第57回~昭和44年3月27日「エイント・ガット・ノー・アイ・ガット・ライフ」(中)
四
物悲しい『サニー』のメロディをフィリピン人がハモンドオルガンで奏でている。どうせ惚れた腫れたの世界が展開されているのだろうが、石堂の態度から怒りを覚えようとしているこちらに歌詞を聞き取る余裕はなかった。
まあ、無駄なことではある。そういう思考を試みようとすればするほど、自分の失態に気づくだけなのだ。彼が傍らの男はもうおケイを諦めてしまったとみなしていて、その原因を作ったのがほかならぬ僕だったのならば、そうなる。それに、自らを責めることはあまり楽しい作業ではない。
「いつ聞いても、なんだかしめつけられる曲よね」
緊張の緩和をめざすかのようにおケイが曲の感想を言う。もちろん僕にはそんな作られた感傷を探すヒマはない。本当に辛いヤツは歌の中などにはいず、僕自身かもしれないのだから。
「どこかに、惨めさを漂わしている曲かもしらんのお」
石堂の愉快そうな声がする。僕はどちらの声にも反応はしない。ただコーラを一本空けるだけだ。もちろんスカっとさわやか。だが清潔な飲み物には荒れる心を煽る効用はない。
結局僕は石堂への怒りを探し求めることを諦めた。怒りよりも恐怖がそこいらに満ち溢れていることに気づいてしまったのだ。おケイを前にして「勝者」である石堂が、僕と二人だけの時のような不穏な態度をとり続けていることが不気味なのだ。かつてあったかもしれない呉越同舟、恵子の前ではお互いに愛想よくしておくという不文律は今日はどこかに消え失せていた。彼は、ほぼ負けを認めたような外観を醸し出しはじめたであろう僕をしつように追ってくる。
ポピュラーが流れる中でひたすらに怯えるという経験は味わったことはなかった。
「サニー!」
スポットライトを全身に浴びながら鳥の巣アタマが叫ぶ。曲の中の恋が、僕のそれと同時に終わりを迎えようとしている。
「サニー!」
そうときたならば、ああイシ、イシ、もうやめてくれ。お前は勝つんだろう? それでいいじゃないか。僕は負け犬だよ。そこらで堪忍してくれ。
次の曲までの合間に酒でも頼もうか。
五
曲が途切れた頃、僕は席を外した。そこまで用を足したかったわけではないけど、トイレにでも向かって気を紛らわそうと思ったのだ。少し頭を冷やさなきゃならない。色々はあるけど、今日は……僕の壮行会みたいなモンでもあるはずなのだ。明日は二人して新大阪まで見送りに来てくれるというし、肝心の「主賓」が沈んでいたら何にもならないだろう。
”おケイの髪から乳房から足の爪先まで全部俺のもんや”
もっとも、便器に小便を叩きつけたくらいで思考が変化するほどに僕が単純な存在でないことも確かだった。それどころか、いつだったか石堂が口にした言葉が蘇ってしまう。彼は生身でも記憶の中でも襲ってくる。
「イシは……程なく寝るんかな」
手を洗い、うす暗い洗面台の鏡に落ち窪んだ目をさらしながら僕は呟く。つまること、後は肉体の問題でもあった。未来とは、そういう時が訪れる場だということに大した意識をもっていかなかったこともまた、敗北の原因の一つなのだろう。
知識がなかった訳ではない。クラスでヌード写真が回覧されて来たらそれを堪能して次のヤツにシワなぞ作らずに渡すくらいには礼儀はあったし、芳村さんがヨーロッパのブルーフィルムを入手したと聞いたら予備校をサボって大学生の家にだって駆けつけた。要は……そのあたりの知識を恵子に結びつけるという発想がなかったのだ。でも交際を夢見る場合は……石堂のようにそこを繋ぎあわせるべきだったのかもしれない。
何をしても考えが悪い方向へと向かう。 小便なんぞ、するものではなかった。
「ハタ坊、いつまで自分の顔に見とれてんのや」
よく知っている声がする。が、声の方向に顔を向ける必要はない。鏡の中には僕自身の他に歯を剥いた石堂の笑顔があったのだから。
「エラくキバってなさる思うたら、せやのうて鏡を相手に睨めっこかいなしょうもない。……お前、そんな美男でもあれへんのにどうしたんや」
大男はなおも鏡の中で微笑んだ。
「物思いにふけっとった……今夜のお前がえらい物騒やからな」
僕は落ち込みを隠そうと意地になったように鏡に向かって語りかけた。
「そうやなあ……俺もそう思うわ」
石堂はアゴに手をやるとゆっくりとうなずいた。意外さはなかった。やはり今晩の彼の言動には何かの意図があるらしい。
「だってなあハタ坊、俺はお前が腹立たしいのや」
肩に力がかけられる。そして、身体がくるりと回転させられた。僕は石堂によって鏡の世界の住人を追放され、生身の彼と向き合う破目になったのだ。
「明日、お前が東京に逃げる前にそれだけは伝えんとあかん」
タバコの薫りと酒臭さが絡み合った息が、つばきと共に送られてくる。
「お前は、何かに賭けようという構えがこれっぽちもあれへん」
僕は黙って彼の一言一言を聞いていた。つばきに顔をしかめるより、彼の本心を知ることが今は大事なのだ。
「闘争についてはまあ、いい。理解しようとせんボンチはお前以外にも仰山、おるからな」
フィリピン人のステージの裏で、もう一つの舞台でも熱演が繰り広げられる。小便臭い便所にふさわしいステージが。
「でもここまで腹が立つボンチはお前しか、おらん。ハタ坊は約束したような正々堂々とした勝負をほってもて、あっさりと俺に勝ちを譲ろうとしとる。気にいらん。俺は負け犬は嫌いやて」
石堂はついにその本音の全てを打ち明けた。それを聞き終えた僕は生唾をゴクリと飲む。怯えではない怒りが、ようやく一筋の道となって現れたのだ。
負け犬だって?
正々堂々としてないだとか臆病だとか好き勝手に言ってはくれるが、それが誰のせいだと思っているのだ。お前が学生運動に熱を上げ、他方で恵子の好意を確信した結果、こちらに対して攻撃的で傲慢でになっていったせいじゃないか。僕は臆病なんかじゃない。ただ変わっていくお前から身を守りたかったんだ。
「『負け犬』ねえ!」
僕はようやく声を上げた。的外れかもしれないし、あてつけに終わるかもしれないが石堂を罵倒するだけのカードを引き当てたのだ。
彼は細い目を薄くあけながらこちらを見ている。多少の反論をしてくることくらい、織り込み済みなのだろう。
「『負け犬』は僕以外にもおるはずやけどなあ」
そう言うと、僕はほんの少し石堂に歩み寄った。距離にして間は三十センチといったところか。それぞれの顔が強張っていくのが何とはなしにわかる。彼の顔にも多少のとまどいが見え隠れし、僕は僕でアゴに疲れを感じた。少なくとも僕の場合は明確に人を傷つけたいという気負いのせいだ。
「へえっ? ハタ坊の他にもおるんかいな?」
「おるよ」
空元気のような甲高い声に対して僕は冷静に答える。そしてこちらの次の言葉を待ち受けている石堂の胸ポケットから『ピース』とマッチを取り出すと、自らの口に咥えた。彼はこちらの無遠慮さを何も咎めはしなかった。
「僕の目の前に」
そう言うと僕はマッチを擦るとタバコに火を点けた。今回はむせかえることは、なかった。そして石堂が怪訝な顔を崩さないうちに僕は核心を告げる。
「何せお前は三月三日の国立一期校の受験日に京大を受けなかったんやからなあ!」
肺から大きく煙を吐きだした僕は、今日一番の大声を出す。石堂の顔がさらにゆがんだように思えた。
「肝心な時に東大組の参入にチビりよって浪人する思うたから同じ日の公立大に逃げたんや。お前は負け犬、いや、勝負すら挑まんかったんやからただの犬や」
おそらくだけど、言いきった時の僕は得意気に顔をテカテカとさせていたかもしれない。彼が「負け犬」かどうかという話題がおケイと闘争を巡る意思の擦れ違い、傲慢さと嫉妬の絡み合いからはずれていることくらい、理解はしていた。しかし、僕はこの点のみをもってしか彼を打ち負かす自信はもてなかった。あれだけうわごとのように言っていた京大を受験回避したという事実が、彼の持つ最大の弱点だと思っていたからだ。
僕は石堂を見据えた。
なのに、悔しいことにそこには困惑の表情などはなかった。彼は自らもタバコを咥えると、また、こちらに微笑みを寄越してきたのだ。
戸惑うのはこちらなのだろうか?
「ハタ坊、言いたいことはそこまでくらいみたいやね?」
「あ?」
「少し黙ろか」
まともな返事をかえす余裕は与えられなかった。次の瞬間、僕の口から吸い口をたっぷりと残した『ピース』が吹き飛んでいく。みぞおちに激痛がはしった。
僕はトイレの濡れた黒いタイル張りの床に、腹を抱えたまま前のめりに倒れてゆく。程なくして宙を舞っていたタバコも後を追い、傍らで断末魔を火種が消えていくことで奏でた。
「本当は顔を撲ってやりたいが、壁一枚向こうにはおケイもおるしなあ」
イモムシか何かのように腹を抑えてうずくまる僕の頭上から石堂の声がした頃、ようやくに何が起こったかを知った。顔だけでも上に向けてみたら、拳を握りしめた大男がいるのだからまあ、そういうことだった。
殴られたことに落胆はない。激痛の中で「彼は本当に変わったんだなあ」とだけ思い、一瞬のうちのそのパンチの鋭さに感嘆するばかりだ。大方、上ヶ原で用心棒を続けた効用なんだろう。
「そういう上っ面だけを見ているから……ダメなんや、お前は」
石堂がぎこちなく言葉を続けた。そのたどたどしさに何故か安堵を覚える。決して、こちらのボディにためらいなく拳をめりこませた訳ではないと感じたからだ。どこかでそのような処置を施すにはまずい親友だという思いでもあるのだろう。もちろん、だからといって痛みが収まるわけではないが。
「ベトナム、安保、沖縄……運動はこれから熱を帯びるんやで。まずは大学生になること、これが肝心なんよ」
僕がじわじわと広がる痛みの中に漂う中、石堂は京大断念の理由をとうとうと語る。酷い話だ。知識を身につけた学生が結果として闘争の中に身を投じる、なら分からなくもない。でも、石堂は闘争のために大学へ向かい勉強は二の次にするという。彼はそういう選択をしたのだ。
僕にはそれを批評する余裕はない。言葉どころか呼吸もやっとだし、飲み干したばかりの褐色の炭酸水が混乱にまぎれて口を逆流してきそうなのだ。もう、我が姿は完全にイモムシと化していることだろう。要は避けられない運命となったらしい嘔吐で床を汚さぬよう、部屋の片隅の排水溝まで這わねばならないのだ。上半身の激痛をこらえ、辛うじて動く下半身をずり動かしながらで僕は視界の片隅の金属の下水蓋を目指す。
「ギャポッ! ギャッポ!」
程なくして蓋まで到達した僕は身体を横たえるとこれを外し、その中へと黒い液体を流しはじめる。喉を焼けつくような酸味が覆い尽くすなか、石堂による追撃はなかった。大方、こちらの醜態を高い上背からノンビリと観察でもしているのだろう。
「福村さんがそうしろ、言うてくれた」
石堂はさらに一言つけ加える。思わず僕は排水溝の穴に顔をうずめることをやめ、遥かなる彼を見上げた。あ、結局のところ彼の価値観と進路を諭し決定に導いていたのはあの男だったのかという感慨が胸に溢れる。胃の中のものをあらかた処理して腹部の痛みが和らぎはしたが、新たなむかつきをもたらす名前だった。
親友が怒れる魂を重視しながら大学に進学する。それは全てあの小男の差し金だったのだ。あの言葉が確かなら、福村さんは確実に石堂を憎んでいる。その肉体を、正義感を、頭脳を。そんな本性は僕が伝えてさえいたら、とうの昔に石堂も気づけたかもしれない。
でも、もう遅かった。諦めるしかなかった。少なくとも石堂は、ゲロを吐きながら地べたを這う男が何を言おうがタワゴトだと切り捨てるだろう。それくらい僕らの間の信頼関係は揺らいでいる。でも、石堂が梯子を外される日だけは確実に近づいてくるというのだ。
「あこの方が京大よりも運動が隆盛になる、言うてくれたわ……小西さんも先にいるらしいしな」
「小西さん!?」
「知らんのか? あの人、今そこの全共闘の一回生のまとめ役だとよ」
「そう……」
戦意も覇気も失った以上、僕は石堂の言葉を淡々と聞き取るだけだった。
二年前を思い出す。おケイに会う前のことだ。石堂がリード・ギター、芳村さんがヘフナー・ベース、僕はサイド・ギターで小西さんがドラムス……。たった二年しか経っていないのに、ストーンズは随分な距離を転がっていったのだ。
「ハタ坊、福村さんに呼ばれているから今日はこれでサイナラや。金はこんくらいで多分、足りるやろ」
だが、元イシコロである石堂は我が感傷につきあうつもりはないらしい。したたかなパンチを喰らわせた男は財布を開けると、僕の顔のすぐ脇のタイルに千円札を二枚置いた。
何も言う気力はなかった。そうするには便所で得た情報量が多すぎたからだろう。
「色々あるけど、最後の大阪や。まあ、楽しんでいきや」
声が遠ざかっていく。僕は、やはりピエロだったのかもしれない。いや、便所から出ていく逞しい背中に何一つ声をかけられなかった以上はピエロにすらなれてはなかった。アメリカのマンガ映画で主人公にヒステリックに当り散らした挙句、全てを失う敵役といったあたりか。
遠くから拍手が聞こえた。『サニー』から数えても三回目の拍手のはずだ。いい加減テーブルに戻らなければならない時間がきている。席について、今の出来事をひた隠しにしながら愛想よくおケイに笑顔をかまして、そして今一度ピエロになるのだ。
六
「スマンスマン……冷たいモンがぶ飲みしたら少し具合悪くなってな……」
顔を洗い、口を丹念にゆすいでゲロの痕跡を隠した僕は薄笑いとともに席に戻った。石堂の姿はみあたらなかった。
「あ……波多野君、大丈夫なん? それに……石堂君は?」
「イシは様子を見に来たよ。で、どこぞに行きよった。大学生と話があるらしいわ」
「大学生……?」
「おケイも知っとる芳村さんていはるやろ? その友達らしいわ」
「芳村さんは知ってるけど……変ねえ。波多野君が東京に向かう前の晩だっていうのに。そら、明日も新大阪まで見送りに行くことになってるわけやけど」
おケイがこちらを見た。やむをえず僕も彼女の方を見返す。相変わらずに大きな瞳をしていると思ったが、思うことはそれだけだった。ピエロにはもっと重要な、場をやり過ごすという使命があるのだ。
「仕方ないわな。イシだって入学にあたって色々あるやろし、僕だけが特別って訳やない……」
そんな愚にもつかない言葉を並べながら僕は恵子の横で笑ったが、彼女はただ首を傾げるだけだったので視線を動かすことにする。
だだっ広いジャズ喫茶の四方は笑い声に満ち溢れていた。司会に入らなければいけないフィリピン人達がまだ演奏をしようとしないからだ。ステージの下からファンが贈り物を渡そうとむらがっているから仕方がない。従業員が制止しないところを見ると、大方彼らは次の曲あたりで今日の役目を終えるのだろう。
何か強烈な、会話が不可能になるほどの轟音をもってこの場をおさめてくれと願わずにはいられなかった。
「アリガト! アリガト!」
しかし、願いもむなしく鳥の巣アタマはプレゼントの襲来に夢中のままだ。女の子達が自分の眼下まで群がって来て、花束にチョコレートにジョニー・ウォーカーの黒までを手渡ししようとするのを眺めたら、最後に一曲キメることなんて二の次なのかもしれない。それにしてもジョニー・ウォーカーを差し出す女の子ってどういう家に住んでいるのだろう?
「水割りでも飲んだろかね」
ステージから再びおケイの方へと振り返ると、僕はアルコールのメニューを手に取った。ウイスキーを渡そうとする少女に感銘を受けたわけではないが、慣れない酒でも喉に流し込みさえすればこの場で味わっている途方もない感覚を安らげられる気がしたのだ。
なのに、僕がウイスキーを手に入れることはなかった。おケイが暗がりの中でボーイにかざそうとした僕の右手を掴んで引き戻したのだ。
「波多野君までそんな風に酔っぱらってどうすんのよ」
「どうするって……」
「あなたまで石堂君の真似をする必要あらへんってことよ」
恵子の目は笑っていなかった。そして、右手首を解放してくれようともしない。
「二人とも今日は変やわ。波多野君なんやボンヤリしてるし、石堂君怖いし」
射抜くような目から逃げるということは大変だ、と思った。手首にかかっている力は大したものではない。振りほどこうとするなら簡単に解けるだろう。でも、それをしたら僕は二人の道化としての資格を失ってしまう。だからただ黙って、薄笑いを浮かべるしか出来ない。
「ねえ、二人に何があったん? 誰にも言わないから教えてえな」
相手の目が懇願するようなものへと変わっていく。僕はどうしたものかと思う。この子を失望させない凡庸な一言が欲しかった。一方、視界の片隅でボーイ達がステージ下に群がっている女の子達を整理し始めた。バンドは直に今日最後の音を出すのだろう。
「僕は負け犬なんや。それが全てなんや」
「エイント・ガット・ノー・アイ・ガット・ライフ!」
恵子が僕の言葉に目を見開いた瞬間、鳥の巣アタマが叫んだ。バンドは知らない曲を演奏し始めた。恐ろしい音量のファズギターと端正なオルガン、そして歯切れのいいリズム隊がこれでもかと言わんばかりに場内いっぱいにリズム・アンド・ブルースを届けはじめる。
知らない曲だった。でもボーカルが絶叫した言葉が曲のタイトルならば、その意味くらいは分かる。『エイント・ガット・ノー・アイ・ガット・ライフ』今日の僕に実に相応しいじゃないか。
「そう……。でも、ウチだけは新大阪まで行くよ?」
轟音の中、恵子の声が聞こえたような気がした。そして、それは気のせいではなかった。酒を阻止するために我が手首を握っていた少女の手は、いつの間にか僕の手のひらへと上がってきていた。
「おおきにな、おケイ」
何もなくても、僕は生きていたのだろう。だから恵子の手を握り返した。かつて恋があったとして、その代価として受け取るにはこれだけで十分なのかもしれなかった。




