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恋のほのお  作者: 桃山城ボブ彦
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第6回~昭和42年8月23日「青い影」(前)


 その日の夕方、大貫恵子からかかってきた電話に対して、「明日晴れたなら、レコードやのうて泳ぎに行こう」と切り出したのは僕だった。


「じゃあ、明日はレコードやなくてどこかに泳ぎに行かないかって訳?」


「うん、夏休みもぼちぼち終わるし、たまにはレコードやなくて三人で泳ぎに行くってのはどないかな?」


「泳ぎねえ……」


 電話口の向こうの彼女はしばらく考えていた。


「でも、今年は網干も須磨も汚れていて、とても泳げたもんじゃないって聞いてるわ」


「まあ、そらせやけどなあ。かといって香櫨園も甲子園も、もうとっくの昔に汚染で閉鎖されてもうたしなあ」


 そう答えながらも、僕は相手の答えは想定内のものだと感じていた。大体が、今日明日でいきなり海に誘われて、「分かりました」と言ってくれるほどには、女の子の敷居は低くはないだろう。


「大体、なんでまた泳ぎに行くという訳なの?」


 彼女は、更に追い打ちをかける。しかし、ここからが勝負所だ。一旦、受話器から口を話すと呼吸を整え、それから彼女に言葉を繰り出しはじめた。


「そら、夏も終わるからやがな。それに、来年の夏になったら、もう受験勉強でとてもやないけどそんな暇、なくなるやろうからなあ」


「うーん。波多野君の言うとおり、三年生の今頃は進学の準備でそれどころじゃなくなっているよね」


「そうそう」


 僕は相槌を打った。ここが勝負の分かれ道だ。僕の頭の片隅ではもう巨人戦の九回裏二死満塁、タイガースの山内がバッターボックスに立っている。


「来年はもう、エレキもやけど遊んでられへん。かといってイシと僕だけで海に行っても味気ない。大貫さんが来たら役者が揃うよ」


「分かったわ」


 大貫恵子の甘い声が受話器の向こうから聞こえた。その瞬間、僕の背中に電気が走ったようなシビレが起こり、頭の中の山内もレフトに大飛球をかっ飛ばした。


「でもねぇ」


 風向きが変わった。我が打球は風で方向が変わり、ファウルゾーンに飛んでいく。僕は息をひそめて彼女の次の言葉を待つ。


「汚れた海はイヤ。売布神社の駅の裏手に私、よく知っているホテルがあるから、泳ぐならそこのプールにしましょ」


「プールか。ええな。売布なら近いし行きやすいし、僕らも願ったりかなったりや」


「ウン、確か飛び込み台とかもあったと思うし……じゃあ明日、何時に駅で待ち合わせする?」


「昼を食べてからの一時でどない? そしたらその後は日中ずっと泳いでいられる」


「了解!」


 女の子の明るい声が受話器から響いた。


「じゃあ、一時に甲東園でね! 石堂君にもよろしく言っといて!」


「うん! 分かった!」


 僕は受話器を元に戻した。風向きが何だ。レフトのポール直撃の満塁大アーチじゃないか。そう感じた途端、電話台のある廊下で跳びあがってしまう。「啓、何があったか知らんけどええ加減にしときなさい」と、いい加減に呆れた母親からたしなめられるまで、僕は訳のわからない踊りを一人、踊っていた。


 二階へと駆け上がり自分の部屋に入ると、机の引き出しからメモ帳を取り出す。そしてとあるページでめくる手を止めると、僕は鉛筆でそこに横一本の線を引き、「正」の文字を自分の名前の下で完成させた。その隣には石堂の名が書いてあり、その下には既に「正」の文字が完成している。


「今度もイシに追いついたわ」


 二つ並んだ「正」の文字に目を落とし、そう呟いてノートを閉じた。大貫恵子から電話がかかってきた回数が無事、今回も石堂に追いついたのだ。彼女は、会う度にそれぞれの家へと一回おきにかけてくるとはいえ、石堂の方に連続してかかってきたら、と思う途端に焦るのは一体どういうわけなのだろう。



 僕と石堂が大貫恵子と知り合ってから二月になっていた。その間、それぞれ学校がある間は大抵、土曜日の夕方に僕と石堂のどちらかの家に彼女から電話がかかってきた。そして日曜日になれば、レコードを買いに宝塚に出るのだ。夏休みに入ると時間が大量に出来た事もあり、電話の頻度が週に二、三回になることもあった。部活を辞めた僕らにとっては、何の支障もなかった。


 勿論、こちらの小遣いが乏しい時はレコード屋に足を向けずに、僕か石堂の家に大貫恵子がやって来てステレオでレコードを聴くだけという日もあった。こちらとしてはその方が面白かった。彼女がその際に持ってくるLPは聴きたかったものばかりだし、何よりも自分の部屋に女の子が来るというのがとても新鮮だったのだ。流石に僕と石堂の母親は、息子たちの部屋を女の子が訪れてビックリしていたが。しかし、彼女が小林の女学校の生徒で、音楽好きの知り合いだと説明すれば、特に何も言われなかった。


「さあ、イシに知らせに行かんとな」


 僕は家の前庭にあるガレージから、親父のセドリックと東京に行った兄が置いて行ったカブのCS50に当らないよう、慎重に自転車を取り出すと門を開ける。石堂の家は自転車ですぐの距離だ。



 ねじり鉢巻きの石堂は、自室で新潮文庫の吉川幸次郎「陶淵明伝」を読んでいた。どうやら、夏休みの漢文の課題の参考にでもしているらしい。


「ハタ坊がこの時分に来たということは」


 ランニングシャツの石堂は机からこちらに向き直って、ボサボサになりつつある頭から鉢巻きをとると、僕に座布団をすすめた。


「さては、今回はお前ンとこに大貫さんから連絡があったな」


「おうよ」


 すすめられるがままに座布団に座ると、すかさず石堂が扇風機のスイッチを入れる。朝からの雨はとうに止んでいたが、夕陽が蒸し暑さを運んできて仕方がなかった。


「今回のはいつものレコード屋行きとは一味違うぞ」


 僕は胸を張った。そして、畳の上に無造作に投げ出された「陶淵明伝」に目を落とすと言った。


「イシが”役人辞めて田園に帰ったオッサン”の詩なんぞ読む暇があらへん話や」


「陶淵明先生を悪ぅ言うたらアカン、ハタ坊」


 石堂は本を拾い上げると少し笑った。


「俺はアル中の李白先生なんかより読みやすいと思うで」


「まあ、マトモに酒飲んだことない僕らには李白の面白さなんて分からん」


 少しだけ笑うと、石堂の話を切り上げる。別に中国の詩聖達の話をしに来たわけではないのだ。


「明日は泳ぎに行くで。昼から売布のプールや」


「へ?」


 吉川幸次郎を両手で胸に抱えた格好で、石堂は小さく叫んだ。


「だから、僕ら大貫さんと泳ぎに行くのや。水着もってな」


「ハタ坊! いや! 波多野君!」


 石堂は本を放り投げるといきなり僕を抱き寄せた。彼の両腕で無理やりに大きな胸の中に引き寄せられる。汗のにじんだランニングシャツが、すえた臭いを僕の鼻いっぱいに持ち込んでくる。


「でかした!」


 彼の体臭でむせかえるこちらのことなどおかまいなしに、石堂はそう言って僕の体をその腕の中で何度も揺さぶった。


「少し待っとき。今、下からサイダーでも持ってくる」


 ようやく僕を解放した彼は、もの凄い勢いで階段を駆け下り、ものの一分もしないうちに両手に冷えた三ツ矢サイダーの瓶二本と栓抜きをぶら下げて戻ってきた。


「偉大なる外交官に乾杯や」


 石堂は小気味いい音をたてながらサイダーの栓を抜くと、一本を僕に渡し、残りの一本を高く掲げた。


「外交官て、僕のことかいな」


 苦笑しながら、僕はよく冷えた透明な液体を喉奥に流し込む。


「単に電話もろた時に、泳ぎにいくのもええなあ、と思うただけや」


「しかしオマエ、それは余人には思いつかない発想やで」


 さっさと自分の分のサイダーを飲み干すと、石堂は座布団に胡坐をかき、腕を組みながら唸るように言った。僕は何も言わなかった。

 確かに大貫恵子への提案は緊張はした。だが、友人のこの浮かれっぷりを見ていると、こちらが考えている以上のことをやってのけたのかもしれなかった。意外と、僕には度胸があるやもしれない。

 しかし、そんな感慨にひたる境地を石堂がぶち壊した。彼は僕の耳元までにじりよると、思いつめたような声で囁いた。


「ハタ坊、やっぱ大貫さんは、その、水着着るんやろか?」


「そら、船が沈没でもせん限り、洋服着て水に飛び込むアホはおらん」


 僕はうんざりした声で言った。本当は「アホちゃうか!」とでも言いたかった。本当にコイツ、六月には豪傑笑いで僕と自分自身を彼女に自己紹介した男なんやろか?


「ハタ坊!」


 こちらの呆れたような口調を察したのか、一転して彼は語気を強めた。


「お前、水着やぞ! それもあの大貫さんの! さっきからエラい落ち着き払った風にしとるけど、お前ももっと感情ださんかい!」


「いや、もう既に家の廊下ではしゃぎすぎて一丁踊ったんよ。せやさかいもう、ええわ」


 それは、嘘ではない以上、こちらが「感情をだしてない」わけではないことを納得させるに十分な理由だった。そもそも、二軒の家でアホ踊りをするなんて体がもたない。


「なんや、そうか。ほな、俺は今から踊らせてもらうで」


 そう言うと石堂は僕に背中を向け、飛んだり跳ねたりしながら、何か歌いだした。ドスの効いたその声が、映画の「サウンド・オブ・ミュージック」の劇中曲『もうすぐ十七歳』だと気づくには少々時間が必要だった。映画内では恋人同士が歌い踊るシーン、それを扇風機が動いてるとはいえ蒸し暑い六畳間でやると埃が飛び散ってたまらない。


「イヤーッ! 十七歳 イヤーッ!」


 多分、すぐに壁紙も剥がれ落ちてくるのと違うかな、と思った。でも、そういえば大貫恵子自身、あと二月ほどで十七歳だということに僕は気づいた。まるであの映画の女の子、リーズルの状況にそっくりだ。なら、途端に何だかこちらももう一度暴れてみよう、という気分が沸き起こってきた。


「ワイも十七、純情可憐、イヤーッ!」


 相変わらず石堂は踊り狂っている。確かに僕もお前も、「頭は『純情』で下半身は『可憐』」だよ、と心の中でつぶやいた。そして、踊る石堂を尻目に彼の赤いギターをそっと手に取ると、アンプに繋いで思いっきりE7のコードを掻き鳴らした。


「どうせ踊るならイシ、こっちや!」


 そして、野球じゃない方のタイガースが、今ヒットさせている「シーサイド・バウンド」のメロディーをうろ覚えで弾きはじめた。海だプールだといった水際の曲として、これしか思い浮かばなかったのだ。

 石堂は一瞬、動きを止め、僕を見つめた。そしてすぐにこちらが何を演奏し始めたか理解したらしく、今度はエレキにあわせて、大きな体でテレビの「ザ・ヒットパレード」でのタイガースのような大きなステップを取りはじめる。僕も立ち上がり、ギターを弾きながらでやはり、同じステップを取り始めた。石堂が騒ぐなら、やっぱりこちらもアホをやらんといけない、と思ったのだ。跳ねまわりながら弾くから、リズムはすっかりよれよれだがかまうものか。


「ええわい! ええわいな! 踊るんや!」


 石堂が叫んだ。陽が沈むまで、いや、騒音と振動に怒った石堂の母親が怒鳴り込んでくるまで、僕らは延々と埃まみれになりながら「シーサイド・バウンド」を歌い、踊り、ギターで弾きまくった。い、踊り、ギターで弾きまくった。

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