第42回~昭和45年6月8日「ミスター・マンデイ」(前)
「いい天気だねえ! ええ、波多野?」
地下鉄の階段を上った途端、中田はちょうどいい塩梅に上野の森の彼方へほんの少し高度を下げた西日を仰ぎ見ると大袈裟に叫んだ。
「どうだかね」
僕はつれない返事をする。四限が終わるや否やで、私鉄と地下鉄を乗り継いで彼にターミナル駅に連れて来られた以上、そんなに上気の返事が出るはずもない。
「あのなあ、波多野」
中田は呆れたように両の手を腰に据えると、そろそろ夕方の混雑でごった返しはじめた国鉄の不忍口の片隅でこちらをたしなめた。
「せっかくお前のターが戻ってくるというのに、そういう微妙な反応では困るんだよなあ」
「誰も『連れてってくれ』だなんて頼んでねえ」
憮然として僕は答えた。が、中田には大した効き目がないらしい。彼はしげしげとこちらの顔を覗き込んだ後、にこやかな顔でもって我が言葉を否定にかかる。
「恋の痩せ我慢、つまらん意地はるな波多野。お前に少しでもその気があるからこそ、なんだかんだここまで俺に着いて来たんじゃねえか」
夕暮れの雑踏で僕は少しバツの悪い感情を再度確認した。そうなのだ。なんとなくだけれど、僕は吾妻多英の顔が見たい。
でも一方で、それは恐ろしい感覚なのだ。あの毒舌娘へ想いを臆面もなく明けっぴろげにした瞬間、大貫恵子は完全に過去の存在になってしまう。もちろん、手紙だってまだ届きはしない。一つの思慕が完全に終わりきってないのに、新しい場所に目を向けるのは人としてどうなのだろうか。だから、僕は中田に何も答えられない。かつて石堂に「おケイが好きだよ」と叫んだような真似ができない。
中田は、僕の逡巡など知らない。彼が分かっているのは、僕が失恋したことだけだろう。
「なあ、ワクワクしないか? 波多野」
陽が差し込むだだっ広いアーケードの中を進むうちに人を「恋の痩せ我慢」だなどと評した中田は、特にこちらからのその言葉への同意も否定も要求はしなかった。その代わりに券売機で入場券がわりの初乗り国電切符を買った彼は、同じように切符を買うよう楽しそうに促す。三十円の切符を手に入れた僕は、つとめて無表情なままに彼を見返した。しかし言葉は視線の後をこれっぽちも追ってはくれない。いくら中田が奇妙な男でも、我が表情一つで全てを察してくれることにまで期待をするのは厚かましい話だ。僕には中田の背中の向こうにある「今」を見つめる踏ん切りが必要だった。
改札で切符にハサミを入れてもらいながら、駅員の後ろに雑然と吊るされている長距離列車のプラカードを見上げてみる。
「なあ中田……。汽車、確か五時半に着く『はつかり』だったかな?」
整然と車止めが並ぶいかにも遠くへの発着駅といった風情のプラットホームを見渡しながらで僕は中田に確認をとった。
「そうさね。七番線に入ってくるヤツ」
中田が事もなげにうなずいても、僕の視界は巨大ないくつもホームが並ぶ巨大な空間を上下左右に揺れ動くことを止められなかった。
上野駅は初めてだった。東京駅から華やかさを取り除いた空間だな、と思った。人は多くとも暗い駅だった。
例えば東京駅の新幹線ホームは気楽だ。日常を東京に留め置いて西に旅に出ても、また帰ってくることが許される雰囲気がある。ホームを列車が離れた瞬間から、すぐにビュフェで富士山を眺めながらビールを飲む検討を考える余裕がもてる。でも、上野駅にはそれがない。定期券で毎日集う通勤客はともかく、長距離列車で北国へ向かう人々はそんな気楽さを持っているように見えなかった。ここは「日常」をも背負い込んで列車に乗り込むことが求められている空間だ。一切を抱え込むか、一切を捨ててでないと汽車には足を踏み入れられない。昔、映画館で観た集団就職のニュース映画のイメージがこびりついてるのだろうか。それとも、逃げるように故郷を後にした少女の姿がこみ上げてくるのかもしれない。
場内に割れたスピーカーの音が響いた。『はつかり二号』が間もなく、あと五分もすれば所定どおりの七番線に到着するというのだ。中田と僕は中央改札口に数歩の歩みを入れたところで案内に聞き入った。
「俺なんかターが戻って来るともなれば、それだけで高校の頃にクラスメイトと初めてデートした待ち合わせを思い出すねえ」
あちこちへと飛び回る僕の心を知ってか知らないでか、中田は天井からぶら下げられている特急の到着番線をもう一度だけふり返って確認すると、七番ホームの先頭車両付近へとこちらを誘いながら話題を変えた。
「冬の日曜日だったかなあ。一本早い汽車で街に出てしまってなあ。仕方がないから駅の売店で時間を潰して、それでも興奮を押さえられなかったんだなあ」
旅に出る人々のざわめきの中で、自分自身の初恋の想い出を確認するように彼は何度かうなずいた。僕はそっと彼の表情をうかがったが、それは上機嫌な風に見えた。彼には彼なりの、駅で人を待つという行為への感傷があるのだろう。
満足な表情の中、彼は腕組みとともにこちらを見返した。ただ僕は、無意識のうちに次の言葉への身構えをしてしまう。彼の思い出話は、過去をさまよいながら、突如今を生きる僕に何かを伝えようとする道具になることは既に知っているのだ。
「それから?」
タイムマシンに乗った彼に、僕は話の続きを促した。たとえ、僕に何かを伝える話であったとしても、饒舌な彼の会話でも聞いていなければ、僕自身が『はつかり』がやって来る五分間をただ、ソワソワしながら待つしか出来ないような気がする。
そして、彼は見事に僕の期待に答えた。再び開いた彼の口は、淡い初恋の記憶などどこかに飛んでいくような行為を語り出す。
「うむ。驚くなよ……売店の軒先に寝ていた猫の鼻に、雑貨屋で芥子買って鼻先にぬってやった」
「お前なあ」
思わず呆れたような大声が出てしまう。しかし、それは枕詞にしか過ぎなかった。続けて無意識のうちに笑い声が喉奥から溢れ出ていく。こちらの笑った姿を確認すると、彼は自分もクックッと笑声を溢しながら『蛮行』の結末を語り出した。
夕陽がホーム屋根の合間から彼の顔を明るく照らしはじめる。
「女の子が来た頃にはもう、怒った猫に顔中ひっかかれて生傷だらけよ。往年の日活スターも真っ青、てな具合の頬の傷でな」
中田は愉快そうに、自分の右の人差し指で頬に何本か線をひいた。
「お前さん、大した馬鹿だねえ。で、生傷こさえて愛しあの子とどこ行った?」
僕はまた笑った。猫は気の毒だが、こっちだっておケイを待っている時に時間を余らしてしまえば同じことをしなかったとはいえないのだ。惚れた女の子を待つ間、僕なら何をしただろうか?
中田は、今度はデートの顛末を話しはじめる。
「うむ。……『網走番外地』をだな、観に行った」
「ええ……」
猫はともかく、デートの結末には僕は笑えなかった。少なくとも、女の子を誘って観に行くタイトルの映画ではないのだ。あの頃なら『サウンド・オブ・ミュージック』とか『メリー・ポピンズ』、とかそれにふさわしい洋画があっただろうに! いずれも僕が贔屓のジュリー・アンドリュースの映画だけども。
「それっきりやったなあ。女の子、途中で帰っちゃって、もう学校で会ってもツンとして話しかけてくれなくなったからなあ。ね、波多野。何がいけなかったのかね」
西日の中、列車がやって来るであろう鶯谷の方角を見ながら、彼は不思議そうに呟いた。女の子をやくざ映画に誘ってしまう己のセンスへの疑問はあまりないらしい。
ならば、それを教えてやるのが友人のつとめだろう。
「そらあ中田……初めてのデートでやくざ映画を選ぶセンスはおかしい。お前、この前も千葉真一をターに誘って……」
「波多野!」
中田は大きく目を見開いたかと思ったら、次の瞬間には猫も『網走番外地』に消えた恋心も忘れたといった態でこちらを嬉しそうに見つめた。
「ようやっと、お前も『吾妻さん』だなんて言わなくていいようになったか」
「あ、いや……」
僕はうろたえるしかなかった。確かに、今まで彼女の事を「ター」と呼んだためしなどなかったのだ。もう、どこかで「吾妻さん」という他人行儀な呼び方に飽き飽きとしている自分がいるという驚きだけしかなかった。
中田の繰り出すくつろいだ会話の中に、つい油断を覚えてしまったのかもしれない。そして、道化は僕が取り繕う隙を繰り出すことを許しはしなかった。やはり、彼が思い出を語ると何かが起こってしまう。
「ええこっちゃ。ええこっちゃ。波多野、それでいいんだ」
それだけ言うと、彼はまたホームの先を見つめた。クリーム色の特急列車が、ゆっくりとカーブの先に姿を見せたのだ。吾妻多英のための時間つぶしの初恋騒動など、中田にはもう無意味なものになっていた。
「これが『はつかり』か」
のっぺりとした面長の出で立ちにクリームと青で塗り分けられた特急列車を眺めながらで、不意に僕は感心したように呟いた。東北からやって来る列車を見るのが初めてだったからだろうか。
「んだ。東北の汽車といっても蒸気なんかじゃない、レッキとした電車だろ?」
特急列車はさらに速度をおとして、慎重そのものといった態で静かに七番線への進入をはじめた。その威容を中田は誇らしげに語りはじめる。東北にも電車が通っていることをそんなに自慢したいのだろうか。
「でも、お前ンとこ秋田の山奥では、その実こっそりまだ蒸気走ってたりするんじゃねえだろうな」
「うーん……」
秋田男は途端に言いよどむ。どうやら図星だったらしい。
「でも、ディーゼル機関車もあるわよ!」
ついに彼は白状した。まあ、そういうことだった。そして、秋田に蒸気機関車が走っている事実がさらけ出されると同時に特急電車の扉が開き、僕らは無口になった。話しのついででは小柄な少女を長旅から解放された人々の集団から見つけ出せないのだ。
「あら、ターだわ!」
やがて、吾妻多英との再会を控えて口調をピエロに戻した中田の指先がホームの彼方を指した。ボストンバッグといくつかの紙袋をぶら下げたジーンズ履きの少女がホームに降りたつ姿があった。
「波多野、いくわよ!」
そう言うと、彼は長髪をなびかせながら、改札に殺到する人の波をかきわけて七番線を走り出した。あわてて僕も彼の後を追いかけだす。彼女はまだこちらに気づいてはいない。ホームに旅装を置いて疲れをほぐしているだけだ。でも、その姿がどんどんと視界の中で大きさを増していく。
走る理由は分からなかった。でも、走った方がどことなく楽しいな、と思った。




