第69回~昭和45年7月31日「思案橋ブルース」(後)
三
「アイツが、淋しい……?」
僕は疑問を抱きながらアンさんの言葉に反応した。
「俺はそう思うね」
そう言いきったアンさんはふと、明快な言葉とは裏腹に視線を逸らした。そして、自らのギターケースを見やりながら口だけを開き続けた。
「でも、間違っちゃいない。アイツは何も間違っちゃいないのね」
「ええ、ええ」
小汚いテーブルの片方にあって、とりつかれたように相槌だけが口を出ていく。中田の「淋しさ」はまだ、全貌が見えない。だが、アンさんが二度繰り返した「間違っちゃいない」という単語には凄みがあり、それは、同意でも何でもいいから和らげてしまいたかった。それに、人の痛みを和らげるにはまずは同意するしかないのだ。
「去年の10.21はそりゃ、酷いもんだったろ?」
「ええ」
アンさんはテーブルにわずかに身を乗り出すと、値踏みをするようにこちらに確認した。
彼の言葉の通りだった。どちらかといえば、あれは「酷い」などと形容するものでさえなく、「惨い」とでもした方がふさわしい夜だった。
「あの日の狼藉で中田と一緒に上京した『先輩』は手配された。お前、知っとるけ?」
「そうでしたか……」
多英から聞いた情報だった。が、僕は初めて知った態で素知らぬ顔をする。口外を禁じられていた内容だった。
そんなこちらの事情を知らないであろうアンさんは一回素っ気なく頷くと、中田の詳細な行動を語り始めた。
「デモ隊は機動隊に投石をする。ただ、その『先輩』を含めた大多数は興奮したのか、路上に停めてあったクリーニング屋の配達用の車やブティックのショー・ウインドーまでも襲った」
「配達先が何軒かやられましたよ……」
それは、10.21の際のこの街にありがちな話だった。全国から急行列車で集結した地方の大学生、そしてそれを遠巻きに見守る野次馬ども。集団の暴力の応酬。皆、どこかでタガが外れていったのだ。
「中田は演芸が好きなだけのノンポリさ。それでも、同年代がデモよりも激しい行動をしたとしたところで、それが意味のある暴力だったなら黙認する度量はあったバイ」
藤圭子が絶え間なく流れる中、アンさんはまたタバコを咥えた。
「でも、連中がクリーニング屋のバンや商店を破壊する行動は許せなかった。そこにはなんの理由もなかったからね」
「ああ……全くですよ」
僕は残り少なくなった鯖の味噌煮をつつきながら、中田の生家が薬局であることを思い出した。そして薬局に育つということは、新宿の一等地だろうが秋田の山奥の鉱山だろうが、小売業の苦労には違いがないことを誰よりも分かっているということでもあった。
当初、彼には先輩を売る気など何もなかったのかもしれない。でも、大義名分をひけらかしてささやかな市民生活を、国電をストップさせるなどといった方法以上の形で侵略し始めたとなると話は別だったのだろう。
「そんなひどか暴力がこの街にうずまいていたバイ」
僕はそろそろ頷くことにためらいを覚えるようになっていた。あの時、ただの野次馬でいられたなら、無責任に首を動かすことだって出来るだろう。機動隊に遠巻きに罵声を浴びせた記憶を肴に「あれは面白かったなあ!」などとうそぶけたかもしれない。
しかし、僕はある種の「当事者」だった。あの日、興奮がもたらした石堂の理由のない暴力を止めず、逃げた男だった。それで恵子は消えたのだ。
頷くたびに、疲れがたまっていく。
「中田にとって先輩は『ケダモノ』になった存在だった。だから、人間に戻すために、彼は警察に通報したね」
新しいビールをコップに静かに注ぎながら、咥えタバコのアンさんは中田の行動を語った。細い眼は泡とビールの配分に注がれている。が、決して本心がそんなことにとらわれていないことはなんとなく分かる。
「興奮は拘置所にいたらいずれは覚める、そう思ってのことだった」
「酔いどれが留置場で朝を迎えるようなもんですな」
「まったくになあ」
「アンさんはどうです?」
話し相手は忍び笑いを一つした。きっと若い時分に留置場に放り込まれた経験があるのだろう。
「さて……。で、『先輩』は保釈された。けど、大学を辞めて田舎に帰ってしまったタイ」
「……その結果、中田を周りが責めたのですか?」
「まあな。だが、それ以上にあいつは自分で自分を責めてしまった」
ギター弾きはそこで話を区切り、ビールに口をつけた。「俺と同じさ」と言い添えて。そして、わずかな液体を飲み干すために長い長い時間を費やしはじめた。
次の言葉を考えることと、もう一息にはビールすら飲み干せないほどに酔いが身体を蝕んでいることの両方なのだろう。
この間を利用して僕はまた昔のことを考えた。そして、勇気ある中田を慮った。少なくとも彼はあの時、この街にうずまいていた暴力に対して自分なりの回答をつきつけたのだ。
イデオロギーなど、女の子のファッションのように年ごとに変わっていく。皆、無責任に何かを叫んでは、時流が代われば百八十度別の主張をするのだ。一体、戦前の左翼作家で転向しないで敗戦まで粘り抜いた人間が何人いたというのだろう。戦中の右翼で今、親米家になっていない連中は何人生きているのだろう。価値観を集団で変えることが出来た幸福な連中はみんなで幸せになっていく。死んだ福村さんの予言は多分、あたるだろう。だからきっと、もう十年もしたらここ数年の記憶を美化した輩で土曜の酒場は埋め尽くされていくのだ。
でも、たった一人での裏切りはそういったイデオロギーなどとはまた別の次元だ。イエスを売ったユダは、二千年が経っても世界中で汚名を被せられたままなのだ。
「中田の外見と言動が変わったのはそのせいさ……。バカたい、アイツは。大学まで行って、髭と髪を伸ばしたら過去の記憶と人格が変わると本気で信じている」
ゆっくりとビールを流し込んだアンさんは、中田を評することを再開した。僕はまた、首を一つタテに動かす。
中田は今も、義憤から「人を裏切った」後ろめたさから逃げ続けているのだ。何もせずに逃げて後悔して苦しむのと、何かを決断して後悔するのではどちらがマシなのだろうか。
「彼は正しかったのでしょうかね?」
「知るか」
年長者は愛想もなく答えた。それは、そのとおりなのだ。が、その言葉にいささかの冷たさも感じなかったといえば嘘になる。
「しかし……」
「しぇからしか!」
アンさんの語気が強まった。言葉の意味は分からなかったが、こちらが重ねて問いかけることを疎んじているのだろうということだけは、ぶった切るような言葉と疲れた表情から察することが出来る。
僕は、答えを急かしすぎていた。
よく喋る中田と、寡黙なアンさんは年齢からして親友などと表現する関係ではないだろう。しかし先輩を、そして家族を結果として裏切り見捨てた負い目がある者同士という一点だけでお互いの関係が成立していた。
二人の奇妙な共感の中に、気安く割って入ることの難しさに思いをはせるしかなかった。
「いや……少し言い過ぎた。まあなんだ……お前、必要以上に中田の心に立ち入るな。道化の仮面を剥ぎ取るのは残酷タイ」
怒声がもたらした気まずさを隠すようにアンさんは鼻先を指で掻きながら呟いた。僕は先ほどの相手の激昂を責めることはせず、そっくりそのまま、その科白を受け入れた。
やはり中田は道化だったのだな、と思うだけだった。
「アイツは髪と髭を伸ばして、内股を覚えてオカマ言葉まで練習した……。なあ、ピエロであろうと努力している人間の志を無下にするな」
そう言ったアンさんは、最後の一切れとなった鯨カツに下品なほどソースをかけて口へと運ぼうとする。
「ま、オメエに女の化粧を洗い落とすような趣味があるなら別だがね」
「ハハ……」
咀嚼音が響くなか、僕は愛想笑いをした。いや、それは完全なお追従ではなかった。例えば、アイシャドウをたっぷりと施した多英の顔を濡れ布巾でぬぐったらどうなるのだろう、と思うとほんの少しだけだが彼の比喩がおかしく思えたのだ。
しかし、今は笑っている場合ではない。アンさんに言わねばならないことがあった。
「分かりました。だけど……」
「だけど、なんだい?」
酔いで深みを帯びた眼光の男は、口まわりのソースをぬぐおうともしないままでこちらを見た。
「万一にも中田が助けを求めてきたら、今度は助けますよ」
「好きにしたらいいさ」
アンさんの唇は微かにだが緩んだ。
「でも、安直に手を差し伸べるなよ。アイツが道を誤った時、初めて助けろ」
「ええ……。ええ!」
ぶっきらぼうな返事が心地よかった。僕は何か、胸の中のつっかえ棒が取れたような晴れやかな気分になっていた。彼と中田との間の微妙な関係の間に身体をねじ込んでいくことを、はじめて許されたと思ったのだ。
「アンさんは、優しい人ですね」
「どうだかね。この数年、そうしなきゃ生きるのが辛かっただけよ」
ギター弾きは素っ気なく言うと、またタバコをふかした。
「だがな、気をつけろよ」
優しさを帯びはじめていたと信じきっていた口がまた少し歪んだ。
「お前は、中田があんなになってまで惚れ込んでいた女をあっさりとモノにした男なんだ……。この意味、分かるよな?」
芽生えようとしていた爽やかな感情に「待った」がかけられた。アンさんの言いたいことが分かったということだった。それは、かつて中田がどんなに多英に好意を寄せてもついに彼女に選ばれることはなかったのは、彼が弱さをみせつけることに臆病だったからなのだと気づいたということなのだ。
あの娘は敏感だった。彼が凄まじい長髪になって女性のフリをすることは、弱音を隠すことで明確に他人からの救いを拒絶したと判断したのだ。救われるために道化となることを選んだ男は、自身の努力だけで苦境にカタをつけたとみなされてしまったのだろう。中田が彼女に言われた「満ち足りている」という言葉は、自己解決した人間に用はないということなのか。
「なんとなく分かりますよ」
「だといいがね」
でも、少なくとも多英という少女を愛することにかけて、こちらが中田よりも秀でている部分があるのかが分からなくなってきた。僕は、いまだに多英のみを愛しきれていない。マンガ的に多英の化粧をはぎ落す空想で笑うことが出来ても、同じ暴挙を恵子に置き換えて想像できない人間だった。放っておいたら僕の精神は西へと逆流しかねない。僕はまだ、多英だけを愛せない。
酔ったアンさんが言いたいことはそこだな、と思った。彼はきっと、過去への総括が不安定なままに多英と付き合た人間が敗者に近づく時、そこに同情や見下した感覚を忍ばせてやるな、と言いたいのだ。
態度がまだ固まらない卑怯者が中田に近づくということは、実に難しいことだった。そして、臆面もなく甘えた男と、それが出来なかった男の差など、誰もわかりはしない。
「さて……波多野君よ」
アンさんの声がした。テーブル越しの男の顔は、もう興奮もなく、いつものように無表情なものに戻っていた。
「はい」
「お前は、10.21の時、何をしていた?」
僕はただ、静かに微笑むだけにした。中田の昨日は僕の昨日でもあった。遠くから微かに、地鳴りのような国電の音が聞こえてくる。そして僕は、去年のあの日の新宿の喧騒はそんなささやかなものではなかったことを当然ながら知っていた。
アンさんは紺の絣の女将に、今度は酒を二合注文する。クダをまきかねない酔っぱらいにうんざりとした女性の姿が視界のなかで大きくなっていく。
「ちょっとアンちゃん! 体に毒よ」
「いいんだよ……なんだ、これぽっちの量くらいで」
「喉が焼け落ちるわよ!」
「しぇからしか!」
詳しくは分からない方言が出てきた以外は夜更けのメシ屋での他愛もない光景だった。理は女主人にあり、アンさんにはなかった。なのに、僕は煮汁が固まった鯖味噌に箸を伸ばしながら、心の中で酔っ払いの考えに応じた。まったくにあの日のすべてを語るには二合ぽっちの酒で足りる気がしないのだ。




