを上げるだけだろう。
「いやね、イシ。阿佐ヶ谷の駅近くに終夜営業のマンモス喫茶があってなあ……ハハッ! だから今日は二人に、へ、へやを貸すよ。大家は耳がいいから、こ、声は絞ってな」
僕は早口の裏返った声でまくしたてる。返事はなかった。
「だから、か、鍵はやねぇ。ハハッ! 郵便受けに放り込んどいてくれ」
友人たちへの言葉は終わった。僕は震えがおさまってくれない手で返事も待たずに部屋の鍵を閉めると、一気に階段を駆け下りて夜の住宅街を走っていく。涙はなかった。代わりに繰り返し繰り返し逃げるとはこういうことなんだな、とだけ思った。
そして当然ながら郊外の駅前に終夜喫茶などないのだ。
それでも僕は阿佐ヶ谷の駅に足を向けた。夜明かしが出来る場所がそこしか思いつかなかったからだ。途中、自動販売機でキリンの缶ビールを三本買うと、眠っている駅の改札口にもたれながらそれを煽った。が、覚えたてのマールボロを次々とくわえながら呑むアルコールは、少しも身体も脳も酔わせてくれやしなかった。だが僕は、いつかはタバコとアルコールが脳を支配してくれるはずだと念じつつこの行為を続けるしかなすすべはない。
長い、長い夜だった。そして始発電車が体を震わせたころ、僕は念願かなって酒とタバコがなければどうにもならない男になっていた。




