第74回~昭和44年10月21日「レット・ザ・サンシャイン・イン」(5)
九
個人タクシーのメーターがカチャリ、とまた音を立てる。その、無機質な機械音が続くことだけをたよりとして、僕は狂気の世界から少しずつ離れていくことを実感する。
恵子も石堂もついに見つからなかった。なのに、不思議と悔しさを感じなかった。新宿から距離が離れていく度に、少しずつ正気を取り戻しているような気がするだけだった。それで、精いっぱいだった。
「タバコ吸うぜ兄さん……」
信号待ちの車の中でラジオから流れる森進一の音を絞った運転手が、気だるそうにこちらをふりむいて同意を求めた。東新宿から阿佐ヶ谷までの深夜の客なんてのは稼げる範疇に入らない、とでも言いたげな表情だった。
「どうぞ……」
僕もまた、気だるく返事をする。そして、日野ルノーの窓を開けた。古くくたびれた車に閉じ込められたくないという感覚だけがあった。本心では何も知らなかった時代、要はこの車が街中を走っていた時代に戻りたいというのに。
「兄さん、学生かい?」
青信号に切り替わった交差点から車を発進させた運転手がふいに、タバコに火をつけながら問いかけた。
「さあねえ……」
「学生だな」
彼は断定した。僕は答えずにシートの中でうつむいた。下宿がある阿佐ヶ谷の街はまだ、遠い。
十
「やめっ、やめてっ」
それは、実に哀れな声だった。なのに、そんな悲しき発声装置に向かって僕は幾度となくゲバ棒を振り下ろした。躊躇などなかった。
「お前らがっ! お前らさえいなくなれば!」
「ガギッ」
棒の切っ先が彼の顔をかすめる。そして口内からか、鼻からかは知らないが血が闇夜に飛び散った。そんなことをもう、一分は繰り返していた。
興奮と驚きだけが発端にあった。興奮とは、恵子のためにビートルズが武道館に来たくらい頃の東京をつくらなければならないという信念によったものだった。そして驚きとは、信念を貫くための暴力に自分がかくも酔いしれるとは思ってもいなかったことからもたらされていた。
だが、一分という短い時間を過ぎた後もなお、僕の心の中に留まっていたのは興奮でも信念でもなく、驚きだけだった。
「ヒェェ……ヒェェ……」
悲鳴の下で唐突に水音めいた何かがした。僕は漆黒の中で改めて信州出の大学生の惨状を眺める。腫れぼったいメイクアップを施してやった彼が履いている茶色いズボンの前には血ではない濃い染みが形成され始めていた。それと同時に、僕の狂気のゲバ棒はもう二度と宙を舞うことはなかった。快感がとっくに終わっていたことにようやく気づいたのだ。高揚感は跡形もなく消えていた。
僕が新宿を襲った学生に反感を抱くのはもっともなことであったはずだし、今晩の学生達は悪だった。それはきっと、福村さんが言ったように後世が証明する。だが、それを裁く立場には僕はいない。僕の所業はまったくただの「落武者狩」で……いや、それですらない。侍を襲う農民にすら、生活と自衛のために金目の鎧や武具を奪うという人間的な目的があった。なのに僕は単に、鬱屈のはけ口として弱い者をなぶるように苛んでみたかっただけなのだ。彼にもう一人仲間がいたら、同じことをしただろうか? 人を殴りたい気分の時に、反撃も受けずに殴れそうな相手がいただけの話でしかなかった。
僕がしたことの結果は、ゴキブリが腹を向けてのたうちまわっているソレに似た格好になって失禁して転がっている一人の男がいるだけの話でしかない。
「なあ、アンタ……」
僕は、先ほど彼に与えたマールボロをその足元から拾い上げると、それが小便で濡れていないことを確認してから妙な猫撫で声を出した。
「な、なんです……」
「悪いことは言わん、これ持って朝一番の汽車で田舎に帰りな」
そう告げると、僕は主人から貰った三万円を彼にかざした。明日には郵便局で同じ額を引き出して主人に渡さなきゃな、と思いながら。
「これは……なんだ……?」
「今のアンタへの殴り賃だよ」
マールボロを口元に持っていきながら僕は答えた。
「はあ……」
弱弱しい動作で金の入った封筒を受け取った男の声はまだ、震えている。大方まだ、殴られるとでも思っているのだろう。
「三万円ある。アンタが新しいズボンを買って、松本に帰って医者にかかるには十分な額だろ?」
僕はカバンの中からマッチを探り出そうとする。その間、相手は無言だった。頼むから、呪詛の言葉の一つでも吐いてくれ、と思った。
だが、火種を求めてカバンへと顔を下に向けるこちらの耳には紙袋に包まれた紙幣をシャツの奥へと仕舞い込む無造作な音しか届いてはくれない。僕らはこんなになってもその場を凌ぐことで精一杯だったのだ。
ようやく探り当てたマッチで僕は火を口元に灯す。そして、生まれて初めて深々とタバコの煙を喉奥へと送り込んだ。なぜか今までと違って、咽ることはなかった。それは酷い、大人への成長ではあった。
そんなになってまでも、僕は彼に言葉をかけてこの場の狼藉をとりまとめる必要があった。カッコをつけて逃げねばいけないのは、彼もだし、僕もだった以上当然だろう。
「お前らやあ、なかったよ」
「え?」
「お前らじゃなく、狂っていたのは俺だったよ」
それだけ言うと僕は西新宿の裏路地を後にした。信州の学生が何も、言葉ですらこちらを追いかけようとはしなかったからだ。主義主張はもう、どうでもよかった。今の僕は”被害者”たる彼が、背中に罵声を浴びせてくれることだけを期待している。そうなればきっと、今晩の全ての行動に何かの総括が下されることになるはずなのだ。
だが、彼は何事も発さなかった。彼なりの復讐だったのかもしれない。




