第48回~昭和45年6月8日「あなたのすべてを」(前)
一
僕と多英が試した賭けは成立しなかった。中田一誠という男を侮りすぎていたのだ。
新宿駅で追い払われた男は、確かに荻窪の駅前に舞い戻って僕らの予想の範疇で動いていた。アルバイト先の焼鳥屋を入ってすぐのところに佇み、仕事の手を抜きながらに時を過ごしていたのだから。だが、手の抜き方が鮮やかすぎた。調理のためか長髪をひっつめにした格好で椅子に座った彼は、コップ酒片手に『COM』のページをめくり、それでいて耳だけはしっかりとラジオの巨人対アトムズ戦へと向けていたのだ。要は、吾妻多英が予想したサボタージュの方法を同時にこなしていた。
「あっ、二人とも! 詐欺! 詐欺がまたあったのよ!」
縄のれんをくぐって扉をあけると、こちらを振り向いた中田の絶叫が他に誰も客のいない小さな店内に轟いた。
「ちょっと一誠、やって来た客にいきなりかけるにしては物騒なこと言うのねえ」
カウンターの中央あたりに二人分の席をとりながら、多英が軽くたしなめる。
「違うわよター。アンタ達の話じゃないわ……聞いてよ! チャンスがチャンスに打たないの!」
「何の話だよ。訳が分からん」
僕も唐突な中田の絶叫の訳を探る会話へと加わる。彼はこちらを哀しそうな目でうかがったが、やがて残った酒を呷ってからマンガを脇に置くと、カウンター内の棚に据えられたトランジスタラジオを指でさした。
「ウチの……アトムズのチャンスがまた好機に凡退したのよ!」
「ああ、ああ」
話しが呑み込めない多英を置き去りにした僕は一人納得した。どうやら、阪神のバレンタイン以上にスランプの極みにいるアトムズの黒人選手がまた、アウトになったらしい。
「去年はたったの二月でやたらめったらボコボコとホームランを打ったのよ? この春にはロバーツと二人で二百点は稼ぐって言ってたのよ? それがっ!」
「あー、あー。何にせよ、弱いアトムズの応援しとるマゾなお前が悪いよ」
少女の横に腰かけながら、からかい半分に僕は弱小球団に敬虔な祈りをもって臨む男を評した。
「だってサ、郷土の英雄の石戸選手がアトムズにいるんだもの。仕方ないじゃない」
中田は悟ったような顔を作った。そして、ラジオのアナウンサーが巨人が十対一と一方的なリードを奪ったことを伝える声を確認すると、頭を垂れながらにカウンターの中へと移動した。客を前にしてマンガも野球中継も中断した彼の手元には、今日の仕事のためのコンロの青火が現れる。
「アトムズといえば一誠、アンタまだ手塚治虫読んでるの? 遅れてるわねえ」
カウンター越しに放られたおしぼりを右手で鮮やかに捕まえた多英は、先ほどまで店員が読んでいた、座卓に置かれたままのマンガに言葉を向ける。
「そんなこと言わないの。ター、今『COM』に載ってる『火の鳥・鳳凰編』って凄いんだからぁ」
「ふうん」
中田の熱弁に比例しない、興味のなさそうな相槌が僕の隣の席から漏れる。
「そんな言い方しないの。奈良時代の迫力ある話なんだから……。それにター、手塚治虫は将来は教科書に載るレベルの作家よ」
「おいおい」
手塚治虫への情熱を語りつつ冷蔵庫から肉と酒を取り出し、意外な手際の良さで接客の準備を行う中田に向かって僕は思わず声をあげた。
「この前のビートルズといい、自分の贔屓をお前はなんでも未来の教科書に載せようとしすぎるよ」
「だって、誰が何言おうとアタシはそう思うのよ……何なら三十年後を目途に賭けてみない?」
「それ、乗った!」
提案に飛びついたのは僕ではなく多英だった。
「吾妻さん?」
「『ター』でいいといったでしょ?」
くすぐったそうな唇を僅かにこちらに向けた少女は、すぐにカウンターで営業準備に勤しむ長髪の男に興味の対象を変えると、賭けの承諾を申し出た。楽しそうに弾む声を聞きながら、僕は少しだけ目を瞑った。「吾妻さん」と呼んでいた人間を「多英」なり「ター」に変えることは、心の中では簡単だが声にするにはやはり、時間がかかるらしい。
「じゃあ昭和の、えーと七十五年か……そこまでに手塚治虫が教科書に載るかどうか、三十年後の今日を期日に賭けをやりましょ。ここに来る道中に波多野クンとやったバクチよりも面白そうだもの」
「ター!」
僕は覚えたての単語に意識を集中させると、訳のわからないギャンブルにのった女の子をたしなめる。だが、その言葉に反応したのは多英ではなく中田だった。
「波多野、アンタ、ついに本格的に『ター』と言えるようになったのねえ」
目を細めた男は身を乗り出す。小ぢんまりとした肘がカウンター越しに突き出された。
「ああ……」
「ね、だから、この何時間かの二人きりでのやり取りをサッサと言ってしまいなさい。言って損はしないわよ」
中田は黄ばんだ歯をむき出しにして笑みを作る。
「アンタ達がやっていたらしい『賭け』の中身も知りたいしね……」
ニヤついたままにそう告げると、たった二人だけの客を相手にする店員は火のついたタバコを咥えていた。彼が「自分の」タバコを吸うところを見るのは初めてだ。
「それは……その……」
まさか、問うている人間の怠け方を対象にしていたとは言えない。
「ええ、白状しなさいよ!」
咥えタバコのまま、中田がコンロにネギマやレバーを叩きつけるように置きながら叫ぶ。だが、その口調は愉快そうなところにとどまってくれる。
「今日のこの店での宴はアタシがつかさどってるんだからね! 焼鳥食いたきゃ教えなさい!」
腕組みをした男がカウンターの板切れの向こうから僕を見下ろす。
「アハハ!」
多英が手を打ち鳴らした。
「さて、そろそろ適当に焼くわよ……飲み物はサッポロでいいわね?」
「一人頭千円くらいにはおさめてくれよ」
ハツとシロを更に両手に抱えてコンロに向かう中田に僕は声をかけた。財布には千五百円しか入っていないのだ。でも、今日は借金してでも酔ってみたかった。言うべきことをいって、勝手な意見にもかかわらずそれが了承された直後なのだ。ここは傷つきも悩みもしなければ、緊張すらしなくてもいいような場所のはずで、だから僕は久しぶりに心ゆくまで酒を口にしてもいいかもしれないのだ。それにあの時、多英の髪の毛の中に顔をうずめていこうとしなくてよかったという感覚に少しだけ包まれていたかった。本当は、あの状況に流されてかまわないとどこかで思っていたくせに。
「それは波多野の飲み方次第ねえ」
中田が大瓶の栓を抜き、よく霜のおりたビールをカウンターに置いた。二杯のコップにそれを移し替えた僕は、乾杯もそこそこにひと息で飲み干した。鈍くない味だ。
二
九時半になってもカウンター主体の狭い店に新たな客は来なかった。いくら住宅地の駅前の店とはいえ、曜日を考えたらもうサラリーマンがやって来る時間帯ではない。気にすることが終電くらいしかない気楽な身分だからこそ与えられた空間なのだ。そんな細長くも人数に対しては広すぎる空間で、中田は客に飲ませながら自らも手酌で日本酒をどんどん呷る。
それにしても貸しきりのような格好で経営は大丈夫なのだろうか?
「この店、戦前にちょこっとだけ売れたダダの作家の持ち物でね。大した実入りもないけど耄碌防止にはなるとかいって御年七十なんざで続けてるって訳」
酔いがまわってきたのか、店の成り立ちを説明する彼の声は大きく、妙な抑揚がついている。
「へえ……ダダイスムかいな。それならオーナーは今も健筆なん?」
一味を肉にまぶしながらに僕は確認するが、中田はそれを一笑のもとに否定した。多英は既に内情を知っているのか、ゆっくりとコップのビールを飲んでいる。この二人は、つきあいだけなら僕なんかよりも遥かに長い。
「今も書いているなら酒場開いてないわよォ。なんでも真珠湾の頃には才能が枯れ果てて、後は印税よりも兜町で稼ぎ続けてこの店まで持ったらしいわ。よっぽど株が儲かるのか、今日だって予定通りにアタシが来た途端に向かいの不動産屋と麻雀に行ったわ。いい身分よねえ」
「ふうん。そんなもんかねえ」
僕はタレでベトベトになった前歯で肉を串から切り離した。そりゃ、肉と酒をちょろまかす中田が雇われ続けるわけだよ、と思った。戦前の文士がやっているからこそ、正体不明性別不明、もう少しよく言えばボヘミアンかつ変人かつたかり気質の彼が使用人として面白いのだろう。
が、こちらの好意的な評価にもかかわらず、肝心の使用人の口は悪かった。老作家がその毒舌までも買って雇い入れたかまでは、僕の知るところではない。
「大体が優秀な作家なら七十まで生きるわけないでしょ。太宰も中也も、あのランボーだって四十にもなれなかったのよ」
とんでもないこと言うなあ、としか思えなかった。仮にそうなら、例えば志賀直哉や川端康成はどう定義するべきなのだろう?
「まーた一誠の夭折願望が始まった」
コップの中身を空けた多英が横から会話に参加する。
「願望?」
「そうよ波多野クン」
少しトロンとした目つきの少女は、僕の肩に自分のそれを寄せると語り出した。迎えうつこちらも、すでに何杯か胃に流し込んだせいか、特にためらいなくそれを受け止める。いい感触だ。
「コイツさ、アタシに振られると決まって口癖のように『三十であの世に行きたい』って言うのよ。芸術のセンスも恋路のセンスもないなら、せめて文豪たちの没年真似して燃え尽きて死にたいとか言ってね……だから、あんまり真に受け止める必要ないわ」
「ははあ」
僕は相槌をうった。この前、「人の死」について諭した割には、自分の生命にはそんなに価値を持たない男らしい。
「キャー! 意地悪!」
辛辣な意見を喰らった中田は叫ぶと、自分の額をピシャリとうった。本当に、コイツに破滅願望に似たものがあるのだろうか?
「今日も今日とて、波多野とターがなんやかやでアベックになってしまうし、ああ、めでたいしそれが望みだったけど切ないわぁ!」
ぼやき続けるアル中の店員はまた、二級酒の栓を開けた。そして、コップ酒はこの奇人を更に饒舌な男へとかりたてる。
「こうなったら李白のように酔っぱらって死にたい! ……いや、アレは案外に長生きしてたかもしれないわね……なら、ヴァレンチノのように一度でいいから葬式で沢山のオナゴをヒイヒイ泣かせたい!」
「うへぇ!」
もう、ズッコケるしかないのだ。中田の変身願望の対象が古代中国から一気にハリウッドにまで飛んでしまったのだから。
「やあねえ一誠ィ……。ヴァレンチノなんて凡人が一度も出来ないことをやってのけたから伝説のスターなんじゃない。厚かましい」
こちらはこちらで大概アルコールが回った多英が秋田人を茶化す。夜更けの店は二人の冗談の応酬の場となっていた。
「アンタが死んだら香典を全部くすねてやるんだから……」
その様子に愛想のいい笑みをもってつきあいながらに、僕は『わかば』を取り出した。二人とは真逆に、酔いが僅かずつではあるが醒めていく感覚がしたのだ。心底から新しい世界を求めていたはずなのに、いざとなると目の前の陽気さの中に包み込まれてもいいのかという戸惑いがあった。ほんの少しだけ、時間をこさえなければならない。
僕はまだ臆病者だし、猜疑心を虎の子のように抱えているどうしようもない人間だった。
三
確かに、中田の冗談とアルコール、それから多英の笑顔にまかせきりの店というのは悪くはない。素敵だ。心の中にしがみついてくれていたおケイの輪郭がぼやけていく程なのだから。
だが、今日の多英について掘り下げるとなるとそうもいかないのだ。まともに出会って一月にもならないうちに、この女の子に好意を抱くわ、なし崩し的に想いを伝えて受け入れられるわで未だに自分が信じられないという感覚は、本人の横に寄り添っても消えてはくれない。大体、こうやって僅かの間に自分を受け入れようとする女性に会えたのなら、それまでの数年は一体何をまごついていたのだろう。そんなことを思えば、淡くなっていったはずの白い顔が胸のどこかに蘇ってくる。
不味いな、としか思えない。酔いが薄れるだけでなく、僕は不誠実なのかもしれないと感じたのなら尚更に。
「二人は付き合うんだし、あたしゃ腹いせにアンタ達を足腰立てなくなるまで飲ましてやる!」
赤ら顔の中田がまた、叫んだ。僕は目線以外はとくにその声に反応せずに紫煙を消す。不誠実なだけでない、この二人の男女との距離感を未だつかめていないことも決定的に酔えない原因だった。楽しげな雰囲気のうちに酔った気分になったが、その実、ここで本当の楽しさを覚えているのかが分からなくなってきている。
そういえば、多英は学校を休んでまで北に向かった事実の内容をまだ語ろうとしないし、中田は詳細を知っているはずだが教えてはくれない。それは、以前中田が言った通りに多英が自ら語るべきことで、僕が問うてはいけないのかもしれない。二人には知り合ってからの一年がある。だから僕が彼女とペアになったとしても、中田一誠という存在を僅か二時間で超えることなど出来はしないのだ。
「一誠こそ足がフラフラじゃない! そんなんで本当に肉、焼けるの?」
アハハ、と軽い声をあげながらに多英がやり返すが、その瞳はやがてこちらをうかがってくる。トロリとした眼光を意識しつつ、僕はカウンターに突っ伏した。酔ったフリで場をやり過ごすことが、タバコ以上に楽な方法だと遅まきながらに気がついたのだ。
「大丈夫よ。波多野なんてビールの二本と癇酒の二本でそんなザマだけど、あたしゃ違うわよぉ! 秋田が誇る好青年なのよ? まだまだ焼くし、飲ませるわよ!」
「アンタみたいな奇天烈が好青年なわけないでしょ? 県民の県外追放の請願が通って東京に放り出されたような人間じゃない!」
呑気な声が頭上と隣からかけられる。だが、中田の呑気さが新米の彼氏をくつろがせてくれるとは思えない。陽気に僕と多英を祝福する彼が、いつか豹変するかもしれないという気持ちがまだどこかにある。そして、一体多英はこういう感情を捨てきれない自分のどこが気に入ったのだろう? 打ち明けた昔話だって、語った内容はこちらに都合のいい切り貼りでしかないというのに。
考えることは泉のように湧いて出てくるが、僕は頭を持ち上げた。実際はそこまで酔っている訳でもないから造作もないことだ。本格的に泥酔した人間として扱われるのはどことなく忍びないし、やはり、寝たふりだけでは懸案は解決しないだろう。
「ああ、起きた! 今日はまだまだ飲むよ! 電車賃以外は全部飲んでしまうさ」
大瓶に残ったビールはコップ半分程だった。それを一口で飲み干すと、僕は新たな酒と焼鳥を中田に注文した。中田の本心も、多英と付き合うことへの未知ゆえの不安もある。それでも、この二人に対しては時間はかかってもひたすらに正直になる術を考えなければならない。去年までの冷たさをかなぐり捨てるために、やり過ごすという考えをまず、捨てなければいけない。
「そうこなくっちゃねえ! 波多野!」
「どんどん焼いてえな」
後ろを向いて新たなビールを冷蔵庫から取り出す店員に念を押す。手持ちは不安だが、色々なものを呑みこんで向き合う覚悟が出来た今こそ、真に酒が美味しくなる時間に違いないのだ。




