第63回~昭和45年7月9日「帰り道は遠かった」(後)
六
多英は無口になった。それだけ今の彼女は人の過去にご執心ときている。その細く浅黒い手が黄ばんだページを行き来~それは十ページ進んだかと思えば六ページ戻るといった具合~するのを見ている僕もまた、黙っている。文字を追う多英の邪魔をしたくはなかったし、それにかつての出来事をさらすことに不思議なほどにためらいがなかった。
僕はずっと、こういうひと時を待っていた。でも、それがいつからの願望だったかはもう知る由もない。
多英が恵子の記したページを人差し指でピンと跳ね、めくった。あんまり見栄えのいい行為ではないな、と思った。
七
前略
この日記のやり取りも三周り目になりました。でも私はもう、日記を書いて二人に見せながらこんなことを言うのもなんだけど、もう、何が何だか分かりません。去年、トレメローズの『サイレンス・イズ・ゴールデン』が少し評判になったけど、本当に沈黙を続けていたら良い結果になるのかなぁ。
九日に王子公園で改革決起集会がありました。マトモに授業もないなか、そこでは沢山の、本当に沢山の大学を平穏に戻したいと願う学生がつめかけました。でも、そういう平和の空間にも石堂君が属している全共闘がやっぱり、割って入ってくるのです。彼らは結局、メガホンからの割れた声でアジテーションをする以外は何もしないのです。あとは職員と教員を小突いて終わり。
多くのその場に居合わせた学生が立ち上がりました。私だってそう。みんなで、何百人かの全共闘を取り囲んで、数の力でグラウンドから引き揚げさせた。でも、こんな、肉体と肉体が緊張をもってぶつかり合うだけが大学生活なら、私は高校出てすぐに花嫁修業に専念していたらよかったのかもしれないのデス。
この前の十五日、ようやく授業が再開されました。とはいっても、今までロクな授業がなかったから、殆どこれが初めての講義なのかな? ようやく読んできたケインズなりシュンペーターが役立つかもしれません。
石堂君、私はあなたが何を考え、何に義憤を募らせてるかは分かろうとしているつもり。でも、それは平穏に学ぶ機会を犠牲にしてまでやらねばならないことなのでしょうか。高校の頃から散歩をしに幾度となく入った敷地のポプラが根こそぎ倒されている姿は何とも哀れなものです。
……なーんて、少し真面目ぶって書いてみました! 次は波多野君、お願いします。
昭和四十四年 六月 二十日 大貫恵子
八
おケイの学校が再建に向けて着実な歩みを進めていると聞き、僕もホッとしています。自分の学校だっておぼつかないけど、やはり近所の学校が一日も早く元に戻ることが一番だと思う。
こちらはこの前の臨時学生大会でスト権が確立されたそうです。それに、今日は全共闘の面々が大学立法反対を唱えて八重洲でデモを行ったとか。
ここまで書いて、少し疑問を抱いたかもしれません。「そうです」や「とか」で表すようにいずれの運動の動向は全て伝聞です。何故なら、僕は全ての事象から距離を置きたいとどこかで願っているのです。
相変わらず休講続きなので、学ぶものは全て自分で探さねばなりません。そんなわけで最近はもっぱらロード・ショウから名画座までくまなく映画を観て回っています。去年受験でみそびれた『チキ・チキ・バン・バン』や、リバイバルの『ウエスト・サイド物語』等々。そんな風に一日に何本となく観てしまうせいで金欠となり、最近新宿の酒屋で時給二百円のアルバイトを始めました。酒屋で働きゃ、多少はアルコールに強くなるかもしれぬと妙なことを期待しつつ、ビアホールからハントバーまでくまなく自転車で酒瓶を配達したり伝票の数字をソロバンで弾いています。
アルコールと言えば酒についての馬鹿げた話もあります。前の土曜日、語学クラスの顔合わせを兼ねた教授主催の食事会がありました。コンパとはあんなもんなんやろか。何せお酒を中心に据えて場に臨むのは初めてで緊張しましたが、誰も彼も十年選手のようにビールや日本酒を呑み、驚きました。ビール一杯でフラフラになっていると、向かいにいた女の子が「生ぬるい!」などといってビール瓶で頭を小突いてきました。それを見て、リンゴ・スターみたいな口髭の秋田出身だという男がゲラゲラと笑ったりするのです。後でソイツに聞けば、女の子は福島出身だそうです。東北の酒の飲み方はどうも分かりません。
最後にもう一度。僕はただただ、嵐が過ぎたらいいと思うのです。
昭和四十四年 六月二十五日 波多野 啓次郎
九
「随分なこと、書いてくれてるわね」
ノートから視線を上げた多英が、ブスっとした表情でこちらを窺った。一年前のクラスコンパの時には、まさか抱いて抱かれての関係になると誰が知っていただろうか。
「しかし、事実は事実やからな」
僕は臆することなく、酔っぱらったら人の頭をビール瓶の底で突く少女に答えた。
「まあ、そうだけどね。しかし、日記に書き留めてくれた癖に、マトモに会話するまで名前を忘れちゃうとは大した記憶力よねえ」
蒲団の上で仰向けになったままの多英が小さく、それでいて長い呟きを発した。七月の息苦しい湿度を感じながら僕はその呟きに聞き入り、受け流す。伝えたい内容と声量は比例する。こんな冗談は今の彼女が最優先したい中身ではないことは明らかだった。
「そして、石堂か……」
短い幕間を済ませた多英がページをめくる音がまたした。
十
おケイに言いたいことがある。一回り目の交換の時はこちらが書いた後、ノートをそっちまで届けたのを受け入れたのに、なんで前回はわざわざ電話でもって郵送するように頼んできたのや? 会うのが嫌か? 王子公園の集会に俺が居たことがそうも不満か?
おケイは間違っとるよ。プチブルの子息として異なる世界や考え方を忌避していたっていいことはあるまい。一度、騙されたと思って近々集会に来ないか? 責任をもって案内するわ。実は今、福村さんがアメリカに渡っている。何でもカリフォルニアの大学生の考えを肌で感じたいらしい。俺としてはパリのが良いと思うがね。いずれにしても金は当然だが大した行動力の人や。帰国したら福村さんに会わせるよ。そちらも是非、来てみてくれ。
あとハタ坊、お前はもう、これからの世を永井荷風みたく生きとけ。かといってお前はニヒルでもなんでもないんや。ただ、韜晦している格好だけをつけているにすぎない。ま、俺はそこについてはこれ以上何も言うまい。
1969年 7月 1日 石堂 一哉
十一
「アー、アアア……」
ノートを読む作業を切り上げた多英が裸電球の黄色い世界の中で大きく伸びをした。時計はもう深夜の二時をさしていた。いい加減、睡魔が襲ってくる時間だ。
「お疲れさん。大分に、読んだみたいやな」
僕は壁にもたれるのをやめて中腰になると、ねぎらいも兼ねた言葉を多英にかけた。が、ぎこちない笑いを浮かべる彼女から返ってきた言葉はそんなものをアッサリと無視していた。
「波多野クンさあ、人間ってこうも臆病で卑屈になれるものなのね」
蒲団の上での十数分の読書を終えた彼女の言葉は醒めていた。僕は二の句が継げぬまま、ただ無言のうちに頷くだけだ。ついに多英は去年の僕を、いつぞやのレストランでの会話や夜の公園での問答以上に正確に捉えたんだなと思った。
「大貫さんが石堂から距離を置き始めて暗にアナタに助けを求めていることを黙殺し、一方の石堂には軽蔑されてもヘラヘラとそれを受け流す……」
「仕方なかったんや」
まだ何かを言いかけている多英を遮って僕は口を開いた。
「仕方ないって……。でも、これを読む限り大貫さんって、決して石堂の方向になびいているような気配がないわよ?」
こちらの言葉も意に介さず、多英は小さな目を目いっぱいに大きく開けながら反論してくる。その様を見た僕は、心の中でひっそりと苦笑した。目の前の女の子が、僕の中で過去となった恋路の断絶に興味を持っているというのは、なぜかしら哀しい気分にするのだ。
「ねえ、何故諦めたの?」
問いが重ねて迫ってくる。
「『ほのお』が無くなっていたんよ、もう」
「は?」
「ほら、いつやったか新宿で君が言うていた『ほのお』だよ。それがこの頃の僕には消え失せていた……。そりゃ、卑屈に振舞っていることはそれなりに自覚してたよ。でも、それでかまわなかった。とにかく、あの子を諦めてしまいたかった」
そこまで言うと、僕は畳に目を伏せた。それ以上、言葉ならべる気にはなれなかったのだ。僕の臆病さ、卑屈さ、そして何よりも卑怯さというものを饒舌に語りたいとは思えなかった。
僕は、石堂に殴り倒されゲロを吐いた日に恵子をモノにする戦意を失っていた。あまりにも敵が巨大だと思ったからだ。そして新大阪での束の間の和解めいた一幕を間に挟むことによって、僕は彼への嫉妬心もまた、捨てていた。知性と野性を毛穴から吹き出しながら学生運動に分け入っていこうとする男は、もうただの友人でなくある季節の権化だった。スターだったのだ。
勿論、僕はスターなどではなかった。最早、彼を仰ぎ見るだけの存在だと思い込んでいた。
そして……恵子だって、いくら丸い文字で緩やかな拒絶を石堂に向けていたとしても、遅かれ早かれその磁力の中に引きずり込まれてしまうとあの時の僕は確信していた。
「なるほどねぇ」
当時のこちらを多少は理解したといった態で多英はうなずいたが、理解はしてもまさか共感はしないだろう。彼女の堕ち方と、西にいた三人の堕ち方は似ているようで違う。
でも多英は、自身と同じ域まで堕ちきった人間だとこちらをみなしたからこそ、近づいてきたのだ。
「あ、あとサ。日記とは関係のないことだけどね……私、波多野クンを一つだけ誤解していたわ」
多少の考えごとの時間を多英が切り上げた。気だるそうな小さな目がこちらを見つめている。気だるさは肉体からのものだろうか、それとも精神によるのだろうかは知ることが出来ない。確実なのは、こちらが重苦しい回想に没頭していることを見抜いたということだけだ。
「そうだろうね」
僕は手を伸ばして枕もとの『わかば』の箱を畳の上で滑らせ、火を灯した後に答えた。
だが彼女の次の一言は、結局のところ僕を思い出から解き放してはくれなかった。
「アナタ、童貞じゃなかったわ……。ハッキリ言ってぎこちなさが微塵もないし、手つきが慣れていた」
多英がクスリと笑った。僕は黙ったまま、紫煙の行く末だけを見つめた。時として沈黙は自白に似ている。




