表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
恋のほのお  作者: 桃山城ボブ彦
51/89

第50回~昭和45年6月8日「あなたのすべてを」(後)


 カウンターの中に戻っても、中田はもう髪も縛らないし前かけもかけなかった。ガスの元栓すら閉めてしまう。お客が来るのに火を消してしまって大丈夫なのかと訊いても、「その人、いつも酒と板わさだけでな」という答えが返ってくるだけだ。もう、「正装」してまで接客する必要はないということらしい。


「大体がこの店は十一時まででな。なのにそのお方、いつも月曜の十一時過ぎに来るんだよねえ」


 多英が手をつけなかった焼鳥をつまみながら中田は言う。さっき、作家からの「徹マンだから戻らない」という電話を受けとった彼は、最後の客が来るまでの僅かな休憩をとっているのだろう。


「相手のたってのお願いでな。酒とカマボコだけでいいだなんて言うもんだから、毎週今日だけは十二時までだね」


「ふうん……でも、万一にその人が焼鳥頼んだら?」


「そりゃお前、また火を入れてトリを焼くさ」


 彼は一升瓶から零れ落ちる最後の滴をコップで受け止めながら当然のことのように答える。


「そう……」


 相槌をうつと僕も手元のコップの中身を飲む。もう、そろそろ酒の味が分からなくなってきていた。ビール界の横綱、サッポロ・ビールがただの酸っぱい飲み物にしか思えないともなれば酔いもたいがいのところだ。隣の多英はこんこんと眠り続けているが、僕はそうもいかない。味が分からなくなってもまだ呑みながらに中田の言葉を考えなければいけないのだ。


「多英は甘えたがり」だと彼は告げた。甘えたいのは僕だけだと思っていたのに。ついさっきまで、強気な女の子と触れ合えば、徐々に昔に想いがいかなくてもすむかもしれないという考えしか頭になかったのに。

 それが、「穴ぼこ」ばかりの人間として穴を塞がれることしか考えていなかったところ、実はこちらもそれをしなければならないと彼は言う。難しい課題が課される。しかし、その助言を無視はできなかった。たかだか一週間の付きあいで、僕が多英に全てを告げていないことを言い当ててしまった勘の良さを持っている男なのだ。当然、惚れぬいていた少女についてだって相当のことを把握しているのだろう。彼が言うとおりに、僕は多英と「どこかへ行く」方法を探さなければいけない。彼が言う「甘えたがり」と、多英の言った「傷の舐めあいはゴメンだわ」という言葉の差を見つけださなきゃいけない。そうすることを望んだのだから。


「そろそろかしらねえ」


 カウンターで板わさを切るためのものだろう包丁以外の調理器具を片付けながら、中田が壁時計を見上げる。十一時を十五分過ぎたことを確認した彼は首を元に戻すと、新たな二級酒を戸棚から出そうとして、やめた。流石に酔いつかれたのだろうか。くつろいだ顔だけがひざ先に載せたマンガ本を静かに見つめている。優しいばかりの男が、その通りの表情で手塚治虫を読みふけっている。


「茜丸と我王ねえ……物語ですら、人間は『こうありたい』と思ってもどうにもならないねえ……」


 彼はアゴ鬚をさすった。その瞬間、僕の中に強烈な違和感が生まれた。彼が「満たされている」だなんて本当だろうか、という感覚が沸き起こっていた。多英は読み違えているのじゃないだろうか。コイツは多分満たされてなどいない、単にそういう風に演じるのが異様に巧いだけなのじゃないかと思ったのだ。

 だが、仮にそうだとしても、そう感じた理由は分からない。演じることを彼が是とするなら、それまでのことだ。万が一、そこに限界を感じたら()()()()()()()()()()()()()()()()

 そこに眠っている多英に目をやると、僕はもう一口だけサッポロを口に含む。今度はビールの味がした。人に会うにはちょうどいいくらいに体力が戻っている。



「いらっしゃい!」


 中田が勢いよく叫ぶ。扉が勢いよく開き、ギターケースを背負った三十くらいの浅黒い大男が店に入ってきたのだ。麻のジャケットに胸元のボタンを緩めた赤のシャツ、短く刈り込んだ髪をしたこの男性が、会わせたかった客なのだろうか。


「あんさん!」


 店員の威勢のいい声が連続する。男は無言のままにカウンターの中に向かって軽く手を挙げると背負っていたものを壁にかけ、僕と多英から一つ席を空けて座る。切れ上がった目は、ほんの少しだけ僕ら先客に会釈と共に向けられたが、程なくしてカウンターの木目へと移っていく。そして、静かに両の指を絡めると「酒ね」とだけ告げた。


「今日もおつとめごくろうさんです!」


「チュー。ありがと。相変わらずにカツラでも被ってるような酷い頭だね」


「秋田は寒いですからね……暮れに故郷に戻った時に帽子がいらないようにしてるのよ」


 手際よく升酒とカマボコを差し出しながら、どうやらこの客には『チュー』と呼ばれているらしい中田が冗談を言う。男は「故郷ね」と一言呟くと、少しだけ口元を緩めて小皿に醤油とワサビを入れ、板わさを食べ始める。

 だが、そこからが奇妙だった。男は食べているせいもあるが何も言わないし、軽口をもって応対していた中田の顔も険しいものになっていくのだ。そこには、酔いにまかせて何か言ってはいけないことをいってしまった後悔のような雰囲気すらあった。

 テレビはなく、ラジオも消してしまった店がまた、本来の閉店後にふさわしい沈黙を完成させる。


「ところで中田、お前は東北の人間やろ? いきなり上方訛り使うな。驚くやないか」


 静寂に不安を感じた僕は中田に助け船を出した。客に向かって彼が「あんさん」などと関西言葉を使ったことが不思議だったから、それを話題として場をもたせたかったのだ。


「違うわよお」


 こちらの意図を察したのか中田の蒼ざめた顔が少し和らいだ。


「この方、アンタに会わせたかったここの常連さんの安平(やすひら)さん、通称アンさんよ」


 無理して弾ませたような声がカマボコで酒を飲む男を紹介する。男は自らを指し示そうとする中田の手に少しだけ視線をあわせるが、すぐに升の中身をコップに移し替えて淡々と酒を飲み続ける。


「銀座と新宿を股にかける流しさんでね。酒場にお客が少ない月曜日だけ、早上がりしてここで呑んでくれるのよ」


「なるほどなあ」


 僕は呟いた。確かに、流しが仕事ならギターケースを持っているはずだ。しかし自らを話題にされても、隅の席のアンさんは食事だけを続けるだけで会話に加わろうとはしなかった。中田に何かの「失言」があったのなら、それに対しての態度をまだ保留しているのかもしれない。

 アンさんはコップの中身をひと息に飲み干す。少なくとも、中田がなぜ、僕をこの人と引き合わせたかったのかはこの食事が終わるまでは聞かないほうがいいだろう。ギターと喉で客の波間を生きる人の割に、近寄りがたい緊張感をまとっていると思ったのだ。

 が、もろもろの気遣いは杞憂だった。軽くコップをテーブルに置く音がなるとともに、アンさんは穏やかな表情で中田に話しかける。


「チュー、さっきの言葉気にするな。ダメだ。多分、他愛無い言葉にうろたえかねない俺がダメだ」


 豆だらけの指先がコップをつまんで中田へと差し出す。


「……はい。ありがとうございます」


 どうやら、僕の知らないところで中田の罪は許されたらしい。それでも、おかわりを注ぐ音を醸しだす彼の顔は緊張のせいかまた強張った。


「ところで……そこの君とお嬢さんは、チューの友達かい?」


 なみなみと準備される二杯目を見守っていたアンさんは、突然に会話の対象を僕に向けてきた。一日の終わりをくつろごうとしていながらも、どこか寂しそうな眼差しが僕をとらえる。


「ええ」


 僕は身体の向きを九十度変えると二度目の会釈をする。


「波多野と言います。隣で寝ちまってるのは吾妻さん。共に中田君と同じ学校に通っています」


「そうかい、そうかい」


 彼は眼を細めた。


「それでねアンさん、この二人がつきあうってえから今日は祝い酒なのよ!」


 ようやく調子を取り戻した中田が会話に割って入る。


「そんな二人がアベックになった途端真っ先にここに来てくれたからね……。アンさんも来る日だったからちょいと一曲、仕事終わったばかりで恐縮だけど、コイツらに何か唄ってやってほしいのよ!」


 ああ、と納得した。仕事終わりのくつろぎに新たな仕事を依頼する是非は分からずとも、そのためにこちらを引き止めたのか。


「ふむ」


 二杯目の酒に少し口をつけると、アンさんは少しばかり考え込み、そして頷いた。


「いいだろう。ただ、俺もプロだ。申し訳ないが金は貰うぜ……」


「ええ、ええ……アタシ、払いますから! 一曲いくらでしたか?」


 雰囲気の挽回に余念がないのか、中田はカウンターに顔を突き出す。アンさんはその顔に向かって左手の指を二本たてた。


「普段は二百五十円のとこを学生さんへのサービスで二百円だ……。先払いでな」


 そう言うと、彼はギターケースから白く塗ったクラシックギターを取り出して調弦をはじめる。中田はすぐに自らの財布から百円玉を二枚取り出した。アンさんは受け取とりはしたが、しばらく硬貨を手のひらの上で持て余すように見つめると、こちらを見た。


「波多野君……だね。唄うのはいいが、そこで寝入ってるお嬢さんはどうすんだ?」


 アンさんは緩やかな表情のままに問いかける。中田の顔に動揺がまた見え隠れする。きっと、アンさんに一曲弾いてもらうことで頭が一杯で、歌声で多英が起きることがいいか悪いか、仕事の合間に寝たままでいさせることが失礼ではないかといった思考には思いが至っていなかったようだ。もちろん、僕だって考えてすらいなかった。お互いにアルコールを都合よく利用していたのだ。


「ここで寝させるわけにもいかんです。……でも、安平さんが唄ってくれたら、ちょうどいい感じに目覚めてくれるかもしれません」


 取り繕うように僕は返事をした。あまり、初対面の人の気分を害したくはない。


「そんなもんかね」


 アンさんは少し首をかしげはしたが、それ以上は何も言わずにギターケースの中に入れてあった封筒へと硬貨を放り込んだ。乾いた金属の音がする。それからで彼はギターに手をかけようとしたが、ふと思い出したように傍らに置くとジャケットを脱いで立ち上がった。


「しかしだ、波多野君とチュー。いい感じに起きるってのはいい感じに眠ったから出来ることだよ」


 静かな語り口の後で彼は多英の下へと歩きだし、やがて眠りのままの背中にジャケットをかけた。


「仮にも恋人や店員だったなら、大事な人やお客が風邪をひかないように気をまわすこと、これから覚えるんだね」


 僕と中田は顔を見あわせた。幼さ故に辺りを見渡せていなかったことをギタリストに思い知らされたのだ。おまけにそれは、酔いのために気にかけなかったからではなく、そういう発想がなかったからだった。中田がため息を漏らす。きっと、彼もそうなのだろう。それに、アンさんの優しさによって中田は多英を起こすタイミングを失ってしまった。


「二人とも、そんな顔、するな。これから覚えていけばいいだけの話だね」


 ギターを拾い、肩口から楽器をかけたアンさんの慰めと叱咤の混じった言葉が僕らを包んだ。


「はい……気をつけます」


「それよりも唄だね。()()()()、何を弾こう?」


 僕の真横に立った音楽家が中田をうかがった。


「アンさん、せっかくだから門出を祝う意味合いで何か恋の歌でも波多野に弾いてやってちょうだいな」


「恋か……」


 ピックでなく指で弦を弾いてはアルペジオを繰り返すアンさんは、何をやるかを勘案しているようだった。


「あまり、お前たち世代の好むような最新のポピュラーやフォーク・ソングはあまり弾けないかもしれないね」


「かまやしませんよ。無理言ってやってもらうんですから」


 僕には、この場でのこだわりはなかった。この人が好きなものを唄い、弾いてくれたらそれでいいと思った。


「そうもいかんよ……お客さんの馴染のないものや好みでないものを弾いたら給料泥棒だね」


 アンさんはゆっくりと首をふると、こちらの配慮を柔らかく否定する。


「ヤング受けときたね。……お前ら、『あなたのすべてを』は知ってるか?」


 数年前に深夜放送で評判になったフォーク調の曲を歌手が提案する。異存はなかった。僕と中田は次々にうなずく。


「じゃあ、それでいくかね」


 了承するかのように二、三度首を小刻みに動かしたアンさんは、野太い指を弦にはわせはじめる。やがて朗々とした伸びのある声が一日を終えようとする店内にひろがりはじめた。僕がかつて石堂のギターで唄もどきをやってしまったことを思いだすと雲泥の差だ。

 酒場で、酒場を舞台にした無垢な恋愛が描かれていく過程を中田は立ったままで、僕は机に頬杖をつきながらに聴き入る。

 ひょっとしたら寝たフリをして耳を傾けているのかもしれないが多英は起きなかった。それでも、閉じた瞼と伏せたまつ毛の向こうで歌声に気づいていてくれたら、と考えてしまう。曲のタイトルも歌詞も、奇妙なくらいにシンパシーを感じる代物だったからだ。だって、これからは『あなたのすべて』を教え、それから教えられる日々へと分け入っていくのだから。

 歌詞のような清純さを実践できるかなどは、分からない。僕も多英も、あと多分中田も無垢ではないのだし、秘密もあるのだから。「多英のすべて」を知りたいとして彼女の東北旅行の理由を訊ねたいと考えることが正しいかは分からないし、ロック喫茶で中田が涙ぐんだ訳を掘出すのが良いことなのだろうか。僕にしたところで、()()()()()()()()()()()()()()()()()()人間なのだ。ただ、仮に問われたのなら、相手に包み隠さず話す覚悟だけは持ってもいいかもしれない。『あなたのすべてを』とは、要はそういうことだろう。

 壁時計が新しい日付へと移り変わった。でもアンさんの歌声は昨日と今日をまたいでなお、伸びを失いはしなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ