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恋のほのお  作者: 桃山城ボブ彦
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第51回~昭和44年2月7日「自由への讃歌」(前)


 その日を僕は、いつもより早い目覚めとともに迎えた。重いエンジン音が絶え間なく部屋に届けられる以上、どうしても眠りが浅くなっている。憤りはなかった。今日に限れば轟音だって悪くはない話だ。

 まとっていた毛布を敷布団の上に落とすと、僕は身にまとっていたものを履き替えて階下へと降りた。そして凍えるような水道水で顔を洗い、伸びた髪にバイタリスを与えて調髪すると、両親への挨拶もそこそこにコートとマフラーを羽織り、鞄を持って玄関を飛び出す。家から程ない距離で始まろうとしている光景を目の当たりにする資格は、当事者でなくとも近所の人間としてならあるはずなのだ。


 昨日の夜遅く、近所の私立大学はついに学長代行の名において警察に機動隊の出動を要請した。勿論、入試を強行するために。バリ封を続ける一部の学生と、過労で倒れた学長との間で幾度となく繰り返された大衆団交が何一つ解決法を捻出できなかった以上、大学側が組織を維持するためには政府によって入試開催を許されなかった東大の二の舞を避けるためにも、警察力の動員以外に入試を執り行う道が残されていなかった。

 願書も出していない学校の動向を僕が気にする理由は単純だ。おケイが文学部を受験するからにほかならない。あの子は内部進学を拒み、四倍の倍率があるこの学校を今日から三学部受けるのだ。無事に入試が行われるかを見届ける資格くらいは多分、ある。


 大学の正門前まで来ると、エンジン音の正体が明らかとなった。キーをかけたままに駐車している大型の輸送車が何台も連なっているのだ。輸送車を降りた機動隊員たちが整然と立ち並ぶ中、その隙間を縫うようにして受験生を満載にしたバスがこれまた何台もひっきりなしに行き交う。押し黙った乗客を降ろしたバスはどれもこれも、いつも以上の路上駐車に囲まれているためか慎重な切り返しを行っている。そして駅から徒歩で学内を目指す受験生達もまた、無言のうちに僕のような近所の見物人達の脇をすり抜けていく。

 高校生たちは誰もが引きつった顔をしていた。それは緊張のせいであり、寒さのせいでもあった。もっとも、その二点だけですむのなら、彼ら受験生や付添いの父母は幸せだろう。僕が物心ついてから何度となく眺めてきたいつもと変わらない入試の朝の光景にすぎない。

 だが、引きつったそれぞれの顔の大部分を占めるのは怯えだった。彼らは大学の校舎で受験することが許されていない。機動隊に保護され、拡声器を持った大学職員に誘導されながら無言のうちに体育館と高等部に設けられた即席の会場へと案内されていくしかないのだ。全共闘が正門から近い主要校舎の殆どを未だに占拠している状況で試験を挙行するとなると、そういうことになってしまう。大学当局の「勢力下」にある施設はそれほどまでに少なかった。


 この学校の今日の入試は学生紛争で揉める全国の大学の先陣をきってのもの。その事実だけが山の上に集った受験生から表情を奪っていた。


「おはようございます……おはようございます受験生諸君! 試験は安全に執り行われます。どうか落着き、平素の実力を如何なく発揮して下さい! パンや弁当の販売も会場内で行います! どうか安心するように!」


 悲鳴にも似たアナウンスが彼方から聞こえた。道路越しに目をこらすと、正門すぐの芝生に置かれた台の上で中年の大学職員が四方を警備されながらで叫んでいる姿が見える。


「受験番号2000番までの人はこの先の高等部および中等部、2001番からは体育館! いずれも腕章をつけた係員に従って下さい!」


 哀れな職員は耳をつんざくほどに声をふりしぼる。入試阻止を訴える大学生達の怒号が受験生の道標と平常心を打ち消そうとあがく以上、彼は死に物狂いで声を張り上げなければならないのだ。


「ナンセンス! ナンセンス!」


「学生自治の原則を犯し警察の介入を許した大学当局を糾弾せよ!」


 ヘルメット姿もチラホラといる入試反対派の学生から何度となくシュプレヒコールがあがる。その中を係員の誘導によって、受験生たちが機動隊の列に囲まれて正門から南に位置する中等部や高等部、あるいは南西の体育館へと進んでいく。大一番に臨む彼らはこぞって曇り空を見上げて歩かねばならない。会場に着くまでにノートや参考書に目を落としながら自身を励まして歩く権利すら許されてはいない。いつ何時、興奮した大学生達が投石を開始するか分からないからだ。新聞には火炎瓶は押収されたと書いてあったが、石つぶてなど裏の山からいくらでも調達できる。


「呆気にとられている場合やなかった……」


 千二百人が動員されたという機動隊の黒い兜の威容の中、僕はこの場に来た目的を思い出し、切れ目なく続く受験生の列に加わる。この学校を受けはせずとも、おケイを見つけ出して一言でいいから激励したいからここに来たのだ。マフラーを巻きなおし、受験生のフリをして鞄を手に持った僕は他の連中と同様に正門をくぐった。


「タカシちゃん、こんな状況だけどしっかりね」


「ミノル、立派にやって来い!」


 付添いの父兄の声が時折漏れる以外は、拡声器の案内と罵声のみが全ての音だった。大きな背中の制服が両に並ぶことで作られた道を、誰もが無言のうちに会場へと歩いていく。ただ、進んでも進んでも機動隊員の顔は見えなかった。盾を手にした彼らの視線は受験生には向けられはしない。皆ジュラルミン越しに、自分達と大学への憎悪を持ってその場に居続ける千人近い大学生達がどのような行動に出るかをくまなく見張ることで精一杯なのだ。

 喧騒の中に断絶があった。長い人生でみたら大学生も機動隊員も受験生も同じ世代でしかない。なのに運動に熱狂している学生は機動隊員を無知ゆえに権力の手先となった愚かな集団だと信じているし、機動隊員はその逆で、親の金で通わせてもらっている大学で勉強もせず暴れる連中だという怒りをもって仕事に従事している。

 受験生だけが蚊帳の外だった。蚊帳の外だからこそ彼らには憎しみも石も投げつけられない。大学生達にとっては数年前の自分たちの姿に罵声と石を飛ばすことはためらわれるし、機動隊員にしたところで、いずれは暴力学生になるかもしれない連中であっても職務として保護しなければならない。受験票を手にした主役たちは、実は主役ではないのだ。大なり小なりの学習の成果を発揮したいだけの一群の若者達は言葉も持てずに石に怯えながら歩き続けるしかない。それでも、会場への歩みを止めないことだけが彼ら受験生の最後の意地と誇りになっていた。


「うわ!」


 大学構内の池のほとりにさしかかった頃、先頭を歩いていたダッフルコートの受験生が身体を大きく前にかがめた。機動隊を狙ったらしい石つぶてが目測を誤って投げ込まれたのだ。小さな叫び声を皮切りに、枯れ枝に水が沁みこむような恐怖の伝播がはじまる。不意な投石による混乱に共鳴するかのようにあちらこちらで短い悲鳴と叫びがあがった。たったひと粒の石が、極限においやられ続ける高校生達の緊張を崩壊させようとする。


「投石を確認!」

 

 大声がし、それと同時に受験生を守っていた機動隊員の隊列が崩れた。警棒と盾をもった十人程が石を投げたと思しい少し先に陣取る大学生の集団へと突っ込んでいく。程なくして、熱狂のせいでか逃げ遅れた「犯人」が組み伏せられている光景が視界の片隅に映った。ヘルメットをはぎ取られ、ジャンパーを土まみれにした大学生の脇腹に容赦のない蹴りが入る。周りの学生は救出に向かわなかった。不測の事態に備えて華、遊軍のように展開していた別の部隊が更に十人程の集団となって睨みを効かせにかけつけたのに躊躇したのだ。大学生達は遠巻きに呪詛のような悪罵を繰り返すが、何にもならない。どうせ本物の力の前に怖じ気づいたのだろう。


「暴力装置め!」


 殉教者の虚しいうめき声を最後に、僕は顔の向きを元に戻した。


「はい! 暴行未遂、八時三十五分、現行犯!」


 怒鳴り声が聞こえた、拘束を確認する事務的な言葉を最後に、後は人間の柔らかい肉体から出る鈍い音だけが繰り返される。


「受験生諸君、気にせず進みなさい」


 部隊をとりしきっているらしい一人の機動隊員が高校生の群れを振り返ると優しく言葉をかけた。その落ち着いた言葉によって、ようやくこの場に起こったささやかな恐怖が静まりを見せ、あちこちから安堵のため息が漏れ始める。

 それにしても、だ。この場の受験生の誰が「暴力装置」などという捨て台詞にもにたアジテーションに共感するだろう。受験生を保護している機動隊への投石は是で、その代償として殴られることだけが許されない暴力だ、などという道理がそこかしこで通用するものか。だから同情の声など、高校生達からは聞こえてこない。何人かの学生に至っては口元を緩ませてさえいる。いくら大学生よりの雑誌が事故死した学生を「虐殺」と書き、警察関係者が死んでも「死亡」と突き放したように書いて煽っても、それは狭い価値観にすぎなかった。

 動揺した隊列は落ち着きを見せ始め、再び彼方の試験会場への行進が再開される。曇り空以上に何とも暗い金曜日だった。受験生達はたとえ合格したところで、春にはこの男女問わない怒号の、そして石をもって襲おうとする主を先輩と呼ばなきゃならないのだ。

 石堂がこの場にいないことだけが救いだった。機動隊に殴られたらいいと頭のどこかで願ってはみても、実際にあんな形で友人が地面に組伏せられる姿を想像するのはあまり気持ちがいいものではないと、実際の光景を目にしたら感じるしかなかったのだ。


「おケイが絡むとなればまあ、聞き分けのいいヤツだねえ、アイツも」


 玉砂利を踏みしめ首を前後に揺らしながら僕はつぶやいた。傍らの受験生が唐突な一人言に不思議そうな表情でこちらを見つめた。


「聞き分け……?」


 言葉の最後だけを聞き取ったらしい髪を短く刈ったメガネの受験生が、何かを問おうとする。


「ああ、すんませんな。なんでもあらしまへん」


 そう言うと僕は少し肩をすくめて微笑んだ。軽い拒絶だ。殴打される大学生を見て落ち着かない見知らぬ馴れ馴れしい他人に、何を話す必要があるというのか。


「でも……」


 ようやくおぼろげに姿を見せ始めた体育館にも興味を示さず、彼はまだ何かを語ろうとしていた。が、無駄な事だった。

 新聞社のヘリコプターが、寒風を切り裂いて騒動の様子を撮影にきたのだ。輸送車の比ではない轟音がここで交わされるささやかな会話すらぶつ切りにし始める。それをいいことに僕は空を見上げた。投石を気にしたからではない。低空で旋回し始めた機中の人間はこの混乱をどういう記事にするのだろう、とだけ思ったのだ。


「ナンセンス! ナンセンス!」


 体育館の入口でまた、怒声の集団が現れた。が、その声の先には機動隊員も受験生もいない。彼らが声をもって追い立てているのは、「入試実行断固支持」と書かれた横断幕をもったヘルメットを被っていない数人の大学生だった。


「無関心派は消えろ!」


「当局に妥協するクズが!」


 僕が来る前から長時間罵声を浴びていたのか、手を変え品を変えた様々な侮蔑の言葉によって「断固支持」の一団は横断幕をたたみ、校舎の裏へと逃げていく。罵声の主達がいう「大学の自治」とは、意見の異なる人間を貧弱なボキャブラリーで脇に押しやることらしい。

 僕は白い息を一つ吐いた。やはり一昨日の晩、この場に来ようとした石堂を説得した甲斐はあったのだ。彼が何を信じているかは知らないが、正門からここまでの行程だけを振り返っても、その信奉の対象はあまり立派なものではなかった。受験票を持っていないので入口の前で僕は隊列を数歩離れる。そして、運動よりも恵子の受験が滞らないことを選んだ石堂との会話を思い出そうとする。あれは、本心なのだろうか?

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