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恋のほのお  作者: 桃山城ボブ彦
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第58回~昭和44年3月27日「エイント・ガット・ノー・アイ・ガット・ライフ」(後)


「波多野君の下宿に荷物はいつ届くん?」


 おケイがそんなことを訊ねてきたのは大阪駅の構内に入った頃だった。


「そうやなあ……」


 僕はゆったりした仕草で応じながら活気に湧くターミナル駅を見渡す。今しがた九州からの急行列車がたて続けに到着したらしく、あたりには乗換手順や下宿先のメモなどをしげしげと確かめる学生がやたらと多い。皆、判で押したように髪を七三に分けて詰襟の学生服にベージュのコートを羽織っていた。ご丁寧に母校の制帽を被ってる者もいる。大阪の学校に進学するのだろうか。


「昨日の夕方に送ったから……明日の午前中くらいには届くはずや」


 僕は書籍やレコード、当座の着換えでいっぱいとなった幾重もの荷物の紐を緩めてホームに通じる階段脇のコンクリート上へと置き、答えた。彼女の言葉を軽い休憩のきっかけにしてみようと思ったのだ。大荷物は休み休みに背負わなければいささか苦しい。石堂の拳のせいなのだろうか、いつも以上に下半身に力が入らないのだ。もちろん、そんなことは目の前の女の子に対して朝、寝巻をめくってみたら大きなアザがあったという事実を伝えることに比べたらたやすい話ではあるのだが。

 僕は今から東京に行ってしまう。恵子の彼氏になるであろう男が人を殴るという事実を当人に言う必要など、ないのだ。女の子が僕の元に来るチャンスを諦めているなら、そうだ。僕に残されたことは、二人の友人として過去を綺麗にまとめる義務だけなのかもしれない。時には使った覚えのない金を返済しなければならない場合だってあるのだ。

 多分だけど、芳村さんが新開地のハントバーで小瓶二本と塩豆で一万円とられたようなもんだろう。「何がハントじゃ。あこ、ボッタクリのアルサロやったわ」とか何とか言っていたが、あの人の痛みはBGの電話番号を聞けなかったくらいですむ。でも僕は……。


「じゃあ、今晩はお布団あらへんのと違う?」


 穏やかな声がまた傍らで響いた。こちらの心のうちなど知らないでいてほしいと思わせるだけの綺麗な声だった。


「うーん、せやなあ。でもまあ一晩くらいはコートとマフラーで誤魔化せるやろ」


「大丈夫? そんなん波多野君せっかくの入学前に風邪ひかへん?」


「なんとかなる思うとくわ」


 入学式などあるものか分かりはしないが、僕は肯いた。ついでに荷物を脇に置いて腕に自由があるのをいいことに、財布から新幹線の硬い切符を取り出してみたり、ついでに腕時計を眺めて十時過ぎであることを確認する。新大阪発十一時の「ひかり二十四号」までの間はまだ、ある。


「本当に? 今日だけどこか旅館にでも泊まったら?」


「そんな勿体ないこと、ようせえへんわ」


 僕は少し笑った。


「それもそうやね」


 彼女が微笑み返す。ブラックコートが揺れた。悪くない光景だと素直に感じる。でも、再び荷物を全て背負い込んで階段へと向かおうとすると下半身に鈍痛がはしる。僕はおケイに背中を向けつつ顔を歪めるしかなかった。

 この場に石堂はいない。でも、彼はずっと僕を見張っているのだと思った。小さなため息が、漏れた。



 不思議なことにどれだけ痛みがさしたとしても、石堂を恨む気にはなれなかった。何故かはわからないが、昨晩で絶交だと息巻く気分になれなかったのだ。古いつきあいがあるからということもあるだろう。

 でも、それ以上に僕自身のふがいなさを思えば彼を責めることなど無理だった。石堂が義憤を先鋭なものへとしたきっかけが福村さんにあったとしても、あの男の本性を意識して気づかせなかったのはこちらなのだ。


「波多野君、さっきようやっとまともに喋ってくれた……」


 大阪駅を発車したオレンジの電車が淀川に差しかかる頃、おケイはドア脇の手すりに掴まりながらこちらを見つめた。その一言で僕は今日の朝、甲東園の駅で少女と会ってからここにいたる道中で先ほどの他愛無いやり取りの前までロクな会話をしていないことを思い返した。僕が繰り出した話題は野球でありポップスであり、それから立原正秋の新刊小説のことだった。どうやら、僕ら三人の中に立ち入った話を徹底的に避けていたことは見抜かれていたようだ。


「そうかいな」


 鉄橋を渡る轟音の中で僕は返事をしたが、彼女は何も反応はしてくれない。淡々と自分の言葉を並べていくだけだ。


「でも、なんか元気なさそやね。昨日石堂君と何があったかも喋ってくれへんし……」


「昨日言うたやん。イシとの間に心配するようなことは何もなかったって」


「ほな、なんで石堂君は今日見送りに来ないの? 入る大学の先輩って、波多野君より大事なん?」


 窓から差し込む薄い朝の光にあてられたおケイの目がこちらを見据えた。彼女の疑問は全て正しかった。長い髪に包まれた聡明な顔は多分、真っ直ぐな回答しか期待をしていない。


「それは……せやから忙しいんやろ、アイツも」


 だが僕は、それでも僕は本当のことを言えなかった。言うことは石堂を批判することにつながる。本人のいないところで人を悪く言ってもいいかどうかというためらいがある。

 いや、そうじゃない。僕が言うことで何かが壊れるかもしれないのだ。


「そうかなあ……」


 おケイが怪訝な顔で呟いた頃、電車は淀川を渡りきり新大阪へと向けて減速を始めた。ほどなくしてブレーキの音が車内に響き、新大阪のホームへと僕らは滑り込む。


「波多野君」


 荷物を抱えながらやっとこさでホームに降り立った僕をおケイが呼び止めた。


「ウソつき」


 言葉に反して少女は微笑んでいた。はにかみもあったが、どことなく淋しい顔にみえた。ただ、僕は何にも気づかないフリをして、新幹線の改札へと歩き始める。

 ウソつきなのだから当然の反応だろう。



「ウソつき」と囁きながらも、それでも入場券を買ってくれた恵子をともなって、僕は新大阪駅の新幹線ホームにたどり着く。それにしても新大阪の周りは何もない空虚な空間だった。大阪駅や三ノ宮駅のような大きな駅が「改札口を出た」後のことに比重を置いているのに比べたら、ここは「改札の中」で足りる場所だからなのだろう。九州や中国といった西からきた人は、駅の外に出ずに列車を乗り継いでいく。東からきた人もそうだ。

 窒息しそうな気分だ、と感じる。駅舎の外に出ないことは、どこか息継ぎのない水泳に似ているのだ。駅が悪いのではない、気分を切り替えられないまま列車に乗り込む僕が駅に難癖をつけているだけだ。


 ホームにはまだ「ひかり二十四号」は入線していなかった。広々としたその場では、乗客の他にはビュッフェ・カーの従業員達がタバコを吸ったりウエイトレス同士でおしゃべりをしたりしながら所在なげに立っているだけだ。


「ビートルズ観に行った時を思い出すなァ!」


 大きく深呼吸をしながら恵子が口を開いた。


「学校に隠れて行ったんやったかな? おケイは?」


「ウン。それでね、目深に帽子被ったりの変装しながらママとヒヤヒヤしながらここで『ひかり』を待ってたんよ」


「スパイ親子やなあ」


 僕は笑った。なんとなく、嬉しくなったから。まだ、この女の子に軽口を言える地位にいたのだと気づくことが幸せでなくてなんだというのだ。


「ウチもボンドになれるかしら?」


 おケイがエクボをつくった。


「そらァなれる、なれるでェ」


「そうかァ!」


 僕らはまた、笑いあった。そして、駅のスピーカーが『ひかり』が間もなく入線することを告げた。


「東京、楽しかったよ。波多野君」


 手を後ろに組みながら恵子が言う。


「そら、ビートルズに会えたら誰かて楽しいやろ」


「ううん。ビートルズおらんくても素敵な街やと思う」


「せやなあ。東京ならウンと勉強して凄い映画作る修行できるやろなあ」


 僕はまた真実を隠した物言いをする。仕方がないのだ。お前がおらん東京なんて何が楽しいもんか。とは言えるわけがない。

 丸顔の新幹線がゆっくりと進入してくる。


「波多野君!」


 車両が二人の脇をかすめて行った時だった。おケイの声がそんな車輪の響きに負けない大きさで僕を包んだ。僕はまた、少女を凝視する。


「ウチも東京の学校、行きたかったなあ!」


 ビュッフェの従業員がタバコを投げ捨てて動き出すのが少女の肩越しに見えた。が、僕がそのとおりに動けるはずもなかった。

 体に震えのようなものが訪れる。それと同時に、何てことだ、と思うしかなかった。今更そんなことを伝えられたとて、もう僕にとれる手段などないのだ。

 東京行きを諦めて石堂が残る関西にとどまると決めたのはおケイ自身じゃないか。石堂に惚れているからそういう選択ができたわけだろう? だから僕は全て諦めようと覚悟したし、お前の未来の彼氏に殴られたって耐えたんだ。石堂とお前の中を壊す勇気なんてなかったんだよ。それなのに!


「そ、そうやなあ」


 曖昧な返事をした。多分、僕の顔は引きつっていることだろう。


「ウン。やっぱ東京、行きたかったわ」


 少女が首を縦に動かす。長く伸びた髪もその後を追っていく。


 その姿を見た僕は発作的に、今までの辛抱をすべて無にし、三人の間にあった全ての関係を破壊したいと願った。


「う……う……」


 何かしらの言葉が口を飛び出そうとする。簡単に実現できることがあるのだから。発車を前にしてあわただしくなったホーム、そこに無防備に佇む女の子。例えばこの子を今、思い切り抱きしめたときたら、僕はこの子の中での記憶をくだらない痴漢として上書きできるかもしれないのだ。悲鳴はあがるだろうが。でも、僕はそのまま車両に逃げたら全てを打ち消して新しく出直すことができる。思い出を全部捨てられるかもしれない。

 いや、そんな大それた卑劣な行為などいらないのだ。後わずかに迫った発車間際のドア越しに想いを伝え、肯定も拒絶もされる前にドアが閉まり、一路東へと逃げたらいいのだ。


 好意を伝え、混乱させられたら、関西に残る二人の関係などはもうどうでもいい。


 もちろんそれも結局は痴漢同等の卑怯な考えだった。でも、遠くに去るどさくさのうちに好意をぶつけることで、そんな感情だけはお前の近くにあった、と気付かせるだけで僕は汚い手をつかって満足感にみたされるかもしれない。


 やって、みようか。本当に。高校だって、もう卒業した。石堂との約束にも背いていないのだ。


「なあ、おケイ」


 折しも開いた車両のドアに背を向けて、僕はおケイの方へとにじり寄る。何かを積み重ねたつもりで、その実何もしていなかったのなら、欲望のままに言葉を伝えるくらいどうということないはずなのだ。


「どうしたん? 波多野君?」


「僕はやね……僕は……」


 続きの言葉がアヒルが水でもがくように出てこない。伝える言葉など分かっているのに。「お前が好き」なんてのはいい響きだろうが、どのような覚悟をもってしても口にするのは一大事なのだ。だから、表情だけがいびつになっていく。おケイは不思議そうな顔でこちらを見つめた。


 もっとも、僕がその先を、要は肝心な部分を言う機会は失われた。二人以外の大声がホームに轟いたのだ。


「ハタ坊!」


 よく知った声だった。そして、その声色は自分勝手に張り詰めた空気を作ろうとしていた僕の心を癒していく。


「ハタ坊! おケイ!」


 ホーム中の耳目を集めはじめた声の持ち主のほうへと僕はゆっくりと顔を動かしていく。


 見送り客をかき分けてこちらへと突進してくる石堂の姿があった。


「良かった……間に合うた……」


 肩で息をしながらに僕らのもとまで駆け寄ってきた石堂は、それでいてはにかんだ顔を見せ始める。


「昨日はあないなんですまんかったな、堪忍やで」


「イシ……」


 思わず声を漏らした僕にも、唖然とした顔のおケイにも気をとられず、彼は満面の笑みで我が手を掴んだ。


「お前の……未来のプロデューサーの東上やぁ。俺が見送りに行かん道理はないやろ? なあ?」


「石堂君……」


 今度は恵子が言葉を呟く番だった。だが、僕はその戸惑ったような風情に気もとられずに、昔から知っている逞しい手を握り返した。


「やっぱり……お前はイシだよ。天下一番の男や……」


「何を言うとる」


 彼は少し照れたような、それでいて浮かれた表情を見せた。

 恵子は黙っていた。



 新幹線が緩やかに新大阪を発車していく時、石堂とおケイはホームの先まで必死に走ろうとしてまで僕を見送ってくれた。それはそれで、傍目からみたらなかなかにいい光景だったかもしれない。

 しかし、僕はその余韻に浸る気力がもうなかった。安心感だけが僕の心のうちの全てだった。

 前の晩に僕を殴った石堂が駆けつけてきたことは二つの意味を持っていた。一つは、僕と石堂の間に断絶がなかったということだ。そしてもう一つは、早まった真似を僕がしなくともすんだということだ。どちらの事実も安堵だけをもたらすものだった。そして、あれが僕の精一杯だったのだ。


「あれで、ええんや……」


 僕はそう思うことにし、目を瞑った。

 それでも名古屋を過ぎ豊橋を過ぎ、浜名湖らしいものが左に見え始めた頃、空腹を覚えた。慌しかった朝に、ロクに食べていなかったことに気づいたのだ。新幹線には食堂車はないが、軽食を食べさせるビュッフェ・カーがついている。僕はそこに向かうことにした。


 ビュッフェ・カーは空いていた。端正なスーツを着た紳士が一人、カウンターで静かにビール瓶を傾けているだけだ。

 カウンターから富士山が見えると聞いた僕は軽く会釈をし、サンドイッチでも食べながら富士を見ようかと彼の近くに座ろうとしたところ、紳士が口を開いた。


「進学かな?」


 彼は優しげな眼差しで僕を見つめた。


「ええ……」


 あいまいな返事とともに僕は紳士に微笑んだ。


「それはおめでとう。大学生、ですかな?」


「ええ……」


「もう大人だな」


 そう言うと彼は片手を上げてウエイトレスを呼んだ。そして近づいてきたさっきホームでおしゃべりに興じていた女の子の片方にビールをもうひとつ注文すると、改めてこちらに向き直った。


「それにしては、うかない顔をしているもんだね? ん?」


「先ほど、()()()()()()()()()


 ほう、という驚きの声がした。僕は紳士の顔を横目で少し見たが、すぐに車窓へと視線を移す。しかし、紳士の関心はまだ、僕にあるらしい。


「まるで『伊豆の踊り子』だな。いやいや、青年は年ごとに君のような長髪になるが、悩みときたらあまり変わらないもんだ」


「そうかもしれません」


 そう言った僕はまた少し会釈をし、微笑んだ。自分が間違った選択をしたかもしれない、という感情だけは結局捨てることが出来なかった。葛藤から逃げることと諦めることなら、どちらがマシなのだろう?

 

「まあ、飲みなさい。大学生なら、かまわんだろ」


「ありがとうございます」


 思考を続けることは許されなかった。今の僕のここでの役目は受け取ったグラスにビールが注がれていくのをみていることなのだ。紳士は好意が受け入れられたと思ったのだろうか、満足げな顔をしていた。

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