第5回~昭和45年5月11日「レット・イット・ビー」
一
四限で大学の講義が終わると、僕はいつものように京王線でアルバイト先の酒屋へと向かった。下宿先から大学へと向かう際の中間にある新宿で働くようになってもう、一年近くになる。親からは家賃も含めて月四万五千円の仕送りを貰っているが、なんとなく必要以上に親の脛を齧ることをためらってしまうので、家賃以外はなるべくこの仕送りに手を付けずに、週に三回のこの西新宿でのアルバイトだけで生活費のいくらかをまかなうようにしている。時給二百二十円で週に大体十五時間働けば、月一万四千円程度にはなる。家賃のいくらかを捻出したうえで、独自に郵便貯金を作るにはまあ、なんとかなる額だ。
夕方近い新宿西口の地下広場を通り過ぎ、店へと足を向ける。大学に入学した頃にはまだ権勢を極めていた反戦フォーク集会の舞台は、もう、待ち合わせをしている若者がチラホラいる以外はデパート帰りの主婦が行き交うくらいの空間へと変わっていて、帰宅ラッシュをむかえる前のひっそりとした雰囲気の中にあった。
地上に上がり、雨の中を、建設中の高層ホテルを見上げながら酒屋に入るとちょうど五時だった。これから十時までの五時間が我が労働時間というわけだ。
郊外で主婦の御用聞きをするのがもっぱらの酒屋は知らないが、新宿の酒屋にとって月曜日なんていう日は他の曜日と大差ない。何せ週のアタマだろうがなんだろうが、とにかくこの界隈で飲もうとするサラリーマンや学生はそれこそ星の数ほどいるのだ。溜まった伝票を整理する暇なんてものはなく、ひっきりなしにかかってくるあちこちの居酒屋やキャバレー、それからスナックの主人の電話に応じて注文の酒を自転車で配達にいかなくてはならない。注文がくる度に初老の店主の指示でビールを銘柄別にケースに積み込み、ジーンズ姿で自転車に跨ると酒場へと向かう。そんないつもと変わらない業務があった。
とにかく、自転車を漕いでいる限りは、おケイのことを忘れることが出来るのがありがたかった。
夜が深まるにつれ、求められるビールは、単に店に在庫のあるものであればよいという訳にはいかなくなる。すぐに客に出せる、既に十分に冷えたビールが求められるようになってくるのだ。霜焼けしそうなくらい冷えたビールを大型冷蔵庫から取り出して自転車の荷台に詰むと、僕は新宿大ガードをくぐって何度となく往復する。雨の夜の東口のネオン街は猥雑だけど妙に綺麗な輝きを帯びていた。
それでも、信号待ちで自転車を停める度に、大貫恵子が、おケイのことが頭をよぎる。なのに、大貫恵子が来年の秋には知らない男に嫁いでいくことになったと、こちらが頭を抱えていることなどおかまいなしの楽しげな世界は間近にそびえ立っているのだ。
僕は惨めさで、ともすれば消えてしまいたいような錯覚に陥りそうになる。
「兄ちゃん! ビール待ってたよ!」
配達する度、酔客からそんな声がかかる。僕はそんな客に会釈すると、ビールをカウンターに運び込み、店の主人に請求書を渡す。酔っ払いだって、店によって様々だ。焼鳥屋にいけば契約を取って気勢をあげているサラリーマンがビールで、スナックに行けば女子大生達がセルジオ・メンデスあたりが流れるカウンターで、ジンフィズなんぞで顔を真っ赤にしている。はたまた民芸風の店に足を踏み入れたら、東北生まれの労働者達が一心不乱に一合徳利を供にして民謡に耳を傾けている。
「仕事の途中だろうが、まあ一本呑みな!」
そう言ってビールの小瓶を渡されることもある。礼を言って頭を下げ、一息に小瓶を飲み干すと、どこからともなく拍手が沸いてくる。一九七〇年の日本の春は平和だな、と思う。よど号が北朝鮮に飛んだり、アポロが命からがら地球に戻ってきたりしても世間自体は平和そのものなのだ。
頭を下げながら僕は、しかし、この楽しげな街が一夜にして燃え尽きたらいいのに、と、どこかで考えてしまう。もちろん、身勝手だとは分かっている。その昔、あのダンテがベアトリーチェを喪った時も、フィレンツェの人間は別にダンテの心うちを理解したわけではないだろう。七百年後の日本で、今のこちらの胸のうちを知れ、というのも同じくらい無理な話だ。
それでも、そんな人間がどこかには居ていいはずなのだ。
二
いつも通り十時過ぎにアルバイトは終わった。僕は日払いの給料を受け取ると、新宿駅の西口から阿佐ヶ谷に帰るために国電に乗り込もうとした。雨のせいで、湿気た匂いがあたりに立ち込めていた。
その時、改札口の脇のある物が視界に入った。青電話だ。
「ああ、そうやった」
雑踏の中で僕は立ち止まった。
いたではないか。一応、この話が通じる人間が。だがその人間もまた、とても遠い存在へとなっていた。
それでも、タバコを買って小銭をこさえると、吸い寄せられるように青電話が並んでいる一角へと向かった。そして十円玉をあるだけ機械の上に積み重ねると受話器を取り、そのうちの一枚を機械に入れてダイヤルをまわした。程なくして、交換局の女性の声がする。
「市外です」
長丁場になるかもしれない僕は、財布から更に十円玉を探しながら受話器に話した。
「兵庫県の西宮市をお願いします」
しばらくして、電話の向こうにさっきとは別の中年女性の声がする。相手の母親だ。どうやら繋がったらしい。
「夜分に失礼します。波多野です」
「ああ、波多野さん? お久しぶりやねェ? 向こうで二年目やけど元気にやっとる?」
「おかげ様で何とかやっとります。あ、一哉君は御在宅ですか?」
「ああ一哉ね。さっき帰って来てますよ。ちょっと待って下さいね」
電話の向こうで人を呼ぶ声がし、それを聞きながら僕は十円玉を更に何枚も続けて電話機に投入し、それから受話器を右耳に挟んだまま、器用に『わかば』にマッチで火を点けた。しばらくしてから電話の向こうに三人目の、今度は若い男の声が響く。
石堂だ。
「久しぶりやな、ハタ坊」
押し殺したような声が受話器の向こうから響く。その瞬間、左耳から流れ込んできていた新宿の喧騒はどこかに消え去った。
「ああ、イシ。……あれ以来やな」
「せや……」
素っ気ない声が返ってきて、僕は「わかば」を大きく吐き出した。石堂に対しては色々の感情を持たなければならないのだ。だが、そんな彼は、声を聞く限り、少なくとも僕よりも冷静に見えた。苛立ちと嫉妬を落ち着かせる必要があった。
「お前が電話をかけてきた理由はわかってるよ。俺ン所にも金曜日には届いていた」
「そうか……」
恵子は石堂にも送ったのか、と思った。なぜなのだ。
「よっぽど、こちらからお前の下宿に電話しようと思うたよ。ただ、大家さんがあまり下宿人の電話の取次ぎを好まん人やったからなあ」
「ああ、そうね。あの大家はね」
下宿の大家は、電話を置いているにもかかわらず、下宿の学生がそれを利用するのを嫌っている。緊急の用でもない限り、電話を頻繁に利用する事は学生の「堕落」の証だと考えている老夫婦だ。
「だから日を改めてハタ坊に手紙でも書こうと思っていたんやけど、まあこれで手間が省けたな」
上甲東園の石堂は乾いた笑い声を発した。彼もまた、きっとこちら以外の誰にも相談出来ないのだ。六百キロ離れた僕らは、今から声のやり取りだけで傷を舐めあおうとしている。
「おケイが大学辞めてからこうなるまで、信じられないくらいに早かったな」
まずは僕が話を切り出した。「ああ」という同意と共に石堂が言葉を返す。
「俺もな、親御さんは家事手伝いとか、花嫁学校に通わせるとかで何やかやでしばらくは様子を見ると思っていたで」
「まあ、しかし、おケイが大学辞めた時点でいつかこうなるとはイシも覚悟はしていたやろ?」
「…………」
相手が言いよどむのを少しばかり心地よく観察しながら、十円玉を更に機械へと入れる。しかし次の瞬間、石堂は意外なことを言いだした。
「ところでやな。話をはじめてすぐで申し訳ないがハタ坊、この話、俺、電話ではようでけんわ」
「おいおい」
僕は、冗談だろう、とでもいった風に彼に切り返した。じゃあ、どうやって話をしたらいいというのだ。
「いや、誤解するなハタ坊。お前が十円玉を気にしながらで話をするには、おケイのことはあまりに話が長くて大きすぎる」
「それはそうやけど……」
僕は頭を掻いた。湿度が高いと、長髪がうずくような気分になるのだ。手櫛を髪に通していると、石堂はさらにとんでもない言葉を続ける。
「だから今度の日曜日、お前大阪出てこれんか? じっくり話そうや。仕送り貯めこんでるハタ坊なら新幹線代くらい、訳ないやろ?」
「それは、また、えらい話やな」
頭を掻く速度を更に上げて答える。突然の突拍子もない提案に、僕は少しうろたえた。石堂の提案が強引なことだけは、昔からあまり変わっていない。しかし、一点だけ気になる点があった。
「ちょっと待たんかい。何で俺が仕送りを貯めこんでること知ってるねや?」
「知ってるも何も、昔お前が言うとったがな。で、どうなん? 来れんの? 来れへんの?」
石堂は有無を言わさずに畳み掛ける。
「そら、まあ、行こ思うたら行けるけどな」
「じゃあ、決まりやな。今度の日曜日の十二時に、曽根崎の旭屋書店の文庫本売り場や」
「分かった。ほな、その時間に曽根崎で」
すると、僕の回答を待っていたかのように、石堂が笑う。
「あまり心配するなハタ坊。こちらが呼びつけるんや。お前の旅費、半分は俺が出す」
「そりゃ、ありがたいね」
乾いた声で応じようとしたが、何とはなしに笑ってしまった。とうに心配を通り越して既定の事実となってしまったことを話し合う前に、こちらの旅費などという小さな心配への心配りをしている石堂が何となくおかしかったのだ。
「じゃあ、この話はここまでにしよ。最後になるけど、イシ、お前ビートルズの件、どう思う」
電話を切る前に、僕は一点だけ、別の話題を石堂に向かって出してみた。本来ならそんなことをするべき電話ではないのだが。
「ああ、ポールの脱退のことか?」
少しの間をおいて、石堂が返す。先月の十日、ポール・マッカートニーはビートルズからの脱退を表明していた。
「せや」
「おケイは悲しんでいるやろな。でも、しゃあない話や」
「しゃあないかなあ。惜しいと思うがなあ」
「そら、俺かて惜しい。でも、時代はかわっていくさかいな。こればかりはどうしようもない」
「おケイのこともか? イシ?」
僕の問いかけに受話器の向こうの石堂はしばらく沈黙した。その間に僕が十円玉を大量に青電話に追加していると、やがて返事がかえってくる。
「『レット・イット・ビー』やで。ハタ坊」
「それは……ビートルズの最新盤やな」
ビートルズ最後のレコードになるかもしれないと、ここ最近ヒットチャートを賑わしている曲のタイトルを石堂が口にした理由は、何となくだがわかった。
「ああ、万事全て『レット・イット・ビー』、要は”なすがままに”やてハタ坊」
「そうやな、確かに今はそうとしか言えんな」
「どうしようもなければ流れに身をまかせるしか、もう俺らに残された道はないよ、ハタ坊」
「イシ、気取るな」
僕は制した。気取る資格は彼にはないのだ。石堂のため息が受話器の向こうから聞こえ、「じゃあ日曜に」とどちらともなしに言い合うと受話器の切れる音がした。その瞬間、両耳から新宿のざわめきが戻ってくる。青電話の横に重ねて置いていた十円玉は綺麗さっぱりなくなっていた。僕は小さなため息を一つつくと、国電の改札口の方に向き直った。アルバイト中の小瓶の酔いが、ふと、全身を駆け巡っていくような気がした。
その晩、夢を見た。『レット・イット・ビー』のピアノを弾くポール・マッカートニーと、その横に無言で佇んでいる大貫恵子を僕が眺めているだけの夢だ。どこか沈鬱なピアノの音色の中、僕は幾度となく二人に声をかけようとする。しかし、二人はこちらに目をくれようとはしないで、曲が終わるとどこか白い靄の中へと消えていくのだ。
「『レット・イット・ビー』なんて冗談じゃないよ」
明け方の布団の中で僕は呟いた。しかし、じゃあどうしたらいいのか。その答えもやはり白い靄の中にあった。