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恋のほのお  作者: 桃山城ボブ彦
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第7回~昭和42年8月24日「青い影」(後)


 よく晴れた夏の終わりの午後三時すぎ、松林に囲まれたプールに人影は少なかった。蝉の声と、時折すぐ裏手を通る電車の響き以外は、飛び込み台から勢いよく水面に飛び込む石堂の水しぶきの音くらいしか響くものがない。客が少ないから、彼も遠慮なく、何度も大きな水音をたてることが出来るのだ。


「大貫さん、ハタ坊! よう見とき! これが潜水艦乗りの息子の潜りっぷりよ!」


 石堂はそう叫ぶと、水面下へと長い長い「潜航」をはじめる。そういえば戦争に負けた時、彼の父親は横須賀だったか呉だったかの海軍中尉だった、とプールサイドの僕は思い出した。人当たりの穏やかな保険会社の神戸支店長にだって剛毅な過去はあったのだなあ、と、強い日差しの中、ボンヤリとデッキチェアに寝そべりながら考える。

 水泳部にいた癖に泳ぐのにいささか疲れた僕の横には、緑色の水着を着た大貫恵子がいた。彼女もやはり、デッキチェアに寝そべりながら、飲みかけのコーラの瓶を片手に石堂の泳ぎっぷりを見つめている。平泳ぎの「潜水艦」が息継ぎで水面に浮上する度に、彼女はチェアから身体を水面の方へと乗り出す。水着にかかった長く濡れた黒髪が、僅かに揺れる。


「平和ね」


 延々とプールを平泳ぎで泳ぐ男を眺めながら彼女は誰ともなく呟いた。


「そら、平和やろ」


 オウム返しに僕は答える。ホテルに着いてから僕ら以外に大して客のいないプールは平穏無事だし、大体、五百円もするホテルのプールは、遊園地や市営のプールと違って静かでなければ困るのだ。


「ホンマに今この瞬間に、ベトナムなんかでは戦争なんてやっているのかしら」


 軽く、ズッコケる気がした。僕と同じようにただ単に、泳ぎ疲れてプールサイドで休んでいるばかりだと思っていた大貫恵子のいう「平和」が、もっと大きな意味のものとは考えもしていなかったからだ。


「そら、やってるんやろ」


 僕は戸惑いながら言葉を返した。夏のプールで受けとめるには、洒落が通じない内容だと感じたからだ。


「なのに、何かこんなして遊んでたら少し、悪い気がする」


 彼女は黒髪を掻き上げ、そして少し俯く。白いうなじがチラリと見えるが、会話の内容が会話の内容なので見とれる気分になんて、大してなれない。


「そんなこと言うていたらキリがない」


 ようやくに、それだけを口にした。不意打ちの真面目な話題はさっさと切り上げたかった。

 少女はしかし、この話題をやめなかった。泳ぎ終わってプールから上がろうとする石堂に少し手を振ると、僕に向き直った。


「ベトナムだけやない。中共かて、ウチらと同じくらいの年の人間がこう、焚書とか色々やっているんでしょ?」


 大きな瞳が、こちらがどう返事するのかを知りたいとでもいうように、僕を見つめている。まったく、吸い込まれそうな瞳だ。

 僕は仕方なく、デッキチェアの上で寝そべっていた体を起こすと、彼女の方を見つめた。細い脚、緑に覆われた均整のとれた胸のふくらみがそこにある。だけど僕は、すぐにそこから目を逸らした。それは、あまりに大貫恵子を見つめていると、まぶしくて目が潰れそうだからと同時に、自分のこれからの言葉は彼女を満足させるものではないと感じたからだ。


「中共や北ベトナムに生まれんでよかったわ」


 それだけ言うと、僕は彼女に背中を向けてデッキチェアに倒れこんだ。「そう」という、残念そうな大貫恵子の声が後ろから聞こえたが、聞こえないふりをする。せっかくのプールで、社会情勢の問答だ。僕はしばらく寝入ったフリでもして、話題が変わるのを待つしかない。

 しかし、もう一人の声の主が、そんなこちらの考えを許さなかった。


「ハタ坊、それはおかしい」


 再び寝ころんだ僕の視界に、泳ぎ終わった石堂の顔が広がる。どうやら、こちらの会話を聞きつけたようだ。


「『日本に生まれてよかった』で話を片づけてはよくないのとちゃうか?」


 なんで泳ぎに来てまでこんな話題をせにゃならんのだ、と僕は思う。それでも、もう一度、体をデッキチェアから起こさざるをえなかった。相手が一人から二人に増えたのは面倒だが、それ以上に、こんな話題を続けること自体が面倒なので打ち切りたかったのだ。


「いや、そんなことはないよ」


 湿った髪を掻き上げると石堂に向き直った。


「今、自分が平和な暮らし出来ているなら、まずはそれに感謝して、それからその平和がどないして成り立っているかを理解する。外国の戦争や紛争を考えるのはそれからでも遅くない」


 彼はしばらく腕を組んで考えていたが、やがて僕の言葉を否定にかかる。


「いや、ハタ坊、そうやってお前が考えているうちにベトナムではアメリカの若いんもベトコンの若いのも死んどる。アメリカ人にいたっては、ちょっと前まで髪を伸ばしてロック聴いていたような連中が、やぞ? ベトナム反戦を考えなきゃアカン」


「それはそうかもしれへんけど……」


「そうかも、じゃなくて、そうなんよ。遠く離れた日本でも、ぎょうさん、考えなアカン」


 石堂は、僕のデッキチェアの端に腰をおろした。どうやら、長期戦のつもりらしい。ふと、大貫恵子を見る。彼女は、自分の一言から議論がはじまるとまでは思ってなかったらしく、男二人をただただ、交互に見るばかりだ。



「遠く離れてなんかはない……」


 僕は石堂の巨体のせいでデッキチェアの半分を失い、なんとなく苦虫を噛み潰したような気分になりながら口を開いた。ただ、不機嫌な表情が表に出ているとするなら、それは無遠慮に座られたからのものではない。


「今月、東京でアメリカの燃料列車が事故起こしたくらいは僕かて知っとる……。日本は別に遠くない、横田や岩国は前線基地や」


 傍らの男女の顔を交互に見わたしながら言葉を発する。


「でも、高校二年生の僕らにイシがいうとこのベトナム反戦の何が出来る? せいぜい新聞の投書欄か、大学生のデモに数合わせで混じるくらいが関の山やがな」


 そこまで言うと、僕はデッキチェアから立ち上がり、頭からプールに飛び込んだ。慣れない議論だ、頭を冷やさなきゃいけない。全身を、頭髪の先までも冷たい水が刺激してくる。


「僕らは幸いにして裕福な家に生まれたわ……。生まれてこの方、食い物がないなんて状況はなかった。()()()()()()()()()()()()()()()だって、なかった」


 水の中で体勢を整えると、二人に向かって会話の続きを再開する。別に話し合うのが嫌で、水の中に逃げ込んだわけじゃあ、ないのだ。


「それどころか、それぞれ家には車もカラーテレビもクーラーもある。大学にだって、行きたい言うたら快く送り出してくれようとしているような家や」


 そこまで言うと、水中から二人の反応をうかがってみる。二人は少しの間黙っていたが、それでもやがて、石堂が意を決したような表情をすると、こちらに話しかけた。


「それが、ベトナム戦争への反対とどう関係があるのや?」


「大アリよ」


 僕は水から上がり、二人の前に立った。濡れた全身に向けて、容赦なく強い日差しが再び襲ってくる。デッキチェアに座ったままの二人を見下ろすような格好になるが、体裁に構ってはいられない。


「僕らが平和で恵まれてんのは、アメリカが日本を守っとるからや。親に護られ、アメリカに守られた平和と豊かさの中でのんびりやりながら、一丁前に反戦だなんていってもしゃあない」


 そう言うと、僕は二人のデッキチェアの間をすり抜け、テーブルの上に置いてあったタオルで身体を拭いた。


「でもハタ坊、実際に起こっている戦争に異を唱えないのは勇気ない人間のすることちゃうんか?」


 こちらの背中を、石堂の声が追ってきた。


「別に誰も、『反戦を唱えるな』とか、『考えるな』は言うとらんよ」


 そろそろ耳にかかってきたくらいの髪を、丁寧に乾かしながら僕は答える。


「ただ、自分達の甘い環境とか、立ち位置を把握してからにせな、無意味になるってことを僕は言いたいんや。何ぞやりたいなら、まず大学に進学し、見識を広めた上でデモを企画するなりなんなりで示したらええ」


「なるほどねえ、大学で知識に広がりを持たせた後、か」


 彼はこちらに反論しようとせず、顎に手をやると呟いた。多少はこっちの言いたい事が伝わったのかもしれない。


「せや、大体、日本が豊かになってきたいうても、大学に行けるのはまだ十人に一人くらいやろ? 大学に行ける幸運を考えた上で、イシも疑問を発したらええと思うんや」


「そうか、()()()()()


 男は、なおも一人で考え込む。

 その時、長い間沈黙していた少女が声を上げた。


「波多野君、石堂君ごめんなさい。私がつい、『潜水艦』って言葉に反応しちゃったせいで、なんだかせっかく泳ぎに来たのに生真面目な話になってもうて」


 僕と石堂は、デッキチェアにもたれたままの彼女の方を見た。「生真面目な話」を導いてしまったと気にする大貫恵子は、両足を抱くようにして身体を折りたたんで座っていた。


「いやあ」


 石堂がにわかに元気な声を出す。


「たまにはエレキ以外の話題も必要やったってだけやて」


「せやな、あまり大貫さんが気に病む必要は全然、あらへんよ」


 僕は彼に同意する。なんとか、これ以上変に気まずくなることはなさそうだ。

 女の子は僕らの様子を上目づかいに確認すると、ようやく安心したかのように笑みを浮かべた。どうやら、僕と石堂が本気で言い争いを始めるのか、と思っていたらしい。


「じゃあ、二人が元どおりに仲良くなったところで、みんなでもう一泳ぎしない?」


 そう言うや否や、彼女はデッキチェアから立ち上がり、小走りに飛び込み台へと向かうと、水面に向かって見事な跳躍で飛び込んだ。今日、何度となく見た光景だったが、飛び込み台の上でスラリとした足を少し屈伸させ、反動をつける彼女の仕草は何というか、可憐だった。

 頭の中で何故かはわからないが、今流行っている、クラシック音楽のようなメロディの『青い影』が流れ出した。多分、強い陽ざしの中で、大きな影を水に作っていく彼女の姿を例えるのにふさわしいメロディがそれくらいしか思いつかなかったのだろう。


 僕は水の中を漂い始める彼女の肢体を目で必死に追い始めた。何か、こう、今目に焼き付けておかなきゃいけないものだと、急に感じたからだ。


「はよう、二人も入りいな!」


 水中から、大貫恵子の細い手が二人を招く。僕と石堂は手を振りかえした。そして、僕が彼女に向かって「今、僕も入るわ」とでも言おうとしたその時だった。


 突然、わが身体が強い力で宙に投げ出された。

 あ、石堂が放り投げたな、と思った瞬間には、激しい水しぶきと共に水の中だった。大貫恵子からは多少の距離があったとはいえ、それでも彼女から小さな悲鳴が上がる。


「おいおいイシ」


 再び頭から濡れネズミとなりながら、僕はプールサイドに仁王立ちをしている石堂に向かって問いかける。


「お前、さっきの話はケリついたんやなかったのか?」


「いやいや、ハタ坊、そうやない。さっきの問答は関係あらへん」


 突然、彼は腹をかかえて笑いだした。


「お前の身体が実にこう、ナ、正直やったから助けてやったんや」


「どういうこっちゃ? そら?」


 こちらの問いに対して彼はすぐには答えず、自身がプールに飛び込んで、僕に近づいてからようやく答えた。


「お前の下半身に血がまわりすぎとった。しかも特・に・一・点・にな」


 彼は大貫恵子に聞こえないよう、僕の耳元で囁く。


「…………」


 僕はもう、何も答えられなかった。確かに()()()()()()はあったが、まさか気づかれるほどのものとは思ってもいなかった。


「だから、大貫さんにバレないうちに局所冷却が必要やと思うたまでや」


「…………」


 その時、噂の相手がこちらまで泳いで近づいてきた。


「さっきから石堂君も波多野君も、一体何してんのん? 突然、波多野君を放り投げたと思ったら、今度は二人でヒソヒソ話をしたりして何や、怪しいわァ」


「あ、大貫さん大したことやあらへんのよ。単にハタ坊が少し『暑さあたり』しかねない感じやったからプールで冷やそう思うてな」


「あら、そうなん? 大丈夫、波多野君?」


 彼女は驚いたように僕の方を見つめる。しかし、もう僕は問いかけに答えることはしなかった。その代わりに、静かに水中へと頭を沈めていった。

 この状況では、ただただ、石堂のいう「潜水艦」と化すことだけが、気恥ずかしさから逃れられる方法だとしか考えられない。


「ん。しばらく潜ったら大丈夫やな。俺の経験からすれば」


 石堂の呑気な返事と、大貫恵子の笑い声が、ホテルの裏を通過する阪急電車の音と混じって聞こえてきたような気がした。だが、今はどうでもいい。差し当たり今の僕の使命は、「潜水艦」に乗艦して『暑さあたり』を治すことでしかないのだ。

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