第71回~昭和44年10月21日「レット・ザ・サンシャイン・イン」(2)
四
”さて、コマーシャルですよウッシッシッシ……”
テレビは再びスタジオのタレントの会話へと画面を戻す。しかし、僕はもうそんなことで落ち着きはしない。石堂と恵子は今、絶対にこの街にいるのだ。そして、石堂は僕を欺いた。社会党と共産党の集会だと? 笑わせるな。
僕は、初めて彼に嘘をつかれたことに怒りが沸き上がっていた。そして、危険なところに恵子を連れ出そうとするその無神経さが許せなかった。
あれは六月のことだったか、とあるデモから大学へと戻ってきた一群の男女を見たことがある。その中にいたジーンズ履きの一人の女の子が男子学生達に両脇を抱えられながら僕の横を通り過ぎて行った。機動隊員との小競り合いの中でヒザを割られてしまっていたのだ。
一対一の状況で女性にそんな行為をする男はまあ、いない。でも、その二人が数十万がつくりあげる暴動の現場に紛れてしまった場合、誰がそんな暴力を気にかける?
「落ち着け! 一体どうしたってんだ波多野君!」
「そうよケイさん! 落ち着いて!」
雇い主夫妻の声がまた繰り返された。
「友達が……友達が今、新宿におるんです!」
僕は叫ぶ。そして、喚きながら我ながらとんでもない言葉を発しているものだな、と思った。学生運動に対して全くの無関係であるという信頼感をもって僕はここに仕事を得ているのだ。なのに、なんの前触れもなしに学生運動と接点があるとなどといったら今日を限りで仕事がなくなっても文句は言えない。
「むうっ……」
主人は呻いた。何か、こちらの言葉を受け入れようとする閃きでもあったのだろうか。だが、僕の昂奮に問いを投げかけてきたのは彼ではなく、その息子だった。
「でもなぜ? ねえハタ坊、なぜそうだと分かるの?」
茶碗を抱えたままの坊やの澄んだ目が僕を見つめていた。
ほんの少しだけ冷静さを取り戻した僕は、埃だらけのジーンズを軽くはたき、彼に語りかけようとする。だが、納得させるだけの言葉などありはしないのだ。
いきなりでテレビに大写しになった今の新宿の光景を見た瞬間、何の根拠もなく旧友がここにいると信じ切ったのだ、などと語っても人は言葉を大して信用はしてくれないだろう。ましてや語る相手が子供ときた日には。
「分からないよ」
僕は気怠く首を横にふる。
でも、主人一家にはただただ、言葉をそのままのとおりに汲み取ってほしかった。僕は今回は嘘などついていないのだ。
身体の中を電流が走り抜けたような何か不思議な感覚だけが、石堂と恵子の今の居場所を僕に教えてくれている。それだけなのだ。
「い、行かなきゃ……!」
呻くように声を出すと、僕はこの一家との会話を打ち切った。そして、身体をねじると卓袱台の脇を通り抜けて店先に通じる冷たい土間へ出ようとする。だが、自由をつかもうとした感覚はすぐに何者かによって羽交い絞めにされた。主人の身体だった。
「バカ野郎!」
「ええ! そうですよ!」
「うるせえ! テメエ、頭も冷やせねえってのかい!」
「こんなんで冷静になん……」
だが、主人の怒声に負けじと必死に何か声をあげようと思った次の瞬間、僕の身体は「とりゃっ」などという掛け声と少しの圧とともに宙を舞っていた。
屋内で、風を感じる。そして僕は、六畳間に隣接している冷たく埃臭い酒屋の土間へと投げ飛ばされていた。主人がかつて紅陵大学の専門部に柔道の稽古をつけてもらったという自慢話をしていたことをふと、思い出した。
「う……」
瓶やアルミ缶が甲高く音を立てる中で腰に鈍い痛みを感じながら、僕は先ほどまで何事かを喚きちらしていた食卓の方向をうかがう。こちらを投げ飛ばした主人の唖然とした表情があった。そして、夫人の怯えた顔と坊やの怪訝そうにこちらを窺う瞳があった。どうやら、雇い人の発狂にも似た突然の行動に対してまだ、一家の方針は主の腕力ほどには決定がついていないらしい。
好都合だった。家長が我が非礼を整理する前に言葉を並べ立てる余裕はまだ、ある。
「な、落ち着け……」
「ええから行かせてください! これが落ち着いていられますかいな!」
僕は痛みにもかけられた声にもかまわず、また這うようにして六畳間へと戻る。そしてもう一度、今度はテレビではなく地を指さした。
「友達を助けなアカンのです!」
この期に及んでまだ、着飾った言葉が口をついてでる。美談めいた事実など、ない。
僕はまた、嘘こそついていなくとも真実を語りえない人間になっていた。石堂を殴り倒したくはあっても、彼を救いたいなどという感情はもう、どこにもない。
でも恵子だけは、あの娘だけは何とかしてやらなきゃならない。もう遠くにいる存在なのに、仰ぎ見る存在なのに、あの子だけは何人にも触れさせてはいけない。
「なあお前、本当にそう思っているのか?」
いまだにきょとんと飯茶碗を抱え込んであたりを見渡している我が子に、「今日はもう寝ろ」と指示した父親が、代わって会話に割って入る。
「ええ」
不思議そうな顔のジュンちゃんがマンガ雑誌を手に細い階段を上がっていく中、僕は肯いた。
「違う。それは違うな」
渋い顔が目の前にあった。
「殴り倒され、拘置所なんざにしばらくぶち込まれる。それでもって友達だってはじめて過ちに気づけるかもしれない」
「ええ。それは、そうです」
激しいデモにさらされ続けた当事者の言葉は正しかった。だがそれは、この場にいるのが石堂だけなら、という但し書きつきでの話だ。
「なら行くな。外は危険だ。俺はゲバ学生が嫌いだが、それよりも店員に何かあるほうがよっぽど嫌だ」
若干の穏やかさを包み込んだ声量とともに、主人はひとつ肯いて緩慢な動きで『ホープ』を咥える。優しい男だった。先ほどこちらを投げ飛ばした荒々しさなどもう消え失せていた。使用人の発狂など、漂いはじめた紫煙が尽きる頃には不問にしようとでもいうのだろうか。
「祈っとくんだな。嵐に船は出さないもんだよ」
そう言い残すと、主人はテレビのつまみを切り替えながら番組を探し始める。だが、『ゲバゲバ90分!』以上に興味をそそりそうな番組がなかったのか、チャンネルはすぐに元に戻った。嵐の中にたたずんでいても、彼は日本には圧倒的な平凡な日常があることを確認出来たら何でも良いのだろう。
奥さんがお櫃に手をかけ、夫の茶碗に飯をよそいはじめる。
でも僕はこの一見、また緩やかな空気を作り上げつつある茶の間をかき乱さなければならなかった。雑踏に飛び出さねば、僕はもうダメなのだ。何がどうダメになるかは分からないのだが。
「でも、バカに騙されて連れてこられた女の子だけは助けてやらんと」
もう一度僕は声を張り上げる。これで聞き入られなかったのなら、もうここを馘になってもどうでもいいと感じたのだ。卓袱台をひっくり返そうが、刃物をふりまわしてこの家族を脅そうが、僕は恵子のところに行かねばならない。
助け出すのだ。そして、石堂からあの子を奪い返すのだ。
「ん?」
テレビを眺めていた主人が振り向いた。
「女を助ける?」
鋭い視線が向けられた。
「惚れている女か?」
僕は声が出なかった。真実を語りたい時に限って、喉が動いてくれないこともある。だから今、出来ることといえば唾を一つ飲み込んで深く同意のうなずきをすることだけでしかない。
何度も何度も、痛みを感じるほどに僕はクビを振り乱した。その度に長髪が顔を覆う。他人から見たらさぞかし奇異な動きだっただろう。でも、それはもう、いいのだ。
僕はようやく嘘をつかないでも生きることができた。
「お、お願いします……。店に迷惑は、か、かけません……」
テレビから百八十度姿勢をこちらに向けてくれた相手に三つ指をついての土下座をしながら、震えた声が出る。それがやっとだった。
主人の返事はまだだった。でも、返事が待てない僕は畳の目に爪を食い込ませながら声だけでなく全身までがワナワナと震えはじめる。擦りつけた顔から溢れる涙が、畳を汚し始める。
「もういい……。波多野君、顔を上げろ……」
静かな声だった。僕は洟と涙で二目と見られなくなっているであろう顔をおずおずと上げる。柔和な顔があった。
「分かった、行けよ……」
「あ、あ、ありがとうございます」
「ただ、二分だけ待て……おい、母さん!」
彼は、先ほどからお櫃のふたを持ったままぼんやりと座っていた夫人に向かって叫んだ。ほとんど怒鳴り声のようなその声に、彼女は痙攣したように一瞬だけ体を震わせる。
「はい?」
「金庫からこいつに三万円……あと、小銭入れを持ってこい!」
「三万円!」
「グズグズするんじゃねえ! 早くするんだ!」
いきなりの大金の要求に夫人はまた体を震わせたが、すぐにあたふたと金庫のある奥の三畳間へと小走りに消えていく。そしてその姿を見届けると主人もまた、食卓を離れて事務机に駆け出した。そして、凄まじい速さで伝票を書き、そこに判を押し始める。
「もうそれ以上事情は聞かない。お前のやりたいようにやれ。で……ついでにだ、お前は今からいつものキャバレーとハントバー、小料理屋まで集金に行く」
電気スタンドの黄色い灯りの下で一心不乱にボールペンをはしらせながら放たれる言葉に、僕は手のひらで顔の汚れをぬぐいつつ聞きいった。
「『リズ』、『みその』、『第二新京』、それに『カルメン』。……こんな日に開いているかは知らない。でも、集金の時期ではある……」
「ああ、ああ……!」
主人が二分待たせた意図が理解できた僕は呻くように音を漏らした。
「必要ならこの金も使え。集金に行って帰って、だ。紙幣と小銭で三万円と千四百円ある」
奥さんが持ってきた金の入った封筒を礼も言わずにひったくった彼は、自分が濫造した『伝票』とそれを荒々しくハンドバッグに放り込む。
そして、ハンドバッグを僕の目の前に突き出した。
「『店』が休みなら今日はそのまま下宿に帰れ」
主人はニヤリと笑った。
「そこから今日の日当の千二百円をぬいたら明日、そっくりそのまま返せばいい。とりあえず集金のフリをしておけば、万が一機動隊に囲まれてもゲバ学生に殴られそうになっても言い訳たつだろ」
「ご主人……」
「礼などいらねえ。早く行けっ!」
それだけを言うと彼はハンドバッグを掴んだばかりの僕に、今度は衣紋掛けにつるしてあったこちらのジャンパーと前掛けを二枚同時に放って寄越す。
それを掴んだ僕は、もう彼の指示どおり礼など言わなかった。衣装を身に付け、土間で靴に足を突っ込んで街へ駆け出すことだけが今ひと時のやることだった。
「しかしな……」
だが、主人がくれたのは金と小道具だけではなかった。茶の間の灯りをもとに土間を走り抜け、シャッターをこじ開けはじめた僕の背中にひとつの問いもまた、投げつけられる。
「しかしな波多野君……。なんで、こんな時まで泣くほどまでに大事な子を放っておいたんだ?」
七分まで上げたシャッターから体を捩じらせて外に飛び出した僕は、一瞬問いの方向に顔を向けたが、答えはしなかった。答えられるはずもなかった。
だからこそ、唯一の手段として『嵐』の中心へと僕は走らねばならなかった。
駆け出すとすぐに、ステレオ・スピーカーがつむぐような喚声が僕を包み込み、新宿西口の地下街の排気孔が、そして小田急デパートや京王デパートが無数の群衆と怒号の中で闇夜の中に浮かび上がった。
それは燃えるような赤みを帯びていた。新宿は今夜で焼け落ちるのだろうか、と思った。もう泣く余裕などない。
「探し出すんや」
僕は一つ息を吐いて決意をつぶやく。そして、ハンドバッグを小脇に強く抱え込むと走る速度をあげ、暴徒やそれを見守る野次馬への距離をさらに狭めていった。




