第60回~昭和45年7月8日「ハッシャバイ」(中)
三
予想通りアンさんは十一時少し前にやって来たが、彼は何も喋らずに店の片隅で静かに二級酒を飲むだけだった。だから焼鳥屋は僕が初めて来た時のような喧噪を作ってはくれない。唯一の音は、中田が耳を傾けているラジオのスポーツ・ニュースだけだ。中継を聴いていただろうに、どうやら彼はマスコミが改めて報じなければアトムズの敗戦を信じようとはしないらしい。
きっと、戦争中に生きていたなら実に優秀な帝国臣民だったことだろう。
~ホームランはジャイアンツの高田に五号がでております。一方アトムズの石戸は今シーズンこれで二勝七敗、十六勝をあげた昨シーズンと打って変わった不調がいまだ~
「そりゃ、そうよね」
咥えタバコでラジオのスポーツ・ニュースを聞いていた中田は、アナウンサーが故郷の英雄の不振に言及を始めたとたんに機械のスイッチを切った。彼と、そして僕の「息抜き」の時間が終わったのだ。
ゴム輪で髪をしばっていた名残を消したいのか、しつこく手櫛を入れながら中田がこちらに向き直った。
「波多野は、人に甘えているという自覚が時々薄れるのかもなあ」
遊びの時間が過ぎていた。彼による、僕が全く無自覚に「多英を傷つけた」らしいことへの糾弾が再開される。小瓶二本をきこしめした彼の目が、不安定な善意を光らせようとする。
だが、こちらとしても言い分くらいはあるのだ。無視をしたわけではなく、不必要に傷をまさぐる必要がないと思ったから避けていたにすぎない。そこに多英への甘えなどはないはずなのだ。
僕は「甘え」に触れないで言葉を返すことにした。
「しかしなあ、こちらからすりゃターが傷ついた時代を思い出すような旅を聞くってぇのはなんだか、すまないような気分がしたんだよ」
「だから逃げたってわけ?」
冴えない反論には大した効果がなかった。こちらに背を向けて、アンさんに出すカマボコに粉ワサビを添えている男の声が僕を追いかけてくる。
「逃げたんじゃない! ……触れてはいけないものへこちらなりの気を遣ったつもりやった」
「へえ」
中田はむきになったこちらの言葉を冷ややかに受け流すとアンさんに板ワサを出し、それから自分のための小瓶をもう一本、冷蔵庫から取り出した。
「お前、ターと付き合う前、不承不承かもしれないが自分の過去は全部喋ったじゃないのよ。なのに、ターのそれは聞きたくないときた。しかも、お前とは違って相手は聞いてほしいのに」
ゴクリと音を鳴らしてビールを喉に放り込み、彼は言う。
「そういう我がままが許されると思うところを『甘え』というの……酷い話よねえ。それでも彼氏、いや、男かよ?」
僕のしでかしてしまった言行を彼なりに評価した言葉だった。口調は静かだったが、圧だけは感じた。恐怖がある。中田の目には言葉がもってしかるべき怒気がない。愛層のいい中田が穏やかなままに牙をむく時に、どれだけのものがえぐられるのだろうかという不安は今までずっとあった。そして今、牙は目の前にしかとある。
それにしてもなんと僕は情けないのだろうか。中田の指摘は正しいし、僕は選択を誤っていた。なのに、そこへの自責よりも彼に弄られることへの恐怖が感情を支配していくのだ。
思わず板わさに箸をつけようとするアンさんの方を見た。助けが欲しかったのだ。だが、彼は静かに一つ頷くと手酌へ戻る。「甘え」を察したのかもしれない。
「バカだったな、僕は」
それでも僕は沈黙を嫌った。嫌わねばならなかった。逃げる方便は用意出来なかったが、無言の圧の中に生きる方がよっぽどな苦痛に思える。
「そうね。そう思うわね」
中田は軽く頷くと、また小瓶に口をつけた。だが、こちらを見ようとはしない。彼の視線は店員としてアンさんの酒の進み具合に気を配ることに注がれている。
僕は中田をとどめねばならないな、と気づかされる。僕はエゴイストだった。多英を悲しませ、中田を落胆させてなお、全てを元に、初夏に味わった居心地のよい空間に戻したいのだ。その為にはまず、彼に見放されないことが重要だ。
多分だが、中田は拳を振りおろすことを知らない。彼の中でためらいがまだ勝っている今、とどめおかなければならない。
「中田、さっき『まだ、ワン・アウト』と言ったよな」
僕は両手でカウンターの縁を掴むと、こちらへの態度を決めかねているかもしれない男に話しかけた。僕と多英の間は修復可能と思っているのなら、彼はなにか妙薬でも授けてくれるはずだ。そしてそれは、さっき彼が口にした軽口めいた言葉からさかのぼってほぐすべきだろう。
「言ったわよぉ」
「それはまだ、挽回出来るってことか?」
「知るもんですか! アンタはツー・アウトかもしれないしゲーム・セットかもしれないじゃない!」
中田の怒声が響いた。特効薬は出されず、目まいを起こすように僕の期待は外れていく。彼の顔は三本のビールでほんのりと赤みを帯びている。でも、仮に素面でも反応は一緒なのだろう。
「あのさあ」
ただ、怒鳴り声の一方で、彼は長髪を掻きながら僕に向き直ってくれた。
「そりゃ、心底お前らが上手くいってほしいとは未だに思ってるさ。でも、この状況でそれを決めるのはお前ではないし、俺でもない」
「そうか……」
「そうよ」
僕はカウンターに突っ伏した。そして顔を板にこすりつけ、漂ってくる木の薫りにまみれた。彼の感情が手に取るように分かってしまったとなると、そんなことしか出来やしない。
中田の感情は、模型機関車かロボット人形かは問題ではないが、要は玩具を与えられなかった子供に似ている。子供は、自分が寝ても覚めても欲しがっていた玩具をあっけなく手に入れた挙句に無造作に扱うガキが目の前に現れた時、何を思うのだろう。分かり切った話だ。
「とりあえず波多野は頭を上げるのよ。飲んでもないのに突っ伏しても仕方ないでしょ?」
どことなくぎこちなく、それでいて優しい声が届いた。声の主へと僕は上体を起こしていく。そして、この期に及んで中田に甘えようとしたことを心から恥じた。僕は、軒先に陳列されているオモチャとは比べられないだけの眩しいものをいつくしめるのだろうか?
四
「お前ら、実にくだらない話を続けるね」
アンさんが空の徳利を中田へとかざしながら、初めてこの場の会話に加わろうとする。
「アンさん、ごめんなさいよぉ」
「いや、いいね。くだらない話にあけくれるのが若いうちの特権だよ」
つとめて明るい中田の言葉に軽く猪口をかかげるとアンさんは中身を干し、一つ息をついた。そして、少しだけ頬を緩ませると低い声で「波多野君」と僕を呼んだ。
うっすらとした不快感を感じた。年をとれば他愛もなくなる話だとしても、少なくとも今の僕には「くだらない」はずがないのだ。うす甘い人生だったかもしれないが、今、当事者以外に軽蔑されたくはない。
「お前の一番の罪は、くだらない話を不真面目に扱うことだね。波多野君、それはダメだね。全くにダメだ」
不快感は先走りの感情だった。タバコを咥えたアンさんは席を立つと、ゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。その数歩が僕の中の違和感を消し、そして年齢の差を詰めるものであると気づいたのは、彼が次に喋った一言のおかげだった。
「人は、離れてしまったらまず、戻ってこないね。これは絶対に」
弦をつまびく生活のせいだろう、柔らかさを失った指先が僕の二の腕にそっと触れた。僕は今一度、アンさんの顔を見る。無骨な指の持ち主はクスリと微笑んだ。アンさん自身の記憶から発せられた言葉なんだろうな、と思った。
「まあ、酒など飲まずに今日は帰りな。一口でも飲めば、この前の女の子への詫びる言葉も思いつかないようになる」
アンさんの腕が今度は僕の背中へとまわり、軽く肩を叩いた。それで十分だった。中田が叱咤し、アンさんが諭してくれたのだ。大きな息をつくしかなかった。多大な失望を人に味わわせてなお、口をきいてもらえることとはどんなに嬉しいことなのだろう!
「ありがとうございます」
結局は人の優しさに分け入ってしまったな、と思う。ただ、これ以上は人の期待を裏切ることがあってはならない。僕は恵子を切り捨て、石堂を拒絶した。もう、裏切るだけの日々はまっぴらだ。
席を立つ。僕は多英に会わなければいけない。
「あ、二百円な」
なのに、外へ出ようとした僕の背中を店長代理の声が引き止める。
「二百円? 何も飲み食いしとらんぞ?」
「席代よ! 一流店にはテーブル・チャージってぇのがあるのよ!」
中田は笑った。アンさんも中田につられてこちらを少し見やったが、やがて徳利へと向きなおると、もう目もくれなかった。
五
中田の店を後にした僕は、荻窪の駅前に佇んでいた。地下鉄に乗って中野坂上で降り、多英のアパートに会わなければいけないことは分かっているのにだ。
「クソッ……」
だが、店を一歩出たら何もかもが白紙になっていた。中田もアンさんも、彼らなりに僕を許し、または諭してくれた。でも、それはあくまでも観察者の意見だった。僕が傷つけ泣かせた女の子が深夜にすんなりと会ってくれるかなど誰も知りはしない。
不安が満ち潮のように迫っている。もちろん、国鉄駅と地下鉄への入り口の灯しかない荻窪の暗闇が怖いのではない。多英に許されないかもしれぬ数十分後の世界が脅してくるからだ。
「おぎくぼー! おぎくぼーっ!」
駅員のアナウンスが風にのり、そして新宿方面への国電が駅に駆け込んでくるのが見えた。それを目にした僕は思わず、国電の駅舎に足が向きかける。阿佐ヶ谷までの一駅、黄色い電車に乗り込めば一晩は問題の棚上げができるのだ。一晩だけは。それからの幾千の晩を犠牲にすれば。そしてそんな傲慢さは持っていないはずだ。
「池袋方面への地下鉄最終電車にお乗り換えのお客様はお急ぎくださいぃ!」
国電は過ぎ去り、僕は乗らなかった。代わりに、駅のアナウンスに急き立てられながら一群となって地下へと消えていく数多のサラリーマンの中に身を投じた。何かの覚悟があったわけではない。家路をたどる人々と歩を同じくしたなら、僕も人が待っている空間に行きつけるかもしれないと何故か信じ込んだのだ。洒落た赤い電車ならどこかに連れて行ってくれるかもしれない。
六
だが、それはやはり一時の興奮だったのだろう。文字通り人波にのまれただけの所業でしかなかったのだろう。店を飛び出して三十分、相応の覚悟がなかったのかもしれない僕の目の前には、灯を消した多英の部屋があった。そして、あたりに迷惑にならない範疇でノックをしても声をかけても、部屋の中からは何の反応もなかった。
心が宙をさ迷っている。多分まだ、軽率な行動で全てが終わったことを理解できていないのかもしれないのだ。多英が去ってしまった。
僕は重い靴音を響かせながら多英のアパートを後にし、地下鉄も店仕舞いしたので京王線の初台へと向かった。涙はなかった。泣く資格がなかった。
だが、それも電車が新宿に着くまでのことだった。国電の最終に乗り継ごうとした西口を横切ったらもうダメだった。ほんの数時間前、ここで僕は人を傷つけたということが鋭く切り出されてくる。そして、女の子が去ったからだけではなく、結局自分は何一つ成長していなかったということに思いが至ってしまったら目頭がおかしくなっていく。
僕は丹念に顔を洗うと、最終電車に乗り込んだ。ベソをかきながら乗ればいいのに、同乗の人々に嗤われることだけは怖いらしい。なんて、ええかっこしいなのだ!
阿佐ヶ谷で電車を降りる。しかし、一人ぽっちの日々に返り咲く入り口になるはずの寂しい改札は趣を異にしていた。
「随分と遅かったじゃない」
突然、声がかけられたのだ。声の方向を振り向くと、駅の薄汚れた柱に小さな影があった。
「ター……」
「アルバイト、十時まででしょ? 夜中に二時間も待たせないでよ……」
そう言うと少女はおずおずと笑い、そしてこちらへと近寄った。カラっとした言葉ほどには動作に力がなかった。
疲れていたのだろう。
「すまなかった……僕がアホやった」
「それは知ってるわよぉ……知ってるけどさぁ……」
そこで話は打ち切られた。背を目一杯に伸ばした多英の両腕が僕の首元へと絡みついていき、言葉はそのうちに吐息と涙にとってかわられていった。
「もうちょっとでいい……もうちょっとでいいよ。少しはかまってよ……大貫さんくらい大事にしてよ……」
夏とはいえ涼しさをましてきた駅の温度と多英の体温が混然一体となった大気の中、僕はいくつかうなずく以外のことが出来ない。許されたかもしれなかった。しかし、中田の言葉の中でなく、現実に少女が泣きじゃくっているのを見たら、それは些末なことだった。
人を傷つけ続ける習性はまだ、顔を引っ込めてくれてはいなかったという苦さの中で、僕は多英を思いきりに抱きしめた。取り戻さねばならない。




