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恋のほのお  作者: 桃山城ボブ彦
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第59回~昭和45年7月8日「ハッシャバイ」(前)


 曇り空の中、僕と多英は新宿の駅頭で牛乳瓶を求める。それを各々がアルバイトに向かう前の軽い食事にするのだ。売店の小母さんが味気ない顔で蓋を開けてくれた冷たい飲み物を、僕らは西口の地下広場で適当なベンチを探しながら口へと運んでいく。


「背が高くなりゃいいんだけどサ」


 どこまでが冗談か分からないような言葉を、多英はまわりを白くした口から吐いた。確かに百五十センチそこそこの彼女の背丈はまあ、小柄な方だろう。だから僕はチラリとその横顔を見つめ、それから慰めの言葉をかけた。


「でもさ、ター。その背でも京人形みたいでええ感じやないの」


「ありがと。でも、どうせならフランス人形みたいなスラリとした感じも味わってみたいわぁ」


「へぇ」


「これから行く家庭教師先の女の子なんて、もう眩しいばかりの高さよ。おまけに楚々としてゴハンも食べなきゃトイレにすら入らないと思わせるような美少女よ」


 一息に牛乳を飲み干した多英はそう言うと瓶をクズ箱に放り投げ、それから口を拭った。そして、この子は男女平等の主義をいくなあ、と思う。人を評するときに限って性別の隔てなく下卑た表現を好むのだから。


「ああいう女の子がやがて大学で凡百の男を破滅させるのよ。それも、ちょっと微笑むだけでね」


「そうかなあ。男だってそこまでバカじゃないだろさ」


「いいや、バカよ」


 傍らの少女もまた、微笑を見せた。そして断定をもってこの話題を終わらせると、僕から牛乳瓶を奪い、その残りをまた飲み干した。カロリーの摂取に関しては、どうやら彼女は平等主義者ではないようだ。


「悪いけど昔の波多野君だって、そうじゃない」


 綺麗な軌道で二本目の瓶もクズ箱に葬り去った後、多英は言った。


「でも、今は大分マシになったんじゃなくて? まだまだ度胸は足りないにしても」


「む」


 四谷にいるという令嬢と懐かしい恵子を結びつけてみようとした胸の内が見透かされたような気がした僕は少し言いよどんだ。「凡百の男を破滅させる」という言葉が体のどこかに絡みついたような気がしたのだ。もっとも、今のところ僕は破滅していなかったのでたどたどしく返事を開始する。


「度胸、かあ。君に初めて出会った頃に比べりゃ、これでもついたような気がするよ?」


「うぬぼれないことね。アナタ、アタシがそういう風に仕向けた範囲内にしかいないわよ、まだ」


 改札口へと歩きながら多英は断じた。こちらのかすかな自惚れが一蹴される。僕は黙って彼女の横を歩くだけだ。喋ることは控えようと思った。多分、彼女はまだ何かを言いたいはずなのだから。

 そして間をおかないで高い声がする。我が予想はあたった。


「だってサ、波多野クンにはまだ後一つ、大事なことを聞く度胸がないんだもん」


「肝心なこととは?」


 僕はとぼけた返事をする。出来ることなら、ギリギリまで察していない風を装っていたい。

 でも、そんなことをしたところで多英と「付きあい」だしてから今日でちょうど一月が経っているのだ。彼女が幾度となく持ちかけようとする話したいこと、じっくりと聞いてほしいことくらいは時間とともに大方の内容は察していた。

 にもかかわらずはぐらかし続けたのは、聞くだけの勇気がなかったせいでもある。だから僕はひたすらにその話題が出る雰囲気を醸し出すのを避けていた。仮にこちらが考えているような内容を向こうが求めている場合、自らの過去を吐き出すこと以上に人の過去を聞くことも難しいのだとどうやって説明すべきだろうか。


「先月私が仙台に行った理由よ」


 多英が口を開き、そしてその目から笑みが消えた。


「ああ……」


 僕は少し呻き、それからくすんだ地下通路の天井に目をやった。予測がまたあたってしまったのだ。

 多英と仙台にまつわる物語はあまり楽しいものではなく、しかも彼女の話の中でしか知らない一人の人物を介さなければいけないことが目に見えている。だからこそ、僕は避け続けている。それは聞くことへの勇気云々だけではないのだ。

 付き合っている子のかつての男の話の結末なんざ聞かされるなど、あまりに苦痛じゃないか。


「やっぱり言いたいの? その話?」


 でも僕はため息をつくとそばの小さな、小さな女の子を見下ろしながら真意を確認することにした。僕と多英が仮にも彼氏で彼女であるなら、愉快じゃない話にも向き合わねばならないこともまた、義務なのだろうから。


「うん」


 四谷までの切符を右手にもった彼女は、もう片方の手でシャツの襟にかかった黒髪をはらいながら小さく頷いた。

 えもいわれぬ驚きを感じた。それは、やはり多英が話したがっていたということを確認できたからではない。少女の声が今までに聞いたことがないようなか細いものだったからだ。僕は今まで、この娘のそういったセンチメンタルな部分を見落とし続けながら傍らにいたらしい。


「まあまあ、それならお互いのアルバイトが終わったら荻窪の中田の店で会おうよ。そん時にでも聞くさ」


 びっくりしているだけにもいかない僕はそうなだめすかすと彼女の肩をポンと二度ほどたたき、それから梅雨の蒸し暑い中を行き来する夕方の群衆の中へと返事を待たずに紛れていった。

 逃げたわけではない。ついに観念して耳を傾けるとしても、仕事前の立ち話ですますには、話の内容からしていささか時間をくってしまうからだ。勤め先の酒屋に遅れてしまうわけにはいかない。

 ほんの少しの後悔があった。「聞く」という姿勢を見せたのなら遅刻してでもあそこでとどまって、話したいことを喋らせた方が良かったのではないかと思ったのだ。


 これでよかったのだろうか?


 よくはないだろう。アルバイト店員としては及第点でも、多英の近くにいる分には不正解極まりない。


 そう思った僕は雑踏の中で多英の方を振り返った。彼女はまだ、こちらが最後に言葉をかけたあたりにうつむき加減で突っ立っていた。なのに、こちらの視線に気が付いた瞬間、多英は痙攣を引き起こしたかのように背を反らせると慌ただしく国電の改札口へと消えていった。


 やはり、よくなかったのだろうか。僕は少し首をかしげると、ジーンズの尻ポケットから『わかば』を取り出し、京王デパートの脇から地上へ繋がる階段を歩いていった。



 荻窪の中田が勤める店には十時半に着いた。


「よお中田ァ……。今夜のアトムズ対巨人、どうだった?」


 軽い感じで今夜のアトムズの試合について話しかけながらノレンをくぐると、今日もどこかに遊びに行っているらしい店長の子分である中田は、いつものようにガランとした店のカウンターで売り物の二級酒を水筒に詰めているところだった。また水筒の中身を水でも飲むかのように授業中に口にするのだろう。一体全体、店長が店を休むわ店員が酒と食材をちょろまかすわのこの焼鳥屋が潰れないでいる理由が分からない。


「石戸選手が投げなすった……。でも波多野、今夜のアトムズについて訊く価値なんかあると思うか?」


 虚ろな目をした男はそう言うとチラリとこちらを見たが、すぐに酒をくすねる作業を再開する。


「ないかもしらんね」


「〇対四さ。石戸選手で負けたよ。大エースもこれで七敗目だぜ」


「ひ、ひ、ひ」


「だが波多野、今日はアトムズは脇に置いておこうや」


 カウンターの椅子に腰かけてアトムズをからかってやろうとしたこちらに対し、水筒を満たした中田が身を乗り出す。


「お前にはもっと大事な話題がある」


 どうも、いつも以上に気配がおかしいな、と思った。彼の目は虚ろだが、口元だけは緊張したかのように妙に歪んでいるのだ。当然、彼の贔屓の弱いチームをからかう軽口にも全くのってはくれない。


「せやな。アトムズ、勝つわけないしな。……とりあえず中田、二級酒くれや」


 彼の微妙な表情と言葉に気づかないフリをして僕は木目板のテーブルへ上体を乗り出すと、野球の話を打ち切って、出来る限りの景気のよさで酒の注文をした。仕事の間中ずっと、多英への接し方を間違えたかもという不安がずっと頭をよぎっていた以上、それを一刻でも早く中田の本来の明るさに頼って打ち消したかった。

 が、期待に背いてコメディアンは少しも笑ってはくれない。相変わらずに落ちくぼんだ目をしょぼつかせている彼が我が目の前ですることはひっつめの長髪を解き、前掛けを外すことだけだった。


「お前、知ってるだろ? この店は十一時までだ。もう火も落としたし、酒も出せないわよ」


 そう告げた彼はそれでいて、「酒は出せない」との言葉とは裏腹に小瓶のサッポロビールを開け、自分自身だけが晩酌をはじめる。

 ガス火に一晩あてられて汗ばんだ彼の喉が美味そうな音を奏でる中、僕は「そいつを客にも出せよ」といった至極当然の言葉を告げることが出来なかった。中田の冷めた言葉で狐に包まれたような気がした以上、ただただ、普段から陽気な男が険しい顔で一人ビールを呷る姿に不気味さを感じることしか出来ないのだ。


「なんでや、今日は月曜でアンさん来られる日だから遅ぅまで開けているはずやろ?」


 辛うじてだが、最初にこの店にやって来た時の記憶を辿って不平を主張する。だが、なぜか今夜の中田にはそんな有り合わせの言葉が通用する気配はなかった。こちらの訴えに反比例して彼の目は虚ろなものから冷ややかな細いものに変わっていた。小瓶を口にしながら、厨房から身を乗り出してこちらを品定めするかのように薄目で見つめるだけだ。

 

「ああ、アンさんは来られるよ。いつも通りにあのお人は冷酒と板わさだ。でもな、波多野」


 そこで中田は話を中断すると飲み終えた小瓶をカウンターに置いた。そして、かすかに口を震わせて嗤った。


「悪いがタ―は今晩は来ないよ」


「なんでお前がそれを知っているんや?」


「まあまあ」


 ビールの次はタバコだと言わんばかりに『ホープ』の潰れかかった箱を右手で弄びはじめた中田は、箱に対する接し方と同じ態で左手を少し上げ、僕をいなした。


「そもそもがまず四谷からここまでは三十分もかかる荻窪は、アルバイト後の夜遅くに出向いて恋人に会うには不向きよねえ?」


 ゆっくり、それでいて深々とした一服の後、彼は口元を更に緩ませた。


「まあ、距離の話は本題じゃないわね」


 く、く、く、と彼は鍋が焦げついたような忍び笑いをはじめる。それが、口調以上に焦げ臭い話題を相手に切り出す中田なりの流儀だと気づいたのは次の瞬間だった。


「で……開店準備していた頃……六時くらいかしらね。ターから電話をもらったのよ」


 彼から奇妙な笑みが消えた。


「あの子、泣いていたぞ」


「そんな……まさか……」


 うろたえるしかなかった。

 多英が泣いただって? あの多英が? 俺があそこで話を聞くことをうやむやにしたからとでもいうのだろうか?


「その、『まさか』なんだよ波多野。このバカが」


 中田のくぐもった非難の声がする。それと同時に僕は唖然としたままカウンター越しに話し相手を見つめた。彼は苦笑いのような表情を浮かべながらまた、奥の冷蔵庫から小瓶を一本取りだす。


「でも……まだ『ワン・ストライク』だよ、波多野」


 二本目のビールの中身を自分で処理しながら彼は呟いた。


「『ワン・ストライク』?」


「まだやりようによったら、アンタ挽回出来るってことよ。やりようによったら、ね」


 中田はまた小気味よく喉を鳴らした。あったかどうか分からぬ労働の対価らしいアルコールが彼の胃へと流し込まれる音だけが店に響く。

 まったくに静かな夜だった。クラクションも、国電の音も何もしない。寡黙なアンさんでいい、誰かこの場に早く来てくれないか、と思った。どこまでも他人任せな僕は、静寂に耐えられないのだ。

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