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恋のほのお  作者: 桃山城ボブ彦
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第54回~昭和45年6月23日「みんな夢の中」(前)


「有効票が合計四十七票。そして賛成二十八に対し反対十九、これをもって本議案は可決されました!」


「いいぞっ!」


 黒縁メガネのクラス委員長が重々しく開票結果を口にした途端、語学の教室内は拍手と野太いかけ声に包まれた。彼は、提案した緊急動議が無事に受け入れられたのが満足なのか一つ頷くと、少しだけズレたメガネに指を触れたのちに言葉を締めくくった。


「本議案の可決により我が語学クラスは本日夕刻六時より清水谷公園を出発する、安保延長とインドシナ戦争に反対する○○連合主催の集会およびその後のデモへの全員参加を決定いたします。……よござんすね? よござんすね?」


 委員長が少し首をすくめて声の調子を上げながらあたりを見回す。大方、やくざ映画の丁半博打で胴元がサイコロへの注意を客にうながす時の仕草の真似だろう。


「異議なし!」


「今日をもって七十年代の闘争が始まるぞ!」


 僕は苦々しい気分でその物真似と、それにあわせた景気のいいかけ声を受け止めていた。気に食わないことばかりだ。まず、「全員参加」というのが嫌じゃないか。それに、一応にも決を採る場だというのにふざけるのも褒められたものではないし、何よりも委員長の物真似が下手だった。きっと、映画を観ていないに違いない。


「皆さん、感謝します。では四谷の公園に現地集合ということで……。あ、一応その場で点呼を採ります」


 なんてこったい! 僕は髪を掻き上げる。それじゃサボタージュも出来ないということじゃないか。物憂げな気持ちになる。意にそぐわない集会やデモほど嫌なものはない。それが徒労に終わると分かりきっているのなら余計にそうだ。


 まったく、何が「七十年代の闘争が始まる」だ。いつまでもデモにかまけるほど暇で気楽な存在でいるつもりなのだろうか。


「……用事は済んだようですね……では、授業を始めます」


 教室の片隅に追いやられていた一限の英語担当である助教授がおそるおそる教壇へと向かい始める。その足取りは何か罵声を浴びせられるのを恐れるかのように慎重なものだったが、そういった事態にはならなかった。かといって授業の時間を中断したクラス委員長が率先して誘導し、謝意を述べるといった光景も見当たらなかった。年長者に対する敬意の欠如と、傲慢さが僕の属する世代の特徴なのだ。


「始まるわね」


 隣に座っている多英が一言、僕に告げた。



「……それじゃ、波多野クンは行きたくないって思うのね?」


 昼休み、学生食堂の向かいの席に座った多英が訊ねた。小さな手がしきりにライスカレーの中へとウスターソースの瓶をふりかざしているが、目だけはしっかりとこちらに向けられている。


「だってなあ……。なんであないな行動に加わらせられなきゃいかんのや」


 申し訳程度のネギしか入っていないカケウドンにウスター……ではない、一味をふりかけながら僕は答えた。関東特有の濃い出汁から何とか辛味で甘味を消そうとするなら、嫌になるほど汁を真っ赤にしなければならないのだ。


「ターに話したかもしれないが、あまり僕はああいうのは好かん。大分、好かん」


 ひと口だけ麺を啜りこみ、辛さが十分に行き渡っていることを確認した僕は答えた。甘さを消すのも楽じゃない。


「でも、クラスの決議では全員で参加ということになったじゃない」


 あちらこちらの席から立ち昇るタバコの煙とざわめきの中で彼女が問い返す。だが、そのたしなめに対しても僕は目を瞑ると首を横にふる。多英がデモに賛同しているかどうかは分からない。でも、彼女が何をもって説得しようが、何回でも否定するつもりだった。


「決議を無視するのは嫌だよ。そりゃ。でも今日の夕暮れにデモなんざ行うなんてぇのは、少しの収穫もない示威行動でしかないよ」


「うーん……」


 多英は頬に手を当てて少し考え込むようなポーズをとったが、やがて埒が明かないとばかりに天を仰いだ。少しばかり突き放し過ぎたかもしれない、という思いがよぎる。

 だが、それは早計にすぎたようだ。彼女はまた、視線を僕の方へと向け直すと僕が言われたくなかった一言を正確に用意してきたのだ。


「じゃ、今までの波多野クンのように逃げてみようとするわけ?」

 

「違う」


「違わないわよォ。それに、学生運動をやっている石堂君への複雑な感情があるからこそ、同じ道に数時間でも入るのが嫌なんじゃないの?」


 そこまで話すと、多英はライスカレーを口に運びだす。別にこちらに呆れたからではないだろう。出された時から大した熱さをもっていなかった学食のカレーに膜がはりはじめている。まずは食事が優先ということなのかもしれない。まあ、話はそれからでも遅くはない。


「ター」


 こちらが丼の中身を殆ど空け、多英も同じように平皿の米とカレーを平らげた頃、僕は話題に立ち返った。


「そうだよ。僕は逃げたいとずっと思っている」


 灰皿を手元に引き寄せながら僕は話し出した。


「でも、逃げられなかった。本当に、容赦なく色々が起こったもんだよ」


 食後の一服を咥える前に僕は少し自嘲気味に語った。


「そりゃ、波多野クンは逃げようともせずに佇んでいただけだもん」


 口をハンカチで拭った多英は、タバコを吸い始めた僕をいつかのようにアッサリと評価する。何か言い返そうかとも思ったが、それは止めた。悩みはしたが、結局のところは彼女が言うとおりだったのだ。


「そうさ……。だからせめて、逃れたかった集団への参加だけはしたくない……」


「ふうん……」


 こちらが『わかば』を咥えている様を、多英はテーブルに頬杖をつきながら眺めていた。が、それにも飽きたのか自らの真横に座っている男に発言を促す。


「ねえ、一誠はどう思う。波多野クンの感情について?」


「ん?」


 何かを読みながらの食事というものはどうしても遅くなるものだ。少女に名指しされた中田は、モソモソと焼き飯をスプーンで口に運びながらで先程まで受けていた映画論のノートを見る作業を中断させられ、呼びかけた声の主へと顔を向ける。


「ちゃんと聞いときなさいよぉ! そんな風にノート眺めるなんていつでもできるわ!」


 会話そっちのけで食事と復習に没頭していた中田の頭を、多英の手が軽くはたいた。中田は何も抵抗せずに、首をのけぞらせると白目と舌を見せる。まるで暴力(どつき)漫才をやる大阪の夫婦(めおと)芸人のソレのように違和感がない。こういう一景を見る時、僕は何ともいえない感情になる。まだ、届かないのかもしれない。


「そうねえ」


 中田は髭をさする。が、彼の話題への参加は明後日の方向をむいたトンデモない言葉で始まった。


「しかし、ター。さっき先生が言っていたじゃない。ヒッチコックが撮った、男女が抱き合ったままの寝台急行がトンネルに入っていくカットってねえ、もう、ハレンチよねえ!」


 話題がズレてしまったことに失望したのか、多英がうんざりとした表情を浮かべた。


「アンタねぇ。デモの話もどっかにほったらかしたうえで、美女に対してそういう映像に感動した、とか真顔で言う?」


「だってサ……アタシ童貞なのよ! 絶世の美女に言葉を求められた時のノウハウが分からないのは仕方がないわ」


 中田の大声に後ろの席でラーメンを啜っていた集団が少し背筋をひくつかせる。多分、そこに何人か童貞がいるのだろう。僕はびくつきはしない。ただただ、ヒッチコック映画でのエヴァ・マリー・セイントのエキゾチックさを強調する頬骨を思い浮かべる。


「知ってるわよ。でも、今更堂々と言うほどのもんではないわね」


「ごもっともね……。でも、波多野の気持ちは童貞でも分かるわよ」


 焼き飯の中の細かい肉をスプーンで探し求めていた中田が語りはじめた。


「波多野、気持ちはわかるけど行った方がいいと思うわよ」


「なぜ? 行く価値なんて何一つないと思うがねえ」


 僕は二人に向けて針が十二時四十五分を示している腕時計を突き出した。別に、昼休みが始まって三十分が経っていることを教えるためではなかった。日米安保が正午に自動延長となってもう、四十五分にもなることだけが伝えねばならない重要なことだった。


「そうよね……言いたいことは分かるわよ。そこに関してはアンタの言うとおりだわね」


 肯いた中田は文字盤を眺めていたが、やがてポツリと言った。


「でも、それとは別に行った方がいいと思うのよ」


 彼は焼き飯を一口ばかり頬張った。


「それとは、別?」


「そう。アンタ、今日のデモに行くのは決して取り込まれる訳ではないわよ……。アンタが恋をしながら……悪いわねター……散々に思い悩み苦しめられた運動がこれをピークにして消えていく場なのよ」


「そんな都合よくあの手合いの熱が退潮するものかなあ」


「するわね。アンタが以前にロック喫茶で言っていたみたいに、自動更新は彼らに情熱だけでは何もできないことを悟らせていくわよ。……今日の場は単なる自棄、いわばライオンが死ぬ前に大きく吠えるだけ。それ以上でも、それ以下でもない」


 彼は湯呑みで水を呷り、油を喉から一掃するとまた話しはじめた。


「アタシ達の世代も直に世間に入っていくのよ。ま、アタシはまだ薬科大にいかなきゃならないけどね。そして、四・二八や十・二一と重ねることによって世間は学生の暴力に失望しているわ。アイツらにとってもここらが社会に向かう前の落としどころになるでしょね」


 あ、と思った。確かに、僕はこの狂乱が退潮していくことを願望としていた。あの場で彼は曖昧な返事しか返さなかったが、思っていたことは似通っていたらしい。が、この場での冷静な視点だけは僕が持っていないものだった。


「社会はマガジンやジャーナルほど優しくはないとそろそろ分かる頃かも、よね。波多野クン、腹は決まったわね。逃げちゃダメ。夕方は清水谷公園に三人で行くわよ」


「全部が燃え尽きてしまうところ、見届けないとねえ」


 多英の言葉に中田がゆっくりと頷く。いつの間にか焼き飯は綺麗に平らげられていた。そして二人はこちらの回答を待つかのようにこちらを見つめた。

 僕はそれぞれの顔を交互に見返したが、やがてアゴを縦に振った。


「分かったよ」


「そうこなくちゃねえ」


 多英が笑い、クシャクシャの『クール』を鞄から取り出した。話題はまた、別の方向へと移っていく。


「それにしても委員長の賭場の真似は酷かったわねぇ。ぶっ飛ばしたい代物よ」


 彼女は先ほどの議決の顛末について言い放った。その通りだった。抑揚もクソもない、演劇学科の学生としては酷い代物でしかない。


「ターもそう思った?」


「僕も辟易としたわ」


 少女の軽口に男二人が加わる。ひとしきり笑う中、ヤクザと学生闘争はどこかで相通じているなと感じた。両者とも言葉と行動は崇高で激烈で、それでいて周りに何も遺さない代物だった。

 そして、果てるのだ。

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