第72回~昭和44年10月21日「レット・ザ・サンシャイン・イン」(3)
五
道端の植え込みにタオルと、それからヘルメットが転がっている。どこのセクトの連中が被っていたものなのかは知らない。
汗の染み込んだそれらを僕は拾い上げてしばらくの間しげしげと眺めてみたが、やがて傍らの路面へと放り投げた。手に付着した湿度の割には、乾いた音が響く。汚らしいものを触った嫌悪だけが残る。
「アホンダラァ……」
何に向けるでもなしに僕はつぶやいた。店を後にしてから既に一時間が経っていたる。幾重もの人波の中から恵子を探し求めることはまだ、出来ない。当たり前だ。砂漠で指輪を見つけるに等しい所業に僕は挑んでいるのだから。
それは、ほんの一時間であり途方もない一時間だった。そして、尊大な一時間だった。僕はあてもなく西口から、三光町、国電大久保駅前、柏木町、そしてまた三光町と国電のガードを幾たびか潜り抜けては歩き続けた。前掛けをし、三万円を握りしめてのそれは、今日あちこちに出現している恐ろしいばかりの破壊熱との同道だった。つまり、ここまでに多くのものを見たということでもある。
生き物が命を絶える時のような声とともに機動隊員に殴り倒される学生がいた。逆に、集団からはぐれてしまい、学生達に袋叩きにされている若い隊員がいた。だが、ザクロのように割れた額を両手で抑えて通りを転がりまわる彼らに向かって救いの手を差し伸べようとする同僚や同級生は誰一人として現れはしなかった。
街の様相が変わっていた。少なくとも人は普段、こうも薄情ではいられないだろう。今日は何かが狂っていた。僕はどうなのだろうか? 今夜の瘴気にあてられた以上、やはり狂いはじめているのだろうか?
唯一正気を保っているのは商店主たちだけだった。彼らは『暴力学生のため本日臨時休業』と殴り書きされたベニヤ板や張り紙をシャッターにかざすと息を潜めている。屋内にいる以上、この空気にあてられないですむ。主人が話したように、住民たちは新宿の東西南北で嵐が過ぎ去るのを待っている。だからいくら軒先に負傷者が転がっていても、彼らは何もしない。小窓から様子をのぞこうとすらしない。張り紙の『暴力学生』という文字にこめられた筆圧の強さがこの狂騒への唯一の感情表現である以上、もっともなことだろう。
「石堂! おるんやろここいらに! こん卑怯モン、とっとと出てこいやぁ!」
一方、今晩の新宿のどこに赴いてもそうしたように、僕は夜空に向かって探し求めている人間の片方の名前を叫んでみる。だが、そんな言葉に反応する者はいない。何人かの虚ろな目が面倒くさそうにこちらへと視線をよこすだけだ。
当然だった。十分も前から僕の目の前には火炎瓶による攻撃を受けて赤々と燃える三光町の交番があった。それを何十人かのゲバ学生と大勢の野次馬が取り囲んでいる。警察もいない無人のボックスは火勢を強めるだけ強めて僕を含めたそういった連中の表情をオレンジ色に照らし出していた。誰もが無表情だった。消防車どころか消火器すら届いていない現場で、何人かのサラリーマンや労務者風の男たちが無言のうちにタバコを咥えていた。引火を恐れるなどという概念は彼らにはないらしい。僕は、高校生の頃に読んだ小説の一箇所を思い出した。それは、戦争の最前線で放心状態になった兵士達が畑に一列に並んで自慰行為を行っている描写だった。
この空間が静かさに満ちていると感じた。時おり学生のようには見えない、時折鬱屈を抱えていそうな三十くらいの男が遠巻きに「ざまあみやがれ」といった喝采を単発で上げたりはするが、それだけのことだった。喧騒はいくらでもあるのに、何も感じないのだ。パチパチという炎の音が遠くからですら聞こえるように思えるほど、交番の周囲を取り囲んでいる学生たちは歓声の一つどころか何も喋らないのだ。角材を手にした彼らは誰もが肩で荒い息をしている。
全ては『反戦デー』の美名の下に行われている。参加者どもが主義のためにどれだけの覚悟があったのかはしらないが、もう夜が明けたら大学の校門をくぐることが出来るなどとは思わないことだな、と感じた。
「石堂……」
ヘルメットの群れが肩を上下させるなか、僕は友の名前を再び呼ぶ。だが、今度はもう叫ぶことは出来なかった。我ながら胃がしめつけられるような、情けなく、か細いものだった。せめて、彼に良心があるのなら、恵子を凄惨な暴力の当事者だけにはしないで欲しいと心底から願ったのだからそうなる。
ゆるやかなクセのある髪の持ち主が被害者になるのもそうだけど、加害者になる明日など耐えられるものではない。
なのに、恵子の名前を口にすることには不思議なためらいがある。この薄汚れた空気の中に、その神々しい音節を放出したくはない。たとえ、彼女が今まさにこの街のどこかを彷徨っているとしてもだ。そうしてしまうと、恵子の血肉はこの街の空気と同質化してしまうだろう。
だから僕は相変わらず石堂の名前だけを口にする。
「イシ! イシー!」
学生達や群衆が一斉にこちらを振り返った。しかし、それは石堂がそこにいたからではない。僕の背後にある新宿伊勢丹の方向から消防車のサイレンが、そして機動隊がまるでチャンバラ映画での鬨の声のような大音量をあげながら突進してくることに気づいたからの反応だった。
午後十時前、『国際反戦デー』の無秩序がようやく終わりを告げようとしている。
”かかれぇっ!”
遠くから機動隊のスピーカーががなりたてた。そして、それを合図にして機動隊は炎に照らされたにジュラルミンの盾が発する鈍い光をうならせながら、交番前に佇んでいるばかりの学生達への猛進を始めた。
権力は健康だった。大方、他県から派遣されてきたのだろう。トラックで運ばれてきた彼らは休養も十分に、群集を蹴散らしながら山猿と化したかのように交番を燃やした連中へと躍りかかった。
「ひやぁっ!」
機動隊の進路にいた一人の野次馬が情けない声とともに突き飛ばされた。さっきまで「ざまあみやがれ」と叫んでいた男だった。だが、機動隊は自分たちを敵視する極上の獲物がわずかの距離にいるとなれば、そんな小物になど目もくれようとしない。彼らは仲間の建物を焼け落とした相手への復讐のみに燃えていた。
一方、肝心の学生たちはそんな巻き添えを喰った哀れな犠牲者を目の当たりにしても何の反応もしようとしなかった。いや、出来なかったのだ。夜汽車で東京に集ってすぐ、昼から銀座・神田で、そして高田馬場で角材を振り回して投石を続け、半日も街から街を渡り歩いていた以上、残された体力などもはやないのだ。ほんの一時間半前に西口でゲバ棒をもって相手のヘルメットを吹き飛ばそうとしていた威勢のよさは、彼らから完全に喪われていた。
「あわぁっ」
「ひぃっ!」
色とりどりのヘルメットを被った若者たちには自らがしでかした所業や主義に殉じる気概はなかった。機動隊が交番まであと数十メートルにまで達したころ、彼らは怯えた声とともにヘルメットを脱ぎ捨て、口元を覆っていたタオルを放り投げ、三々五々に雑踏の中へと逃げ込み始めたのだ。ゲバ棒のみ、名残惜しそうに抱えている者もいることにはいたが。
僕の方向に顔を向けながら彼らはこちらの脇を通り過ぎようとする。それぞれの顔には興奮もなければ、後悔もなかった。汗でテカった目元には怯えのみがあった。その目を見た途端、コイツらにはその程度の覚悟しかなかったのだな、と僕は判断した。しばらくしてほとぼりが覚めたらシレっとして何食わぬ顔して大学に戻る算段で秩序を破壊していたのだ、と感じた。これじゃお前ら、ただの「ごっこ遊び」じゃねえか。安田講堂でマンガ読んでいただけの連中から何一つ進化してなじゃねえか。
僕は、人を壊してみたいな、という欲求を覚えた。
そして、その欲求をかなえるためにやらねばならないことなど簡単だった。次の瞬間僕は、とくに足取りがもつれかけている一人の逃亡者の足元を全身全霊を込めてはらった。それを合図にして四重奏が始まる。まずは「うわっ」という驚きの音、次に持ち主の手からこぼれおちた角材が路面に転がる澄んだ音、それから角材の主が崩れ落ちる鈍い音、そして最後はもちろん警棒による殴打音だった。
周りで事態の推移を見守っていた暇人達からどよめきがはしる。それが肯定なのか否定なのかはどうでもよかった。僕はただひたすら、石堂の代わりにねぶり、いたぶる対象が欲しかっただけなのだ。この一年の違和感を吐き出す瞬間が欲しかったのだ。
ああそうだ。恵子を救い出したい。だが、だからといって僕は石堂を殴り伏せたくもないし、彼が機動隊の手で半殺しになる様を見物したくもないのだ。
二人を見つけ出し、毒気にあてられたイシを素面に引き戻せたなら、店主から貰った三万円を持ち逃げして明日の朝一番の新幹線でみんなして西宮に帰ろう。僕の部屋で三人でレコードを聴いて、それから今度の日曜日から西宮スタジアムで始まる巨人と阪急の日本シリーズに石堂と僕で恵子を案内するんだ。矢野選手のスイングの豪快さをあの娘に教えてあげなきゃ。
「私服かテメエ!」
脳裏から綺麗に飾り立てられた西宮スタジアムの大歓声が消え失せた。代わって、うずくまって殴りつけられながらも必死に怒りを主張する学生の声が三光町にこだました。
「アホ言いな。私服いうても警官がこないに髪を伸ばすか」
鼻血でジャンパーの前をしたたかに汚した彼が三人の隊員によって引き立てられようとするとき、僕は自分の長髪を軽く搔きあげながらそう告げた。学生たちは誰も、仲間のためと僕への報復に向かってこようとしないから、髪の毛をいじる余裕があったのだ。
「ならなんで!」
こちらと同じようなボサボサの耳を覆うような長髪を振り乱しながら、どこかへ連れ去られようとする彼はなおも問いかける。
「お前を殺したかったからや」
僕はそれだけを呟くと彼から顔をそむけ、三光町を後にすることにした。彼の声はもう、僕を追いかけてはこなかった。ただ、「とっとと来やがれ」という野太い声がしただけだ。愚か者の未来などどうでもいい。恵子を探さねばならない。そうしたら、僕らは西宮に帰ることが出来る。




