第56回~昭和44年3月27日「エイント・ガット・ノー・アイ・ガット・ライフ」(前)
一
ルパシカ風の極彩色のシャツで身を固めた浅黒い五人の男たちは、ジャズ喫茶のスポット・ライトに照らされた舞台の上でしばらくの間「ドモドモ」とか「コニチワ」などとボソボソと呟いていたが、やがてそれぞれの楽器とマイクを手に取った。パーマをキツくあてたせいで鳥の巣のような髪で輪郭をすっかり覆ってしまっているボーカルが、客席に向かってぎこちなく微笑みかける。
「フィリピンのバンドなんだって」
ざわめきに満ち溢れる暗がりの中でパンフレットに目を落としながら、おケイは僕と石堂に話しかけた。
「へえ、フィリピンかあ。スーナーズみたいなもんやなあ」
まず、声に反応したのは石堂だった。だがその声にはいつもの威力がないと僕は感じた。それでも、少しくたびれたような風情の彼はおケイに気をつかっているのか彼女から渡されたパンフレットに目を落とす。
「……見てみ、ハタ坊。こいつらマニラ出身やけど香港でデビューして、今度は日本でもレコード会社と契約するんやと」
「フィリピンに香港いうたら英語が本場モンやからな……。そのうち日本のバンドも発音を習いに詣でたりしてな」
語りかけた内容を綺麗に拾った回答をした僕は、三人を包み込んでいるボックス席の椅子へと尻をうずめた。少し視線を上向きにした方がステージがナンボか見やすいだろうと思ったのだ。
「テレビにも出るかしら? この人たち?」
何か話題をだして場を盛り上げたいと思っているであろうおケイが今度はこちらに声をかけた。だが、僕は虚ろさから抜け出そうとはしない。
「そらあ、でるのんとちゃうか?」
愛想もヘッタクレもない言葉を送ると、僕はまた背もたれに身体をあずけた。久しぶりのスラリとした彼女の姿を見ても、不思議と今までのようなときめきも高鳴りもない。「三人の合格祝いにロックを聴きに行こうよ」という恵子の誘いで東梅田にあるこの店に皆で向かうときから、いや、ここ最近はずっとそうなのだ。
石堂は偉いな、と思う。彼はまだ僕よりかは場を和ませる方法を知っているのだろう。ひょっとしたら、いや、ひょっとしなくとも普通にこの場を楽しんでいるのかもしれない。恵子こそが天下の美女であり石堂こそが日本の快男児だった。そして僕は……ただの甘ったれた十八のガキだ。
「そうなれば……あ……」
おケイは何かを言いかけて、止めた。ドラムスティックがカウントをとる音がかすかに聞こえはじめたのだ。それを合図に座席からもダンスフロアからも嬌声が曳いていき、音楽を聴こうとする環境が瞬く間に整えられていく。
ファズ・ギターの音と甲高いコーラスが響き渡った。どうやらバンドが一曲目に『ホワイト・ルーム』を選んだらしい。何人かの威勢のいい連中がフロアに繰り出して下手なゴーゴーを踊りだすが、僕らを含めた大多数の人間はギタリストの指先に息を呑んでいる。音に凄まじい圧がかかっていた。日本人には、これだけの分厚いファズを出せる人間などなかなかいない。でも、技術に感心している様をフィリピン人がどう思っているかは分からない。大方、日本人なんて随分と白けた奴らだとでも思っているのだろう。
両手を後ろに組んだ長身のボーカルが身じろぎをせずに朗々と歌いだす。バンドに感謝しなきゃな、と思った。少なくとも演奏の間は気まずい会話に意識をとられなくてすむのだ。
恵子の横で石堂が『ピース』を吸い始める。少女は苦笑したが、たしなめなかった。
二
いよいよ四月を迎えようとする中、僕にも石堂にも第一志望に合格して小躍りするチャンスは与えられなかった。僕の家に早稲田大学の構内で頼んでいた合格電報が届くことはなかったし、彼の受験番号も掲示板に貼り出されることもなかった。僕は辛うじて第二志望である法律学校に系譜をもつ東京都心の私立大学に滑り込み、石堂は石堂で南大阪の公立大学へと進学することに決まっていた。
あれだけ必死に受験勉強をした割には手放しの賞賛がためらわれる不本意な話だ。だから、合格祝いと明日には上京する僕の送別を兼ねたこの場にあっても意気があがらないことおびただしい。
それに、意気があがらないのは受験のせいだけではなかった。僕はあの日、石堂に暴言を撒き散らした挙句に全てを打ち明けてしまった。一時は彼を猛烈に追い上げていたはずが、結局は掘った墓穴に自ら入っていってしまったのだ。
もちろん、まだ全てが終わったわけではない。でも、僕が遠くに言った後も「おケイは自分のために関西に残った」という文言が石堂の心の中に湧き続けるのだろう。
未来などみえていた。
「『ホワイト・ルーム』デシタ……ツギ、ハ、ジェファーソン・エアプレインヲ、ヤルヤル……ヤリマス」
次の曲がサイケの極みにいるバンドのそれだと分かった恵子の顔に明るさが灯る。この少女だけが無邪気だった。ベージュのコットンパンツと胸のふくらみを強調する黄色いタートルネックで傍らに腰かけ、バンドの拙い日本語に一生懸命に微笑をおくる彼女こそ受験戦争の勝者だった。決して進学に特化した学習をしていたわけではないのに四年制大学への進学を決めた途端、僅か四ヶ月の勉強で上ヶ原の社会学部に五倍の倍率を突破した人間が勝者でなくてなんだというのだ。
「凄いよなあ……リズムの刻み方もソロもええ……」
バンドが次の曲に取り掛かる前の僅かな時間を切り取って石堂がうなる。僕はその顔を少しうかがってみたが、悔しいことにこちらが望んでいたような憂いはなかった。さっきくたびれた風に見えたのは錯覚だったらしい。
要は彼は全力でこの場を楽しんでいた。志望校に入れずとも、おケイのそばにいられる以上はそうなるのだろうか。
「エコーチェンバーはビンソンや。ええ楽器使とるのお……なあ、ハタ坊」
なのに、サッポロの小瓶を呷りながら満足そうな声を漏らす人間が話し相手に選んだのは僕だった。
「せやなあ……パールのドラムにフェンダーのジャズベース……マイクはAKGときたらなあ」
「なあ! パンフレットには契約したのは大都レコードなっとるけど、レコード発売前からこんだけ機材そろえてやるだけの価値ある演奏、しよるもんやなあ」
イシ、頼むからやめてくれと願わずにはいられなかった。もうお前がどんなに無邪気さを装っても、あるいは純粋に無邪気であっても、いずれにしたところでその言葉が優越感から来るものとしか感じられないのだ。おケイの一件を白状してからの彼は、かつての人当たりのよさを完璧に取り戻してしまっていた。
「大都か、あこやとせいぜい『大都アワー』くらいしかテレビに出られへんからちょっとしんどいかもな」
明日には東京に消え去る僕は、つまらない返事で会話を打ち切る。消えるだけかもだけれども、その前におケイの顔を一目拝んでから新幹線に乗れるならとりあえずはいいや、などと気楽に思うのではなかった。
ドラマーがスティックでカウントをまた、とりはじめた。再び、惨めな考えをまとめるだけの猶予が三分間与えられる。
三
「波多野君、やっぱりさっきから変よ」
そうおケイが切り出したのは、バンドが爆撃機のようなファズ・ギターを響かせてジェファーソン・エアプレインを演った直後だった。
「そないに僕は変……かなあ? いつもどおりのつもりやで……?」
慌てて誤魔化そうとするが、彼女は誘いには応じようとはせずに更に言葉を連ねる。
「ウン……だって、こうして三人で遊ぶことかてもう夏までは出来ひんいうのに表情もなんや暗いし、どうしちゃったのかなあて思うたんよ」
「いやいや、明日からへの期待と不安で頭がいっぱいになってしもうてナ……。おケイ、心配かけてえらいスマンなあ」
「そう……それならええんやけどねえ」
おケイは小首を傾げ、アイスコーヒーを口に含んだ。そして、顔を傾けた先にいるもう一人の男へと関心を移していく。
僕の扱いなんて、そんなものだ。
「石堂君も、そんなに呑んで大丈夫?」
恵子が真に気にかけているのは、関西にとどまらなかった僕ではない。ビール一杯百八十円のこの店で、何杯もジョッキを空にしていく石堂の酩酊具合なのだろう。
「心配あらへん。春から大学生やさかいな」
理屈が伴わない答えを赤ら顔の大男が口にした。それと同時に、「ぷう」という大きな吐息も同じ口を出て行く。言葉とは違い、決して十八歳が得意にはしないアルコールが彼の身体を羽交い絞めにしようとしている。
「そんなん言うてからに……もう二杯も空けてるやないの」
ほとんどアベックだな、と感じながら僕はコーラのグラスを手に取った。暖房が効いているせいか、運ばれてきたときにはギッシリと詰まっていた細やかな氷が消えかけようとしている。
「へへっ。酒に強いのが男のシルシやておケイ!」
どうしてひと時でも、彼を出し抜けると思えたのだろうか。未成年で堂々と酒を注文する彼と、補導を気にしてコーラをなめているだけの僕の間にはもう、断絶があった。学生運動にほれ込んでしまった男と、新聞やテレビで伝えられるそれに不快感を覚えているだけの男とには差があった。
そして……多分、女の子はためらいなく野放図に動ける人間を選ぶのだ。
「それでなあ、おケイ!」
「何?」
上気した男が少女に何かをまた話そうとしている。僕は耳をそばだてながら、ただただバンドが早く演奏を再開してくれとだけ願っていた。曲の合間合間の店のざわめきの中では、そうしたくもないのに会話を追ってしまうのだ。
「エ……『ホワイト・ルーム』ヤリマシタ。『ホワイト・ラビット』ヤリマシタ……」
無駄な願いだった。二曲唄い終えた鳥の巣アタマのボーカルは、たどたどしい日本語での司会に余念がなかった。
そして、酔っ払いがその隙を……衝いた。
「ウン。あんなあ、おケイ。酒も飲めない男なんて何をやってもダメなんやて……ほら、そこのハタ坊みたくな」
席にもたれていた僕は弾かれたように飛び上がると、石堂の顔を凝視した。前触れがない、身構えることのできない言葉だった。シャツに湿り気を感じる。きっと、コーラのグラス以上に僕の身体からは汗が垂れ流しになっているのだ。
「ちょっと石堂君! いきなり何言うてんのよ!」
おケイの声が聞こえる。が、肝心の僕は何も言えない。あの日以降、「勝ちを意識」するようになっていた石堂の明るさが見せかけのものであったということに思いを至らせることで必死だったのだ。
「あ、おケイには分からん話やったわなあ。ただ、結局んところ負け犬は負け犬でしかないとふと思うただけやて……」
石堂の言葉がマシン・ガンのように僕を目がけて襲ってくる。それでも、僕はまだ言葉が出ない。呆気にとられているおケイと、赤い顔の中で目じりを下げてニヤけだした石堂を交互に見返すだけだ。
怒りはまだ全身を支配していなかった。呪うべき存在が彼以外にもいるからだろう。そいつは、かつて恵子の提案を拒むことと、石堂への敵意の代償で東京に出る人間だった。
「石堂君! よう分からへんけどやめてえな!」
「おー、せやな。この場はこんくらいにしとこか」
悲鳴にもにた恵子の制止する声とそれに緩慢に応じる声の中、僕は低く頭を垂れて拳を膝に置いた。それだけしか出来ることがなかったのだ。
「エ……ツギ……『サニー』ヤリマス。ボビー・ヘブノ『サニー』ヤリマス! キイテ、オドテ、クダサイ!」
全身に厚ぼったい疲労がまわり始める中、唯一自由になっている耳にフィリピン人の声が飛び込んでくる。
こんな日に限って『サニー』だなんて。実にケタクソ悪い、辛気臭い曲じゃないか。でも、今の負け犬にはふさわしい曲なのかもしれない。戸惑う恵子と不気味な石堂を横目に、僕はまた席に深々と座りなおした。
「『サニー』ねえ」
僕は石堂にも恵子にも向けられてはいない一言をもって目を閉じた。自分を呪うだけでなく石堂への怒りを探し、洗練させるためだけに必要なものは曲ではなく、その演奏時間だった。




