第73回~昭和44年10月21日「レット・ザ・サンシャイン・イン」(4)
六
僕は新宿をあきらめて別の場所へと向かおうか、と思った。行きかう人々が話し合う言葉によれば、今夜は高田馬場でも相当に激しいデモが行われていたはずなのだ。日本中の学生が東京になだれ込んだ今日、石堂が新宿だけにとどまっていると考えるのは早とちりかもしれない。いや、それどころか、彼はハナっから新宿になどいなかったのかもしれないのだ。
つまり、彼が実は嘘などついておらず、こちらに語ったとおりに恵子とともに代々木での社・共の合同集会に出ただけだったら? 僕はとんだ笑い者だ。
だが、それはあってはならないことだった。僕は既に大久保駅前の群衆がささやきあっていた情報から、その集会が反・代々木派に襲撃されたことを知っている。そこにいる限り、恵子に暴力が降りかかっていることだろう。警察どころではない、持て余した若い力の加減が分からない群れが、僅かだけ主張の異なる別の若者を襲う末世の場が野次馬の言葉どおりにあったのだ。だとしたら石堂よ、嘘をついていてくれと思わずにいられなかった。そんな場にお前は恵子を誘ってはいけない。
「どこにおる……日本シリーズも始まるんやぞ……。隠れとらんで出てきぃや……」
僕はまた呟く。だが言葉はシンと奇妙に静まり返った西武新宿駅の黒い影の中に吸い込まれていくだけだ。そして、僕も続いて建物の影の中に呑み込まれようとしたがそれは出来なかった。西武線はとっくの昔に運転を見合わせていた。高田馬場に向かいたいのなら最早線路沿いに歩いていくしかない。
しかし、僕は北へと向かう一歩が踏み出せない。足が棒のようになるほどに疲れていることとは関係がない。早稲田の街に向かうということは、あの、西口の群衆の映像を眺めて得た確信を完全に否定するということなのだ。
「ク、ク……」
僕の足は踏みとどまった。激情があったからこそ、僕は狂人にも似た何かになって店を抜け出したのだ。テレビを通して抱いた、二人の居場所へのあの直感と激情を今こそ狂人として信じねばならないのではないか?
どこかで今、アメリカで流行っているらしいミュージカル、『ヘアー』のテーマ曲が流れはじめた。どこからなのだろう? 僕は雑踏で立ちどまるとまず耳を傾け、そして次に音の出どころを探し始める。こんな夜にも懸命に日常を作ろうとしているスナックだか何だかがあるというのが嬉しかったのだ。
ベトナム戦争への出征をテーマにした『ヘアー』で使用されているという『アクエリアス』という曲はその実、『アクエリアス』だけではなく『レット・ザ・サンシャイン・イン』というもう一曲をも合わせている。少し前に深夜放送のディスク・ジョッキーがそんなウンチクを披露していた。それは、急流滑りの船にでも乗ったかのような快感を覚える前半部である『アクエリアス』と、ひたすらに重苦しい後半部『レット・ザ・サンシャイン・イン』では印象が全く異なる曲だった。、理想のような前半に対する回答が現実の惨さに気づいたような哀歌めいた後半だとするなら、今日のための曲じゃないか、と僕は思った。
「実にええやないの。ええやないの」
四方を見渡したが、スナックの灯りなどは見当たらなかった。ふふ、と冷笑めいたなにかが口元を出る。それで良い。一つの店でなく、街が『アクエリアス』を、そして『レット・ザ・サンシャイン・イン』を唄っているに違いない。
懐かしい二人がどこかでこの曲を聴いていることに、まだ賭けてみるべきなのだろうか。
七
国電の大ガードを今晩何度目かでくぐった途端、僕は強烈な空腹を覚えた。西口へと向かう路上に米のを炊いたふわっとした匂いがどこかから漂ってきたのだ。大根の味噌汁を半分飲んだだけの夕食から二時間が過ぎていた身としては強烈な香りであった。
匂いは小便横丁の方角からしていた。そちらを向けば、白地に黒で『おむすび』と書かれた看板が路地の奥で裸電球に寂しげに照らされている。僕はフラフラとそこに向かって、誘蛾灯に迷い込んだ虫けらのように歩き始める。
時間は残り少なくなってきているにもかかわらず、だ。
当たり前だが、彼が新宿にいると信じているならば握り飯を頬張る時間すら惜しい。でも、カロリーを欲している自分がいることもまた、事実だった。二時間も走り回ってさらに走ろうと考えることは、握り飯の一つや二つでも口にしないと出来る所業ではない。
いや、そうじゃない。それは詭弁だ。栄養などはその実どうでもいいのだ。
僕はくたびれていた。身体もそうだが、頭が、だ。食事をとり、落ち着くことで思考を放棄したいのだ。すり減ったがまだ辛うじて生き残っている頭脳がそんなことを考えている。
今日の日を向かえる前の石堂は、「夜行で帰る」と行っていた。ならば今頃は恵子の体力を気遣ってとっくに東京駅のホームにでも佇んでいるかもしれないな、と思う。代々木公園で対立する派閥に襲われなかったり、もしくはこの暴力の中を恵子を守ることだけに専念した彼が、これ以上の騒乱を避けてどこかでタクシーでも拾っていたのならたった今、そういう晩が過ぎているかもしれないのだ。
儚げな光を醸し出す「おむすび」の看板へと近づきながら僕は今晩の友人の姿を想像する。大柄な身体を小さく、まるでタイガースの吉田義男くらいにまで丸めながら恵子をかばった石堂が、投石と警棒と火炎瓶とゲバ棒の中をあの優美な名ショートのように飛んで跳ねてで切り抜けている光景が浮かんでくる。襲いかかる難局をすべてかわせたなら、彼は今頃大阪行きのホームで小さな可愛らしい顔に向かって微笑みかけていることになる。
仮にそうなら、それはきっと美しい光景だろう。
だが、そんな一瞬が僕に何をもたらしてくれるというのだ? なあ恵子、君は石堂が東京駅のホームで笑いかけたなら、それに応えてやるのかい? やっぱり、微笑むのかい。
違うだろう!
”東京、楽しかったよ。波多野君”
新大阪駅、僕が最後に彼女を見かけた場所での鮮やかな一言が頭をかすめていく。
”ビートルズおらんくても素敵な街やと思う”
おむすび屋は目の前にあった。が、恵子の記憶がまた、店の暖簾に手をかけようとした僕の中を横切っていく。それだけのことで、僕は引き戸を開けることが出来なくなっていた。考えることにも限度があるのに、まだ、僕は乏しい知能でやりくりせねばならないというのか。
”ウチも東京の学校、行きたかったなあ!”
ああ恵子! 恵子! こんな場所は君が望んだ東京じゃあない。君が望んだ東京は、もっとこう、華やかなものであったはずじゃあ、ないか。
結局僕はおむすび屋に入ることはなかった。そして、三人で眺める日本シリーズの幻想も消え失せていた。
僕がやらなければならないことは唯一つ、おケイが想っていた東京を取り戻すことだった。そうだ、掃除だ。さっきはうまくゴミを拾えたじゃないか。もう少しゴミを片付けたら恵子のための東京が再び現れるはずだ。そう判断した途端、よろめくように僕の足はまた、新宿西口のロータリーへと向かいはじめる。
「おケイ……見ときなや。お前の街を作ったるでェ……」
酔客など誰もいない空間に、ひたすらに避けていた言葉が無意識のうちに飛び出した。汚れ切った街に、何人も犯してはならない名前だけが漂っていく。そして、僕の頭はもう、動くことを停止しようとしていた。
八
東京を浄化するという僕の目的は、案外にも早く訪れた。おにぎり屋から程近い路地の裏に人影を認めたのだ。
「アンちゃん、やるなあ!」
僕はうずくまったまま荒い息を吐いている男に勢いよく笑いかけた。多分、他の人間が見たら「お前、歯茎まで剥き出しにしているぞ」と評するような面構えを意識しながら。
「ああ……」
機動隊の大攻勢の中で本隊とはぐれたのだろう。暗がりでも分かるくらいに脛に血を滲ませながら足元にゲバ棒を転がした男は、ヘルメットを小脇に抱えながら血の気のない顔でこちらにぎこちなく笑いかけた。
「新宿中駆け回って、アンタもそのお仲間も大した景気じゃねえか! ええ?」
ドブの匂いの中、僕は徐々に彼との距離を詰めていく。
「ああ、ああ……」
汚れ切った衣服の上の疲れ果てた眼には怯えがはしっている。それに気づけば、コイツも屠らなきゃいけないという使命感が湧き上がってくる。僕の下半身に血が充血していた。ゾクゾクするような快感が身をとらえているのだ。
「しかし、どうなってんだ、今日は?」
無遠慮に続くこちらの問いかけに、訳が分からぬままに我が会話の相手へと選ばれた彼は、必死にうなずき始める。多分、こちらのことを興味本位の酔漢か何かかと思っているのだろう。酔っ払いなど、適当におだてておけば何とかなる。それは僕らの世代でも分かる世の道理だ。
だが、今夜の僕はおそらくヘベレケよりも機動隊よりもタチが悪い。
「どうって、何が?」
「決まっているじゃねえか」
そう言うと僕は、胸ポケットに挿しこんでいた『マールボロ』の箱とマッチを彼にかざしてやった。自分では全く吸いはしないが、気取りのためだけに飾っている代物だった。
「おめえら学生さん、神出鬼没じゃあないの。どうなってんだい? 一体よお?」
「分からなかったんだ……」
汚れた手でこちらが差し出したマッチで洋モクの薫りを深々と肺に流し込んだ男は、首をゆっくりと水平に振った。
「あ?」
「だから君、分からなかったんだよ……東京の、新宿の地理が」
怯えた眼はこちらの風体を品定めしながらも次の言葉を探している。前かけをしていても、どこぞの大学生だと感づいたのだろう。
「中央からの指令はあるんだ。『西口に行け、馬場に行け……そして交番を襲え』みたいなヤツがね。でも、街が入り組んだらもう無理さ」
男はゆっくりと、口と薫りの摩擦を楽しむようにタバコの煙を吐き出した。
「へえ……」
「だから、道を間違えては居合わせた機動隊と一戦やって、不覚をついて一撃をあたえたらすぐに逃げて……それの繰り返しだったよ」
「そう……」
僕は感心したように肯いた。もちろん、同意や共感のそれではない。
それでも、地理に弱い地方の学生達が結果としてベトコンもどきのゲリラ兵になったということに苦笑を禁じえなかった。
「じゃあ、アンタはどこから来た?」
「長野の松本……。俺、国立松本大学の学生なんだ」
「ほーっ! 信州か! 武田信玄だったかねえ! で、アンタ、国立生なのかい?」
驚いたように僕は問い返す。別に彼が国立大の人間であったことや、武田信玄に感じ入ったわけではない。
こちらに少し心を許したたのかこちらに身を捩じった彼の肉体と、そのゲバ棒との距離がかなりのものになっていたことに気づいたからのものだった。バカめ、と思った。その程度の心構えだからこんなになるのだ。
「うん……。ねえ、君……」
「ん?」
「川中島でもゲリラっていたのかねえ」
「どうだかね」
「でも、俺は力の限り火炎瓶、投げたし石も投げたぜ……やることはやったから悔いはないさ」
「さよか、悔いはない、か……」
学生はそう言うと、両の拳を残っていた力で握りしめた。その姿を僕はただ一つの言葉でしか評せなかった。ああ、こいつもゴミだ、と。
「そうだ、兄さんよ。川中島の頃から変わらないものがあるぜ……」
「なんだい?」
僕は、怪訝な顔の松本大学の前を素通りして、何気ない態で易々と彼のゲバ棒を拾い上げた。彼に過失があるというのならこちらに心を許して甘えたことだな、と思いながら。
「落武者狩りやがな」
それだけを告げると、僕は絶望が覆った彼の足元の傷に向けて鋭い角材を振り上げた。さっきは、警察の手助けをしただけだが、今度は自らの手のみでゴミ掃除が出来るな、と思いながら。
潰れたような悲鳴が目の前で上がった。




