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恋のほのお  作者: 桃山城ボブ彦
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第49回~昭和45年6月8日「あなたのすべてを」(中)


 ビール瓶がニューヨークのビル群のように所狭しとカウンターを埋め尽くしていく。足りない分は明日、大学で払うという頼みを中田が快諾したからだ。店をあずかる彼は、酔った勢いからか「二人とも終電代以外は全部飲むのよ!」という僕の宣言を上回るサービスをあっさりと始める。

 哀れなアトムズのバッターが次々と城之内に打ち取られていく中、カウンターの中のアトムズファンは際限なく高校時代の笑い話を繰り出す。やれ、体育のサッカーをクラスの人数が多すぎて二十対二十で行うことになりついに一度もボールに触れられなかったとか、修学旅行で大阪に行ったついでに仲間と自由行動でストリップに行ったら引率の教頭が興奮で目をぎらつかせて座っていたとか、そういった類の話だ。


「アハハハ!」


 その一つ一つに多英は笑う。本当に、この子は何年分の笑い声をあげるのだろうというくらいに口元の筋肉を酷使する。


「中田さ、それでアンタ達教師に見つかって、どうなったのよ?」


「どうも何もアタシ達より教師の方がビックリしちゃってサ……『お前ら今日のことはひとつ内々にな』とか言っちゃってサ」


「教職の鑑ねえ。生徒に罪を被せないなんて」


 感心したと言わんばかりに多英が紅い頬を揺らして二三度頷く。


「そんな上等なもんじゃないわよ……」


 レバーとネギマを盛った皿をカウンターに置きながら中田がつけ加えた。


「親友がカメラ持っていてね……見つかった瞬間、暗闇の中で教頭へ向けてフラッシュ焚いたのよ」


「やるわねえ。機転が利く友達じゃない」


 自分の方に皿を引き寄せながら多英が続ける。


「どうかしら。ソイツのおかげで教頭もアタシ達も待望の大トリを前にして店を叩きだされたからね……。友達のフィルムは当然没収。よくよく考えたらストリップ小屋で写真は不味かったわね」


 話にオチがついたところで中田は両目を寄せておどける。僕ら三人はそれを合図にまた笑い転げた。神宮球場のチャンスは試合の途中で引っ込められたが、荻窪では中田がこの場の全員が和めるだけのチャンスをいくらでも提供してくれる。アトムズファンではないが、有り難い話だ。

 が、本当にそうだろうか。各々の笑声が落ち着いた頃に店の留守居役の顔をそっと覗き込むと、その表情からは繰り出していたユーモアの余韻は失われていた。彼は壁に寄りかかるとタバコを取り出し、換気扇に向かって煙を送り出す。この夜のピークが過ぎてしまったのだろうか。そろそろ酔っぱらった体のいたわりかたを考える時間になったのかもしれない。



「何よ……まだまだ飲めるじゃないの!」


 厨房で自分のための冷や酒を注ぎながら中田が声をかける。


「お前が気をきかせたからさ……楽しいねえ」


 僕は隣でカウンターに突っ伏した多英の様子をすこし確認しながらに答えた。ビールと日本酒、それから少々のトリスの猛攻をうけた彼女は今しがた力尽きたばかりなのだ。


「そう、そりゃ良かった……」


 中田はゲストの具合を確認し、また新たなタバコを咥えると僕に背を向けて洗い物を始める。さっきまでの賑やかさの名残はなく、声に抑揚がなかった。彼も酒に疲れたのだろうか。アトムズが大負けしたというアナウンサーの声が聞こえ、彼はラジオを消した。静かな夜更けが唐突に訪れた。


「流石に今日はみんなメートルを上げすぎたかね?」


 やや愛想を失った中田に僕は問うてみる。が、「ああ」という曖昧な答えしか返ってこない。


「いやあ、ホンマよう呑んだよ。ちょっとしたら勘定計算してくれや。お暇してターを送るよ」


 酔いではなく、なにか心変わりがあったのかもしれない。僕は距離を測るためにもう一度だけ話しかける。だが、痩せた背中からはまた「ああ」という言葉が出てくるだけだ。ひょっとすると何か癇に障ることでもあったのかもしれない。

 それでも、彼は出しっぱなしの水道を止めると客の方へと振り返った。赤ら顔の据わった目はまず、多英が寝息をたてているのを確認し、それからこちらをうかがう。


「波多野……、ちょっと二人きりの話がある。つきあってくれんか?」


「なんやいきなし……いいけどさ」


 こちらへと身を乗り出して小さな声でささやくと、彼は濡れた人差し指を店の入口へと向けた。どうやら、寝てしまったとしても多英には聞かれたくない話をしたいのだろう。

 こちらとしても、景気よく飲み食いをさせてくれたホストの要請を断る理由はまあ、見あたらない。


「あと、すまないが音を立てないでカウンター席の椅子を二脚外に出してくれ」


「ああ、ええよ」


 僕は肯いた。そして立ち上がると、多英を起こさないように静かに民芸調の椅子を両手に一脚ずつもって外へ向かった。



 初夏とはいえまだ涼しい六月の夜風の下に僕らは椅子を並べた。十時半の駅前の雑踏には人がいない。いたとしても電車が着く度に改札から出てくる家路を急ぐサラリーマンだけだ。そして彼らは店員が客と連れ立って縄のれんを背に座っている光景などに目もくれない。


「まずは波多野、おめでとう」


 もう調理をするつもりがないのか、前かけを解き、ゴムで括っていた長髪を普段どおりに肩までおろしながら中田が言った。


「ありがとう。こっちこそ、今晩は楽しくやれたよ」


 彼の声に「密談」に要するような緊張がないのを確認すると、僕は礼を言った。中田がほんの少し目を細める。


「ああ……付きあいだした途端にここをペアで訪ねてくれたとなりゃ、もう祝うしかないからな」


 彼は長時間しばっていたことで髪の毛についた癖を手櫛で直しながらに礼を受け取る。


「そんなもんかね」


 酔って火照った頭ながら、僕は少しばかり戸惑った。物事は彼が先週熱っぽく言っていたとおりに進んでいる。しかし、そうなる前なら何とでも言える話だ。それが、惚れこんでいたであろう女の子があっさりと彼以外の人間と付きあいだしてもなお、自らの事のように悦ぶ姿は不思議なものだった。


「そんな謙遜するな、波多野。お前は名将だぜ? 何せ、俺が一年かかっても城門で討ち取られていた堅城を、それこそたったの一月で落城させやがったんだからなあ」


 こちらの気分を察したかのように中田は言葉を上塗りしていく。今晩の宴会を抜きにしても、本当に根っからの善性の男なのかもしれない。確かに僕が多英と本格的に出会ってからまだ、たったのひと月しか経っていない。


「そうかねえ!」


 僕は少し浮かれた。称賛などに慣れてはいないが、だんだんと心地よくなってくる感情がある。が、そこにあぐらをかく暇は与えられなかった。無条件の褒めそやしの言葉はそこまででしかなかったのだ。


「でもな……波多野、お前にはまだ課題があるなあ」


 縄のれん越しに漏れる明りを少し眺めつつ、彼は声を少し低めた。僕はタバコを口にする。素面になっておきたい話題が控えているようだ。あまり浮かれすぎなくてよかったじゃないの、としか感じることはない。


「課題かいな」


 火を点けると、僕は力士が「待った」をするように左手を彼の方へと伸ばした。言われなくても分かっていることだった。おそらく、大貫恵子への感情をどう整理するのかを彼は問いたいのだろう。

 しかし、投げかけられる言葉への強力な答えがあるかはまた別の話だ。僕は答えなんて何も持ち合わせてはいないのだ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()への安堵感と高揚感だけで破天荒に痛飲していた身にはかわせない問いだった。

 しかし、「待った」も推論も、何一つ通用はしなかった。


「俺が言いたいのは……多分だが波多野、お前が思ってるようなところではないね。そこいらに関してはお前が今、一番好きな女がターだったらそれでいいよ。いや、本当にな」


 中田は読心術でも心得ているかのように身構えたこちらの頭の中身を一蹴する。夜風の下で彼の手首がヒラヒラと舞う。僕はタバコを捨てた。


「そんなことじゃねえ。もちろんにそれはそれで凄く大事な話だけどよ」


 彼は路地に置いた椅子から上体をこちらへと突き出した。


「お前があの子を受け止める覚悟がどれくらいあるかを俺は知りたくてナ」


 微かに揺れ続ける長髪からのぞく目がこちらを見つめた。


「覚悟!?」


 寝入ってる多英が起きかねないことも忘れたような大声を僕は発した。だが、渾身の叫びにも中田は微動だにしない。


「お前にはすまないが、腑に落ちねえんだよ」


 彼は、ジーンズの尻ポケットからクシャクシャにチビたタバコを取り出すと火を点けた。


「ターから聞いたお前の失恋話は、綺麗なんだよ。美しいんだな。ただ、白樺派の小説みたいに度合いがすぎる」


 よれてしまって、切先がお辞儀をするような情けない格好のタバコを彼は深々と吸い込んだ。


「多分だが……波多野は()()()()()()()()()()()()と思うよ。それは、俺は決して褒められた話ではねえと思うね」


「美化、か……。そういうつもりは微塵もないんだけどなあ」


 僕は頭を掻きながらぎこちなく否定した。彼の言葉が、それまでの「受け止める」とか「腑に落ちない」といった発言からから導かれるものとしては意外なものだと思ったからだ。それでも、彼はぎこちないつなぎ目を渡ると、こちらに向かってどんどん歩いてくる。


「いや、美化だよ。波多野は石堂君という友達の転落に直前まで微塵も気づかなかったようなフリをしている……そして、自分は彼と違って手を汚していないと信じたがっている」


 ケチなタバコを半分程吸うと、彼は排水溝にそれを投げ捨てる。


「僕は……何もしなかったつもりだけどねえ」


 言葉を補強しながらに、こちらもまた、『わかば』を取り出した。間がもたないのだ。柔らかな口調のままに中何かを伝えようとする中田は、何に対して助言をしようとしているのだ? おケイと石堂がいた過去か? それとも多英と彼がいる未来なのだろうか?

 問いかける男はさらに僕に顔を近づけた。タバコの火種を探そうとした僕に黙ってマッチの火を差し出したのだ。そして、また、話が始まる。


「『何もしなかった』か……しかし、受け流すだけでやり過ごそうという生き方も場合によりけりだぜ?」


 火種のためによせた彼の顔は、『わかば』に火がついても離れてはくれなかった。そして、寝入った多英を起こさないための低い声がそのままで続く。


「ただ一つだけ確実なのは、あの子と付き合うのなら今までのように受け流す一辺倒ではお前、遠からず破綻するぞ」


 中田の顔はようやくに遠ざかった。路地に置いた椅子に、痩せた身体が座り直す。


「あの子、()()()()()()()()()()だからなあ。そこは受け流したらダメだね。受け止めて、どっかに二人で進んでいかなきゃ」


 彼は店の前で軽く伸びをし、それから妙なウインクをこさえると星空を見上げた。中田なりの気取り方なのだろう。でも、僕にはその妙な格好のつけ方を冷やかすことは出来なかった。上野の駅で中田に怯えを感じた自分の小ささに思いがいってしまうのだ。

 僕は彼に倣って吸いざしの『わかば』を排水溝へと落としながら中田の言葉を反芻する。それは、過去をいさめることでも、未来に助言することでもなかった。何かから逃げ出そうとする僕の性格の危うさと、それを隠してしまおうとする癖についてだった。


「なあ中田……」


 僕は彼の名前を呼んだ。言葉を受けた今だからこそ、出会って一週間で、多英からの情報をもとにこちらのあれこれを丸裸にしようとした男に訊ねたいことがあった。


「うん?」


「気を悪くするなよ。なんでターはお前を選ばなかったんだ?」


 彼は一瞬とぼけたような顔をしたが、やがて照れくさそうにはにかみ、コメカミを掻きながら教えてくれる。


「そうだねえ……俺がいずれ鉱山に戻ることは、実は大きな問題ではない……。肝心な理由はな、波多野」


 前かけを手にした中田は立ち上がった。


「どうも満ち足りてるらしいんだな、俺は。ターが好むのは、あの子と同じように穴ぼこだらけの人間なんだとよ」


「それが僕なのか?」


「さあな。そこまでは俺も分からん。そこは多分、時間を重ねることでお前が身をもって理解する部分だわ」


 仮面など最初から被ってはいなかった男は静かに笑みを作った。そして前かけを小脇に抱えたまま、自分の座っていた椅子を持つ。


「そろそろ中に戻るか……。最後に、色々言ったが俺はお前を祝うよ。そこだけは誤解してくれるな」


「ああ」


 僕も同じようにして立ち上がると椅子を手にしたが、引き戸に手をかけた中田は新たな提案を持ちかけてくる。


「まあ、とりあえず波多野、もう一本ビールを飲もう」


 へべれけな肉体を挑発する申し出だった。したたかに呑んだはずなのに、まだやるというのだろうか。


「そろそろ十一時だろ? 月曜はいつもこの時分に一杯だけやりに来るお客さんがいるんだ。飲みながら待たないか」


「うーん」


 唐突な申し出だった。


「心配するな。このビール代だけは俺もちだ。それに……今日みたいな日に会うにふさわしい人だよ」


 中田の目がまた、活き活きとしだす。僕はまた「うーん」、と呟いてはみる。が、今夜のホストの厚意を無下に出来る気はしなかった。酔いのせいではない。もう少しだけカウンターに戻って、今しがた言われた言葉を考えたかったのだ。

 中の人間を起こさないようにだろうか、中田が静かに引き戸を開ける。カウンターの多英は、まだ夢の中だった。


「その人が来たら起こさなきゃね」


 僕を振り返った中田はまた下手なウインクをした。

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