第65回~昭和44年8月18日「ジャンピング・ジャック・フラッシュ」(2)
三
神戸の中心である三宮から六甲の山肌を少しだけ上がった北野、その一角にあるドライブ・イン風に改造された旧い洋館の二階の出窓から、次々とヘッドライトを灯した車が前庭に入れ代わり立ち代わり停まっていくのを僕は眺めていた。追い詰められていたのだ。タバコのケムリ、肉の焼ける臭い、男たちのアルコールを帯びた威勢のいい高笑い、そして女の子たちが身にまとった香水の香りに圧倒されると、僕の居場所はじりじりと削られていく。芳村さんはこちらから会費をとるとどこかへと消え去っていった。
車からは若者たちが次々と降り、景気よくドアを閉める音をガラス越しに響かせては建物へと歩みを進めていく。五台に一台が左ハンドルだった。国産車だってスカイラインやクラウンといった大関級の車ばかりだ。これじゃ芳村さんのブルーバードですら、ここではやっとこさ十両といったところじゃないだろうか。
みんな、一体どこにそれだけの金を持っているというのだろう?
小さなため息をついた僕は、北野の坂の一角で手に持った紙皿へと視線を落とし、喉の渇きを煽るだけでそのくせ大して美味くもないチーズクラッカーを口へと放り込んだ。察しが良ければ、会費三千円というところでもう少し身構えるべきだったのだ、と思いながら。学生のコンパなんて、どう散財しても千五百円も使い切ることが出来ない程度だと思っていながら、何を好き好んで裕福を極めた連中のフリをしにきてしまったのだろう。
陽気で、けたたましい空間の中に放り込まれることで孤独がつのるということを僕は初めて知った。
今晩はこんな場所に出ず、これからのことを考える時間にしたって良かったのだ。いや、そうするべきだったのだ。石堂と恵子が付き合うというなら、卑屈さを表に出さない演技をどうやって行うかを一人で突き詰めて考える必要があったじゃないか。
なのに、場違いな神戸にやってきてしまった。「役者」を演じてみようかと思い立った街に。あの時はおケイと一緒に石堂へのプレゼントを大丸まで買いに行ったのだっけ。一年が経ち、もう二人には僕が必要じゃなくなってしまった。あの美男美女はもう、「俳優」に舞台すら与えてくれない。
状況は日々、変わっていく。
僕はもう一度だけ、窓の向こうに広がる闇と、その中でポツリポツリと灯るビルの黄色い光を見つめた。この建物のすぐ近くの山あいでやっている新幹線工事の夜間照明もそこに加わっていく。六甲の山をトンネルのうちに突っ走るだろう九州への新幹線は多分、神戸の中心街からはその姿を見かける事などないのだろう。その時、おケイの横顔を気にしながらに大丸の屋上からクリーム色の特急列車をぼんやりと眺めたことなど本当にただの想い出へとなってしまう。人も物も、全てが目まぐるしく動いていた。
変われないのは、卑屈になりながらも思慕だけが尽きない僕だけだった。
「オース!」
「オース!」
会場のどこかからアメフトか何かの運動選手あたりのものだろうか、野太い挨拶が聞こえてきた。豪放で、陰りなどない声だ。声の方へと身体を動かせば、丸坊主の浅黒い大男達がじゃれあいながらアルコールのコーナーへと歩いていくところが見える。
ああしてはしゃぐ人間には悩みなどないのじゃないか。ふと、そう思った。それどころか、僕の分の陽気さまでどこかで吸い上げているのじゃないか。
いや、それは違う。極論だ。誰にだって悩みなどあるのだ。
彼らにあって僕にないものはごく自然に悩みを脇にやり、克服出来るか、そうでないかの差だ。無邪気に目先の物事を楽しめるかどうかだ。
「クソッ……」
誰にも悟られないような低い唸り声が出る。いい加減にしろよ波多野啓次郎、いつまでもウジウジとしやがって。
こちらにもあの坊主の大男達のような「無意識」が必要だった。悩みはあれどそこから目を逸らし、この場を楽しむ覚悟が必要だった。僕は残りのクラッカーを平らげると紙皿をゴミ箱に投げ入れてカーペットを強く踏みしめる。
悩みを忘れるためにここに来たのだろう? 周りとの落差はともかくも、楽しくやりたいからここに来たのだろう? おケイが石堂のものとなったことを思い出さないでいたいからここで麻のジャケットなんぞ羽織って長髪をなでつけて気取っているんじゃないか。
改めてパーティーの会場を見渡す。誰もがけたたましく笑いざわめいていた。白いクロスのテーブルに並べられた薄く作られた水割りのグラスの一つを一気に空け、もう一杯を紙皿にかえて右手につまむと僕はカーペットを踏みしめて会場の中央へと歩みを進めた。芳村さんと、福村さんに今一度会わねばならない。あの二人を利用しなければならない。道中に感じた不安感など糞喰らえ、だ。
水割り二杯のアルコールが、歩く足取りにあたりを睥睨するかのような重厚さをもたらしてくれるような錯覚をもたらす。僕は、僕は……芳村と福村のツテを頼りに今を楽しまねばならないのだ。
四
まず、芳村さんの姿が見つかった。既に数杯の酒を平らげたらしい彼は原色のシャツを着た女の子を従え、僕に背を向けソファにもたれながら大仰な動きで可愛らしくパーマをあてがった黒髪に向かって何事かを話していた。が、やがて二人の後ろ姿が重なり、ソファの向こうにズズッとずり落ちていったとなれば話しかけることなど出来やしない。取り込み中もいいところだった。
僕は苦笑した。彼が遊び慣れていることなどとっくに知っていたが、パーティーが始まってものの二十分かそこらで結果を出すほどにまで手が早いとは思いもしていなかったのだから。
「やるなあ……」
僕はこの助平な隣人を諦め、眼を四方へとこらす。もちろん、もう一人の知人を探すためだ。恐ろしいほどに嫉妬深く、そしてあたり一面への敵意をひた隠しにしながらこの場を取り仕切っているであろう男の長い髪をめざして僕は目を凝らす。もう、季節が変わったのだ。この場で楽しい会話を交わしてくれるような女の子を斡旋してくれるとなれば、僕はいくらでも権力者におもねってやる。
はたして福村さんは自らの存在をこちらに気づかせてくれた。が、それは言葉としてではなかった。
突然、アコースティック・ギターのストロークが大音量で場内に轟いたのだ。
会場に入った時に隅にドラムスもアンプもあったからバンドが今晩演奏するのだな、と分かっていたからステージの幕が開くのは驚きではなかった。だが、その演奏のうちドラムスを叩きながらリード・ボーカルをとっている男が福村さんだとなると話は別だ。
たちまちのうちに洒落こんだ格好をした男女がバンドの周りに群がり、ステップを踏んでダンスをしたり腕組みをしながらその演奏に耳を傾け始めた。踊るパートナーがいない僕は、慌てて後者の中に紛れ込む。
知らない曲だった。だが、それは最近流行り始めたニュー・ロックやハード・ロックの類とは違う、ビートルズが世に出てきた頃を思い出させるような素朴なメロディで構成されていた曲だった。そんな愛くるしい歌を、全身をデニムで包んだ福村さんは仏頂面で時折目を閉じながらにリンゴ・スターもどきの甲高い声で歌い続ける。
なんだか、知りもしないのに懐かしい曲だった。単純な英語で構成された言葉には、雑事を削ぎ落した恋の無垢さだけが漂っていた。
僕が宝塚のレコード店ではじめておケイと会った時、巷でヒットしていた外国の曲はみんなこんな感じだったな、と水割り二杯でボンヤリとし始めた頭が懐かしい記憶を蘇らせる。そして、かぶりをふってそれを打ち消す。今、感じ入るとすることがあるならば、あの福村さんが朗々と童心めいた歌詞を唄う事の奇妙さだろう。それは、知っている限りの福村という男の酷薄さとはかけ離れた世界だった。
「ほいよ。いつも通りに『アイ・シュッド・ビー・グラッド』かましたったわ……ほな、みんな後は適当にやってや……」
バンドと客の拍手の中で福村さんは少しだけ頭を掻いて照れたような仕草を気取ったが、険しい表情は微塵も変わらなかった。
「さ、さ、天下の福村宰のパーティーじゃ。飲むも良し、食うも良し、語るも良し……その先は各人の判断でポリコのご厄介にならん程度に楽しむんやな……」
下手な冗談だった。それでも、たちまちにホストの言葉に追従したかのような笑い声があちらこちらから漏れ出す。そして彼がゆっくりとドラムセットから立ち上がった途端、客とバンドが自然と左右に分かれ、会場の中央へと通じる道を作る。その光景は今夜の権力者が誰なのかを嫌というほどにこちらに分からせた。
へりくだれば気さくな女の子一人紹介してくれるくらいどうということもなくやってくれるかもしれない。
「福村さん……」
「よぉ……波多野か」
ヒ、ヒ、ヒ、と妙な、どこか照れたような忍び笑いをしながら福村さんはスティックを高くかざして僕の声に反応した。
「お前、来とったんやな」
「はあ」
とりとめのない挨拶を交わしながら、僕は少しばかりの安堵を覚えた。こちらが想定していたほどには声に毒気がなかった。お互いが酔いで散漫な神経になっているから気づかないだけかもしれないが、とりあえずはそう感じた。
「お前、今の曲やっとる『トーゲス』て知っとるか。スウェーデンのバンドなんやけどな」
ほんの少しだけ口元を緩めた福村さんは僕の肩に手を回すと、バーテンがいるカウンターへと案内しながら先ほどの演奏を口にする。
「いや……知らんかったですわ」
この場の主人に率いられるという特権に気をよくしながら正直に答えた。
「せやろな。一昨年、スウェーデンの酔っぱらった船乗りにレコードもらっただけの話やからな」
止まり木に落ち着くと、コークハイを二つ注文しながら福村さんはポツリと言う。
「元町で円が足りずにうろたえとったアホの勘定建て替えた代わりに貰うた」
「でも、ええ曲ですね」
「そらあ気に入らなきゃ、自分で叩かんよ」
無表情のバーテンが差し出したコークハイを僕にすすめながら、彼は答えた。
「バンドは雇うがね。俺が絡むパーティーでは必ず最初に一曲、コイツをブッ叩く」
甘く痺れる酒を煽った福村さんは独りごち、そして先ほどまで自分がいたステージをチラリと眺めた。既に本来のドラマーが戻ったバンドはアーサー・ブラウンの騒々しい『ファイア』を演奏し始めている。
「俺は純朴な人間やからな……アーサー・ブラウンよりはトーゲスの純朴な世界にシンパシーを抱く」
「そうですか……」
「ヒ、ヒ、ヒ……」
こちらのぎこちないであろう相槌に対する反応は、再びの不気味な笑い声であった。
「さあ、波多野……ゴタクはここらまでにしとこか」
福村さんはグラスの残りを飲み干すとタバコを咥えてゆっくりと止まり木からカーペットへと足場を移した。
「どこへ……行くんです?」
「ケ、ケ、ケ……勿体ぶるなよ波多野」
顔に少しばかりの朱をさした男は笑いながら手招きをする。
「お前が来た理由なんざ分かっとるわい……女が欲しいねやろ? 来い……」
その時の僕は一体、どんな顔をしていたのだろうか。一つだけ確かなのは、顔全体がうっ血したかのように腫れぼったくなってくる感覚を覚え始めたということだけだった。
不安を感じながら、それでも僕がこの場に居続けている根本的な理由をあっさりと福村さんは看過しているのだ。自分が幾重にも梱包してひた隠しにしていた感情を、まるで朝刊を郵便受けから取るような気楽さでもって、彼はこちらに自覚させたのだ。
だが、自覚したからといってどうだというのだ? 少し酒を飲みながら美人と話をしたところで誰も咎めやしないことじゃないか。
「普通ならこないな金ない一見からの厚かましい頼みは断るがね。ま、ええやろ」
「いや、その……」
気がつくと福村さんは僕をワインとシャンパンが並べ立てられている、周りとは明らかに異質なテーブルへと誘っていた。
「遠慮するなって! ……俺はお前が好きやからなぁ! まあ、トーゲス以上に同族同士のシンパシーを波多野には覚えるわな」
悠然とソファーに座った男は、止まり木を発つ時からずっと咥えていたタバコにようやくで火を点した。
「同族……ですか?」
「せや」
福村さんは深々と頷いた。
「波多野、お前は俺と同じようにどす黒い暗さを持っとる。いや、ホンマ」
「それは……」
「隠さんでもええよ、波多野」
ヒ、ヒ、ヒ、というくぐもった笑い声が三度響いた。だが、笑い声を繰り返されるたびに違和感や拒否感が薄らいでいくような気がする。瞼が、重かった。僕はどうするべきなのだろう。
答えは簡単だった。楽になれるのなら、それでいい。
「お前はそこにおれ。今から芳村に女を準備させる……ええ女を席に連れてくる芸当だけは達者やさかいなアイツ。で、だ……波多野」
ワインボトルの林立するテーブルに彼はずいと半身を乗り出した。
「まどろっこしいことは言わん。お前、そんなかの適当なんと寝ろ」
福村さんはもう笑わなかった。そこにあったのは、今まで僕を不安にさせてきた人を試すような挑発を帯びた無表情な顔だった。
小柄な男の足音が遠ざかる中、酔いが急激に覚めていくような気がした。




