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恋のほのお  作者: 桃山城ボブ彦
53/89

第52回~昭和44年2月7日「自由への讃歌」(中)


「石堂でございます」


 受話器の向こうで友人の母親があやつる品のある声がした。少し、疲れたような風情がしたように思った。多分、こちらがそう感じたがっているからかもしれない。


「おばさん、お世話になっております。波多野です……一哉君は今、いますか?」


 僕は、なるったけ普通の声をつくりながらに友人の所在を訊く。


「一哉ねえ」


 苦笑にも似た、つまった声が返事をする。やはり、いないのだろうか。だが今、不在だからといっても今回だけはなんとしても彼に会う必要があった。


「まだ、()()()()戻って来ていませんか?」


 息子についてどう回答しようかと考えあぐねているであろう言葉の主を制するべく、僕は言葉を続けた。相手が話しやすい切り口が必要だと思った。それくらいに、繊細で深刻な事情のために石堂に会わねばならなかった。


「ええ……そうなんよ。『警備』の交代が夜九時らしいので、それからなら戻ってくるかとは思うんやけどねえ」


 こちらが大体の事情をわきまえていることを察したのか、ほんの少しの吐息を先頭に母親は答えを告げる。


「分かりました。ほな……一哉君が戻ってきたら、お手数ですがこちらに電話を一本いただけませんか? どうしても彼に話さなければいけないことがあるんです」


「話……それは電話で、それとも会って? 夜遅く、しかもこんな時期に?」


「すみません。こんな時期だからなんです。そして、会わなきゃこればかりは伝えられません」


 慌てて一つ、深呼吸をすると僕はまくしたてた。


「人の進路がかかっとります。お願いですからそちらにお邪魔できませんか。一哉君にお時間は取らせません……」


 受話器の向こうでしばらく沈黙が続いた。男の声が漏れ聞こえる。どうやら、電話から少し離れたところで石堂の両親がどうしたものかと相談しているらしい。その間の僕はただ祈った。それから自らを呪った。何でもっと早くにこういう行動に出なかったのだろう、何でこんなことをしなきゃいけないのだろうと思うと、どうしてもそうなってしまうのだ。

 受話器を掴む際の雑音がこぼれた。


「波多野君お待ちどうさま」


 ありがたいことに声に慎重さはなかった。


「いかがなもんで?」


 思いつめたような声がでる。


「一哉が戻ってきたらそっちにお電話しますから、来てもらって結構よ」


「本当ですか?」


「ええ、まあ一時間くらいならってウチの人も……」


「ありがとうございます!」


 弾んだ声で僕は礼を言うと僕は受話器を黒い電話機の上に置いた。そして舌打ちをした。悔しいことに、こんな状況になってまで、あのボケ(いしどう)と話すことにどこか期待している自分がいる。


「畜生……」


 部屋に入って早稲田の過去問集を紐解きながら、なんでこちらがここまでしなければならないのだという感情がこみ上げる。こちらがやろうがやるまいが彼は変わらないというのに。

 きっと僕はお人好しかもしくは偽善者、いや、知らないうちに「役者」に舞い戻りつつあるのかもしれない。



 八時四十五分を示す腕時計の文字盤を眺めながら、僕は大学の体育館の前に立ち尽くしていた。機動隊とにらみ合う入試粉砕派、それから次々と受験票を提示しては建物の中へと入場していく受験生を眺めるしかすることがないのだ。おケイが入学試験を三つの会場のどこで受けるかも知らずに僕はここに来ていた以上、当然すぎる結末だった。僕が関西にとどまることを拒否して以来、彼女とは道で志望校に関する簡単な立ち話を二度ほどしただけでしかなく、そんなささやかにもたれた会話からの情報のみでここを訪ねることは、まあ、無謀だった。


「こんなもんだよなあ」


 喧騒に反比例するように頭は冷静さを取り戻しはじめている。何故、会えると思ったのだろう。この混乱の中で、特に待ち合わせの約束もしていない一組の男女が出くわす訳がないというのに。布団に潜り込んでいる時から忍び寄っていた色々な轟音が僕を興奮させたのだろうか。


「違うな……」


 僕は小さく首をふった。轟音は理由ではなかった。僕はきっと、ここに来さえすれば恵子に会うことが出来るとどこかで信じきっていたのだ。以心伝心といった具合に、こちらが望みさえすれば試験直前の彼女に会えると思っていたのだ。それは冷静になればなるほど荒唐無稽な話だった。願望と現実が混然となった幻覚に憑りつかれていたのか。そして、仮に実際に会ったからといって、正念場を迎えているあの娘が気楽に微笑んでくれる訳もないだろう。

 なのに、だ。気まずい友人が前触れもなく大一番を前にして現れることがあの娘の戸惑いになるだろうというためらいなど、僕にはこれっぽっちもなかった。顔さえ見られたなら、微笑みがかえされ、全てが上手くいくとだけ思っていた。

 それだけのことをしたという自負のせいだろう。しかし、現実は理想に追い付いてはくれなかった。

 ふと吹き付けた寒風に身体を縮こまらせて空を見上げようと顔をおこすと、拡声器を片手にして彼方にたたずむ大学職員と目があった。彼は黒縁のメガネの奥からこちらをまじまじと見つめると、やがて顔を傾けながらにこちらから反転し、足取りこそゆっくりとはしていたが着実に機動隊の方へと歩き始める。どうやら、一向に会場へと向かわない僕のことを入試反対派の大学生が紛れ込んだとでも考えているのだろう。もちろん、試験の粉砕のためなどにここに来たわけではない。しかし、受験票を持たない僕はどう考えたところで招かれざる客でしかなかった。

 もう一度だけ、僕はあたりを見渡す。やはり恵子はいない。代わりに、職員の話に耳を傾ける若い機動隊員がこちらの存在を凝視し始める。

 


「何の用やねんハタ坊、こないな時分に」


 部屋の主は、畳に置いた両切りのピース缶から一本取り出すと温かみのない声で会話をはじめた。


「俺も願書を書いてバリケード守って、ついでに京大入試の追い込みをかけてで暇やないんやでェ」


「僕かて同じやイシ。バリケード守る以外は大体一緒や」


「フン」


 こちらの言葉を、石堂は勢いよく両の鼻からの煙で吹き飛ばす。


「ま、ええわ。話がしたいいうなら、聞くくらいはしたる。……何や?」


 それでも彼は僕を突き放すことだけはしない。そして、細くなった眼がこちらに向けられたその瞬間だった。僕は胡坐を崩して座布団を蹴とばし、勢いよく彼の前に両手をついて頭を下げた。


「単刀直入に言うわ。……イシお前、明後日からの入学試験のバリ封には参加せんとってくれ!」


 石堂の返事はすぐにはなかった。畳にこすりつけた僕の頭はまず、灰皿でタバコをすりつぶす音が届く。


「なんで?」


 ようやくに理由を問う言葉がする。


「決まっとるがな! お前ニュースを見んのか。()()()学長代行、警察に機動隊の出動を要請するという話やぞ!」


 やはり、信念に酔った人間には何一つ響かないのだろうか。畳から顔を浮かせた僕の言葉は、やはり少しだけ昂奮していた。


「ん……らしいな」


「『らしいな』ってイシ、お前、安田砦の結末くらい知っとるやろ! 運動についてはとやかく言わん! ただ、お前自身が逮捕されて受験どころか卒業すらワヤなってもええんか?」


 僕は畳に手をつく「請願」を諦め、また座布団に座り直すと説得を続けた。全ては一般論で、「本丸」に立ち入らない「外堀」の言葉だった。一般論のみで彼を思いとどまらせることが出来る話術があればいいのだが。


「ん……」


 石堂の反応は鈍かった。新たなピースを口に咥えた彼は、腕組みをすると頭をかしげながら少し考えるポーズをとる。だが、即答で機動隊に立ち向かうと言わずに長考するところをみると、言いくるめる余地はあるのかもしれない。僕はさらに言葉を続けた。


「なあ、僕は運動の意義は分からん。でも、負けると分かっている他人の喧嘩に肩入れするのはセンズリみたいなもんでしかないのと違うか?」


 思わず下卑た単語までが口をついて出る。


「いつやったかはお前も納得していたはずや。『何かを始めるなら大学に入ってから』と。せめて入ってからにせえよ」


 僕は言葉を重ねた。石堂は相変わらずに腕を組んだままだ。だが、口元は奇妙に緩み始めている。それがこちらの月並みな言葉に同意してのものか、それとも軽蔑してのものかは分からない。


 東大闘争は先月の十九日、安田講堂が「落城」して中に籠っていた大勢の私立大学生が逮捕されることで決着していた。貴重な文献で暖をとり、機動隊に火炎瓶と石を投げながらに彼らがやっていたことは、朝日ジャーナルと少年マガジンを回し読みすることだけだった。

 それでも、彼らは気ままな『時計台放送』とともに東大入試を中止に追い込んで、そして教義もあやふやな宗教の殉教者となった。テレビカメラに映された彼らがむかえた断末魔の奇妙な美しさ、両の手を頭の後ろで組みながら連行されていく姿だけが、闘争の狼火を地方の大学へと運び始めている。石堂はまだ大学生ではない。が、かねてから火の粉に照らし出された一人ではある。


「お前、今、なんつった?」


 咥えたばかりのタバコを石堂は口から離した。


「え?」


「ハタ坊が今言うた言葉、もう一度言うてみぃ」


 彼の表情が険しくなっていく。


「せやから……何か始めるなら大学に入ってからに……」


「違う、その前や!」


 僕の言葉は怒鳴り声で遮られた。否定の意を込めた石堂の右腕が大きく振られる。


「お前、ずいぶんな言葉で俺を評したの……」


 あ、と後悔の念がよぎった。彼の緩んだ口元は同意でも軽蔑でもなかった。興奮した僕が犯してしまった、性的な単語で彼を評するという失言を見つけ出した憤りと嬉しさだったのだ。


「そないな言葉でぼんちは俺を評するか、ほうかほうか……」


 釈明の言葉は出なかった。いつの間にか石堂の顔は口元以外も緩みだしていた。弄る対象を見つけたような晴れやかなエクボが僕の眼前に広がり始めた。僕は身構えた。物理的なものに備えるのではない、精神的な一撃が今から繰り出されようとしていることに怯えたのだ。


「『せんずり』ねえ、波多野先生の言葉、よう、覚えとくわ」


 だが、こちらの覚悟に反して、彼はそれ以上何も話をしようとしなかった。無論、拳も襲っては来なかった。ただただ、僕と向き合うのを辞め、くるりと背中をこちらに向けると勉強机へと歩き始めて行く。直接的な怒りや冷笑よりも恐ろしい、「無視」が始まるというのだろうか。

 僕は次にどんな言葉をこの大きな背中にかけたらいいかを必死に考え始めた。それは、釈明のみではいけなかったし、反論に終始してもいけなかった。その二つを融合させ、石堂を機動隊との対決から引きずり戻すだけの内容でなければいけないのだ。出来たら、「大阪城の外堀を埋める」程度ですむような軽い言葉で。僕にそれが出来るだろうか? 冷えた身体から脂汗だけがシャツに滲み出そうとしている。



「県立高校の学生で、友人の試験の激励にきたやてぇ?」


 体育館前の広場の片隅で、投石除けのマスクを上にあげた若い機動隊員が素っ頓狂な声をあげた。


「そんなん言われても君ねえ、この状況でそういう健気な言葉を信用でけるかいな」


 大柄な機動隊員の陰に隠れながら大学職員がまくしたてる。


「しかし……ホンマなんですて」


 試験開始まであとわずかとなった周りから会場に向かう受験生の姿が見えなくなりつつなるなか、学生証と鞄の中身を交互に隊員に確認されている僕は、ぜんまい仕掛けの玩具のように同じ言い訳を二人に繰り返した。


「まあ、確かになあ……お前のコートにも鞄にも石コロどころかアジビラの一枚もないしなあ……」


 気怠そうな表情で隊員はこちらの持ち物を返すと、大学職員の方に振り返った。


「どうもこの坊や、ゲバ関係とは違うみたいですな。鞄の中身もなんや予備校のテキストしか入っとりませんわ」


「そうでっか。いや、それなら良かった」


 中年男はその言葉を待っていたかのように、ずっと維持していた怪訝な顔つきを柔和なものへと切り替えていく。


「君、堪忍せえや。何せ、こんな状況や。事故を防がなあかんさかいな」


 片手を顔の前に軽く立てて謝罪の格好を作ったその姿に、僕は何の不満もなかった。ここに駆け付けたら恵子に会えるという夢見心地がなくなってしまった今となれば、全ての物事は大したことではない。ただ、入試会場付近に存在することだけで余計な緊張を関係者に強いてしまった自分の非常識さだけが不快感として残っている。


「いえ……こんな状況で受けもせんのにうろついていた僕が悪いんです……」


 そうとだけ告げると僕は二人に頭を下げ、もと来た道を引き返しはじめた。機動隊員達の肉体で形作られたあの道だ。


「それで坊や、友達のこと励ませたんか?」


 声の方に振り向くと、そこにはこちらの手荷物の検査を終えたばかりの機動隊員の屈託のない笑顔があった。大方、若者は優しい言葉でもって気まずい思いをさせた埋め合わせをしたいのだろう。


「ええ! こんなやけど努力したんやさかい気張ってきいと言うたりましたわ」


「そうか!」


 彼は、間髪を入れずにこちらの必死の作り笑いに反応した。おそらく、そこには完全なる善意だけがあった。


「お前ら、大変な時期に入試迎えとるけど、くじけるなよ!」


「はい!」


 僕はいつしか、彼が望むであろう青少年を演じていた。立ち回ることは巧くできなくても、嘘のつき方だけは上達していた。そして、嘘を産み出すことへの抵抗感はどこにもなかった。

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