第46回~昭和43年12月7日「はなれぼっち」(中)
四
「波多野君、夕方時間あらへん?」
受話器の向こうの大貫恵子の声は性急だった。開口一番の台詞が挨拶ではなくこちらに時間の捻出を訊くものなのだ。
「せやなあ。でも今日は予備校やからなあ……」
せっかくの電話を僕はもてあますようにいじくってしまう。おケイの誘いともなれば一も二もなく飛びつきたくなるはずなのにそうならないのは、彼女が話したがっているだろう話題への気乗りがないからだ。相手が石堂の事を話したがっているのは、こちらが学校から帰宅してから予備校に向かうまでの僅かな時間を狙ってせっかちな電話を寄越してきたことで何となく、分かる。
「そうかあ……そうよね」
ため息がこぼれる。何と形容したらいいかわからないそれを僕は黙って聴いていたが、やがて彼女の提案をすくいあげることにした。
「でも、今日はイシと難関大学向け英語を二コマ受けるだけや。早く終わるし、六時には二人とも甲東園に戻ってこれるで」
思わせぶりで、かつ、タイミングを少しずらした回答を行う。僕は、彼女が心配したいであろう名前を天気でも話すかのように口にした。それが、おケイが彼を心配することへの精一杯の嫌悪感の表現方法だった。
話し相手は受話器の向こうで少し沈黙する。が、やがて小さく息を吸う音とともに会話を再開する。そしてそれは、意外な要望だった。
「それじゃあ、それじゃあダメなんよ。石堂君がいたらアカンのよ。波多野君と二人きりで話さなアカンことがあるんよ」
「僕と?」
思わず聞き返した。だが、嬉しさはこれっぽっちもなかった。そっと受話器から耳を遠ざけ、僅かの間だけ思考を繰り広げる。僕は、おケイが石堂の愚痴を三人で聞く場でも設けるつもりなら億劫だ、と思いつつ電話を受けていたのだ。それが彼女は当事者の石堂を除いて二人で会いたいという。彼のことでは、ないのだろうか。
「そう、波多野君にだけ話したいことがあるのよ」
彼女は、一言呟いただけのこちらに対して念を押すように要求を繰り返した。声の調子は当初の焦ったような部分が失われ、代わりにくぐもったものとなっている。いつも感じるような瑞々しさはなかった。石堂に関しなくても、あまり愉快な話ではないのかもしれない。
それでも、僕は拒むことは出来なかった。この入試に向けて切羽詰まった年末の一時間を切り取るのは苦しいが、内容はともかくにしても恵子の顔を眺めたいという欲求に勝る使命など持ち合わせてはいない。
「分かった。ほな、授業終わったら梅田で適当に用事をでっち上げてイシをまくわ。……で、どこ行けばええんや」
「甲東園……じゃダメね。何かの拍子に石堂君に会っちゃうかもしれへんもの……」
自ら甲東園で会いたい、としていた言葉をおケイはアッサリと撤回した。余程、石堂に出くわす可能性を排除したいらしい。
「宝塚」
僕は私鉄の終着駅の名を告げた。
「え?」
「前によう行った花の道にある喫茶店はどうや? そこならまあ、石堂がこの時期に来るはずもないやろし、僕も六時半には着けるわ」
「ウン……じゃあ波多野君、そうしてもらえる?」
「ああ……ほな……」
僕は受話器を置こうとした。が、空気を割くような相手の声がそうさせなかった。
「波多野君!」
こちらを引き止めようとするような力強い口ぶりだな、と感じた。が、その強い声をもってして僕を何からとどめようとしたいのかまでは分からない。それでも、しらずしらずのうちに僕は受話器に耳を押し当てた。緊張を感じたのだ。
「ありがとう」
それだけだった。機械音が鳴った。特に、あの振り絞るような声には何の意味もなかったということらしい。僕は複雑な気分になった。勢いよく名を呼ばれたあとに、もっと別の言葉でも続く事を期待でもしていたのだろうか。
「啓次郎! アンタ早うしなさい! 授業、間に合わんなるのと違うか?」
期待する言葉を考える余裕は与えられなかった。台所から顔を覗かせた母を確認すると、僕は腕時計を覗き込んだ。針は午後の一時四十分をさしている。
「今出ますて! 行ってきます!」
僕はコートを羽織ると怪訝な顔の母親を横目に参考書と辞書の入ったカバンを抱え、勢いよく引き戸を開けて外へと飛び出した。高校の昼までの授業の後、食事をとってから予備校に通うというお決まりのスケジュールがひしめきあう土曜日の日中に電話を受けるなれば、ありきたりな小言の一つも喰らってしまうことになる。講義が始まる二時半までは、それほどの余裕がなかった。
五
「『ロミオとジュリエット』やて? ハタ坊、正気か?」
カビくさい予備校の階段の踊り場で石堂が叫んだ。
「正気やでぇ」
彼を振り返らないまま足早に階段を降りつつ、僕は答えた。
「封切直後の今、観んかったら将来の映画マンとして名折れや。なんやエロもあるらしいしな」
「エロなあ……エロかあ……」
思索が性に及んだのか、彼の言葉は少しだけ鈍くなる。が、忠言する感情が煩悩を殺したらしく、大声での説教が再開される。
「しかしお前、今、受験直前やぞ? 映画好きなんは分かるけど流石に我慢が肝心やろ!」
大きな肉体が校舎の出口前に漬物石のように立ち塞がった。僕はその威容を無表情に見つめるだけでいいが、帰宅する他の高校生や浪人生はたまったものではない。哀れな連中は裏路地を縫って歩くように石堂の脇をすり抜けて外へ出て行く。
「どけや、イシ」
僕は彼を見つめた。石堂が困惑したような表情を作る。文句と語調にトゲを含ませていた甲斐があったというものだ。
「去年の『じゃじゃ馬ならし』に続いて、シェイクスピアの映画がかかるのや。今日みたくディケンズ訳すより英語の勉強になるわ」
「ハタ坊……」
「どけよ、イシ」
僕は彼を睨んだ。
「分かったよ」
石堂は扉から身体をずらすと、諦めたことを知らしめるように頭を前のめりに数度ふった。彼がこちらの引き止めを諦めたことを確認すると、僕は夜空の下に前かがみに足を踏み入れた。
後ろは振り返らなかった。石堂の顔を見ると、どことなく気まずさを覚えそうだったから。
当然ながら僕は映画になど向かいはしなかった。東通り商店街にある映画館でなく、大阪駅近くの国鉄高架下にある雑多な食堂街が行き着く先だった。そこで背中を丸めて安いが不味いコーヒーを啜りながら腕時計を睨むのだ。『ロミオとジュリエット』は観たくはあるが、今は石堂をやりすごすための方便にすぎない。ジュリー・アンドリュースが主演なら嘘じゃなかったかもしれないが。
あと二本、電車をやり過ごしたら宝塚に向かう。しかし、頭をよぎるのは思いつめるだけの価値がある美しい顔ではなく、石堂から逃げることに手間をかけてしまった意外さだった。彼が、受験前に映画を観るという無謀さをあそこまで諌めようとするとは予想もしなかったのだ。
コーヒースタンドの隣から、土曜の夕暮れにふさわしい酔客の笑い声が染み渡ってくる。陽気な声の中で、参考書片手の僕は、薄味の飲み物を従えて陰鬱な思考で時間を殺しにかかる。
僕らはもう、同じ授業を予備校で受けるにせよ、別々の足取りで校舎に向かうようになった。集団の中では以前のような親しさを不思議な協力で醸し出しても、二人きりで行動を共にすることはどちらからともなく避けるようになっていたのだ。ただ、それでも予備校からの家路だけは二人で共有していた。同じ講義を受け、帰るタイミングが完全に一致し、家もほぼほぼ同じ場所にあるのなら、僕らは連れ立って帰宅することまでを否定できなかった。高校の登下校すら一人ずつになったのに、だ。推理物のアリバイのようなものだ。梅田から上ヶ原までの四十分ほどの時間を共有することだけで、僕も石堂も、お互いが変わらない友人だと信じたがっているのかもしれない。そして今日、僕はそんな四十分を拒否した。
石堂が「映画見物」を諌めたのは、そういった奇妙な付き合いの外面が壊れることを阻止したかったからだろう。だって、アイツが本音で止めるはずがないじゃないか。一昨日、停学処分の電話を寄越したのだって、単に滅入っていないところをアピールしたかっただけのはずだ。彼もまた、僕が受験で挫折するところを息を潜めて待っているはずなのだから。
入学に失敗した人間には、卒業してもおケイへ交際を申し込む資格などあったものではない。
真赤な口紅を塗った女の子が、隣でストローでアイス・ココアを飲みながらしきりに腕時計を気にする。多分、彼氏が来るまでの五分か十分をこうやってソワソワしながら待つのだろう。僕だって同じだ。これから好きな異性に会う。なのに、隣の人間ほどの期待感に包まれている訳でもない。多分、人が近づいてくるのを期待して待つひと時と、人が去って行くのに期待してたたずむそれの差なのだろう。
僕は薄汚いカウンターでため息をついた。願わくば、隣のBGの今夜のデートが『ロミオとジュリエット』であればいい、と思ったのだ。こちらの分まで派手に濡れ場を見て、それでもって気まずくなってしまえ。
六
宝塚まで梅田から阪急電車で行く方法は二通りある。一つは神戸線で西宮北口まで行き、そこから今津線に乗り換えて向かうという方法だ。そしてもう一つ、宝塚線で一気に終点まで乗るというやり方がある。二本ばかり電車をやり過ごした僕は後者をとった。前者は、途中までは石堂と僕が自宅に帰る際に使う行程なのだ。大貫恵子の口ぶりからしても、そして嘘をついた身としても、石堂に会う危険性を排除しなければならなかった。
急行とは名ばかりにもたついて進む電車の中で僕は一息ついた。あくどいことをしている自覚がなくても、色々なものが手のひらからこぼれ落ちていくような気分に包まれるのだ。雲雀丘花屋敷、山本、中山と、無くし物を拾い集めようにも探すのが無理なくらいの深い闇を電車が進んでいく。そして、売布神社に電車が着いた時、僕は駅のカーヴからチラリと見え隠れする黒い山影を見つめた。去年の夏にはここいらのプールで三人して遊んだことも、随分と遠い記憶に思えた。少なくともあの頃には、邪念などなかった。
おケイの笑顔が見られたらそれでいいという一点だけは何一つ変わっていないはずなのに。
行楽地の夕暮れは早い。土曜の夜の宝塚駅に人は少なかった。寂しげな改札口を通り抜けようとすると、以前週末ごとにやって来ていた僕の顔を知っていたのか、駅員が切符を回収しながら微笑んだような気がした。少ない客に愛想でもふりまきたかったのだろうか。笑顔に見送られて駅舎を出ると、僕は街灯の灯りを頼りに喫茶店を目指す。時刻はちょうど、六時半になろうとしていた。
紅茶を飲んでいるおケイはすぐに見つかった。店の客は彼女しかいなかったのだから当然だ。
「ごめんね。いよいよ忙なるって時に」
ベルトを締めたグリーンのワンピースに身を包んだ少女は片手をあげると、申し訳なさそうに目をすぼめ、僕を奥まった席へと迎え入れた。
「ええよええよ。電話くれた時の声からして余程大事な話みたいやしな……」
脱いだコートを畳みながらコーヒーを注文した僕は、柔らかなシートに腰をうずめた。
「うん……」
大貫恵子は厨房へと引き上げて行くウエイトレスの後ろ姿に少しだけ目をやったが、程なくして僕との会話のために顔をこちらへと向け直そうとした。しかし、彼女の目の焦点はなかなか僕をとらえようとはしない。
これから言わんとする内容が重大だからこそ戸惑っているのだ、と感じた。口にするにもなかなかの決心が必要らしい。だが、その内訳を予測は出来なかった。もちろん、まかり間違っても恋の打ち明けにはならないという予測くらいはつく。この数日の出来事からして、おケイは石堂についての話をしたがっているはずなのだ。
話をはじめる決心がつかないのだろうか。少女の瞳は僕から紅茶へと映す対象を変えた。華奢な手に持たれた湯気のないティーカップの中の液体が、淡い色をした唇の隙間へと流し込まれていく。
僕は言葉を促さなかった。石堂のいない空間で彼について何かを話したいであろうおケイの意図を推理する時間がまだ、欲しかったのだ。
「ねえ、波多野君」
微かにフチに紅を残した話し相手は静かにカップを置いた。言うべきことがまとまったのか、大きな瞳が僕の目を改めておずおずと追いかけはじめる。弱い眼光かもしれないが、彼女の視線はもう、こちらの眼から離れようとはしない。
「ん……なんの話やろ?」
僕はそっとテーブルに上体を乗り出すと、ほんの少しだけ雰囲気を崩しながら反応した。
「波多野君の進学先……東京やのうて関西に変えること、でけへんやろか?」
こちらの表情を上目から気にしながらの相談は、小さなか細い声で始まった。




