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恋のほのお  作者: 桃山城ボブ彦
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第53回~昭和44年2月7日「自由への讃歌」(後)


 石堂の背中が徐々に巨大になっていくような錯覚があった。いくつか言葉を投げてはみるものの、彼の首はこちらを振り返ってはくれない。すべては僕の失言のせいだった。肝心な話に移る前に、思わず言ってしまった単語が彼をかたくなにしているのだ。

 なのに、説き伏せることが困難になったというのに、爽快感が冷や汗の脇でくすぶっている。たった一言ではあったが僕は、去年からずっと彼に抱いていた劣等感や嫉妬から産まれた感情を初めて真正面からぶつけてやれたのだから。もっとも、その行為はもちろん余計なものだった。ここにきた目的とを台無しにするものだった。だから、湧き上がった僅かばかりの快感を次々と後悔に塗りつぶされながらに僕は佇むしかない。


「ハタ坊、こちらからはこんな夜更けに話なんてあらへん……悪いが帰ってええよ」


 机の上に移したピース缶から新たに一本抜き取りながら、羽織ったドテラの背中の花模様を見せたままに石堂が喋りだす。


「この通り、警備以外は寸暇を惜しんで机に向かわな京大には入れんのやさかいな」


 そう言うと、彼は整然と並べられた机の上の英語の参考書を指でさらいはじめる。


「東大の入試がのうなったせいで、浪人生どもが京大に切り替えてきとるからな……迷惑な話やで。なんで一橋とか東北大あたりにもっとこう、殺到してくれへんのや……」


 そう石堂はぼやくと、顔を少しばかり窓の外の闇へと向けた。

 今年の受験界隈は、東大の入試の中止を受けて奇妙な様相を呈し始めている。既に二月一日から来月三日が試験日の国立一期校の願書の受け付けは始まっていたが、後がない東大志望だった浪人生達の多くは東大と共に心中する訳にはいかなかった。彼らの多くはニュースで辿る自分たちの運命に疲れ果てていた。現役の志望者のように殊勝な面持ちで「一年待ってでも東大に行く」などとは答えられないのだ。国公立志望の浪人生達が代替案として目指す学校は一橋大であり東北大であり、横浜国立だった。そして、そういった「代打」の学校の頂点の一つが京都大学なのだ。

 元々から京大志望だった人間が吐くにふさわしい愚痴ではある。だが、ぼやきの可否などどうでもよかった。僕は彼の背中をほくそ笑みながら見つめた。思いがけずも石堂が、さっきの僕のように不用意な一言を繰り出したことに気づいたのだ。


「イシ、お前、その程度か? お前、その程度の根性なんか?」


 とっくに冷めてしまった、訪れた際に彼の母親がだしてくれたままのコーヒーを飲むと、僕は彼への『攻撃』を開始する。英訳のためにせわしなく鉛筆を動かしていた彼の右手がとまった。


「どういうことやハタ坊」


 久しぶりに石堂がこちらと視線をあわせた。相変わらず冷笑を気取っているかのような細い目があった。ただ、心なしか頬がひくついている。


「どうもこうもないがナ。浪人生が西に向かうのはお前の同志が東大の入試を文字通り『粉砕』した結果やろ? 文句垂れるな」


「何ぃ?」


 石堂は椅子から立ち上がるとこちらが座っている前まで近寄り、腰をおろした。もう、薄ら笑いはなかった。挑発が効いているのだ。満足した僕は、コーヒーを飲み干すと更に畳みかけることにした。


「興奮するなや。大義をもって散った連中にシンパシーは感じるが、そのシワ寄せが自分の進学なんていう私利にくるのは嫌や、なんていう甘えた根性のままお前バリ封に加わっとんのか?」


 不機嫌な面持ちの話し相手は言葉に反応できない。僕の独断場が訪れようとしていた。

 言いながらに「まずいことを言い続けている」という感覚は確かにある。だが、煽る欲望が止まってくれない。快感と好奇心が再びためらいや後悔を制しつつあるのだ。僕は一度で良いから彼の優越感を他の物事に頼らずに自らの手で背後から切り刻んでやりたかった。そして今、そんな夢にまで見たチャンスが手元にまわってきている。試さない手はないだろう。

 この突拍子もない願望は、今日この場所に来た目的とはかけ離れている。今日の僕はただ、せめておケイが入試を受ける時だけは石堂が闘争に参加してほしくないからこそ、彼を説得したかっただけなのだ。おケイがどちらを選ぶかの前に、三人が良き友人としての外観を保っている以上、そういった事態を防ぐことこそ我が最低限の使命だろうと思いこもうとしていたから、ここに来たはずなのだ。


大層(たいそ)なエゴイストやのお、イシ」


 だが、最早そんな使命はどうでもよくなりつつある。刺せばいくらでも肉がえぐれるかのように言葉と感情が威力を持っているという確信がそうさせた。もう、興奮のうちに突然手に入れたこの武器を試してみたいとしか思えない。制御が、出来ないのだ。


「ハタ坊なあ……お前、何しにここに来た」


 でも、相手の少しの隙をついた興奮はすぐに停まってしまう。石堂が意外にも早く、こちらの攻勢に対して体勢を立て直したのだ。


「えっ……それは……」


 僕は言い澱んだ。何重にも繰り出すはずだった攻撃は、どうやらほんの数回でかわされてしまったようだった。


「だから、何しにこんな夜更けに来たかと聞いとる」


 重く低いしわがれた声が暗い眼差しと共にこちらに向けられた。不意打ちで一方的に打撃を与える、パールハーバーのような時間は終わっていた。そして僕は、正面切っての彼との口論では今まで勝った試しがないことを遅まきながら思い出した。


「それは……」


 いつしか武器は消え失せていた。そして、防ぐ盾も僕は最初から持ってはいなかった。発作的に起こった「石堂を切り刻む」ことへの興奮が落ち着き始めている。後に残ったのは、説得ではなく挑発に夢中となってしまった後悔と動揺だった。僕は彼を切り損ねた。次は切られる番だった。


「俺はお前が大方、明後日おケイが受験する際に俺が居合わせるのが忍びないから説き伏せに来たとばかり思っていたよ」


「イシ、そのとおりで……」


「でも、どうやら違うみたいやの。……もうお前が分からんよ、ハタ坊」


 針のような目の下の大きな口が、僕の弁解もどきを拒むように開かれた。逃げることは許されなかった。


「最初に『逮捕が心配やから行くな』たら言うたな? ふざけるな。本当にそないに心配なら、なんでもっと早うに来ん? 俺が停学になった時あたりでも良かったやないか」


「僕は……イシ……」


 何かを言わなければならなかった。しかし、言葉は出ない。何を言おうにもさっきの興奮、石堂を純粋に傷つけたいと思った前科が全てを遮ってしまう。傷つけたくはあった。が、実際に傷つけてしまうつもりはなかったのだ。宙に吊るされながらだと、咄嗟に思いつくような言い訳はでてこないし、仮に思いついても彼を納得させる自信もまた、なかった。

 石堂の目がすわった。その時、大きな両手が静かに僕の肩へと置かれる。彼は挑発によって興奮など、微塵もしていなかったことを僕は察した。彼はただ、こっちが一人で攻撃的になり、やがて戸惑っていく様を冷静に観察していただけだったのだ。


「お前は要は、俺が試験当日に行くのを説得はした、というおケイへのアリバイが欲しいだけなんや。それで来たんや」


 優しげな口調が、つばきと共に僕の感情を貫いた。考えも及んでいなかった結論が下される。が、多分そうだったのかもしれない。いや、そうなのだろう。知らず知らずのうちではあるが僕の中に、去年の暮れに恵子から持ちかけられた「石堂のために地元に残る」という提案を拒否した後ろめたさは確かにあったのだ。


「俺は行くぞ絶対に。これでも海軍中尉のセガレや。立派に闘ってやる」


 石堂は少し微笑んだ。それを合図に会話は途絶えた。武器も盾もない僕は負けようとしている。



 全てを見通されていた僕は、石堂の言葉の一部の揚げ足をとることにも失敗し、この部屋にとどまる資格らしきものをほとんど失ったに等しかった。彼はもう話を必要とせず、気分転換なのだろうか、ドーナツ盤をターンテーブルに載せると、机に向かいながら耳をくつろがせる。ラスカルズのリズムにあわせて、ドテラが小刻みに揺れ始めた。

 石堂はもう、僕を無視しているのだろう。最早、「帰れ」との催促が繰り返されないことだけが僕がこの場に居続ける資格だった。と、なると、おそらくだがまだ彼はこちらを本心から排除しようとはしていない。

 僕には挽回の機会があるはずだった。だがそれは、彼を打ち負かそうとする色気を出さずに、ある事実の紹介と共に「機動隊の下に出向いてくれるな」、と説得することでのみ可能なことだった。でも、そういった風にするのがいいのだろうかは分からない。


「……イシは警棒が怖くないのか?」


 ラスカルズのオルガン・ソロが落ち着いたころ、僕はもう一度彼に問いかけた。だが、音楽がなくなった空間では、石堂の右手の鉛筆はドラムスにご機嫌になるようにはせわしなく動いてくれない。


()()()()()()火炎瓶も投げるし、石も投げる。ゲバ棒かて器用に操りよる。でも、一旦捕まったらザクロのようになって道路に転がるんやで……。廃人になるかもしらんのに、何故行くのや? 大体、お前の親御さんも止めへんのか?」


 返事を寄越さない石堂に、僕はしつこく話しかける。もう、嫉妬や反感を考える余裕はなかった。このまま、自らの失態で幼馴染に突き放されてしまうことを避けたいという一心しかないのだ。

 彼の機嫌を直すことは簡単なことだろう。まだ口にしていない事実を口にした瞬間、彼はたちどころに今までの我が暴挙を全て許すはずだ。だがそれを言ってしまうと、僕は彼を利するだけの行為を犯してしまうというためらいがまだある。結局、僕は手探りで「外堀」のみを埋めていく作業をもって心変わりを待つしかないのだろうか。


「親父は反対しとらんよ。俺らの主張はヘドがでるほど嫌いだが悔いなくやれ、言うとる」


 石堂は再びこちらに身体を向けると立ち上がった。読みはあたっていた。まだ、彼は僕を拒んではいない。

 だが、まわり続けているレコードから針を上げながらに呟いた答えは意外なものだった。


「ホンマかいな」


 彼の言葉に僕は思わず、このひと時を取り繕うことを忘れた。士官出身の父親が、左派の運動に息子が憧れることへの許しを出すなどという話があるのだろうか。こちらの驚きをよそに石堂はゆっくりとうなずく。そして、彼の父親について話が始まった。


「ハタ坊も知ってのとおり、戦争が終わった時親父は本土にいた。でも、基地には『徹底抗戦』叫ぶ連中がいてな。当然親父も参加を呼びかけられたんや」


 部屋の主はまたタバコを咥える。一本分を必要にするくらいには、話は長くなるようだ。


「親父は参加せんかった。本音では上陸する米軍に一矢報いたかったらしいが、玉音に逆らうことだけは帝国軍人として出来なかった」


 ラスカルズをしまいながら海軍中尉の息子は煙をあげると、思想も信条も違うであろう父親の無念を思いやるように宙を見上げた。


「……抗戦を主張した人たちはどうなったんや?」


「そら鎮圧され、自決したってよ。まあ、親父かて加わったら確実に割腹していたやろな。いわば俺はためらいのおかげで生まれたガキということや」


 レコードを棚にもどしながら石堂が自嘲的な言葉を吐く。無念そうな横顔がそこにあった。そして彼は今一度椅子に座り、灰を少し灰皿に落とすとこちらを見た。


「だから、親父は()()()()()()()()()()()()()()()と言っとる」


 いつの間にか、彼から憂いの表情が消えていた。僕の前には迷いがないとしか見受けられない笑顔がある。父の二の舞はすまいとでもいうのだろう。

 一方のこちらには新たな後悔が芽生く。「親も心配しているから止めろ」という一般論が全くに通用しなかったのだ。月並みな言葉ではこの場をしのげられず、僕がこの場でしたことは意識してもそうでなくても単に全てが裏目に出ている。


「ハタ坊。男は信念やて。おケイのことでエエカッコしたいと汲々としているお前とは違うんじゃ」


 石堂は、父親の迷いが産み落とした喉で高らかに宣言した。やっぱり僕の考えは、全て彼の掌中にあった。


「大層なエゴイストはお前のことやて、ハタ坊」


 野太い指が僕を指す。さっき僕が吐き散らした言葉はそのまま返ってきた。

 僕は負けた。妙な興奮から挑まなくともいいケンカに乗り出したことは、何にももたらしてはくれなかった。当然、この場での目的だって果たせていない。

 だがせめて、彼の父親が命を捨てなかったからこそ、今こうして話が出来るということだけは石堂に知らせてやらなければならない。それは凡百の言葉では無理だった。彼の言う「信念」に対抗できるだけの物事をもって組み伏せなければならなかった。

 うつむいた僕は呼吸を整える。言わねばならない事実がまわりまわって自らを不利にするかもしれないにしても、言わねばならなかった。


「なあイシ、今、おケイが何を考えているかを知ってもまだ、出向くんかいな」


「ん?」


 半分程になった『ピース』を指先に挟んだまま、石堂の動きが止まる。


「あの子がああまで心配していて、東京への進学を諦めて、ほいでもってそれを省みようともせんのがお前のいう『男』たらいうんか?」


 ゲッソリとした頬を動かしながら、僕は彼を見上げる。


「話を聞こやないの」


 彼はタバコをすり潰すとアグラを作り、早く話せと言わんばかりにアゴをしゃくった。隠し続けるはずだった内容を告白する時間が始まりを告げる合図だった。

 ふと僕は、この事実を言えば、明後日の彼は自宅にとどまることに繋がるかもしれないということに気づいた。でも、それはもうどうでもいいことだった。



 試験開始を告げるチャイムが高らかに山上の大学界隈に鳴り響く。当然、その音色は大学前のバス停に突っ立っている僕のもとにも届いた。おケイに会うことはなかった一方、石堂にだって会わなかったひと時が終わった。

 それでも結果的に、僕は石堂を自宅に留め置くことに成功していた。「おケイが石堂を心配するあまりに上京を断念した」と彼に打ち明けたのが効いたのだ。


「何を……したかったのだろう」


 独り言を呟きながら、バスの時刻表を指でなぞる。結局のところ、石堂を傷つけたいというささやかな願望は、とんでもなく高い代償を払う結果しかもたらしてはくれなかった。


「まあ……頑張れや、おケイ」


 受験生も、入試粉砕派も機動隊も皆、構内に引きこもってしまった停留所で、ボヤくような歯切れの悪い励ましだけが口元を出ていく。石堂を挑発したかった癖に、それでいて彼との関係を破滅させるだけの度胸を持っていなかったのがこの数日の全てだった。

 でも、今の僕には後悔だけにひたる余裕もない。コートの内ポケットに手を差し伸べると、一万円札を三枚忍ばせた封筒が入っている。今日はこれから予備校に向かう前に、大阪駅で東京行きの新幹線の切符と、それから旅館を確保しなければならないのだ。東京の私大入試もまた、一週間後に迫っていた。そこでの光景は今日のものと同じか、いや、それ以上に苛烈なものになるかもしれないなという平凡な感慨がよぎった。

 遠くからバスのエンジン音が聞こえてくる。バスの乗客になりさえすれば、移動のことだけに夢中で考えがいき、全ての煩わしいことから数十分でも解放されるかもしれないと思った僕は、首を上に傾けると到着を待つことにした。今日一番、耳にしたい騒音だった。

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