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恋のほのお  作者: 桃山城ボブ彦
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第70回~昭和44年10月21日「レット・ザ・サンシャイン・イン」(1)


「波多野君、来てくれたのはいいけどなあ。今日は仕事なんてないぞ」


 ヘルメットを被った若者達が三々五々に新宿駅へと集結していくのを眺めながらで店に来た僕の姿をみとめた時、酒屋の主人は苦虫を噛み潰したような、もしくは苦笑したような顔をこちらに投げかけてきた。


「ええ、やっぱりそうでっか」


 時計は四時前をさしていた。今日の新宿では国際反戦デーがあるので、荒れるかもしれないと予想して普段より一時間早く来ていたのだ。

 そして、どうやらそのとおりだった。淀橋の方向に西日が落ち込んでいくこの時間は、普段なら酒場からの注文でひきもきらぬ状態となるのだが。


「そうでっか、てなあ……」


 店主の声は、今度は呆れたような風情を帯びる。


「お前、去年の国際反戦デーの酷さなんて知らんだろ」


「テレビでは観ましたが……」


「テレビなんて警官隊と学生しか映さんよ」


 そう吐き捨てると店主はビールの空箱に腰を下ろしてため息をついた。一番割を食らうのがその場に住んでいる人間だとでも言いたいのだろうか。それならば、無理な話だった。小さな配達専門の酒屋の悲哀など、テレビ画面を彩れないのだ。もっとも、店が焼け落ちでもしたらわからないが。


「どこの酒場も今日は店仕舞いか。開店休業じゃ。ゲバ学生め……」


 腰かけながら机の上の湯気もたたない茶を手にとった主人に対して、僕は何も言わなかった。今日、この界隈に集まるであろう連中と、全くに同じ身分と世代である以上当然だろう。自分の立場を言いつくろえばどちらに転んでも反感をかうだけだ。


「しかしこんなでも、お前の日当は出さなき……」


 何かありがたい言葉を言いかけようとしたゴマ塩アタマの男が立ち上がった。店に入ってきた隣の喫茶店のマスターの姿に反応したのだ。


「まあ、楽にやればいいよ。帳簿を点検してくれたら晩は賄い食いながらウチのガキとカカアと一緒に十時までテレビでも観といてくれ」


「はあ……」


 会話が途切れ、僕はなんともいえない返事をする。主人の興味が隣人の方に移りいこうとしている以上は、答えようのない話題から逃げるに一番ふさわしい態度だ。


「やりはじめたぞ、ゲバども!」


 息せき切った隣人の声が手狭な酒屋の店頭に響いた。


「いよいよか!」


「ああ。新大久保と目白から国電の線路を歩いてヤッコさんども来やがったらしい」


「クソッタレどもが!」


 普段は温厚な店主の怒号が空気を掻き切った。行きしなに新宿駅で見た連中もそうなのだろうか。

 だが、まだ主人ほどに怒りを準備できない僕は、学生達が線路を歩いてきたとなると今日は国電で帰れるのだろうかということにしか興味がわかない。


「ニュースでは馬場と八重洲で暴れていた輩も合流すると言っていたが本当かね」


「そりゃそうさ。目白のなんてのは早稲田から流れてきたんだろ」


 僕が差し出した茶を礼も言わずに啜ると、マスターは息せき切って言葉を繰り広げる。


「去年の逮捕者が何人だったかね?」


「えーと、確か七百人だったはずさね」


 店主二人が話し込むなか、僕は伝票をとると奥へと向かった。話題には入れないだろうし、直に訪れるであろう昂奮が終わってから、やがて訪れるであろう侵略者達にさらされる者同士の怯えの雰囲気の中に自らをおくことにも耐えられなかった。


「千を数えるのかね、今年は」

 

 他愛もない言葉を聞きながら事務机に座って算盤片手に伝票の整理をはじめて程なくすると、主人の息子がやってきた。まだ小学校低学年の彼は、父親から「今日は暇だ」と聞かされたことで、アルバイト学生が自分の遊び相手をしてくれるものだと信じきっているのだ。

 

「ハタ坊、今日は一緒にマンガ観てくれるの?」


 赤いほっぺたが机にもたれかかってくる。


「ああ、あとで一緒に見るジョー」


 昔、遠いところで名づけられた綽名で呼びかけてくる相手に、それにふさわしいセリフと笑顔をもって応じる。それにしても、我が苗字というものは、場所と人が変わってもそんなにも赤塚不二夫が描く日の丸の小旗をアタマに載せたキャラクターを想起させるものなのだろうか。

 無邪気な命名であった。初代の命名者だって、あの頃は無邪気だったのだ。


「今日は『サンデー』、読もうよ!」


「そうだね。あと、ハタ坊は『ビッグコミック』を買ってきたからそれも読むんだジョー」


「あっ! 『ゴルゴ13』!」


「せや……」


 この少年が十年後、仮に大学に進んだとしたら、そこにはどんな青春があるというのだろうか? 僕や石堂がこの子と同じ髪形をしていた頃、今日のような日に立ち会うことなど夢にも思ってはいなかった。

 坊やは父の仕事が今日、なんで暇なのかなど知らないだろう。ああ、いや、知らなくてもいいのだ。何なら墓場まで無知でいてほしい。


「さて、と……」


 テレビを見るために奥へと去った坊やを見送ると僕は一言つぶやき、算盤を弾くことに集中しようとする。が、二枚続けて書き損じてしまう。どだい、無理な話なのだ。


 石堂とおケイとの日記が途絶えてひと月が経とうとしていた。でも、あの交換日記帳の書き手は皆、今日のこの街にいる。

 風が歓声と怒号を運び始める中、主人が店先でシャッターを閉める音がした。



「東京に来るやて?」


「せや、『国際反戦デー』やしな。で、一応お前にも伝えておこと思ってな」


 受話器の向こうの石堂に向けて困惑した言葉を僕は投げかけた。途端にこちらの会話を見守っている下宿先の老婆が顔のシワを増やしはじめる。彼女が嫌悪感を抱く原因が長距離電話にあるのか、それとも、政治的な主張を行いたい知り合いと話し始めたかは分からない。多分、どっちもなのだろう。


「大阪でもあるやろうに」


「動員令がかかったんや」


 相手の得意そうな声に身震いがひとつ起こった。

 国際反戦デーなんて舞台は、名前の通りに平和を願うことを目的とした集会のはずである。それは、本来ならば旧日本軍じみた『動員令』などという単語では表現されないはずだ。それを嬉々とした表情で口にする矛盾に気づかないものなのだろうか。


「社・共の集会に出るのや」


 話し相手が目的地を口にした。


「社・共?」


 思わず僕は聞き返した。そして、こちらの言葉を確認した老婆の表情がいよいよ険しくなる。僕が迂闊にも『シャ・キョウ』などと口にしてしまった以上、電話口の向こうに政治的な人間がいることを確信したのだろう。

 だが、そんなことはどうでもよかった。


 社会党と共産党は国際反戦デーの際には、代々木公園で合同の集会を予定している。それは事実だ。しかし、手紙やら電話で知りうる限り、石堂が所属している集団はそこに反発しているはずの一群なのだ。まかりまちがってもそんなところから「動員令」がかかる筈がないじゃないか。

 それとも彼の行く末を不安に感じているであろう恵子の手前、より穏健な思想集団へと鞍替えでもしたのだろうか。僕は苦い気分でそんな推測をまとめ上げる。いくらひと夏を性に淫しきってしまったとはいえあの娘の、僕が一番好きだった女の子を気遣ってしまう。自分勝手な話ではあったが、仕方がないともいえる。

 性が高まりに来る瞬間が何度となく訪れたところで、脳裏のどこかから哀しい顔をのぞかせる恵子の横顔が離れなかったのだ。ランドクルーザーの少女は夏の終わりに消えていった。感づいたのだろう。


「せや、代々木公園や」


 短い思考を石堂の言葉が乗り越えてくる。


「泊まってくか?」


 何もない僕は、実に凡庸な提案をした。こんなになってしまっても旧い友人に宿を貸したいという感情が湧いて出たのだ。新大阪での見送り以来、石堂にも、そして恵子にも会っていなかった。どんなにかつての好漢が僕の姿に軽侮を募らせたとしても、僕はまだ彼を親友だとどこかで思ってみたいのだ。


「遅くなるやろ? なあ、泊ってけや」


 彼との言葉からイデオロギーに関する部分のみを丁寧にそぎ落として、僕はその日の相手の予定をしつこく確認した。どんなに心理的にも物理的にも距離が離れたとしても、どこかでこちらの感情を汲み上げてくれないか、と願ったのだ。


 だが、石堂はもう、気づいてはくれない。


「無理やな」


 ささやかな欲望は野太い声で現実に引き戻されていく。そしてそれは、こちらの煮詰まった感情にとどめをさすだけのものだった。


「おケイを連れていくんよ。だから、無理やわハタ坊」


「さよか……」


 不思議なくらいに淡々とした返事が出た。二人がそういう関係になっていることを覚悟していたからこそ、受け入れることが簡単だった。

 楽になったな、とも思った。もう、昔みたく「あの二人の関係は?」などと気を揉まなくてもいいのだ。

 恵子の両親が友人とはいえ娘を男と上京させることを許したのが全てだった。それに、僕にはもう石堂に不服を言う資格などない。


「夜行で帰るさけな」


「分かったよ。ま、列車に間に合わなかったら電話くれや」


「ハハ……」


 乾いた笑いとともに電話が切れた。彼が僕をどう思っているかが分かる以上、予想できる対応ではあった。

 石堂は恵子と付き合っている。石堂はその事実と政治を絡めて僕を蔑んでいる。

 なのに、会いたい。二人に無性に会いたいのだ。もう、音楽の話も出来ないだろうし、清楚な顔を見ながら思慕にときめくこともないのに。三人でそろえば、初めて出会った時まで時が戻るとでもいうのだろうか。


「波多野さん!」


 老婆の声がした。残念なことに時は戻らない。


「アタシと主人はね、学生さんが長電話するのすら嫌なんざんすよ! それをよりにもよってアカなんざと……」


 小言が始まった。その声を確認すると、僕は儀礼的に身を少しかがめて恐縮していると言わんばかりのポーズをとる。


「ええ、ええ……すみません」


「アタシャ、波多野さんが関西の立派な、洋書まで扱う書店のご子息で、政治に一切関わってないからこそ、部屋をお貸ししているんです」


「は……。いや、ですから切りました」


「本当に?」


 ねぶるような目つきがあった。本当は切られたのだが。


「もう、冗談でもかかわりあいたくないですな」


「そうでしょうとも、そうでしょうとも!」


 そう言い切ってしまったら、老婆はもう、それ以上は共感以外の何もいえない。それをいいことに僕は彼女の次の言葉を待たずにアパートの受付口から背を向けて自室へと階段を上がっていく。家主が追いすがらずとも惨めな心だけは付き従ってきた。三日後に何が起ころうとも、もう関係のない話じゃないか、と慰めてくれながら。



 静寂があった。小さいながらも鉄筋造りの建物が、外の喧騒を通さないのだ。新宿の東口と西口がどうなっていようが、もう、音も光も差し込まないと分かりやしない。


「ハタ坊、テレビ一緒に観ようよ!」


 カマスの干物、大根と牛蒡の味噌汁、カボチャの煮付けでの夕食をとりながら『サンデー』を眺めていた坊やは、程なくしてマンガに飽きたのか、今度は一緒にテレビを観るようにせがみはじめた。


「テレビねえ……」


 僕は、主人一家と囲んでいた卓袱台にのっている二杯目の味噌汁を啜ることをやめて、少しだけ考え込む。


「うん! もう八時だからさ! 『ゲバゲバ90分!』観ようよ!」


「『ゲバゲバ』?」


「面白いんだよ! マエタケと巨泉が出ているお笑いなんだ!」


「へぇ……」


 大根の甘さを噛みしめながら、人が自分が好んでいるものを他人に勧める際の上気と緊張が入り混じったような声を僕は横目で聞き流す。笑いは好きだが、今日に限っては気乗りもおきないのだ。それに、初めて聞いた番組の名前だったが、タイトルが気に入らなかった。『ゲバゲバ』なんて題名はゲバルト、すなわち今日新宿に集結しているであろう学生たちが得意とする暴力が由来だろうということが瞬時に分かってしまったのだ。

 世間は学生の暴力に怯えながら、それでいてしたたかに彼らへと哄笑を送りつけているのだ! そこに気づかないのは、石堂と小西さん、そしてその全国の仲間たちだけだ。


「ハタ坊、つけるよ! そしたら絶対にハタ坊だって『面白い』って言ってくれるもん!」


「これこれ。波多野さん、すみませんねえ……」


 坊やはそう言うと母親の苦笑の中、白黒テレビのスイッチを捻った。だが、テレビに映し出されたのはテレビ・スタジオでの楽しい寸劇などではなかった。


 白黒のテレビ画面に映し出されたのは、僕が今いる新宿西口の光景の俯瞰だった。


「なんだ? これは?」


「あれっ?」


 主人とその息子の怪訝な声がした。


「おい、ジュン。これ、お笑い番組じゃあ、なかったのかい?」


「お笑いのはずだよぅ……。でも、おかしいなあ」


 坊やは不思議そうに顔を傾けながら、テレビを凝視する。その声にこたえるかのように小田急百貨店あたりからだろうか、テレビ・カメラは無機質なヘルメットの大群の怒号と、それに対峙する機動隊のこれまた無機質なジュラルミンの盾を高層ビルから中継し始める。そしてそれは、画面がスタジオのタレントに切り替わって、この新宿の映像が「ハプニング映像」であるとの注釈を加えるまで続いた。


「ああ……」


 僕は呻きながら、雇い主の親子とはまた違う気分でこの画面を見ていた。拳を振り上げながら学校の門を出た集団の行く先が新宿なのだろうか。福村さんの予言があたるなら、今日を境に彼らは拳を打ち砕かれて朽ちていくはずだ。

 なのになんで、それが新宿なのだ。僕の勤め先なのだ。僕はもう、何もしたくないし、見たくない。石堂はいない。恵子もいない。あの女の子だってどこかに行った。そこまでになってなお、何かが終わっていくのを見届けなければならないのか? シャッターを閉じても、総括だけはブラウン管から忍び寄ってくる。

 

「パパ、東京ってこんなにゲバの大学生がいるの?」


 再び画面がビルの屋上からの中継になったと同時に、坊やの至極当然な問いが発された。確かに、万を数えるかもしれないヘルメット姿の軍団を見たら、そうもいいたくなるだろう。


「さあなあ……。()()()()()()()()()()()()()()、と隣のマスターも言っていたなあ」


 カマスの干物をつつきながら父親は不機嫌そうに応じる。

 だが、その言葉に反応したのはジュンちゃんではなく、僕だった。


「ああああああ!」


 僕は全くに不意のわめき声をあげると、卓袱台に膝をこすらせつつ六畳間に立ちあがった。


「波多野君?」


「ケイさん?」


 主人夫婦の戸惑ったような言葉が発せられたが、僕はもう、そんなものには反応しない。


「ああああああ!」


 僕はまた、悲鳴にも似た何かを発した。そして、両目を見開いたままブラウン管へとにじり寄っていく。


 石堂は嘘をついている。三日前の『動員令』という言葉への違和感は、今になって僕からある結論を引き出したのだ。


 彼は今晩、代々木公園の穏健な集まりなどに参加してなどいない。恵子を連れてこの界隈でヘルメットを被っているのだ、という確信にもにた感情がどこかからせりあがってきた。

 彼らが今、確実にここにいる。


 ぐずぐずと飯を食ってなど、いられたものではない。


「行かな」


「え?」


 戸惑った主人の視線が僕へと向かう。


「行くんですよ! ここに!」


 もう全てがもどかしくなった僕は、それだけを言うとテレビを抱え込むようにして怒鳴った。


 僕は、嘘つきが嫌いだ。石堂を殴らねば、ならない。

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