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恋のほのお  作者: 桃山城ボブ彦
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第66回~昭和44年8月18日「ジャンピング・ジャック・フラッシュ」(3)


 程なくして福村さんはこの豪奢なテーブルに戻ってきた。既にしたたかに酔っぱらっている芳村さんとその相手、更に別の女の子二人を従えてのご帰還だった。


「どうも……」


 とりあえず三人の異性に挨拶をする。が、それに対する返事は意味をなさない嬌声だった。なんだか、みくびられているような気がする。


「ネェ、この人福村君(フーちゃん)の友達?」


 アイシャドウをたっぷりと施した髪の長い女の子が酔った声で福村さんに問いかける。


「友達いうか新弟子やな。一言でいえば現代社会の絶滅種」


「なにそれぇ!」


 睫毛の長いもう一人の女の子が大きな笑い声をあげた。


「明治に生まれたら深遠な顔で恋愛小説を書く手合いやね」


 無表情な主人(ホスト)はシャンパングラスに酒を注ぎながら答えた。一方の僕は彼の不思議な比喩に下を向きながらぎこちなく笑みを作ることしかできなかった。この男の洞察にかかれば、何故、僕がここにいるかなどという真の事情は全て見通されているような気がしたのだ。彼が恵子を知らないはずなのに、なぜかそう思えてしまう。

 僕は未知の世界にまで分け入っていくつもりなどない。今晩は気晴らしさえできたらいいだけなのだ。でも、広い意味で見たらどうなのだろう。否定など、出来るのだろうか。


「あ、童貞ってことね! 初々しいなぁ!」


 長い髪の少女が僕の肩を酔いの熱を帯びた右手でポンと叩く。


「せや。ウブな坊やや……せいぜい可愛がってや……」


 福村さんはこちらの反応を見ながら薄笑いをうかべ、液体が満たされたシャンパングラスをテーブルに配りはじめる。

 僕はブルーバードの車中以来の怖さを感じた。自らの考えでこの場にいるはずなのに、実は僕には意思などありはしないのじゃないか。今日の全ての行動は、この得体のしれない知り合いが全てを制御しているのではないか?

 都合のいい考えだった。福村さんに全ての責を押しつけておけば、僕は何がしかの言い訳ができる。

 一つ息を吐き、自分がここにいるのは単なる息抜きだ、邪な感情は排除しているはずだ、と念を押す。

 しかし、それは無駄なことだった。泥酔した同席者である芳村さんの所業が、僕が言い訳をつくろっていくことを妨げようとする。彼はもう、ズボンを脱いで行うこと以外のすべてをこちらの眼前で繰り広げていた。


「ヨシやん、何しとる?」


 もう、今晩何度目だろうか。忍び笑いめいた表情の福村さんが、それでいて覚めた声を出す。


「ん……()()()()()


 芳村さんはそれでも、話し相手が展開していた明治文学風の冗談を聞き分ける耳を持っていた。女の子のブラウスに手をまさぐり入れながら上気した声で反応する。


「言文一致体?」


「いや、俺は言行一致体」


 そこで芳村さんは会話を打ち切り、その右手を樋口一葉の題名とは全くに似ない趣で少女へと伸ばし続ける。酔っ払っている割に行為は正確だった。いや、酔っているからこそ最短距離をとるのだろうか。

 アハハハハ! と福村さんの甲高い嗤い声がした。僕はその哄笑をどこかで聞いたような気がする。だが、アルコールが過去を呼び起こさせてはくれない。酒が、意識と記憶をこの会場内の出来事だけに押しとどめようとしているような気がする。


「言うとけ言うとけ……」


 テーブルの首領が軽く手首をひらつかせた。芳村さんとその相手を半ば無視した彼はグラスをつまんで高く掲げると、僕と残り二人の女の子にも同じ行為をするように促した。


「ほな乾杯や」


 彼の口が嗤った。いや、歪んだのだろうか。いずれにせよ四つのグラスが高く掲げられた。


「波多野、今日はお前が指揮官や……頼みましたで東郷提督!」


 繰り返される人を焚きつけるような冗談のなか、僕はグラスを傾けた。甘いが、決して薄くはないしたたかさをもった液体が喉奥へと流し込まれていく。それでもまだ酔いは僕を制してはいない。コップ二杯のビールでふうふうと息をついていた頃に比べたら大した進歩ではあった。



「波多野はどっちがええ?」


 やたらと英語の発音が巧いボーカル~華僑の息子らしい~が急流のような演奏にのせてジミ・ヘンドリクスを唄っているなか、福村さんは僕に演奏を聴く余裕など与えはしなかった。彼はただ、せわしなく僕をどこかへと連れ去ろうとしていた。


「はあ……二人とも綺麗な人やなあ思います」


「あのな波多野、そんなキリストみたいなつまらん答えをぬかすな。『()()()()()()()()()()()()()』?」


 小柄な男は足を組み替えると、長い前髪から見え隠れしているギョロ目でこちらを見据えた。


「二人とも美人やいうくらい俺が保証するわい。でもワシも完全な善人と違うさかいな。お前に両方も差し出せへん」


「福村さんが選ばれた方じゃない人と()()()()()


 シャンパンをもう一口飲み、僕は答えた。目的を見誤らないようにするためにはそうとしか答えられはしないのだ。

 女の子二人は無言のうちにいた。彼女たちは決して僕らの話に入ってこようとはしない。大方こちらが福村さんの「尋問」をどう受け答えするかを素知らぬふりで窺っているのだろう。


「そうきたか……」


 真横に眠る石像のように固まった一組の男女の様子を少し確認しながら福村さんは呟き、それから上気した声で言葉を放った。


「逃げるのが上手やなあオドレ。でも、女を傷つけるには十分な一言を平然と言いよる」


 言葉以上に乾いた目が僕を見つめた。話し相手であれなんであれ、人は消去法で選ぶものではないのだ。言葉は正確だった。

 僕は返事につまり、その代わりとして久しぶりに意識をこの北野の洋館から外に出した。


 恵子がいなくなった今、その代わりとして無為に時間を殺したい自分はもう、ハナから人を傷つけたかったのじゃないか?


「フーちゃんが言うとなんやおかしいわぁ」


 うろたえる僕を尻目に、ユミと呼ばれている長い髪の子がクスクスと笑い出した。「尋問」が終わったと判断したのだろう。


「なんでや」


 笑い声の主へと顔を向けながら、うんざりとした声が応じた。


「だってフーちゃん、時たま凄く女の子をたててくれるやない」


「そんなん気まぐれやて……」


 謙遜めいた言葉とは裏腹に福村さんはユミの肩へと手を回し、その身体にもたれかかった。途端に今日はじめてといって言いほどのだらしない笑みが出現する。


「でもさ、前にここでパーティーしたときも、学生運動やっている子が早々に帰ろうとしたら一喝していたやない。『女に世辞も言えんド外道め』とか言ってサ」


 今度はもう一人の女の子、細い足をジーンズで覆った睫毛の長い子がユミに助太刀するかのように話に加わった。


「ああ石堂か……アイツは天下のアホやさかいなあ、ルリ。何を言うても帰ってまいよったのお」


 トロリとした表情の男は僕のよく知っている人物の名をあげた。

 一方の僕も、意識をこの屋敷から自在に出入りさせる自由を取り戻すことができた。


 石堂もまた、この場に来たことがあったのだ。そして、彼は少なくとも福村さんの特定の部分について断固として拒絶したのだ。

 彼が来た時と、今日は全く違う状況ではあるだろう。でも石堂は毅然と対応したのだ。おケイのあずかり知らないところでも、キチンと彼女のみを想えたのだ。

 なんと僕は落ちぶれたものだろう。


「しかしなー、ルリ。あの朴念仁は時代に漬かりすぎた」


 そして、感傷に浸る余韻など与えられなかった。福村さんのとっくに締まりがなくなった口がまた開いた。


「どういうことなん?」


 テーブルの向こうにいるルリと呼ばれた少女が花柄のブラウスを揺らして首をかしげた。


「来年には時代が変わる。大学新法やベトナムやのうて人の意識が変わっていくのや。そしたらアイツは抜け殻になりよるな」


 ユミにもたれかかったままの男は、不安定な姿勢のうちにグラスを口へと運んでいく。


「ふうん……」


「そして死ぬまで抜け殻や。一つの季節に淫した人間の末路は皆そうや」


 下顎を濡らした男は零した酒をぬぐいもせずに満足気に肯いた。


「イシは……福村さん、イシは立派な男です!」


 考えるよりも先に言葉が飛び出した。殆ど叫ぶような声だと自分でも思った。僕は、本当に久しぶりに幼馴染のことを慮った。彼の信じる主義や主張などは理解する気もないし、そんなものはどうでもよかった。

 ただただ、好きな人のことのみを想い続けられる強固な人間を弱い男なりにかばいたくなった。アイツは、僕とは違うのだ。


「ん?」


 福村さんの眼に鋭さが甦った。だが、眼光に反して言葉は軽薄に姿を現す。


「パンパカパーン! パンパンパンパンパンパカパーン!」


 彼は立ち上がると右手を天に向かって真っ直ぐに伸ばす。


「今週のぉ~ハイライト!」


 漫画トリオの時事漫才の真似だな、と気づいた僕は息を呑む。この期に及んでコメディアンのマネをするということは彼はあくまでも石堂を嗤いたいのだろうか。


「ゲバ学生の人生を誤らせた福村氏は上ヶ原が誇る素晴らしい扇動政治家(デマゴーゴス)であったことが本日確認されましたぁ!」


「ふざけないでください! 彼にそういう道があることを示したのは運動幹部やったあなたやないですか!」


「誰が共闘委員会の幹部やて? 俺、いつそんなこと言うたかいな」


 こちらが語気を荒くしても相手は涼やかな顔でそれを受け流した。雰囲気が変わったことを察した女の子がなだめるように福村さんにしなだれかかったが、彼はやんわりと片手で拒絶し足元のバッグを引き寄せた。


「波多野、これ見てみぃ」


 うすら笑いと共に一片の紙片がアイスペールの上に投げ出された。彼の在籍する学校の学生新聞だった。「読みぃ」と、男の指が新聞を指す。


「これが我が母校……。どこに俺の名前がある?」


 促されるままに僕は氷のシミがついた学生新聞を手に取った。日付は五月となっていて、共闘委員会の改任について大きく扱われている。

 が、紙を抱きかかえてくしゃくしゃになるまで文面を追っても、宙にすかしても幹部連中一覧の前任者にも後任者にも福村さんの名前はなかった。


「俺は前にも後にも責任を取るような地位にはおらんかったんやで……。もっとも、上に立つにはあまりにも御用企業の息子やからな」


 再びユミを抱きかかえた福村さんは満足そうにタバコに火を点け、それから紙面をごく自然に僕の手元からさらうと折りたたんで鞄に戻した。


「ユー、アンダスタン? ケ、ケ、ケ」


 また、妙な笑い声がした。そして声の主は抱きかかえたばかりの少女をまるでヌイグルミのようにソファへと投げ出すと、一気に僕の眼前まで顔を近づかせた。

 女の子は何一つ文句も言わず、黙っているだけだ。


石堂(アホ)の話はもうええやろ……。波多野、勝つのはお前なんやで」


 酒臭い甘ったるい息が鼻腔をくすぐった。


「勝つって一体何にです? 誰に勝ついうんですか?」


 僕はなおも彼に問うた。ルリと呼ばれた少女がつまらなそうにグラスに口をつけるのが横目に見える。主催者の席に招かれたと思ったら、話が存外につまらないのだろう。


「なあ、俺はお前が好きでなあ! 同じような耐え方をしとる人間は好きにならずにおられん」


 福村さんの言葉はこちらへの回答にはなっていなかった。だが、口調は優しい。まるで抽象的な言葉で人を煙に包んで、どこかへいざなおうとしているかのようだ。


「福村さんが耐えてる? こんなにも派手なのに?」


「うわべはな……」


 彼は新しい酒を氷の中から取り出すと慣れた手つきで栓を開け、テーブルの面々のために二杯目をぎ、口もかすかに開いた。


「俺もお前も、嵐が過ぎ去ることに秘かなときめきを覚える似たもの同士や」


「言うてはることがようわかりませんが……」


「そうかねぇ」


 話し相手はぼんやりとした顔を上げ、ブッフェに群がっている連中を眺めながら語った。少し疲れたような、寂しげな表情だった。


「なら、いつかは分かるて」


 両の手のひらをこちらに向けながら、福村さんは静かに語った。ほんの少し、空気が和らいだような感覚を覚えた。言葉の抑揚に彼には似合わないような穏やかさと、哀しさがあったような気がしたのだ。

 そしてそれが、福村(つかさ)という人間が僕に見せた独特の優しさの全てだった。

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