第47回~昭和43年12月7日「はなれぼっち」(後)
五
「関西での進学て……。どないしたんや一体」
狐に包まれたような気持ちの僕は聞き返した。今の今まで、この店に馳せ参じたのはすべて、石堂への不安を大貫恵子が吐露したいだけだといたのだ。それが、彼女が訴えたいことは僕の進学先を変えてくれという要請だとは!
おケイはうつむいてしまったまま、僕の問い質しには反応を見せない。伝えるという行為に疲れ果ててしまったかのように、グリーンのワンピースは同じ色をした座椅子の中に埋もれてしまっていた。
「僕は早稲田……ほいでもっておケイも東京の私大を受けるという話やなかったんか?」
要求を絞り出して以降、何も喋らなくなった相手へと僕は確認する。さっきまでのように言い淀んでしまった言葉を待つだけの余裕などはない。怒りや憤りこそないものの、真意のためなら何かのきっかけで少女の身体をつかんでまで声を引きずり出したいという気持ちだけはあった。
しかし、少女は何も語らない。ひたすらにうつむくだけうつむいて時をやり過ごそうとしている。
「なあ、おケイ!」
シンと静まった寂しい店に僕は声を轟かせた。ついでに無意識のうちに右手がテーブルを打つ。とうとう、静寂と苛立ちに耐えられなくなったのだ。少女の肩越しに、銀盆に飲み物を載せたままうろたえて立ち尽くすウエイトレスの姿が見えた。
「何か言うてえな! なあ! 呼び出されていきなりそない言われても、訳が分からへんやないか!」
再三にわたる催促に屈したのか、ついにおケイはようやくに伏し目がちだった目を上げた。
「石堂君のことよ」
ためらいを断ち切ったような眼差しがそこにあった。
「イシぃ? 僕らの進学先の話やろ? なんでアイツが関係するんや」
真剣な表情を崩さない相手に対して、僕は突き放したような言葉づかいで反応する。脈絡のない切り出し方の話の中に戸惑っても、おケイは結局のところ石堂の話をしたいのかという落胆があった。一方でそれは察しがつきやすい話でもあった。進学先の変更と石堂への不安の二点は、ある考えに基づけばいとも簡単に繋がってしまうのだ。
運ばれてきたコーヒーの湯気を僕は見た。そして寒い店内の中で程なく薄れていく湯気のように、うっすらと見えかけていた未来も今、消えようとしている。
「停学なろうが何やろが、アイツは京大志望、それでええやないか。僕らの上京と関わらない話のはずや」
無知を装った言葉が湧くように出てくる。もう、おケイの意図するところは見えていた。だからこそ、気づかないフリをもって空しい抵抗をしなければいけないのだ。
そしてもちろん、おケイはそんな誤魔化しを認めてはくれない。
「ウチら石堂君の友達やん……。せやさかい、関西に残ることで石堂君がどこか怖いとこに突っ走るのを止めてあげなアカンと思うんよ」
冷めた紅茶におケイは再び口づけた。僕も同じように温かい褐色の飲み物を口元に運ぼうと思ったが、やがて止めた。答え合わせが正解となってしまった以上は、湯気が消えていく瞬間でも見てるのがいい。
六
私大の大学入試が始まるまでは残り二ヶ月、国立一期校のそれも既に三ヶ月を切っていた。が、それはあくまでも予定の話であって、実際にその通りになるかは分からない。日本中の学校がストで封鎖されては荒れていく中、入学試験が確実に実施されると、誰が断言できるのだろうか。カラーテレビの向こうでも、最寄りの大学でも、色とりどりのヘルメットに身を固めた学生が闊歩する毎日だ。そこかしこに様々なセクトが乱立していた。彼らはかつての教授を吊し上げ、殴り、セクト同士で角材をもって乱闘を行っていた。そして、時には機動隊員を殺した。
大学生達が日大の使途不明金や東大のインターン問題や、各校の学費値上げに対する憤懣のみで動く日々は多分、終わっていた。正義感に始まったはずの熱狂はどす黒く変色して、退きどころを見失ったのだろう。知性と革命を表看板にした暴力だけがあちこちの大学街の歩道にこびりついている。
石堂が飛び込もうとしている世界とは、運動に関心がない僕からすればそういうものだ。
「世間知らずやし、私はああいう運動がいいとか悪いとか分からへん。でも石堂君、不味い方向に行っていると思うのよ」
おケイが語り出すと、店内に『遠き山に日は落ちて』が静かに流れはじめた。『蛍の光』もそうだけど、これを流すとなるとそろそろ閉店が近いということなのだろう。僕らは、追い出される前に話をまとめる必要があるということだ。僅かな時間ではとても、まとまらない話を。
「そりゃ、僕かて止めてはやりたいさ。でも、おケイが言うように『何が不味い』のかが分からないやないか。それって、行き着くとこまで行ってから自身で考えるべき問題やろ」
「ダメよ……。確かにまだ、『間違っている』かは分からへんよ。でも、繰り返すけどウチらあの人の友達やん。万に一つでも石堂君が道を誤ってしまったなら、その時はそばで全力で止めてあげんとアカンと思うんよ」
「おケイ……」
「波多野君。そこまでして、そうやってここに残ってこそ、初めて友達やといえるん違うかな?」
言いたいことを全て語ったのだろうか、彼女は緩やかに僕から視線を逸らすと、両の人差し指をあわせた。我が見解を待っているのだ。少女の優しさを僕は呪った。コーヒーから湯気はたたなくなっていた。
「イシは、そのこと知ってんのか? おケイが関西に残ることにしたってことを?」
しばらくのダンマリの後、僕はぬるくなった飲み物にようやく口をつけると、辛うじてそれだけを尋ねた。
「ううん、まだ……。明日にでも電話しようかと思ってる……」
「そうか……」
僕は黄ばんだ天井を睨んだ。未来など、見えたつもりで見えてはいなかったのだ。結局、石堂が幸せ者だったということか。だって、己の信じるままに不透明な道を突き進みながらも、これだけの可愛い子に気遣われている。哀れな僕とは違うのだ。「役者」になろうとしてそれを辞めたり、ひがんだり、祈ったりしながら日々を過ごした僕は多分、これほどの心配などされてはいないのだろう。
「ねえ、波多野君……」
曲が終わるとともに少女の呼ぶ声がする。しかし、僕は天井から視線を戻せなかった。惨めさに浸りきった目元から涙がこぼれそうだったのだ。それは、恋をしてしまった人間の前でみせる行為ではない。
呼吸を整えながら、僕は目尻の涙を元の場所に押し戻した。必死の芸当を駆使することで、ようやくにおケイの顔へと焦点がもどる。絶望的な中での最後のあがきをする必要があった。
「しかし……しかしやで、おケイ。あれは……ああいう運動は『はしか』みたいなもんやろ。心配せんでもほっといたら、そのうち熱が醒める代物や。せやさかいあまり自分の考えを犠牲にまでせんでもええのやないか?」
喋りながら、初めてこの店を訪れた時のことを思い出した。ビートルズに熱をあげる自身の事を彼女は「はしか」と形容したのだ。あの時のおケイのそれと、今度の石堂のそれの距離はどれだけあるのだろうか。
「でもねえ」
予想通り、彼女は首を横にふった。
「『はしか』で死ぬことだってあるんよ、波多野君」
ためらいがちな笑顔が僕を見た。もう、どうすることも僕には出来ないのだろうか。関西に僕も残った方がいいのだろうか。
「少し、考えさせてくれ」
そう告げると僕は目を瞑った。間近に迫ってきている店じまいを前にして、何らかの答えが求められている。
東京に行かないということは悪いことばかりではない。おケイが近くにいるのだから。彼女がとどまるのに従うなら、上京するよりもはるかに恋路をたどりやすい環境にいられることになる。それに、石堂のことも全く心配ではないといえばウソになるのだ。
だが、映画マンの夢は遠のいていくだろう。いや、それはまだ昨日教師に言われたとおり、関西にいても自分に器量さえあれば何とかなる話だ。上京しなければならない理由は、もっと別のところにある。
石堂だ。
おケイは明日、彼に関西に残ることを伝える。彼がその連絡に狂喜した後、もう一人も関西にとどまると知ったら、その行動をどう受け止めるかは明白じゃないか。長いこと早稲田早稲田と言っていた人間がコロリと近くに残留するのだ。その時アイツは、こちらの挙動が友情から生じたなどとは微塵も思わないだろう。そうではなく、おケイのケツを追いかけることを選んだ人間として馬鹿にし、嘲笑うに決まっているのだ。春になり、大学生となった三人で会った時、その選択を陰に陽に「初志貫徹も出来ないヤツ」とかなんとか言ってあげつらうに決まっているのだ。今の石堂はそういう男だ。
僕は冷めたコーヒーを口にした。どちらの選択をするか、ではなかった。選択肢は一つしか残されていなかった。
「分かったよおケイ」
飲み物をすべて胃に収めた僕は結論を喋りはじめる。
「えっ?」
反応する声にはリズムがあった。承諾してくれた、とでも早合点したのだろう。その軽やかさに、僕はコーヒーではない苦味を奥底で感じるしかない。
だから、僕は静かに自分の首を水平にふった。
「イシは心配やけど、僕は当初の志望を変えへんよ。ただ、おケイが残ることにまで反対はせん。残るのが正しい思うならそうしなや……」
端正な顔に陰りがはしった。彼女は何かを言おうとしたが、それは閉店を告げに来たウエイトレスによって遮られた。
おケイが少しこちらの表情をうかがいながらにコートを羽織り、この前プレゼントしたマフラーを首に巻く姿を僕は自身も身支度をしながらでじっと見ていた。言葉を作る余裕がなかった。時間もそうだし、四方から忍び寄る得体のわからない力に潰されないようにしながらでは、それくらいしか出来ることがなかったのだ。
全ては淡いうちに消えていくのだろうか。少なくともこの子はやはり、石堂に惹かれているのだ!
七
勘定を払って七時の街に出ても、僕らの間には会話の続きは生まれなかった。無言のうちに電車に乗り、最寄りの駅まで戻る最中も、何一つとして言葉が出なかった。こっちは疲れ果てていたし、相手はそんなこちらに失望していたのだろう。
「今日は忙しい中ありがとう。暗くなったからウチ、バスで帰るわ」
甲東園の駅前で恵子はそう告げた。それが久しぶりの会話だった。停まっているバスに乗り込もうとするほっそりとした背中に僕は続くことはなかった。言葉の端に、これ以上の同道を緩やかに拒否する雰囲気があったと思ったからだ。
「気をつけてな」
凡庸な言葉をかけたが返事はなかった。ただ、小さく手が振りかえされただけだった。
遠ざかっていくエンジン音を聴くと、僕は重い足取りを家までの坂道へと向ける。バスが消えうせると、そこは眠ったように静かな街だった。灯りも乏しい黒々とした影の中に足を踏み入れる。寂しい風景だった。会話はなくともバスに乗るべきだったのかもしれない。
「ああしかでけへんやないか」
誰に聞かせるでもない言い訳が坂の中腹でこぼれた。素直な感情に従って、石堂に嗤われるなら、意地で痩せ我慢する方が男として偉いはずなのだ。なのに、後悔している自分がどこかにいることを認めなければならなかった。僕は石堂と離れていこうとしていた。そんな中で今日、おケイとも離れてしまったのかもしれないのだ。距離ではなく、心が。
「『はなれぼっち』て、こんな気分の歌なのかなあ」
以前おケイから借りた ザ・リンド&リンダースの曲のタイトルが口をついて出る。S字カーブのアスファルト道路をゆっくりと踏みしめながらに、今年の初夏にささやかな評判をとった物悲しい別離のメロディを口ずさむがそれは気持ちのいい行為ではない。なのに、そうせずにはいられなかった。
「ああ……」
ため息とともにカーブを曲がり、坂を登りきったところで高校が見えてきた。学校の前は、左に曲がれば家だが、直進すれば大貫家に通じる十字路になっている。僕は別れ道にしばらく立ち尽くした。しんみりとしたグループサウンドに浸るだけで終わらせなくても済む方法は、今ここで道を真っ直ぐに進むことで開けるかもしれないのだ。
だが、僕は左に曲がった。言い直しても、おケイの心にあの場で同意を送る以上に新鮮な感動を届ける自信などありはしなかった。




