第61回~昭和45年7月8日「ハッシャバイ」(後)
七
「……ねえ、ター。そろそろ首のとこ緩めてくれないか」
やっとのことで六畳の我が家に転がり込んだ僕は、後ろに頭を捻らず前を見据えたままで懇願する。多英が阿佐ヶ谷の駅からずっとこちらの首筋に絡みついて離そうとはしないのだ。いくら小さな身体だからとはいえ、半ば彼女を背負うようにして歩き続けたことで、アルバイトだけではない疲れが全身にまわっている。
「嫌」
背中の住人は即答する。でも、回答の素早さとは裏腹に、程なくしてゆっくりと手がほどかれていく。おかげで僕はようやくに駅前以来で多英の顔を見つめることを許される。涙のせいでか腫れぼったくなった顔がそこにあった。灯りをつけてまじまじと眺めると、疲労もあるのだろうにキリリとした眼差しがこちらを捉える。状況が状況でなかったら、思わず逸らしたくなるような視線だ。
しかし、そうもしていられないのもまた確かだった。僕はとんでもなく土壇場を飛び回っている。
「ねえ、もっと波多野君ネ、抱いてよ」
「……」
そんな気持ちを知ってか知らないでか、彼女は言った。電車がなくなったからとはいえ、アパートに女の子を連れ込むことで多少のうろたえを覚えているこちらに、あまりに強烈な言葉が送られる。
「……それは、どこまでを言うのや?」
僕は薬缶をガスにかけ、戸棚からインスタント・コーヒーを取り出すと、畳の上に胡坐をかいて髪をといている多英に質した。多分、相手の答えなどは分かっているが、聞かざるをえない。
それにしても、ジーンズというものを女の子が平気で穿く時代になっていて良かったと思う。そうでなければ視線をどうしたらいいのかなど分かったもんじゃない。
「全部。最後まで」
鞄から『クール』を取り出した多英は言った。
「ははぁ!」
感心したような、妙にふざけたような笑い声が意識せずに出てしまう。
「無茶苦茶でごじゃりまするがな」
そしてそんな感嘆符の次には、かつてのアチャコの名文句が我が口を飛び出ていく。勿論、彼女の要求を茶化したかったからではない。そんな資格など僕にはない。
そうではなく、突然だけれど、あまりに深刻な表情で話をしている僕らがふといとおしくなったのだ。そういう気配は老芸人の名調子でも引きずり出してみなきゃ、おさまらないんじゃないか。恋をするとか人にどう接するかとか、それはもっとこう、気楽な部分だってあったはずなのだ。
もう誰だって泣く必要はないし、傷つけなくてもいい。寝ることが気楽かは分からないにしてもそれだけでも伝わればいい。
「懐かしいなあ」
コーヒーの瓶を手に取った多英が、まだ朱のひいてない顔で笑った。こんな言葉に笑うということは、こちらの対応を「不誠実」と解釈しなかったということか。考えていたことが通じたのかもしれない。
「それ、『お父さんはお人好し』よね? 福島でも放送していたわ」
「そうか。それなら懐かしいやろ?」
彼女は頷くと、湯飲み茶碗にコーヒー粉末を入れようとする。二つ目の椀に匙が向かった時、僕は彼女の動作を軽く制した。
「君は飲みなよ。でも、僕は水でいい」
インスタント・コーヒーだって、学生からしたらそれなりに貴重なのだ。が、多英は聞かない。かえって景気のいい分量を茶碗へ落とし込んでいく。
「波多野君も飲んでよ」
「しかしなあ」
「いいから!」
多英は有無を言わさない感じで断言すると湧いたばかりのお湯をガス台から取り上げ、茶碗へと注ぎこんでいく。これではどちらが部屋の主人か分からない。
「お互いが同じコーヒーでも飲みながらの時に軽く聞いてほしいくらいの話でしかないのよ。私の話って」
コーヒーの薫りが立ち込める中、多英は座卓の前にまた胡坐をかいた。程なくして僕も彼女の向かい側で同じような格好をとる。
「なのに波多野君、ずっと逃げ回るばかりだもん」
上目づかいの言葉が漏れる。軽口の雰囲気は途切れたのかもしれない。僕は改めてこの場を振り返る。どんなにくだけた気分を作り出そうとしたところで、ここは重苦しいだけに終わるのだろうか。
「そうやね……。ターの打ち明けを聞く度胸がなかったわ」
「今は?」
「多分、ある」
「多分じゃ駄目よ波多野君」
多英はまた笑い、コーヒーをゆっくりと啜っていく。心なしか腫れぼったさもひいたように見える。
タフな女の子がそこにいた。少し前は泣きじゃくっていて自分の足で歩くのもやっとだったのに、もう笑っている。落ち着きがないのでなく、昂った感情の切り替えに慣れているのだろう。
だが、不思議と彼女の上機嫌を利用して今日の不誠実さへの許しを一気に求めようという気分にはなれなかった。これ以上卑怯でいてたまるか、と何故か思うのだから仕方がない。口にすれば多分、僕は関係が終わるまで延々と甘えていくだけの存在になる。
僕は少し笑う。今は、この若干の和らいだ空気の中を漂えばいいのだ。
「あまり自信過剰な大風呂敷広げるのはね……僕、謙虚なタチでね」
「どうだか」
多英は軽い調子で首をすぼめると灰皿にタバコの灰を落としていく。沈鬱な部分はいらないということなのだろうか。ハッカタバコを支えている反った手首がかすかに震えた。
八
結局のところ、多英が語りたかったことはこちらの予想通りだった。要は、三年前の夏に寝たことがある大学生との後日譚ということになる。
正直言って、多英をいくら傷つけ泣かせたとしても聞いてみたい話ではない。にもかかわらず、そばで聞かねばならなかった。それが、今の自分の務めなのだ。でも、こんなことをふと思うくらいは許されるだろう。
多英がしたいことは結局、傷の舐めあいにすぎないのではないだろうか?
中田は「ターはああ見えて甘えたがりだよ」と教えてくれた。多分、これから目の前で展開されることはその通りになるだろう。かつて彼女が言った「ほのお」があるとするならばだが。
でも、最初会った時には確かに「ああ見えた」のだ。多英が全身から醸し出していた醒めた雰囲気は、言葉遣いだけを残して日毎に消えていこうとしている。それはいいことなのかどうなのか。
再びコーヒーを口にした彼女は、そんな僕の葛藤を横目にゆっくりと口を開いていく。
「こっちが上京してからも唯一地元で連絡取り合っている友達がいてね。この春休みのことだけど、その子のところに手紙が来たのよ。クソからね」
少しだけ早口になりながら多英が喋った。僕は軽く頷く。
「それで『会いたい』とか言って仙台の下宿先の住所と電話番号つきの手紙をその子に渡してきたのよ」
「で、帰省した時に友達からそれを渡されたと?」
「上京してから一度だって帰省なんてしてないわ」
新しい『クール』を取り出した多英は細い目でこちらを一瞥した。
「両親から『帰って来なくてもいい』と言われてるしね」
「そこまでの関係なのか?」
「言ったでしょ? 私は腫れ物なのよ。ま、こっちだって帰りたくもないけど」
そう言うと多英は深々とタバコを吸いこんだ。
「それで郡山まで行って、友達に会うついでに手紙をもらったってわけ」
思わず声を失う。多英がそんなまでに故郷との交渉をもっていないとは思いもしなかったのだ。かろうじて友人とは付き合いがあるらしいが、その女の子だって数年のうちにどこかへ嫁いでいくだろう。その時、多英は本当に帰る場所を喪ってしまう。
僕は恵まれていた。相手が石堂とはいえ話ししたさに大阪まで行けるくらいには。
「それでクソと一応、連絡をとったのよ」
ポツリ、ポツリと多英は言葉をつむぐ。僕はそれを聞きながら多英が何故、僕を選んだのかをようやくに察することが出来た。
彼女は、自分と似たような感情を抱いて悶々としている人間が欲しかったのだ。そう考えたら、僕が石堂と話しこもうとしたことを批判した気持ちにも理解が及ぶ。
あの時の多英は、話すことで多少でも楽になろうとした僕のことが羨ましかったのだ。そして、崩壊した関係であってもなお、そこに未練を感じているこちらが腹立たしかったのだ。きっと、彼女自身がそうだったからだろう。
「ねえ、波多野君、聞いている?」
「ああ、しかと両の耳で聞いとる」
僕は今度は深く頷いた。それは、多英の確認への同意であり、自分の中で合点がいったことへの納得でもあった。僕らは似すぎていた。それぞれがそれぞれの影絵だった。
「で、先月彼と会ったの。松島でね」
茶碗の底に残ったコーヒーを飲み干した多英は言った。
「でも、やっぱり無理だったのよ。アイツ、『やり直そう』とか『綺麗になったね』とかなんとか言う癖に、こちらが少し考え込んだフリをしたらスグに車に乗せてホテルに行こうとするのよ」
小さな顔が大きく左右にねじれる。
「肩に手をかけられたらもう限界よ……だから『透かし橋』のたもとで頬をぶっておしまい。その足で東京に戻ったわ」
「なるほどね」
相槌をうった途端に多英は「ほーっ」と一つため息を吐いた。それを確認してから僕はようやくタバコを吸った。
そんな一連の作業を済ませた後で、僕は一つだけ聞いておきたいことを訊ねることにする。
「ねえ、ター」
「何?」
「仮にやね、松島で男がもっと理性的な振る舞いをしたらどういう選択をした?」
「さあねえ……どうしたかなあ」
アゴに左手を添えて多英は軽く考え込むふりをする。でも、それが演技なのは分かっていた。彼女は最後の最後まで男に未練を持って、僕と天秤にかけていたのだろう。故郷すら消しさろうとするだけの感情はそうであってしかるべきなのだ。
けど、そんな仕草は多英が僕を見つけ出し、選んだことに比べたらどうでもいいことだった。
「ねえ、ター。それでも、今はどうなん?」
僕は少し、からかうような言葉を続けた。多英は少し肩をすくめて苦笑するばかりだ。
「そんな先のこと、言わなくたっていいじゃない」
「ん、もっともやね」
多英と僕は笑いあった。それが、深夜の会話のキャッチボールの最後だった。僕らはもっと他にやらねばならないことがあった。
九
夜半に目が覚めた。折り重なるように布団に倒れて以降、ごく一部の会話を除けば水気など口に含んでいなかった以上、蒸し暑さの中にいることで喉が焼けるように熱かったのだ。
水を求めて一番涼しい恰好をほどこしたままの上半身を起き上がらせると、灯りがあった。光の方向に顔を向けると、僕と同じ格好をした多英が電気スタンドの下に佇んで何かに目を落としている。
「ねえ波多野君さ、みんなで交換日記なんてやっていたの?」
起きた僕に気がついた彼女は、闇に浮かび上がった顔をゆっくりとこちらに向けた。
「ああ……。しかし、人のものなんざ読みふけるのはター、趣味が悪いな」
軽く、表面的にだけだが僕は彼女をたしなめた。だが、多英に悪びれた態は全くなかった。
「いいじゃない……。これで私達、もっと隠しあってはいないことになるわ……」
「まあね」
そう言うと僕は、苦笑しながらも自分の身体のすべてを使って彼女を包み込もうとした。が、多英の「波多野君」と一言制するような声がしたことで、馴れ合いにも似た空間に石が投げ込まれる。
「ねえ……。アナタ、本当に逃げ続けていたのね」
「ああ……。でも、必死ではあったんだよ。そんなんでもさ」
「まあね」
薄明りの中で多英は頷きながら、かつて僕が好きだった女の子の丸文字を少し眺め、そしてノートの途中に指を挟みながら冊子を閉じた。
「ね、子守唄がわりにもう少しアナタの昔を読ませてよ」
「好きにしなよ。でも……」
そのあとの言葉を選ぶのは面倒だった。代わりに僕らは、何回目かで唇を触れ合った。子守唄の年頃など遥かに離れていたのだから仕方がない。




