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恋のほのお  作者: 桃山城ボブ彦
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第68回~昭和45年7月31日「思案橋ブルース」(前)


 夜の十時過ぎ、いつものように店のシャッターを降ろすと僕は西新宿の雑踏を駅に向かって歩きはじめた。途端に週に三日、アルバイトが終わるごとの心地よさが打ち寄せてくる。小銭混じりのせいとはいえ、それなりの重みのある封筒を鞄にしのばせながら灯を消していくデパートを見上げて歩く時には、今日も無事にアルバイトがすんだことへの満足感が胸を駆け巡るのだ。

 これで、このあと多英に会えたなら文句はない。が、今日は会う予定がなかった。今頃、彼女は家庭教師先の女子高生の成績が上がったお礼とやらでそこの一家から赤坂まで中華料理に案内されているはずだった。まだ明々後日には一科目だけとはいえ前期試験が残っているのに豪快だなあ、と思う。

 

「波多野君じゃねえか。こんな時間までアルバイトかい?」


 中華料理に想いを馳せているとふと、後ろから声をかけられた。振り返ると、京王百貨店の入り口を背にして安平(アン)さんがこちらに手をふっている。しばらくぶりの再会だった。見ない間に彼の顔にはウッスラとアゴ髭がたくわえられている。

 僕が頭を下げて声に反応すると、彼は少し笑った。そして、左手に捧げ持った黄ばんだ白いギターケースを行きかう人々に当てないようにしながらこちらへと近づいてきた。


「ええ。いつも十時までなんですよ」


「そうか。そりゃ、御苦労様なことだね」


 長身のアンさんが、また静かに微笑んだ。


「いえ、とんでもない。アンさんは今日はもう終いで?」


「ああ、実入りが良かったのでね。もうアガることにした」


 そう言うと彼は右肩から掛けたバッグから小袋を取り出してその中身をこちらにかざす。


「五千円札が二枚、千円札が五枚……大したものですね」


「まあな。勤め人の給料日からまだたった一週間だからな。それに、今年のボーナスも史上空前だったしねえ」


「気前のいい方も多いものですね」


 ただただ感嘆した言葉だけが出てくる。一万四千円など、僕の日当の十日分じゃあないか。


「ま、家でカアチャンに叱られるまでは皆さん、陽気だね」


 アンさんは物騒な科白で今日の売上に関する話題をやめ、紙幣をいそいそと元に戻した。あたりはまだ明るいとはいえ、場所と時間を思えば妥当な判断だった。


「さて……メシでも食うか……。波多野君は、もう食ったのかい?」


「いえ、なのでこれからソバでも食べようかと」


「そりゃいい。一緒に来な。奢るよ」


 そう言うとアンさんはションベン横丁の方角をスッと指でさし、こちらの返事を待たずに歩き始めた。申し出を断る理由もない僕は、あわててその大股の歩みを追う。ふと、彼はこんなにも優しい人だっただろうかという思いが心のどこかをよぎった。



「何を弾いている時が一番楽しいですか」


 いつも僕が酒を配達している、遅くまで開いていることだけが取り柄の定食屋のテーブルで、僕は鯖の味噌煮をつつく箸を止めてアンさんに訊ねた。店に入って料理を注文して以降というもの会話らしい会話がなかったし、何よりもこの人に触れてみたかった。

 アンさんは「む」と一言唸ると鯨カツを咬みくだし、喉に漂っているであろう脂をビールで流し込んでから僕を見つめた。


「楽しいから弾く、ってものでもなか……。俺にはこれしか飯のタネがないからたい」


「あ……失礼しました」


 少しの焦りを覚えた。非礼があったのだ。彼にとってギターは間違っても趣味にとどまるものではないのだ。が、アンさんはビールをもう一杯コップに注ぐと、それをかざしてこちらの動揺を打ち消した。


「いやいや、よかバイ。でもそうだね……『思案橋ブルース』が一番楽に弾けるさね」


 そう言うとアンさんはコップの中身をまた飲み干し、それからテーブルの隅からもう一個コップをとり、僕の目の前に置いた。


「生まれが九州なもんでね。長崎の歌なんてのは実にいい……」


 僕の目の前のコップにビールを注ぎながら、アンさんはだれとはなしに自らの出身を呟いた。そういえば心なしか言葉の端々にむこうの訛りがあるな、と気づく。ビールの礼を述べると、僕は更に話を続けることにした。向こうが晩飯に誘ってくれるだけの厚意を示してくれた以上、こちらもより、この年長者と話をしたかった。


「長崎なんですか? 出身は?」


「いや、福岡の大牟田たい。でも、家族はもういないね」


 また、うろたえるしかなかった。いつだったか、中田がアンさんの前で「故郷」について話をしてバツの悪い思いをしていたことを遅まきながらに思い出したのだ。アンさんは短く刈った頭を撫ぜ、アゴ髭をさする。目元にはまだ微笑みがあった。

 だが、やはりこの人の前で「故郷」を話題にしたのは軽率だったのだろう。表情はそのままに、彼が次に語った一言が中田の、そして今の僕の焦りの全てだった。


「みんな『北』へ行ってしまった」


 アンさんは、今度は自らのグラスに手酌をした。


「それは、つまり……」


「お前が考えている通りさ。()()()残ったのは俺一人」


 目の前に緩やかな笑いがあった。だが、その表情は、肯定も否定も、同情もしてはならないものだった。僕が出来ることは、ただ、聴くだけでしかない。そこには何を足し引きすることも許されない。アンさんが軽く片手をあげ、店の女将を呼ぶ。酒のおかわりなのだろう。そしてそれは、演説会の合図でもあった。


「ロカビリー、やりたかったんだね。昭和の三十五年くらいのことだ。楽団をやってた」


 紺の絣からのぞく白いうなじが去り、演説者はタバコを咥えながら言った。


「デビューの話があったんだ。としたら、『北』には行けなかった。向こうでまた、一からバンドを作るってのは、ね。だから、家族を乗せた汽車が新潟へ出る晩も中州のキャバレーでプレスリーを弾いていたんだね。なのに……」


 アンさんはアルミの皿に灰を落とした。


「レコード会社はボーカルだけが欲しかったときた」


「それじゃ、ただの引き抜きやないですか」


「ああ」


 かぶりをふった首の下で、新しい冷えたビールを注ぐ音がする。多分、数時間前にこの店まで僕が届けたものだろう。


「焦ったこちらは、ドラムとテナーの三人で俺達も連れていけと楽屋でボーカルにナイフかざしてすごんでみたよ」


「そこまでして」


「そうたい」


 アンさんはビールを一息に飲み干した。「ぷうっ」と吐息が漏れ、彼の視線は一瞬だけ薄汚れた天井へと誘われる。


「家族を見捨てた以上、それに見合うだけの成功ば必要やった」


 当然だろうな、と僕は一つだけ頷く。それは、聞いたばかりでもハッと分かるだけの哀しい決断だった。そして、カツのコロモを箸でいじめる黄ばんだ指先は、その決断に見合っただけの果実を掴めなかったのだろう。


「でも、結局ボーカルは芸能プロのマネージャーとこっそり上京さ」


「止められなかったんですか?」


 どうも、ダメだな、と思う。相槌をうつたびに、僕自身までがどこか袋小路の奥へと突き進んでいく感覚にとらわれてしまう。酔客や水商売の女性であふれかえる騒々しさすら、僕とアンさんの机を引き留めてはくれない。


「ああ、博多駅と小倉駅、西鉄福岡に板付は愚連隊に頼んで張ってもらってたがね。裏をかかれて大分から飛ばれてしまったらもう、どうにもできなかった」


 そこまで言うと、アンさんは「苦労人」として知られるある人気歌手の名前を挙げた。九州から仲間に見送られて単身上京蛍雪十年、数多の挫折乗り越えついに華開いた遅咲きの大輪。だが、現実には苦労はあったのだろうが美談などはどこにもなかったようだ。

 僕は心の中で苦笑を覚えた。それは、例えば「美談」を「悲恋」にでも置き換えたら少し前までの僕自身にそのままあてはまるのだ。記憶なんて、気分次第でいくらでも歪められる代物だった。


「その後は炭鉱不況よ。三池の事故の頃にはキャバレーでの仕事も消えてしまった」


 思索は途絶えた。ギター弾きの告白が再開されたのだ。


「それで、上京してビル工事の飯場を転々としたね」


 自分でも何に同意しているのかは分かってはいないが僕はまた頷く。ただ、中州のクラブで酔っぱらった炭鉱の社長や西鉄の選手、九州場所の関取を前にしてギターをつまびく艶やかな日々が途絶えたことへの同意くらいにはなるのだ。ライオンズは、栄光からもう遠く遥かに離れていた。


「でも、やっぱり好きだからね。歌わなきゃ、見捨てた家族に言い訳が出来ないと思ったバイ。それで、商売替えして去年から流しをはじめた……」


 長く、静かな回想が終わった。藤圭子の歌声の中でアンさんはまたタバコを咥え、一方の僕はぬるくなったビールをようやくに呑み込んだ。新宿の片隅で新宿の歌を聴きながら、さきほどまでとは打って変わって僕は安心を感じた。最後の最後で、彼の話には希望が見え隠れしていたから当然だろう。

 アンさんがこれから行くべきところはまだ分からないし、それはまだ遠い。でも、彼はいつの日か、かつて自身を裏切った仲間と同じ世界に入っていけるのではないかという予感がした。それは願望にも似たものだったが、アンさんの口元の火が、彼が行くべき世界の遠い灯りに思えたのも事実だった。「ほのお」だった。


「なんで俺、今日はこんなに話すんだろうね」


 ポツリと、アンさんが呟いた。


「誰かに聞いてほしかったんと違いますか?」


「そうか……そうだろうね」


 彼は、自分自身を納得させるかのように言葉をいじくった。いい情景だな、と心から思った。

 が、その時、ある疑問が僕の中で芽生えた。彼の独白を聞く相手としては、こちらよりもふさわしい人物がいる。


「中田はそこいらを知らないのですか?」


 胸のポケットから『わかば』を取り出しながら僕は訊ねた。思い当たる節はあったのだろう。アンさんは「ああ」と、生返事を返す。そして、首をよこにふった。


「アイツには多くは語れないんだ」


「なぜです?」


「そりゃ、お前……」


 アンさんの静かな表情は突然、自嘲めいた卑屈さを醸し出した。


「ああいう淋しい坊やに、さらに淋しい話なんかできんバイ」


 僕は黙ってその言葉を受け入れた。多英の言葉が心のどこかから呼び起こされたのだ。そして彼女の言葉とアンさんの言葉を合わせることで、10.21の暗い記憶を抱えたまま漂う中田の姿が浮かび上がってきた。

 あの暇な焼鳥屋で一人の時、彼はいったいどんな顔をしているというのだろうか。少なくともその表情は、間違っても多英が告げたように「満ち足りて」などはいないような気がした。

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